添付されたオブライェン大尉が現地から寄せた報告書は次のようなものだった。
ダン公使殿
旅順における不幸な状況について私か報告できるのは、あくまでも私自身が見たことだけです。軍隊というものは、どんな些細なことであっても、非難に晒されるのがつねの組織です。とくに今回の報道内容は大山(巌)大将のこれまで声明(方針)と大きく異なっていることから非難が起きているものと思われます。
本官も、抵抗をやめた兵士を殺さずとも捕虜にできた場面をいくつか目撃しました。無防備で明らかに降伏しようとした兵士が殺害されたこともありました。また後ろ手に縛られたままの死体も見ました。銃剣によって切り刻まれた死体もあり、それらは(殺された時点では)無抵抗だっただろうと思わせるものもありました。私の観察は、あえて戦争の恐ろしさを見つけようとしてなされたものではありません。通常の戦闘や戦場の視察の過程で見たものです。
(クリールマン報道にある)十一月二十二日、二十三日に発生したとされる虐殺について、従軍記者らに質問してみました。というのは、私はそうしたことがあったことをまったく知らないからです。私自身、この両日、周囲の丘から何発か銃声が響くのを聞きましたが、(市民への)暴力行為(act
of violence)は見ていません。私は二十二日は一日中、二十三日は午後だけですが旅順市内にいました。その間、戦闘行為(act of
war)も暴力行為(pillage)も見ていません。ただ民家や商店に対する略奪行為はあり、それは物がなくなるまで続きました。
二十一日の日本車の行為に対しての言い訳になりそうですが、彼らの気持ちは理解できないこともありません。清国兵による残虐行為(barbarities
committed by the
Chinese)があったからです。市内の入口付近の濯本に日本人捕虜の首が吊り下げられていたのです。これが日本兵を怒らせたことは間違いないでしょう。もう一点は、日本車は旅順市内での抵抗は相当に激しいものになると覚悟していたことです。市内や周辺の要塞の攻略がこれほど容易だとは思っていなかったのです。拍子抜けした兵士たちが不要な殺害に走ったのです。
このような背景があったにせよ、それは免罪符にはなりません。ただこの程度の事件は世界のどの軍隊にもあることを頭に入れておく必要があります。日本の兵士だけに奇跡のような行動を求めることはフェアではありません(hardly
fair to expect miracles of the
Japanese)。少しでも行きすぎた行為があれば非難を浴びることになります。今回がそのケースでしょう。
日本軍兵士の親切さ、礼儀正しさ、優しい振る舞い。そうしたことを本官自身よく知っています。日本の軍隊を知る者にとっては旅順の事件は大変残念であります。日本軍の行動は、貧しい支那人に対しても、軍はまさにこうあるべきだという見本のようなものでした。私はいま金州にいますが、日本人は支那人に対して実に優しくかつフェアな態度で接しています(訳注一戦前の史書には、「占領地行政庁を金州城内に置き、天津領事荒川巳次を庁知事に任じて州民を愛撫しました」とあり、この記述が誇張でないことがわかる)。民衆のためにできることは何でもしています。そのやり方は正義に基づくもので、フェアなものでした。
市場も開かれ、商品は適正な値段で売買されています。(軍による)無法行為はなかったし、民間人を不当に扱うようなことは一切ありませんでした。実際のところ、支那人民衆の生活はそれまでよりもずっと改善され、彼らはそのことを喜んでいたと思います。こうした事実に鑑みますと、旅順で起きた行き過ぎた日本兵の行為についていつまでも拘泥すべきではなく、忘れていいものと考えます。旅順での事件の原因には私の知らない何かがあるのかもしれません。
いずれにしましても、誇張された報道がなされたことは間違いありません。本官自身、当該記事を見ていないので、これ以上の論評はできません。本官はまだ正式な報告書を提出していませんが、今ここに(旅順での戦闘の模様を)取り急ぎ報告するのは、公使のもとに報道された記事が届いていて、公使がその内容の真贋を判断し、評価を下すためには、より正確な情報が必要であろうと考えたからです。
本官はこれまで接したすべての日本陸軍士官から親切な扱いを受け、かつ礼節をもって遇されています。大山(巌)大将をはじめとして、私に対する丁重な扱いに深く感謝しています。私は広島では、川上(操六)将軍や彼の部下に大変お世話になりました。彼らの示してくれた配慮は、世界中のいかなる軍隊からも期待できないほどのものでした。
M・J・オブライェン
一八九四年十二月二十八日 清国金州にて
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