読書ノート / 古代史
2019/9/30 
 古事記のひみつ 歴史書の成立  
編/著者  三浦佑之/著
出版社  吉川弘文館
出版年月  2007/4/1
ページ数  219 
税別定価  1700円

 本書の目次は次のとおりです。
・歴史書の成立―プロローグ
・「日本書」の構想
・日本書紀の方法―国家を叙述する 
・古事記の成立―七世紀の本文と九世紀の「序」―
・古事記の古層性 
・倭武天皇―常陸国風土記と中央の歴史― 
 おおまかに言うと、「日本書紀についての記述」「古事記についての記述」「常陸国風土記についての記述」の3部構成になっています。
 「日本書紀についての記述」では、正規の史書「日本書」の構想が挫折し、その一部である「紀」だけが残った経緯を述べ、古事記との叙述方法の違いを解説しています。
 「古事記についての記述」では、もっぱら古事記偽書説を取り上げています。「序文は偽造されたが、本文は偽造されていない」というのが著者の結論です。この結論を主張するのが、本書の主な目的ではないかと、私は考えます。この稿は、古事記学会2004年度大会のける招待講演「古事記「序」を疑う 」の原稿が元になっています。内容は、ほぼ同じです。
 「常陸国風土記についての記述」では、常陸国風土記に倭武天皇という呼称が出てくることを解説しています。この部分は紙数も少なく付録のようなものです。

●「日本書紀」は「日本書 紀」だった
 古代大和王権が国家となるため、当時の支配者が最も重視したのが、法の整備と正史編纂であり、それは7世紀初頭に萌芽し、8世紀初頭の養老律令と日本書紀により完成したと、著者は考えています(12〜14ページ)。
 中国の正史は、通常は、紀・志・伝の3つがそろい、全体としては書と呼ばれます。たとえば、漢書は、「帝紀および表」「志」「列伝」の3つからなっています。帝紀は編年体で書かれた皇帝の事跡、表は年表および世系表、志は地理・法制・経済などの記録、列伝は臣下の伝記です。
 日本書紀は帝紀の部分しかないので、そのことを示すため、当初は「日本書 紀」という書名であったが、それが転記されているうちに、「日本書紀」になったというのが、著者の考えです(15〜16ページ)。風土記は「日本書 志」編纂の資料とするため、地方の役所に提出させた報告書だったが、計画は資料集めだけで頓挫したと著者は見ています。また、「日本書 伝」構想らしきものはあったのではないかと推測しています。
 以上をまとめると次のようになります。
  漢書  日本書   
帝紀(本紀) 12巻  日本書紀  30巻 
表  8巻  系図  散逸 
志:地理志など  10巻  風土記  未完 
列伝  70巻  構想はあった?   

β群の範囲とほぼ重なる
 古事記は、上巻(神代)、中巻(神武〜応神)、下巻(仁徳〜推古)の3巻から成っています。日本書紀と比較すると次のようになります。日本書紀の巻1〜巻13と巻22はβ群、巻14〜巻21はα群ですから、巻14〜巻21が先に出来上がっていたことになります(読書ノート/日本書紀の謎を解く)。古事記は、仁賢以降の記述は簡略化されていますから、実質的に神代から顕宗までを扱った書物といえます。つまり、古事記の扱っている範囲は、日本書紀のβ群の範囲とほぼ重なっています。
古事記  日本書紀 
上巻:神代  巻01 神代上
巻02 神代下 
中巻:神武〜応神  巻03 神武
巻04 綏靖、安寧、懿徳、孝昭、
   孝安、孝霊、孝元、開化
巻05 崇神
巻06 垂仁
巻07 景行、成務
巻08 仲哀
巻09 神功皇后
巻10 応神 
下巻:仁徳〜推古
 仁賢以降は簡略化 
巻11 仁徳
巻12 履中、反正
巻13 允恭、安康 
巻14 雄略
巻15 清寧、顕宗、仁賢
巻16 武烈
巻17 継体
巻18 安閑、宣化
巻19 欽明
巻20 敏達
巻21 用明、崇峻
巻22 推古 

異伝は、日本書紀の歴史叙述からは排除?
 日本書紀の神話叙述はかなり特殊な形態となっています。神代紀2巻の全体は11の段落に分けられ、それぞれの段落ごとに、「一書(あるふみ)に曰く」というかたちで、1本から11本の異伝を並記しているのです。また、古事記では、出雲神話は神話の4分の1を占めていますが、日本書紀では、2つの異伝に顔を出すだけです。
 このような形態となっている理由について著者は次のように推論しています(62〜63ページ)。
 日本書紀にみられる異伝の並記は、日本書紀の編纂に先立って存在した「帝紀」や「旧辞」をはじめ、さまざまな記録類を原資料として客観的な態度で引用しているようにみえる。その態度を小島憲之は、「古事記の『縦』に対して、神代紀の方は、一般に『横』の並列をそのまま載せ、不確実な伝承に対して、『一書日』、『一云』などと別の説話をあげて共存させる」ためだと述べている(『上代日本文学と中国文学』上、四一〇頁)。しかし、はたして「共存させる」と言えるものかどうか。
 じつは、「共存」しているように見えながら、異伝は、日本書紀の歴史叙述からは排除されているのではないか。客観的であるかのように装いながら、自らの歴史と時間は「正伝」の中にはっきりと確保されているのである。それは、巻三以降の歴代天皇の叙述をみればわかるだろう。そこには、異伝を見出すことはほとんどなく、天皇にまつわる唯一の伝えが時間の順序に従って並べられている。
 神代紀は、天皇紀へと連なる歴史としてしか存在しない。そこでは、正伝こそが選ばれた唯一の時間であり歴史なのである。そして、それを確認する方法として、異伝とされた「一書」群は、日本書紀に存在させられているということになる。異伝は、正伝に対して、「ある書物(一書)」としての独自性を主張するようには編まれていない、それが日本書紀の叙述の方法なのである。そして、正伝である歴史を支えるための「一書」にも加えられなかった伝承群は、存在さえ消されてしまう。そのようにして、出雲神話は無化されたのである。
 日本書紀が「異伝の並記は、さまざまな記録類を原資料として客観的な態度で引用している」とするならば、歴代天皇の叙述では異伝がほとんど出てこないのは何故かという疑問が生じます。また、著者の言うように「異伝は、日本書紀の歴史叙述からは排除されている」のなら、そもそも異伝を載せなければ良いのではないかという疑問が生じます。
 8世紀末から9世紀にかけて、氏族の神話というべき「氏文(うじぶみ)」が出現します(77〜79ページ)。これらは、日本書紀に依拠しながら、自氏の固有性と由緒正しさを主張しようとする書物です。主なものは次のとおりです。これらは、神代紀の異伝の延長上にあるのでしょうか。
高橋氏文
たかはしのうじぶみ 
789  高橋氏が神事供奉をめぐる安曇氏との対立を契機に作成 
古語拾遺
こごしゅうい 
807  斎部広成(いんべのひろなり)が、中臣氏との祭祀権争いで斎部氏の役割を主張 
新撰亀相記
しんせんきそうき 
830? 祭祀氏族である卜部(うらべ)氏が作成 
先代旧事本紀
せんだいくじほんぎ 
9cころ 物部(もののべ)氏が作成か?最古の歴史書とされていたが、序文が平安時代に書かかれたものと判り、偽書として退けられる
住吉大社神代記
すみよしたいしゃ
じんだいき 
10c末 住吉大社の神官である津守(つもり)氏が、自氏の立場の正当性を主張する目的で作成 
 
残虐で狡猾なヤマトタケル 
 日本書紀の巻3以降の各天皇紀は、編年体の体裁をとり、天皇の事績を中心に年月を追って記述しています。一方、古事記の中・下巻は、独立した説話の羅列あるいは累積としてしか存在しません。
 日本書紀と古事記は、叙述方法だけでなく、叙述内容もかなり異なっています。著者は、ヤマトタケルを例にとって、次のように説明しています(1〜3ページ)。
 古事記では、父天皇との言葉の行き違いから兄オホウスを殺害するという場面から物語は語り出される。そして、少年ヲウスは、その凶暴性を父天皇に恐れられ、西の果てに棲む熊曾(くまそ)討伐にかこつけて都を追われるのである。そこで、叔母ヤマトヒメの衣をもらって西に向かったヲウスは、女装し、酒に酔ったクマソタケル兄弟を斬り殺す。そして、倒したクマソタケルからヤマトタケルの名を授けられると、出雲へと向かう。
 出雲に着いたヤマトタケルは、イヅモタケルと友の契りを結び、だまし討ち同然のやり口で、友だちになったイヅモタケルを殺してしまう。そののち都へ凱旋すると、すぐさま父オホタラシヒコ(景行天皇)によっで、東への遠征を命じられるのであった。
 一方、日本書紀に描かれるヤマトタケルは、皇子として、遠征将軍として、父天皇に忠誠を尽くす人物として存在する。兄を殺すことはないし、熊襲討伐は、父天皇の九州遠征の残務処理のようなかたちではあるが、勇猛な力を振るって忠実に成し遂げる。
 また、命令を逸脱して出雲に向かうことはなく、熊襲の地からまっすぐ都に凱旋したあとは、父天皇の労(いたわ)りの言葉とともにゆっくりと静養する。そして、荒ぶる蝦夷(えみし)の討伐については、はじめのうちこそ断っているが、だれも出かける者がいないというので、最後には自らの意志で出で立つことを決断する。それに対して父天皇は、兵士を与えねぎらい励ましてヤマトタケルを見送るのである。どこまでも、日本書紀の描く父と子、天皇と皇子は、親和的な関係を踏み外すことがない。
 おなじヤマトタケルという名を持ちながら、古事記の倭建命(やまとたけるのみこと)と日本書紀の日本武尊(やまとたけるのみこと)とでは、まったく別人であるかのように造型され、それぞれの書物に伝えられている。なぜ、このような違いが生じたのか。根元は同じだと思われるのに、人物造型がここまで違ってしまうのは、古事記と日本書紀とのあいだに、決定的な差異があるからではないか――そのようにでも考えなければ、二つの歴史書に、まったく別人のヤマトタケルが描かれる理由は見出せない。
 古事記に登場するヤマトタケルは、兄の手足を折つて薦(こも)につつんで投げすてたり、熟した瓜を裂くようにクマソタケルを裂き殺すような残虐性を示しています。また、女装し、酒に酔ったクマソタケル兄弟を斬り殺したり、だまし討ち同然のやり口で、友だちになったイヅモタケルを殺すなど、目的のためには手段を選ばない狡猾性を持ち合わせています。一方、日本書紀では、そのような残虐・狡猾性のない悲劇の英雄として描かれています。背景にある倫理観や道徳観に違いがあるようです。

 ●古事記「序」には大きな疑問   
 古事記「序」は、古事記編纂の経緯を次のように述べています(古事記をそのまま読む)。
 ここに、(天武)天皇(すめらみこと)はこう詔(つ)げられました。「朕(ちん)の聞くところでは、諸家に伝わる帝紀[帝の系譜]、本辞[言い伝え]は既に真実と違ってきており、多くは虚偽を加えられた。もし今この時、失われてしまうのを改めねば、何年も経たぬうちに、本当の内容が消滅してしまうであろう。
 これすなわち、諸国の筋目であり、また王化[民に徳を広める]の大いなる基本である。そこで、帝紀[帝の系図]を整理記録し、旧辞[旧い出来事]を調査検討しようと思う。虚偽を削り真実を定め、後世に伝えたい。」
 そこにたまたまいたのが、姓を稗田、名を阿礼という仕え人でした。年齢は28歳でした。その人は聡明で、目を通して口で誦えれば、聞く者の耳に清らかに伝わり、心に刻みました。
 そのような訳で、阿礼に勅し、天皇の系図と先人の言い伝えを詠み習うよう命じられました。けれども時が移り、世も変わり、未だそのことは行われませんでした。
 ……そこで、旧辞、先紀の誤りや食い違いを惜しまれながら正されました。和同四年九月十八日に至り、(元明天皇が)わたくし安万侶に、稗田阿礼が先に詔(みことのり)された旧辞を読み上げるところを撰録するよう、詔されました。このたびこれによって献上しますは、謹んで御旨(おんむね)に従うところであります。
 ……全体として記録した範囲は、天地の開闢から、小治田宮(おはるたのみや)の時代までです。そのうち、天御中主神から日子波限建鵜草葺不合尊までを上巻とし、神倭伊波礼毘古天皇[神武天皇]から品陀和気命(ほむたわけのみこと)[応神天皇]の時代までを中巻とし、大雀皇帝(おおさざきのみこと、仁徳天皇)から小治田大宮までを下巻としました。併せて三巻に収録し、謹しんで献上いたします。臣 安万侶 誠惶誠恐頓首頓首[天皇への書簡形式における結語] 
和銅五年正月二十八日 正五位上勳五等太朝臣安万侶
 天武天皇が稗田阿礼に帝紀と本辞とを誦習(暗誦)させたものの文書にはしなかったということですが、それから30年近く経った711年(和銅4)9月18日、元明天皇が太安万侶に稗田阿礼が暗誦していたものを文書にせよと命じ、712年(和銅5)1月28日、太安万侶が文書(古事記)を書き上げ、献上したということです。しかし、記録に残すなら、暗誦などさせずに直接文書にする方が確実です。また、28歳のとき天武天皇に暗誦を命じられた稗田阿礼は、711年には還暦近くになっていたはずです。古事記全文をずっと覚えていたということはありうるのでしょうか。さらに、帝紀と本辞の「間違いを正した」のは、天武天皇なのか、稗田阿礼なのか、太安万侶なのかも、この序文からは明らかではありません。
 一方で、日本書紀によれば、天武天皇は681年に、次のように史書の編纂を命じています(23ページ)。
 天皇、大極殿に御(おは)しまして、川嶋皇子(かはしまのみこ)・忍壁(おさかべ)皇子・広瀬王(ひろせのおほきみ)・竹田王・桑田王・三野(みの)王・大錦下上毛野君三千(だいきむげかみつけののきみみちぢ)・小錦中忌部連首(せうきむちういむべのむらじおびと)・小錦下阿曇連稲敷(あづみのむらじいなしき)・難波連大形(なにはのむらじおほかた)・大山上(だいせんじやう)中臣遠大嶋・大山下平群臣子首(へぐりのおみこびと)に詔(みことのり)して、帝紀(ていき)及び上古(じやうこ)の諸事(しょじ)を記し定めしめたまふ。大嶋・子首、親(みづか)ら筆を執(と)りて以ちて録(しる)す。(日本書紀、天武十年<六八一>三月十七日)
 こちらは、正史としての日本書紀の編纂を命じたものと考えられます。とするなら、天武天皇は、日本書紀と古事記という性格の異なる史書の編纂を同時に命じたことになります。
 この点について、著者は次のように述べています(26ページ)。古事記「序」には大きな疑問がありそうです。
 この奇妙な事実を、だれも大きく問題にしないのは、どう考えても納得できない。あるいは、古事記「序」に記された事業は、天武十年三月の日本書紀の記事と同じだと考える研究者もいるかもしれない。しかしそれは、まったく不可能だと断言してよい。なぜなら、日本書紀に記す史書編纂は、「律令」の編成とパラレルに企図された律令国家の事業であるのに対して、古事記「序」に記された行為は、そうした国家事業とは逆行しているといわねばならないからである。この点は、のちほど改めて問題にするが(「古事記の成立」参照)、古事記の内容は、律令国家が求めた正史とはまったく異質なものになっていると言わざるをえないのである。
 右に引いた部分をふくめて、古事記「序」を、古事記という書かれたテキストの根拠を語る「神話」として読まなければならないと論じたのは斎藤英喜であった(「勅語・誦習・撰録と『古事記』」)。これは、今考えるととても重要な指摘である。そして問題になるのは、だれが、神話としての「序」を書いたかということであり、その神話は、最初から古事記とともにあったのかということである。

序文偽作説は風前のともし火?
 著者は、「古事記の序文は後から付けられたもので、その時期は九世紀初頭であろう、そしてそれを書いたのは、多氏あるいはその周辺の人物であろうと考えています」(古事記「序」を疑う)。多氏一族は太安万侶の子孫です。著者は安万侶に仮託して序文が書かれたと推測しています。
 こう考えると、天武天皇は、古事記の編纂は命じていないことになります。そして、「なぜ、日本書紀と古事記という性格の異なる史書の編纂を同時に命じたのか」という疑問は解決できます。
 序文が後世に付け加えられたものだが、古事記本文は7世紀半ばには書記化され書物として存在していたと、著者は推測しています。ただし、具体的根拠は示していません。
 序文が後世に付け加えられたものだとする説は、在野の研究者、大和(おおわ)岩雄が『古事記成立考』(大和書房、1975年)で提唱しています。大和岩雄は、『新版 古事記成立考』(大和書房、2009年)や『 『古事記』成立の謎を探る』(大和書房、2013年)で積極的に自説を展開しています。
 大和岩雄は、「原古事記というべきものは天武・持統朝に作られており、それを太安万侶で代表されるオホ氏の手で、百年の中断の後、表記を整理し撰録し直したのが、現存『古事記』」だとする立場だそうです(145ページ)。古事記「序」に疑いを向けるという意味では、著者と同じ立場です。
 ただし、序文偽作説には支持者は少ないようで、その状況を著者は、
  『古代史研究の最前線 古事記』(洋泉社、2015年)で次のように述べています(同書183ページ)。
 今、古事記「序」に疑いを向け続けるのは、先にふれた在野の研究者、大和岩雄(前掲書『新版 古事記成立考』)と、その後塵を拝して歩むわたし(『古事記のひみつ』吉川弘文館、二〇〇七年。『古事記を読みなおす』ちくま新書、二〇一〇年、など)と、おそらく表向きには二人だけではないか。ということは、序文偽作説が風前のともし火だということは否定しようもないが、古事記とはいかなる書物かを考えようとする時、避けて通ることのできない関門が「序」をどう解釈するかであるということは明らかだ。
 古事記研究者は、もうすこし真剣に、「序」について議論したほうがいいのではないか。