読書ノート / 社会
2015/3/17
 戦争は罪悪である:反戦僧侶・竹中彰元の叛骨 
編・著者 大東仁/著
出版社 風媒社
出版年月 2008/10/11
ページ数 146
税別定価 1200円
 日中戦争がはじまった1937年に「戦争は罪悪である」と反戦を唱え、陸軍刑法第99条(流言飛語罪)で禁錮4か月執行猶予3年に処せられた71歳(当時)の老僧の物語です。
 この僧侶は、岐阜・垂井町にある真宗大谷派(東本願寺)の明泉寺の元住職(1925年住職を甥に譲っています)竹中彰元です。
 禁錮4か月執行猶予3年の判決を受けて、真宗大谷派も軽停班(階級の降格)3年の処分を下し、布教師の資格剥奪しました。この処分は後に軽減され、布教師の資格も再度与えられています。
 彰元は1945年10月に没しています。
 そして、2007年9月25日、大谷派は、ほぼ70年前のこの処分を撤回し、10月19日には「竹中彰元師復権・顕彰大会」が開かれました。本書が出版されたのは、処分撤回からほぼ1年が経った2008年10月11日です。ちょうど同じ時期の2008年10月12日に放送されたETV特集「戦争は罪悪である 〜ある仏教者の名誉回復〜」も、この話を取り上げています。

 本書の著者・大東仁(だいとうさとし)は、真宗大谷派の圓光寺住職です。著者は1986年、学生のときに、彰元の調査を始めたましたが、戦前に反戦を唱えた一老僧のことは、そのころはほとんど忘れられていたようです。
 1990年ころから、名古屋や大垣の大谷派別院の「平和展」で 彰元の反戦言動が紹介されるtようになり、2004年から東本願寺の「非戦・平和展」で展示されるようになったということです。
 「岐阜県宗教者平和の会」は、2000年から7年間、「彰元忌」を主催続け、2005年には彰元の名誉回復嘆願署名2375名分を本山に提出しています。この署名運動が直接のきっかけとなり、処分撤回が実現したということです。
 本書の構成は次のようになっています。
序  竹中彰元の平和発言
第一章 真宗大谷派僧侶 竹中彰元
第二章 反戦僧侶 竹中彰元 
第三章 わたしたちと竹中彰元
彰元を顕彰していた人たち/「平和展」と彰元/市民とのつながり
おわりに
資料編
 「第一章 真宗大谷派僧侶 竹中彰元」では、満州事変(1931年)までの彰元を取り上げています。彰元は1867年10月29日の生まれですから、60台半ばまでの時期です。岐阜・垂井町の明泉寺に生まれた彰元は父の跡を継いで住職となりますが、このときまでの彰元は、戦争協力に積極であった真宗大谷派の方針に特に反発は示していないようです。
 「第二章 反戦僧侶 竹中彰元」では、満州事変以降、平和発言により逮捕され執行猶予の判決を受けるまでを取り上げています。
 満州事変以降、1937年の平和発言まで、彰元の考え方が変化したことを示す記録は残っていません。満州事変は関東軍による軍事行動であり、その後小規模な衝突はあったものの、日本全体が戦争に巻き込まれるという実感は一般にはなかったのかもしれません。
 著者は、彰元の意識に変化をもたらしたものとして、戦争協力に傾倒してゆく大谷派の動きがあったのではないかと次のように推測しています(53ページ)。
 ところが大谷派は、戦争協力よりも「国のため」「天皇のため」を絶対とするための整備を始めます。つまり、真宗大谷派を完全に天皇・国家の教えに従う組織にするための動きをはじめるのです。若い頃、長期間にわたり大谷派の教育を受け続けた彰元。大谷派が、その頃から戦争協力をおこない、「国のため」「天皇のため」の組織であったことは承知していたはずですが、それをなお一層、急激に過激にまで変化させようとする本山の動きから、「戦争の時代」に対して強烈な危機感を待ったのではないでしょうか。
 2.26事件(1936年)以降、国家主義的傾向か強まる中で、大谷派が「急激に過激にまで変化」して行く経過を、本書の記述参考にまとめると次のようになります。セルの水色部分は大谷派関連、黄色部分は日中戦争関連、緑色部分は彰元の反戦言動関連を示しています。 
1935/11/5 大谷大学学長・河野法雲が「宗祖聖人の神祇観」発表
1936/8/6 河野法雲が学長を辞職
10月 大谷派が「御伝鈔(ごでんしょう)」の一節を削除
12/2 大谷派法主が明治神宮参拝
12/4 大谷派法主が靖国神社参拝 
1937/1/8 大谷派法主が伊勢神宮参拝 
7/7 盧溝橋事件 
7/8 大谷派が開教使に従軍布教を命じる。以後、次々と積極的戦争協力を行う 
7/11 停戦協定が成立 
7/12 宗教諸団体にj銃後活動を督励する通牒
7/13 第二次上海事変 
7/28 中国華北で日本軍が総攻撃 
8/13 戦争は華北から華中へ拡大
8/15 近衛文麿首相が「暴戻支那膺懲(ぼうれいしなようちょう)」(あらあらしく道理にもとる中国を征伐して懲らしめること)を声明 
9/15 彰元が、(村人たちに対し)1回目の反戦言動 
10/10 彰元が、(僧侶たちに対し)2回目の反戦言動。翌日、僧侶の1人が村役場に届出  
10/21 彰元が、(僧侶たちに対し)3回目の反戦言動 
10/26 垂井警察署が彰元を逮捕 
10/31 陸軍刑法第99条(流言飛語罪)違反で岐阜地方裁判所検事局に送致 
11月  村人が彰元を弁護する嘆願書を提出 
11/13 起訴予審に付される 
12/13 起訴予審が終結
12/13 南京陥落
1938/3/12 岐阜地方裁判所が禁固4か月の実刑判決を下す 
4/27 名古屋控訴院が禁固4か月執行猶予3年の判決を下す 
1940/2/11 恩赦により禁固2か月20日執行猶予3年に減刑 
4/5 浄土真宗本願寺派が「御伝鈔」の一節を削除
6月 真宗八宗派は「御伝鈔」の一節を「削除しない」と取り決め 
 「宗祖聖人の神祇観」は、河野法雲が大谷派機関紙「真宗」に発表した論文ですが、その中の次のような内容の記述(著者が原文を現代語に直しています)が問題とされました(56ページ)。大谷派は、これを天皇に対する不敬と見たようだと、著者は指摘しています。
 たとえ仏や菩薩が仮の姿として表れた神を祀る神社といえども(例えば天照大神=大日如来 八幡神社=阿弥陀如来なども)、釈迦の救いの前では、迷いの世界の因果応報を受けている迷える存在でしかない。浄土を求める者が何の必要があり、彼らを信仰するのだろう。また仏が化身となって現れる本意は、縁を結んだ者を仏の願いの中に引き入れるためであるから、阿弥陀如来の願いだけを信じれば十分である。
 「御伝鈔」は、親鸞の伝記で、すべての寺院の報恩講で拝読されます。その「御伝鈔」の「主上臣下(しゅしょうしんか)、法に背(そむ)き義に違(い)し、忿(いかり)をなし怨(うらみ)を結ぶ」という一節が本山から「拝読禁止」となりました。この一節は、鎌倉時代に後鳥羽上皇が念仏を禁止し、法然・親鸞らを流罪にした弾圧に、厳しく抗議した内容だそうです。因(ちな)みに、浄土真宗本願寺派が「御伝鈔」の一節を削除したのは、1940年4月になってからで、他の真宗八宗派は「削除しない」と取り決めたそうです。
 「宗祖聖人の神祇観」問題や「御伝鈔拝読禁止」は、天皇や国家神道批判に対する大谷派の自主規制とも見られ、権力への迎合といえなくもなさそうです。
この後、大谷派法主は明治神宮、靖国神社、伊勢神宮を参拝しています。
 大谷派のこのような姿勢に対する彰元の反発が、反戦言動の背景にあるのではないかと著者は見ています。著者は、彰元の反戦言動を通して、大谷派を弾劾しているとも考えられます。
 彰元の反戦言動は、1937年9月15日、出征兵士を見送るため村人500人とともに国鉄垂井駅に向かう途中になされました。特高警察の史料によると、その内容は次のようなものです(64〜65ページ)。
「戦争は罪悪であると同時に人類に対する敵であるから止めたがよい。北支の方も上海の方も今占領している部分だけで止めた方がよい。決して国家として戦争は得なものではない。非常に損ばかりである。今度の予算を見給へ非常に膨大なもので二十億四千万円と言ふものはこの出征軍人が多数応召して銃後の産業に打撃を被り、其の上に徒に人馬を殺傷する意味に於て殺人的な予算だ。戦争はこの意味から言っても止めた方が国家として賢明であると考へる」(『特高外事月報 昭和一二年一二月分』内務省警保局)
 この発言に対し、村人らが「不謹慎を痛罵難詰」したということです。
 さらに1937年10月10日、近くの寺院の年忌法要の席で6人の僧侶に次のように語りかけています(67ページ)。この発言に対しては、「痛罵難詰」はなく、反論や注告があっただけだそうです。しかし、翌日、僧侶の1人が村役場に届出ました。  
「此の度の事変に就て他人は如何に考へるか知らぬが自分は侵略の様に考へる、徒に彼我の生命を奪ひ莫大な予算を費ひ人馬の命を奪うことは大乗的な立場から見ても宜しくない、戦争は最大な罪悪だ、保定や天津を取つてどれだけの利益があるか、もう此処らで戦争は止めたがよからう」(『特高外事月報 昭和一二年一二月分』内務省警保局)
 僧侶に対する国家の弾圧と宗門の処分の関係は次のようになっています(96〜99ページの記述から作成)。日蓮宗では国家から刑罰に処せられても、宗門としては処分していないのに対し、真宗大谷派では宗門としても処分しているのが対照的です。 
  宗派 刑罰 宗門の処分 復権
大逆事件     
内山愚童 曹洞宗  死刑  僧籍剥奪  1993年、
処分撤回 
高木顕明  真宗大谷派  無期懲役  僧籍剥奪   1996年、
処分取消
峰尾節堂 臨済宗妙心寺派  無期懲役  僧籍剥奪   1996年、
復権 
新興仏教青年同盟:1933年、満州侵略反対、軍国主義反対を唱える     
妹尾義郎 日蓮宗(在家) 懲役3年 なし  
林霊法 浄土宗 懲役2年
執行猶予3年
なし  
谷本清隆  西山浄土宗  執行猶予  僧籍剥奪  戦後復職 
壬生照順 天台宗 懲役2年
執行猶予3年
一時僧籍返上  
大隈実山  日蓮宗  執行猶予  なし   
細井宥司  日蓮宗  執行猶予  なし   
山本秀順  真言宗智山派  執行猶予  不明   
その他     
竹中彰元  真宗大谷派  禁固4ヶ月
執行猶予3年 
軽停班3年
布教師免職 
2007年、
処分撤回 
植木徹誠  真宗大谷派  既決収監1年  不明  なし 
河野法雲  真宗大谷派  なし  学長辞職  戦後、
名誉教授 
三田村竜全  日蓮宗  実刑3年  不明  なし 
訓覇信雄  真宗大谷派  禁固10ヶ月
執行猶予2年 
軽停班3年  戦後、
宗務総長