読書ノート / 古代史
2019/11/28 
 壬申の乱 戦争の日本史2  
編・著者 倉本一宏/著
出版社 吉川弘文館
出版年月 2007年2月1日
ページ数 290
税別定価 2500円
 本書は、壬申の乱は、鸕野(うの、後の持統天皇)皇女が首謀し、大海人が同調した反乱であったという前提で、乱の全容を描いています。

 『日本書紀』に描かれた壬申の乱の概要を、著者は次のようにまとめています(2ページ)。
天智は、大化改新以来のパートナーであった弟の大海人を皇太子の地位に就けていたが、晩年に至り、聡明な長子の大友を大王位に就けたいと思うようになった。大智は晩年の六七一年に大友を太政大臣に任じて後継者とし、大豪族で固めた近江朝廷の主宰者とした。一方の大海人は皇太子の地位を追われた。
臨終に際して大海人を殺害しようとした天智は、病床に大海人を召して大王位を譲ろうと言った。天智の陰謀を察知した大海人はそれを辞退して出家し、妃(キサキ)の鸕野とその所生の草壁、それにわずかな舎人たちを連れて大津宮から吉野に隠遁した。
天智が崩じ、六七二年に入ると、大友は大海人を攻めようと兵を集めた。天智の陵を造ると称して、農民たちに武器を持たせていたのである。その情報をえた大海人は吉野を脱出して東国に入り、湯沐邑(ゆのむら)のある美濃の兵をもって不破を抑え東国を掌握した。大和では大伴氏も呼応して飛鳥で挙兵した。
大友側は対応が遅れ、西国の軍事動員に失敗、各地で地方豪族率いる大海人軍に圧倒され、七月に大津宮が陥落、大友は自殺した。
 著者は、この記述に対して、以下の点で疑問を示しています。
@大友が即位する可能性はあったか
 天智の後継に関する系図は次のようになっています(21ページ)。
 大友の母の伊賀采女宅子娘(いがのうねめやかこのいらつめ)は地方豪族の娘です。当時は、大王の母氏は、王族か有力中央豪族に限られており、また大友自身も25歳と若すぎたので、「(群臣の推戴を受けて即位するのは)無理であろうと天智は踏んでいたはずである」と、著者は見ています(21ページ)。

 ヤマト政権の大王位は兄弟継承が慣例であり、また皇后が継承することもありました。とするならば、天智の後継は、大海人あるいは倭女王ということになります。そして、次の世代では、葛野王(かどののおう)、大津王、草壁王が有資格者となります。また、大海人が即位した場合は、鸕野(うの)皇女も有資格者となります。なお、大田皇女は、このころには亡くなっていました。
A大海人殺害の陰謀はあったのか
 日本書紀には、壬申の乱の記述は、天智紀10年10月と壬申紀天智即位4年10月の2箇所にあります。天智紀10年と天智即位4年はともに671年を指しています。壬申の乱については、壬申紀の方が内容は詳しくなっています。
 17日、臨終に際して天智は、大海人を召します。その際、大海人殺害の陰謀があったことを匂わせる記述が、次(29ページ)のように、壬申紀にはあります(赤線で囲んだ部分)。天智紀にはありません。その内容は、蘇賀安摩侶(麻呂?)が東宮(大海人)に「お言葉にはご用心なさいませ」と言ったので、大海人は陰謀のあることを疑って慎重になった、と言うものです。陰謀があるらしいと言うだけで、誰のどのような陰謀かは明らかにしていません。

 大海人は、大王位を譲ろうと言う天智の申し出を辞退し、倭女王の即位と大友の立太子を提言し、自らは直ちに出家します。19日には、天智のため修行を行うと称して吉野に向け出発します。大臣らが大海人を見送りますが、次(29ページ)のように、壬申紀には意味深長な記述があります(赤線で囲んだ部分)。大臣らの1人が、「虎に翼を着けて放ってしまった」と言ったというものです。天智周辺には、大海人を亡き者にしようとする陰謀があったことをうかがわせます。

 著者は、次のように述べて(33ページ)、このような陰謀の史実性は疑わしいと主張しています。 
 この場面は、蘇我安麻呂、ひいては石川氏の功績を強調するための家記を挿入した可能性が強く、安麻呂の忠告自体も、史実としては疑わしいものである。天智が大海人を殺害しようとしていたと考える論考は最近でも見られるが(遠山美都男『壬申の乱』)、先に述べたように、やはり天智は大海人に本気で大王位を譲ろうとしていたと考えた方がよかろう。
 天智は大海人に本気で大王位を譲ろうとしていたのなら、大海人はその申し出を辞退する必要はなかったことになりますが、その点について、著者は次のように述べています(33〜34ページ)。
 さて、大王位の禅譲を要請された大海人は、いかなる事情でこれを辞退したのであろうか。常識的に考えられるのは、即位を要請されてもいったん辞譲するのは、儀礼的な慣習であったという点である。大海人にしてみれば、放っておいてもいずれ自分に大王位がまわってくると思っていたはずであるから、ここで辞退しておいて、天智の死去と、その後の群臣による推戴を待っていればよいと考えていたとすれば、天智の病床で即位を辞退した事情については解決できる。
Bなぜ吉野まで退去したのか
 しかし、とりあえず即位を辞退したのならば、そのまま大津宮で天智の死を待てば良いのであって、なぜ吉野まで退去する必要があったのかという疑問が生じます。
 天智は、乙巳の変(645年)で自ら蘇我入鹿を殺害したのを始め、次の図(図解古事記日本書紀、259ページ)のように次々と政敵を粛清していますから、大王位を譲るという天智の真意を、大海人が警戒した可能性を著者も認めていますが、「それにしても、吉野にまで退去する必要があったとは考えられない」(34ページ)と述べています。
 
 著者は次のように述べて(35ページ)、吉野まで退去したのは、鸕野(後の持統天皇)の思惑によるものであったと推理しています。
 鸕野にとって、大友を倒し、同時に草壁の優位性を確立し、さらには大津を危険にさらすための手段として選ばれたのが、武力によって近江朝廷(というよりも、異母弟にもあたる大友の政権)を壊滅させること、そしてその戦乱に自身と草壁をできるだけ安全に参加させるということであった。大海人の吉野退去、ひいては壬申の乱自体の積極的な主体者として、ここに鵬野の存在を強調したい。
 前述のように、大海人の次の世代の大王候補は、葛野王、大津王、草壁王、鸕野皇女の4人ですが、戦乱で葛野王、大津王が命を落とせば、草壁王と鸕野皇女が残ることになります。
 武力による大友政権壊滅という計画に、大海人はどう反応したのかについては、著者は次のように述べています(36〜37ページ)。
 大海人としても、自分の後に、大友に後見された葛野王が即位するよりも、大津や草壁に継承させた方が望ましいわけであり、この計画に一も二もなく荷担したのであろう。
 しかし、吉野が安全ではなかったから壬申の乱直前に、伊勢・美濃方面へ脱出したわけですし、大海人の即位が確実であれば、即位した後で、次の大王を決めることも可能であったのだから、あえて戦乱を起こす必要もなかったように思われます。

大夫層が近江朝廷から離反
 日本書紀によれば、天智10年(671)正月、天智は次のようなメンバーによる政府首脳を発足させています。
太政大臣 大友皇子
左大臣 蘇我赤兄(あかえ)
右大臣 中臣金(かね)
御史大夫 蘇我果安(はたやす)、巨勢比等(こせのひと)
紀大人(きのうし)
実務官人 亡命百済人60数名
 このメンバーの内容について、著者は次のように(25ページ)説明しています。
 このうち、王族を「大臣(オホマヘツキミ)」に任じるという発想は、この時期には希薄だったはずであり、太政大臣という官も当時は未成立であろうと思われるので、「太政大臣」というのは、大友の王族としての政権参画を、『日本書紀』編纂時にこのように記述したものと考えるべきであろう(まさか厩戸や中大兄、まして大海人のように「皇太子」「東宮」と書くわけにはいかなかったはずである)。
 「御史大夫」というのも、単なる大夫(マヘツキミ)の中国的表現に過ぎないものと思われる。つまり、天智十年体制というのは、大友の政権参画に際して、その地位を擁護させるために、天智が特定の氏族の宮人を大友の周囲に結集させたものであって、「近江令官制」や「太政官制の成立」を表わしているわけではない。
 もちろん、これによって大友が次期大王位継承者の資格をえたわけでもなく、大友自身も大王位に対する野心を待ったわけでもなかろう。同様、大海人がこの体制発足によって政治の第一線から完全に排除されたわけでもあるまい。
 天智が中臣鎌足と少数のブレインによる専制支配を続けてきた結果、大友が頼みにできる藩屏がこれだけに過ぎなかったことが、壬申の乱の敗因になったことを指摘し、著者は次のように述べています(27ページ)。
 壬申の乱において、近江朝廷側がやすやすと敗れてしまった原因として、大夫層がすでに天智朝の段階で近江朝廷から離反していたということが挙げられよう。近江朝廷側の将軍で名前の明らかな一六人のうち、大夫層出身者は三人のみであったのに対し、大海人側功臣には一一氏一七人の大夫層出身者を含んでいた。彼らの中には、大倭で大海人決起の時を待っていた者も多かったものと思われる。
 また、亡命してきたばかりの百済人を実務宮人に組織すれば、旧来の渡来系氏族の反発も予想される。東漢氏をはじめとする旧渡来系氏族の多くが大海人側に就いたのも、天智に対する反発が存したものと考えられよう(直木孝次郎『壬申の乱』)。

対新羅戦用の徴兵が命取り?
 壬申の乱前の10年間で、東アジア情勢は次のように大きく変動し、対外関係が重大な政策課題となってきます。
660 新羅と唐の挟撃により百済滅亡
661 百済復興を支援するため、斉明天皇自ら出陣するも筑紫で病死。後を継いだ中大兄皇子が出兵を強行
663.8 白村江で倭の水軍が大敗
664 対馬・壱岐・筑紫に防人を配置、大宰府防衛に水城建設
665 長門と筑紫に城を築く
667.3 近江の大津に遷都
668 中大兄が即位(天智)。高句麗滅亡。唐と新羅が対立
669 (唐・新羅両面外交を主導した)中臣鎌足が死去
670 庚午年籍作成、地方豪族の反発
671.1 唐が李守信を倭に派遣、対新羅戦での軍事援助要求か
.7 天智政権(大友が主導?)の回答(対新羅出兵は留保?)を携え李が帰国
.9 天智が病に倒れ、政局に姿を見せなくなる
.10 (新羅寄り路線を志向の)大海人が政権を去る。大友が主導する近江朝廷は親唐外交路線へ傾斜か
.11 2000人(白村江の戦いの捕虜?)を引き連れ、郭務悰が来訪。再度、軍事援助を要求か
.12 天智死去
672.5 大量の武器と軍事物資を受け取り、郭務悰が帰国。近江朝廷は新羅攻撃のため(美濃や尾張など東国を中心に?)徴兵を急ぐ
 660年に滅亡した百済の復興を支援するため、中大兄皇子が朝鮮半島への出兵を強行しますが、663年の白村江の戦いで大敗します。唐と新羅の攻撃を恐れた中大兄は、次の図(図解古事記日本書紀、265ページ)のように、各地に水城や山城を築き、大津に遷都するなど、過剰とも思える防御体制を固めます。これらは、農民には重い負担となったはずです。しかし、唐と新羅は、5年がかりの対高句麗戦争に乗り出そうとしていたのですから、当時の情勢を冷静に分析すれば、唐と新羅が連合して倭国に全面戦争を仕掛けてくる余裕はないと判断できたはずです。また、庚午年籍を作成し、地方への統制を強めたため、地方豪族層の反発が強まります。

 一方、朝鮮半島では、高句麗を滅ぼした後、唐と新羅で対立が深まります。倭国を自陣営に引き入れるため、唐からは対新羅出兵を促す使節が来訪します。唐・新羅両面外交を主導した中臣鎌足が死去し、新羅寄り路線を志向する大海人が政権を去ったため、近江政権を主導する大友は親唐外交路線へ傾斜します。そして、唐の使節に大量の武器を提供し、新羅攻撃のため徴兵を急ぎます。つまり、朝鮮半島の支配をめぐる争いに、再び巻き込まれる危険性が現実のものとなりつつありました。
 このような状況を、著者は次のように説明しています(17〜18ページ)。巨大な水城や山城建設を担わされた西国の農民は相当疲弊していたものと思われます。
 近江朝廷としては、五月十二日に大量の武器(甲冑弓矢)と軍事物資(・布・綿)を供与して、五月三十日にともかくも郭務悰に帰国してもらったものの、すでに捕虜の返還を受けている以上、急ぎ唐に兵を供出する必要を感じ、徴兵を急いだであろう。
 ただし、西国は百済救援のための徴兵によって疲弊しており、今回の徴兵は美濃や尾張をはじめとする東国を中心としたものとならざるをえなかったはずである。
 まさか吉野に隠遁している大海人が挙兵して近江朝廷を倒すなどとは考えていなかった親唐派の大友としては、ここで唐に協力して新羅を倒せば、半島における倭国の優位を取り戻すことができ、「任那復興」などという、忘れかけていた欽明以来の悲願を、一挙に現実のものとすることができるとでも考えたのであろう。
 近江政権が郭務悰への対応と、新羅に対する戦争準備に忙殺されている最中に、徴発された農民兵を取り込む形で、大海人の反乱が始まりました。近江政権にとって、対新羅戦用の徴兵が命取りとなったわけですが、著者はそのような状況を次のように説明しています(17〜18ページ)。
 その頃、大友の率いる近江朝廷は、筑紫に駐在する郭務悰への対応に忙殺されて、吉野の大海人にまでは意識が向かなかったのである。また、大量の武器と軍事物資を郭務悰に供与してしまった結果特に近江周辺と西国においては、それらの不足を来たしたことであろう。
 大友によって徴発された大量の対新羅戦用の兵を、各「国」の拠点において、いち早く自己の軍内に組み込んだ大海人が、それを的確に配分して乱に勝利を収め、一方、みずからの外交的選択によって全国に兵の徴発を命じた大友が、その兵によって滅ぼされたということになる。
 672年6月24日、吉野を脱して美濃に向かった大海人は、鈴鹿関と不破関を封鎖したため、近江政権は東国との連絡が取れなくなります。その結果、美濃や尾張で徴発された農民兵が大海人側に組み込まれたのが、近江政権の敗因であると著者は見ています。

美濃や尾張の人口はさほど多くなかった
 著者は、両軍の構成を次のように推測しています(210〜212ページ)。具体的な兵力はほとんど分からないようです。
  大海人  近江朝廷 
近江路  数万
美濃・尾張の一部・東山 
数万
常備軍・西国・近江 
大倭  数万
伊賀・伊勢・尾張の主力・東海 
常備軍・西国 
河内  大倭の豪族  西国 
伊賀  3000 美濃  常備軍・近江 
 大海人軍の主力は美濃・尾張の徴発兵、近江朝廷については軍の主力は常備軍と西国・近江の徴発兵と、著者は見ているようです。
 そこで、
ウィキペディア/近代以前の日本の人口統計のデータから、畿内と東国の人口と出挙稲数を比較してみました。人口は「奈良時代推定良民人口」、出挙稲数は「『延喜式』出挙稲数」のデータを使いました。時代は少しずれていますが、大まかな状況は反映しているものと思われます。
 短期決戦だったので、両軍の動員地域を、近江朝廷=近江・大和・河内、大海人=美濃・尾張・伊勢に限定するならば、近江朝廷側は1.6倍ほどの人口を擁していたことになります。もちろん、近江や大和でも、大海人方に味方した豪族も少なくなかったでしょうから、この比率が両軍の戦力と比例するわけではないと思われます。しかし、美濃や尾張の人口はさほど多くないのは意外な感じがします。
人口 出挙稲数
近江政権 424,500 2,162,930
近江 141,900 1,207,376
大和 330,300 554,600
河内 94,200 400,954
和泉 26,700 227,500
摂津 112,800 480,000
山城 99,600 424,700
越前 120,800 1,028,000
大海人陣営 267,600 2,278,000
美濃 103,400 880,000
尾張 55,400 472,000
伊勢 108,800 926,000
伊賀 37,300 317,000