読書ノート / 古代史
2019/10/13 
 古事記 古代史研究の最前線  
編/著者  洋泉社編集部/編
出版社  洋泉社
出版年月  2015/5/25
ページ数  263 
税別定価  1600円

 本書の目次は次のとおりです。
第1章 『古事記』誕生の背景とその後 
・天皇は編纂にどう関わったのか / 寺川眞知夫
・ほんとうに和銅五年に誕生したのか / 谷口雅博
・神々の成長譚という読み方 / 斎藤英喜
・後世、古事記はいかに読み継がれてきたのか / 岡部隆志 
第2章 神話と歴史の接点を探る 
・大和と出雲 / 森田喜久男
・歴史書としての『古事記』を読む / 松本弘毅
・なぜ、神武東遷は九州から出発するのか / 工藤浩
・もうひとつの天孫降臨 / 飯田勇
・神功皇后伝承が生まれた歴史的背景をたどる / 吉田修作
・東アジア関係史と『古事記』 / 森公章
第3章 『古事記』研究の諸問題 
・「序文」偽作説の現在 / 三浦佑之
・なぜ、神々は死ぬのか / 阪口由佳
・描かれた『古事記』 / 及川智早
・近代植民地主義と『古事記』研究の闇 / 平藤喜久子 
第4章 古事記研究入門 / 宮代栄一 
 
●古事記序文をめぐる問題
 古事記の序文には、次の1節があります(28ページ)。

 これを要約すると次のようになります。
 天武天皇が、「諸家の持っている帝紀と本辞には虚偽が多いので、帝紀を撰録し旧辞を討覈(とうかく=検討調査)し、誤りを正して後世に伝えたいと思う」との詔を発し(時期は示されていません)、28歳の稗田阿礼に、皇帝の日継と先代の旧辞とを誦み習わせたが、未だ「その事」を行っていない。
 一方、日本書紀の天武天皇条には、次の1節があります(30ページ)。

 これを要約すると次のようになります。
 天武天皇は、681年3月、川島皇子らに、帝紀と上古の諸事を記し定めるように詔を発した。川島皇子と大山平群臣子首は自ら筆を取って記録した。
 これは、日本書紀の編纂を命じたものと考えられます。日本書紀は約40年後の720年に完成しています。
 さらに、古事記の序文には、次の1節があります(32ページ)。

 これを要約すると次のようになります。
 元明天皇が、旧辞と先紀の誤りを正そうと思い、711年(和銅4)9月18日に詔して、稗田阿礼が誦む旧辞を撰録せよと太安万侶に命じた。
 この詔にしたがい、712年(和銅5)1月28日、太安万侶が古事記を献上しました。
 古事記序文と日本書紀のこれらの記述からは、次のような疑問が生じます。
@
A
B
C

D
天武はなぜ、古事記と日本書紀の編纂を同時に命じたのか
稗田阿礼の行った「誦み習い」とはどのような行為か
未だ行われていない「その事」とは何か
帝紀、本辞、皇帝の日継、先代の旧辞、上古の諸事、先紀とは何で、それぞれどのような関係があるのか
帝紀や本辞、旧辞の「誤りを正した」のは誰か 
 本書では、「天皇は編纂にどう関わったのか / 寺川眞知夫」「ほんとうに和銅五年に誕生したのか / 谷口雅博」「『序文』偽作説の現在 / 三浦佑之」が、古事記序文をめぐる問題を取り上げています。
 「『序文』偽作説の現在 / 三浦佑之」は、古事記と日本書紀という、まったく性格の異なる二つの史書編集事業を同時に行うということは、大きな矛盾(180ページ)であるから、古事記の序文は(後世に)でっち上げられたとみたほうが理解しやすい(181ページ)と主張しています。序文が偽作であるとすると、「大きな矛盾」は回避できます。ただし、そうすると古事記がいつ書かれたかが問題となります。
 古事記は変体漢文で書かれているとされていますが、7世紀後半の日本では、すでに変体漢文が文体の主流であったとする近年の研究を紹介し、「認識の幅は、以前では考えられないほど広くなった」(177ページ)と述べています。つまり、712年よりも以前に、古事記は文書化されていた可能性があるということです。
 著者は古事記の序文に拘(こだわ)る理由について、次のように述べています(182〜183ページ)。
……古事記と日本書紀との関係についていえば、律令国家という同じ土俵に並び立つはずのない二つの史書だと思う。
 ところが、その二つの史書を並べることによって、「記紀」と呼称し、両者を都合よく混ぜ合わせながら、明治政府は、近代国家を支える神話作りと、初代神武天皇に重ねられた近代天皇(明治天皇)像の構築をもくろんだのである。そこに古事記が関与させられたことに釈然としない気持ちを抱き続けるわたしは、近代が創りあげた「記紀」幻想から古事記を引き剥がすことの必要性を強く意識している。「序」のもつ不自然さにこだわり続けるのもそのためだと言ってよい。
 ただし、著者の主張に対する同調者は少なく、「序文偽作説が風前のともし火だということは否定しようもない」(183ページ)とも述べています。 

 「天皇は編纂にどう関わったのか / 寺川眞知夫」は、古事記と日本書紀は編集方針が異なると見ています。
 著者は、天武の歴史書構想を次のように説明しています(10ページ)。
 大化の改新で蘇我氏は滅ぼされ、天皇を頂点とする位階と職階および職掌を定め、官僚を手足として国家を統治する律令体制へと移行した。天武は政治の枢要部を押さえていた旧来の大氏族の力を壬申の乱によって削ぎ、権力を天皇に集約する目的を達すると、天皇の超越的権威を確立するために、「天皇は神聖王権を保つ存在である」と説き明かす神話を形成して歴史書に記し留め、これを具体化する践祚に関する条文を令に収めて天皇神格化を制度化し、他方で八色の姓を定めて氏族体制に動揺を与え、その制御を試みた。
 天武は歴史書構想を実現すべく、「681年3月、川島皇子らに、帝紀と上古の諸事を記し定めるように詔を発した」、つまり日本書紀編纂を命じたわけですが、それが思惑通りに進まなかったので、自ら思い通りの歴史書=古事記の作成に着手したと著者は考えています。その経緯を次のように説明しています(12ページ)。文中の「記」は古事記を指しています。
 しかし、天武十三年の川嶋皇子を代表とする十人に命じた史書編纂事業は天武の意向どおりに進まなかったため中止させ、自らが史書を編み、稗田阿礼に誦ませたとみられる(平田俊春「古事記の成立と日本書紀」、拙稿「古事記の成立論について」)。
 記には『日本書紀』(以下紀とする)にみられる神話の揺れはない。しかし、天武が整え始めた絶対的テキストとしての歴史書は仁賢記以後は帝紀のみとなり、稗田阿礼に誦習させたものの書籍化できないままに終わった。これを惜しんで書籍化を命じたのが元明である。この時までには持続・文武天皇の時代を経ていた。
 天武は686年10月に死去し、その跡を継いで、持統が690年4月に即位しています。即位前後の経緯は次のとおりです。
645  乙巳の変、蘇我本宗家滅亡 
672  壬申の乱、旧来の大氏族の力を削ぐ 
686.10 天武天皇死去 
689.5  草壁皇子死去 
689.6  持統、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)班布
690.4  持統、飛鳥浄御原令の神祇令践祚条にもとづき践祚・即位 
697.8  持統天皇退位、文武天皇即位 
703.1  持統死去 
707.7  文武天皇死去、元明天皇即位 
712.1  古事記完成 
715  元明天皇退位、元正天皇即位 
724 元正天皇退位、聖武天皇即位 
 乙巳の変と壬申の乱により強化された天皇支配をより確実なものにするため、天武は天皇の神格化を図りますが、686年に道半ばで死去し、天武と持統の息子の草壁皇子も689年に死去します。そこで、持統が690年に即位し、697年に孫の文武(14歳)に譲位します。ところが、703年に持統が死去し、707年に文武が死去します。そこで、文武の母親の元明が即位し、さらに715年、文武の姉の元正に譲位し、724年に文武の息子の聖武が即位します。「持統→文武」「元明→聖武」は「女帝→孫」の関係にあり「アマテラス→ニニギ」のモデルとなったという説もあります(読書ノート/シリーズ<本と日本史> 1 『日本書紀』の呪縛)。著者も次のように述べています(23〜24ページ)。
 持統は天武との間に出来た我が子、草壁皇子(くさかべのみこ)の即位に期待したが、持統三年の薨去によって果たせず、その子、持統にとっては孫の軽皇子(文武)の擁立に腐心し、目的を達した。
 元明は自らと草壁皇子との孫にあたる首皇子(おびとのみこ、聖武)の即位に期待した。結局その即位を見ないまま養老五年十二月に崩じたが、娘元正(げんしょう)を介して目的は達した。
 以上を系図で示すと次のようになります(11ページ)。

 神祇令践祚条と天孫降臨神話との関係について、著者は次のように説明しています(13ページ)。
 この条を思想的に支えたのが記の天孫降臨神話であった。天皇の権威を超越的なものに高めようとする意図にしたがって、践祚においては天皇の璽綬(じじゅ)として伝統的に臣下の代表が献上していた剣・鏡を、降臨神話を用いて高天原の統治者天照大御神(あまてらすおほみかみ)が天皇の祖先番能邇々芸能命(ほのににぎのみこと)に授けた神璽の剣と鏡であると意義づけ、神祇官忌部(じんぎかんいんべ)に献上させたのである。
 こうして天皇のレガリアは群臣の代表が群臣の天皇即位を承諾した証として献上していた璽綬ではなく、神から授与された神璽の剣・鏡となり、神に仕える者が神に託され、神に代わって献げる神璽としての意味を有することになったのである。
 この説明によれば、神祇令践祚条制定により、天皇の即位には群臣の承諾は不要となり、天皇の超越的権威が高まったことになります。ただし、この時点では、日本書紀も古事記も完成していなかったのですから、天孫降臨神話が「公式見解」として確立していたかは疑問です。
 としても、天武の構想に従って神祇令践祚条を制定し、天孫降臨神話を背景に持統が即位したと考えることは可能です。
 持統の古事記完編纂への関与については、著者は次のように説明しています(14ページ)。
 記においてこのようにきわめて重要な降臨伝承のなかで、とくに重要な意味をもつ語に、「高天原(たかまのはら)」・「天照大御神(あまてらすおほみかみ)」がある。高天原は記と紀の一書(あるふみ)にはみえるが、紀本文では神武紀に一例みえるだけで、紀神代巻本文には用いられない(中村啓信「高天の原について」)。しかも高天原も天照大御神も天武朝ではなく、おそらくは持統朝に成立したとみられる。
 高天原が持統朝に成立したとみられる根拠としては、持統の和風諡号が「高天原広野姫天皇(たかまのはらひろのひめすめらみこと)」であること、文武の即位宣命に「高天原」が用いられ、その後の天武系の多くの天皇の即位宣命にも「高天原」が用いられていることをあげています。光仁天皇以降は「高天原」が用いられることはなくなったということです。
 また、天照大御神については、天武の時代に、伊勢に日神が祭られたときの祭神名は大日孁貴(おおひるめのむち)であったが、持統朝に天照大御神の神名の成立とともに祭神名は天照坐皇太神(あまてらすますすめらおほかみ)に改められたとみられることをあげています。
 以上から、持統の古事記への関与について次のように結論付けています(18ページ)。
……このように「高天原」も「天照大御神」も持統朝に成立したとみると、記がこれら持統朝に成立した言葉を用いたのは天武の目指した天皇神聖化の意図の修正補強を試みようとした持統の意向に添ったものとみることができる。
 つまり、記が高天原・天照大御神なる言葉を用いて叙述したのは持統の意向を尊重してのことであったと想定されるのである。
 天武天皇が「諸家の持っている帝紀と本辞には虚偽が多いので……誤りを正して後世に伝えたいと思う」との詔を発したと、古事記序文にあるのは、帝紀・本辞の性質を一般論として述べ、「天皇の意図に叶う史書を作る口実であった」(20ページ)と著者は見ています。
 日本書紀の神代巻には、多くの異伝が注記の形で配されていますが、このことについて著者は次のように述べています(21〜22ページ)。文中の「紀」は日本書紀を指しています。日本書紀における官僚(豪族や王族)の編集方針に不満を持った新設の天皇家が、思い通りの歴史書を作ろうと独自に編集したのが古事記だということでしょうか。
 こうしてみると異伝は、天武が危惧した後にもなお、生み出され、継承されていたことになる。紀はそれを本文相対化のために取り上げているのである。こうした紀の編集方針を、当然のこととして事前に知った、あるいは紀の編纂に多くの官僚が関与することから予想した元明も、天武が編もうとした「邦家の経緯、王化の鴻基」としての「帝紀・本辞(旧辞)」を守ることの大切さを思い、「旧辞の誤り杵へるを惜しみ、先紀の謬り錯れるを正」すことのできる史書として、阿礼の誦習する天武の勅語の記を文字化しようとしたとみられる。
 天武の勅語に重ねつつ、自らの記撰進の勅を下した元明には天武の勅語の記を文字化することが、天武が企図し、完成に腐心した、天皇を中心とする律令体制の方向を守ることになるとの考えがあったとみられよう。
 太安万侶の役割について、著者は次のように述べています(23ページ)。「阿礼しか読めなかった」というのは、稗田阿礼が暗誦していた勅語は、文書になっていなかったので、稗田阿礼本人しかその内容を確かめられないという意味でしょうか。とするならば、天武の勅語があったのかどうかも確かめようがないことになります。天武あるいは持統が天孫降臨神話を着想し、元明の意を受けた安万侶が、それを古事記に仕立て上げたという可能性も否定できないと思われます。
 太安万侶は元明の勅を受け、稗田阿礼の誦習する勅語の記、すなわち阿礼しか読めなかった記を、元明だけでなく、誰でも読める記に書き直し編纂したのである(参考「シンポジウム『やまとのまほろば田原本』」)。持統のもとで形成された高天原・天照大御神などの用語もこの時に安万侶が用いた可能性もないではない。
 古事記の意味について、著者は次のようにまとめています(24ページ)。天皇神格化が古事記神話の目的だったということでしょうか。
 記は広く受容されることはなかったとされるが、その天孫降臨神話は令の践祚条と深くかかわり、天皇の権威の超越性を保証する重要な神話となった。そうした内容をもつがゆえに天武だけでなく、かかわり方は異なるとしても、持統も元明も記のもつ意義を重視して、編纂に深い関心をむけ、成立に関与したと考える。

 「ほんとうに和銅五年に誕生したのか / 谷口雅博」は、天武が稗田阿礼に「皇帝の日継」と「先代の旧辞」とを誦み習わせ、太安万侶がそのうち「先代の旧辞」のみを編集し直したという、二段階プロセス説を提唱しています。
 稗田阿礼の誦習について、著者は次のように述べています(34ページ)。「特殊能力を持つ阿礼以外には読めない原古事記」とはどんなものなのでしょうか。安萬侶もまた、そのような特殊能力を持っていたのでしょうか。
 阿礼が誦習した「勅語の旧辞」は何かしらの台本のようなものがあったと考えられている。それが天武本「原古事記」であったと思われるが、後世に伝えるためには、特殊能力を持つ阿礼以外の人にも読めなければならない。安萬侶の仕事は、他の人も読めるように表記方法を改めることであったと思われる。
 しかし、ただ表記方法を改めただけではなく、内容の整理にも携わったはずである。
 著者は、二段階プロセス説の根拠を次のように説明しています(38ページ)。
 元明朝の記事で、今一つ問題となるのは、「稗田阿礼が誦める所の勅語の旧辞」といういい方である。天武朝の記事には「帝皇の日継と先代の旧辞」とあったものが、「旧辞」のみになっているのはなぜか。たんなる言い換え、省略と取るか、意味内容を異にすると見るべきか。それまでは全て二つ並び称して来ており、ここのみ省略をするのは不自然であるし、その理由も見当たらない。それゆえ、やはりここは意図的に「旧辞」のみを記していると考えるべきであろう。

●古事記神話の変貌
 古事記神話は、仏教教義の影響を受け、中世神話というものに変貌して行きます。
 「神々の成長譚という読み方 / 斎藤英喜」と「後世、古事記はいかに読み継がれてきたのか / 岡部隆志」はこのテーマを扱っています。

 「神々の成長譚という読み方 / 斎藤英喜」によると、奈良時代から平安時代前期にかけて、アマテラスの祟りにより天皇が病気になるという記録が何例も残されているそうです。中世の神仏習合の時代にあっては、アマテラスは大日如来と同体とされ、さらにはアマテラスのご神体は「蛇身」という異説さえ生み出されたということです。
 また、中世の出雲大社ではスサノヲが主祭神されていたということです。また、仏教の教えから、スサノヲのいる「根の国」は「地獄」のことであり、スサノヲは地獄の閻魔王と考えられていたそうです。また、祇園社(現在の八坂神社)の祭神は、牛頭天王(ごずてんのう)という外来神でありそれは日本のスサノヲのことであるとされていたそうです。
 このように中世に変貌した神話については、著者は次のように述べて肯定的な見方を示しています(54〜55ページ)。
 それにしても、アマテラスにせよ、スサノヲにせよ、『古事記』以降の変貌していく神話は、『古事記』『日本書紀』を改竄し、仏教的に解釈した、荒唐無稽、牽強付会のトンデモ本みたいなものと思われるかもしれない。つい近年まで、研究者もほとんど注目してこなかったものだ。
 けれども最近では、中世に変貌した神話を「中世日本紀」「中世神話」と呼んで、現代人の価値観からは見えてこない、中世固有な神話世界として再評価する動きが進んでいる。明治の神仏分離、国家神道のなかで消去、封印され、近代には失われた、もっと豊かな「神話」が目を覚ましてきたのだ。それは千三百年にわたる『古事記』『日本書紀』の解釈の歴史のなかで醸成された、豊饒な神話世界を教えてくれるだろう。
 成長し、変貌していく神々の世界――。そう、変貌する神々の姿は、『古事記』そのもののなかに、しっかり語られていたのである。

 「後世、古事記はいかに読み継がれてきたのか / 岡部隆志」は、近代日本のナショナリズムと結びついた古事記神話は、中世神話の延長上にあると見ています。そして、最近のナショナリズムの台頭に呼応して、古事記を日本の宝として顕彰する動きがあることに警戒を示しています。
 古代において、正史は日本書紀であり、古事記は資料として引用されることはあっても、「埋もれた典籍」でした。
 伊勢神道の興隆もあって、古事記神話は中世神話的に読み替えられて行きますが、古事記はまだ脇役的存在でした。その経緯を著者は次のように述べています(62〜63ページ)。
 『古事記』は中世においても入手困難で全巻を揃えるのが難しい希少本であったが、書写されていくなかで全巻を揃えるものが現れ、現存する最古の写本である『真福寺(しんぷくじ)本古事記』が歴史に登場することになる。この写本は、名古屋の真福寺の僧(賢喩=けんゆ)が応安四年(一三七一)から翌年にかけて書写したものとされる。真福寺は伊勢神宮と深い関わりがあり、伊勢神道にかかわる書物が多数伝わっていた。『古事記』はその中の一つであったらしい。
 この『真福寺本古事記』登場の背景には、伊勢神道の興隆があると斎藤英喜は述べている(『古事記はいかに読まれてきたか』)。伊勢の内宮・外宮の神官たちの間で、仏教の教義の影響もあって、日本の神話を再構築しようという動きが起きる。それが伊勢神道と呼ばれるものだが、注目されるのは、その再構築された日本神話が記紀神話とは様相を異にした独特な神話であったことである。つまり、記紀に描かれた神話は、仏教の世界観と重ねられ、ある意味では荒唐無稽ともいえる神々の体系に読み替えられた。このような中世に独自に発展した神話を山本ひろ子は「中世神話」と名付けている。
 この「中世神話」的神話構想力を、『古事記』神話を読み替えていく原動力とみなしたのが斎藤英喜である。『古事記』の神話は近代に到るまで「中世神話」的に読み替えられていくと斎藤はいう(『異貌の古事記』)。
 ただ、この「中世神話」の展開において『古事記』は一つの資料ではあれ、『日本書紀』や『先代旧事本紀』より下位の書物ではあった。中世では『古事記』は神話的構想を刺激する書物としてまだ前面に登場してはいないのである。
 江戸時代になって、本居宣長が古事記伝を著したことにより、古事記は一躍表舞台に登場することになります。著者は次のように(64〜65ページ)、江戸時代に国学者が出てくる背景には、町人の非武士的心情があったのではないかと述べています。また、宣長も平田篤胤も中世神話の系譜に位置すると見ています。
 宣長のような国学者が出てくる背景としては、仏教や儒教が近世的世界を支える思想の位置から後退し、それに代わるものとして日本の古代を見直す動きが起こるという流れがある。その流れの中心にいたのは町人層であった。家永三郎は、宣長が『古事記』を通して発見した「皇国の古人の真心」は彼が生きる封建社会の「武士の気象」に対立する町人の非武士的心情を投影したものではないかと述べている(「古事記の受容と利用の歴史」)。明治以降国民国家形成にあたって、国民の心情を統合するイデオロギーとして『古事記』が読まれることになる。これを準備したのが国学であるのは、やはり、それを担ったのが町人層であるということが大きい。町人出身の学者たちは封建的制度に縛られず階級を超えた世界を構想する広がりを国学に見出したのである。宣長もまた平田篤胤もそうだった。
 『古事記伝』の、多くの文献を比較しながら緻密に注釈していく方法は優れたものであり、『古事記』研究書としては現代にまで参照される文献である。が一方で、その神話解釈は『古事記』神話から逸脱してしまうものだった。斎藤英喜は宣長もまた「中世神話」の系譜に位置する学者だと述べている。さらに、宣長の後に続く平田篤胤も、『古事記』神話を踏まえつつそこから逸脱し荒唐無稽ともいえるような神々の体系を構想していく。篤胤もまた「中世神話」の系譜に位置する、ということになる。
 明治以降の近代日本における古事記の位置づけについて、著者は次のように述べて(67ページ)、国民国家を支えるイデオロギーの書として読まれていくことになるが、中世神話的読み替えといえなくもないと指摘しています。 
 明治以降の近代日本は、天皇という古代的な王を国民統合のシンボルとする近代国民国家として出発した。『古事記』はその天皇を抱いた国民国家を支えるイデオロギーの書として読まれていくことになる。とくに西欧列強に対抗しアジアヘの進出を戦争によって推し進めた日本は、天皇を「現人神(あらひとがみ)」として神格化し、その根拠を『古事記』神話に求めた。が、『古事記』には人の世の天皇が「現人神」であるなどとは書かれていない。「現人神」というのはそれ自体信仰の対象として現前している神を指す言い方である。『万葉集』で人麻呂が「大君は神にしませば」と歌ったのとは違う。こちらは神の如き尊いお方という意味である。とすれば、天皇を「現人神」として解釈した国家もまた『古事記』の内部に入り込み、自らが必要とする世界観によって神話と一体化し、『古事記』を「中世神話」的に読み替えたといえなくもないのである。
 最近のナショナリズムの台頭に呼応して、古事記を日本の宝として顕彰する動きがあることに対して、次のように述べ(68ページ)、警戒を示しています。 
『古事記』はいわば冷静に読み継がれるようになったといえるのだが、最近、宣長や篤胤のような「中世神話」的読み方が注目されている。それは、斎藤英喜の一連の著作によって脚光を浴びている面はあるにしろ、『古事記』を外部から冷静に読む研究者的読み方が色あせて見えるということがあろう。読む自由が閉ざされている感覚といったものか。斎藤は篤胤の『古事記』の読みをトンデモ本的だと親しみを込めた言い方で形容するが、そこには、そういった読み方に知の冒険への期待が込められていよう。その感覚わからないではない。だが一方で、最近のナショナリズムの台頭に呼応して『古事記』を世界に誇る日本の宝として顕彰するような読まれ方も盛んである。こちらの読み方が「中世神話」的に暴走しかねないことについては注意する必要があろう。