読書ノート / 古代史
2019/10/3 
 天武天皇の企て:壬申の乱で解く日本書紀  
編/著者  遠山美都男/著
出版社  角川選書
出版年月  2014/2/25
ページ数  257 
税別定価  1800円

 本書の目次は次のとおりです。
第一章 壬申紀をどう読むか
   一 内乱の厳院──皇位継承問題の真相
   二 天智紀の虚構性 
第二章 壬申紀を読みなおす
   一 大津退去
   二 吉野脱出
   三 天下二分
   四 天神望拝
   五 皇子不従
   六 総帥高市
   七 倭京奇襲
   八 赤色兵士
   九 瀬田決戦
   十 吹負奮戦
   十一 県主託宣
   十二 有功自死
第三章 『日本書紀』の構想力
   一 王政復古──乙巳の変
   二 禅譲──継体新王朝の誕生
   三 王朝交替の証明──仁徳から武烈へ
   四 王朝交替の前提──神武から応神へ
 本書の内容について、著者は「まえがき」で次のように述べています(7〜8ページ)。
 西暦六七二年に起きた壬申の乱については多くの先行研究があるが、著者もそれらに学びながら、その驥尾(きび)に付して『壬申の乱−天皇誕生の神話と史実』(中央公論社、一九九六年)を世に問うたことがある。もう十七年も前になるとは驚きを禁じえない。
 前著は、天智天皇の後継者とされていたその弟の天武天皇が、天智の心変わりによって皇嗣(こうし)の座を甥の大友皇子に奪われてしまい、生命の危機にまでさらされたので立ち上がったとする通説に疑問を感じたのが執筆のきっかけであった。古代における皇位継承のながれを勉強してみるならば、天武の皇位継承権がいわれるほどたしかなものではないことがわかり、彼は皇位継承を確約されていたわけではなかったと考えるようになった。そして、変心・変節したという非難をうけるべきは天智ではなく、むしろ天武だったと確信するにいたったのである。
 このように前著は、壬申の乱における最も核心に触れる部分に関して、通説に根本的な疑義を投げかけ、改めて内乱の真相と意義について考えてみようとしたものであった。基本的な認識や理解については本書でも変わっていない。その後、二〇〇七年になって、倉本一宏氏が『戦争の日本史2 壬申の乱』『歴史の旅 壬申の乱を歩く 』(いずれも吉川弘文館)を立て続けに刊行された。壬申の乱の真の首謀者が持統天皇であったとする倉本氏の説はにわかに承認しがたいものであるが(著者としては天武・持統共謀説くらいが妥当であろうと考えている)、壬申の乱という戦争に関する歴史地理学的な分析と解説は他の追随を許さないものであり、本書でも改めて参考にさせていただいた。
 しかし、当然のことながら倉本氏は、壬申の乱を描いた壬申紀(『日本書紀』巻第二十八、天武天皇紀上)に対する分析、史料批判を行なわれているのだが、壬申紀がどのような構想のもとに書かれているかについて十分に配慮されているとはいいがたいのではないかと思われた。これは多くの研究者にもいえることだが、壬申紀が修飾や誇張はあるにせよ、基本的に実録または実録的であるとする思い込みはやはり疑問とせざるをえない。もちろん、それは著者の前著にもあてはまるわけで、壬申の乱の史実の確定やその歴史的意義の詮議を行なう前提として、 壬申紀がいったいどのような意図や構想のもとに書かれているかを明らかにする必要があると考えたのである。
 本書は壬申の乱そのものよりも壬申紀という一個の編纂物の研究というべき内容となる。その点で内乱の実態について知りたいと熱望される読者にとっては隔靴掻痒(かっかそうよう)の感はまぬかれないかもしれない
。だが、壬申の乱の実像に迫るには、これは避けては通れない作業であると信じている。歴史は勝者によって書かれるものであり、壬申紀もまさに勝者の描いた歴史にはかならないが、歴史の真相に近づくためには、饒舌で耳障りな勝者の主張を徹底的に聴いてみることも必要であろう。
 「壬申の乱は天智の心変わりに対する天武の防衛戦である」とする通説(青字部分)に対して、著者は「変心・変節した天武が皇位を簒奪した」と主張しています(紫字部分)。その根拠は「天武には皇位継承を確約されていたわけではない」という推論にあります。「第一章 壬申紀をどう読むか」では、その推論を論証しています。
 「第二章 壬申紀を読みなおす」では、天武裏切説を前提に、壬申紀(日本書紀巻28)の隠れた真意を探っています。「本書は壬申の乱そのものよりも壬申紀という一個の編纂物の研究というべき内容」ですから(赤字部分)、壬申の乱の全体像は描かれていません。

 「第一章 壬申紀をどう読むか」では、血統と皇位継承資格について検証しています。
 534年、継体天皇が亡くなると、その子の安閑、宣化、欽明が相次いで即位します。安閑と宣化は尾張の豪族のむすめを母とする同母兄弟です。欽明は皇女を母とする異母弟です(系図は、宮内庁のサイトを参照しました)。
 571年、欽明が亡くなると、その子の敏達、用明、崇峻、推古が相次いで即位します。4人の母はいずれも異なります。推古は女性です。
 敏達と推古の母はともに皇女で、用明と崇峻の母は曽我氏の姉妹です。崇峻は蘇我馬子と対立し暗殺され、その後を継いで、(敏達の皇后であった)推古が即位します。
 628年、推古が亡くなると、その遺詔により、敏達の孫の舒明が即位します。舒明の後は、舒明の指名により、(舒明の皇后であった)皇極が即位します。
 645年に乙巳(いつし)の変が起こり、皇極が退位し、皇極の指名により、同母弟の幸徳が即位します。幸徳の死後、皇極が斉明として重祚(じゅうそ、ちょうそ)します。

 以上のような皇位継承の流れから、次のように述べて、天武の皇位継承の可能性はほとんどなかったのではないかと著者は結論付けています(24〜25ページ)。
 以上、継体の子である欽明以後は同世代のなかで皇位が継承され、その世代で該当者がいなくなれば次世代に移行するという継承が行なわれていた。世代内においては兄弟継承が行なわれていたととらえることが可能であるが、同母兄弟による継承は安閑・宣化で終わっており、以降はいわゆる異母兄弟継承であったことに注意すべきであろう。
 安閑・宣化の場合、彼らの異母弟欽明のための「中継ぎ」だったとみられることも考慮する必要がある。ただ、皇極・孝徳は同母姉弟なので皇極→孝徳は表面上同母兄弟による継承例となる。しかし、皇極の即位が舒明皇后という資格によるものなので、これを同母兄弟による事例にふくめるわけにはいかない。
 ここまでの概観をふまえていえば、まず天智は舒明・皇極(斉明)夫妻の第一皇子であり、中大兄という通称からも明らかなように、母を同じくする皇子集団の筆頭ということで即位するたしかな資格がみとめられていたことになる。……
 それに対し天武は、舒明・皇極夫妻の第二皇子であるから、異母兄弟継承が主流であった当時、彼が即位する可能性はきわめて低いものであったと思われる。いわゆる大兄皇子ではない彼が将来天皇になることは、ほとんど期待されてはいなかったといえよう。
 しかし、継体の没後、皇位の同世代継承は3例あり、そのうち2例では同母兄弟間での継承だったのだから、異母兄弟継承が厳然としたルールとなっていたといえるのでしょうか。
 また、推古以降は前天皇の指名により新天皇が決まっていたのだから、天智の指名により天武が即位する可能性もあったのでないでしょうか。