読書ノート / 古代史
2022/12/27
 戦争の日本古代史 : 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで 
編/著者 倉本一宏/著
出版社 講談社現代新書房
出版年月 2017/5/20
ページ数 302
税別定価 880円
 本書は、古代の日本と朝鮮の戦争の歴史を扱っています。日本とアジア諸国との主な戦争や戦闘は次のようになっています。朱色で示したのが、日本が朝鮮や中国で戦った戦争です。薄い朱色は、著者は実在が疑わしいと見ています。入寇は海賊の侵入で、戦争ではありません。古代史がテーマなので、蒙古来襲と朝鮮侵攻は簡単に触れる程度です。日清戦争と日中戦争は扱っていません。
三韓征伐? 200 対朝 日本書紀、古事記
対高句麗戦 391〜404 対朝 好太王碑文、三国史記
対新羅戦? 600、623 対朝 日本書紀
白村江の戦 663 対中・朝 日本書紀、旧唐書、三国史記
新羅の入寇 811、869、893 対朝
刀伊の入寇 1019 対女真
蒙古来襲 1274、1281 対中・朝
朝鮮侵攻 1592〜94、97〜98 対中・朝
日清戦争 1894〜95 対中
日中戦争 1937〜45 対中

対朝鮮観と敵国視が噴出
 古代の対外戦争は、対高句麗戦と白村江の戦しかなく、後は秀吉の朝鮮侵攻のみで、近代以前の日本は対外戦争の経験がきわめて少なかったと指摘した上で、著者は次のように述べています(11ページ)。
 ただし重要なのは、近代日本のアジア侵略は、その淵源が古代以来の倭国や日本にあったということである。長い歴史を通じて蓄積された帝国観念、そして対朝鮮観と敵国視が、一定の歴史条件によって噴出した事態こそ、秀吉の「唐入り」であり、近代のアジア侵略だったのである。
 倭王権の成立以来の古代における朝鮮諸国との関わり方、そして中国や朝鮮諸国の日本(および倭国)との関わり方こそ、後世の対アジア関係に大きな影響を与えたことを、我々は考え直す必要があるのである。近代のことを考える際には、近代や近世のことだけを考えたのでは不十分であり、古代以来の蓄積を考える必要がある。これから、古代の対外戦争とその影響を考えていくことにしよう

三韓征伐は作られた説話
 神功皇后の三韓征伐は、編年体の日本書紀では皇紀860年、西暦200年の出来事とされています。一方、古事記は物語調で記述されていて、具体的年代は示されていません。
 夫の仲哀天皇が神の祟りで没した後、身重の神功皇后が朝鮮半島に遠征し、新羅、百済、高句麗の三韓を討つというストーリーですが、著者はその概要を次のように説明しています(40〜42ページ)。
 その「三韓征伐」説話では、倭国の軍船が押し寄せるのを見た新羅王が恐怖のあまり降伏し、土地の図面と人民の籍を差し出し、頭を地につけて、

「今より以後、長く天地とともに、飼部(みまかい)となって従います。船の柁(かじ)を乾かすことなく、春秋には馬梳(はたけ=馬の毛を洗う刷毛)と馬鞭(むち)を献上いたします。また海を隔てて遠いことを厭(いと)わないで、年ごとに男女の調(みつき)を貢上(こうじょう)しましょう」

と誓ったことになっている。そして金・銀・彩色および綾・羅(うすはた)・縑(かとり)絹を八十艘の船に載せて「官軍」(倭国軍)に従わせた。そこで新羅王はつねに八十船の調を日本国(倭国)に貢上するのであると説明している(馬具が登場するのは、敗戦の原因を引きずっているのであろうか)。
 また、高麗(高句麗)と百済の国王が、新羅が日本国(倭国)に降伏したのを知って、密かに軍勢をうかがわせると、とても勝つことができないことを知り、自ら陣営の外にやって来て、頭を地につけて、

「今より以後、永く西蕃(せいばん)と称して、朝貢を絶ちません」

と誓ったので、内官家(うちつみやけ)を定めた。これがいわゆる三韓である、と結んでいる。これが八世紀の『日本書紀』編纂時、つまり日本古代国家の朝鮮諸国に対する基本的な認識であり、以後、日本の朝鮮諸国に対する基本的な立場として、くりかえし語られることとなる。
 この説話については、著者は次のように述べて、その実在性に疑問を示しています(23ページ)。
「三韓征伐」説話の主人公として設定され、仲哀(ちゆうあい)の「皇后」とされている気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと、神功皇后=じんぐうこうごう)が、『日本書紀』では仲哀の死後に「摂政(せっしよう)」をおこなったということになっている。神功摂政前紀・仲哀九年には新羅親征(しんらしんせい)と「三韓征伐」の物語が載せられているが、これは後に述べる百済の要請を承けた半島出兵と高句麗との戦争(と白村江の戦)を基にして作られた説話を、年時を遡らせて仲哀の死の直後に置いたものであろう。

「まことに辻褄が合う話」
 神功記の年代については、干支2運、つまり120年繰り下げるべきだという説があります。たとえば、神功記52年は、皇紀912年なので西暦252年に当たりますが、120年繰り下げて372年と考えるべきだということになります。これについて、著者は次のように述べています(26、27ページ)。「何らかの史実が反映されている可能性も、まったくないわけではない」「話ができ過ぎている感もする」という表現からは、干支2運120年繰り下げ説に、必ずしも賛成ではないという著者の姿勢がうかがえます。
……百済から使者が派遣され、五十二年に献上されたことになっているのが、「七枝刀(ななつさやのたち)一口・七子鏡(ななつこのかがみ)一面、及び種々の重宝」である。この「七枝刀」が石上神宮の七支刀であることは確実で、そこに泰和(太和)四年(三六九)という年号が刻まれていることから、『日本書紀』のこの辺の紀年にも、何らかの史実が反映されている可能性も、まったくないわけではないことになる。なお、これらの百済からの使節は、『三国史記(さんごくしき)』百済本紀には見えない。……
 この泰和(太和)四年というのは中国の東晋の年号であり、西暦三六九年にあたる。神功摂政五十二年が干支を二運繰り下げると三七二年にあたることから、三六九年に造った七支刀を、三七二年に倭国に持って来るということは、まことに辻褄(つじつま)が合う話である(話ができ過ぎている感もするのだが)。
 画像で見る限りでは、七枝刀(七支刀)の銘文は、「泰□四年(□□)月十六日」となっていて、「泰」に続く文字は、判読不能です(ご由緒【七支刀(しちしとう)】|石上神宮[いそのかみじんぐう]公式サイト)。石上神宮公式サイトでは、この点について、次のように説明しています。
……しかし、「泰和(たいわ)」として東晋(とうしん)の年号「太和」(西暦366〜371)の音の仮借とみる説があり、それによるとこの七支刀は西暦369年に製作されたと考えられます。
 つまり、「泰□」→「泰和」→「太和」と推論するのが、太和四年(369年)説の根拠のようですが、「泰→タイ→太」しか関連していないのであれば、かなり強引な感じもします。

 宮崎市定「謎の七支刀―五世紀の東アジアと日本」は、「泰始四年」(468年)を主張しています。
 宮崎説を支持するものとして、次のような指摘もあります( 4世紀の韓日関係史−広開土王陵碑文の倭軍問題を中心に−)。
……19世紀末に七支刀が劇的に発見され、報告されて以降、神功紀の三韓征伐説話ならびに七国平定記事は369年の事実として認定する雰囲気が生まれたようである。しかし、日本の天理市石上神宮に現存する七支刀がどの時期のものであるかははっきりしない。これを4世紀後半のものだという見解が多いが、実際には5世紀後半ないし6世紀前半のものである可能性を論ずる見解も有力である。
 特に韓国と日本に現存する金または銀の象嵌銘文がある刀剣、すなわち韓国昌寧校洞11号墳出土環頭大刀、日本東京博物館所蔵環頭大刀、埼玉県埼玉稲荷山古墳出土金象嵌辛亥銘鉄剣、熊本県江田船山古墳出土銀象嵌大刀等は、全て5世紀後半ないし6世紀前半のものであって、それが流行した時期がいつであったのかを示している。考古学的にみて、七支刀は鉄製三叉鉾、鉄製蛇行剣、有棘鉄器(=有棘利器)などと形態的に類似しており、それらの遺物は6世紀前半に盛行したことを明らかにした論考もある。

三国史記の信頼性について
 三国史記(三国史記とは - コトバンク )は高麗時代の1145年に編纂された史書で、新羅(~935)、高句麗(〜668)、百済(〜663)の起源から滅亡までを扱っています。この三国史記の信頼性について、著者は次のように述べています(21〜22ページ)。
 じつは、新羅を継いだ高麗(こうらい)の金富軾(きんふしょく)によって一一四五年に編纂された史書である『三国史記(さんごくしき)』の新羅本紀には、始祖とされる赫居世居西干(かくきょせいきょせいかん)の時代以来、新羅が「倭人」や「倭兵」による侵攻を受けたものの、これを撃退したという記事が数多く記録されている。『三国史記』の紀年によると、紀元前五〇年から三九三年にかけてである。
 これらのうち、四世紀末の記事については、後に述べる倭国と高句麗との戦いにて、一定の史実性も認められるものの、それ以前、倭国が弥生時代であった時期の記事については、とても史実を反映したものとは思えない。
 日本列島方面からの海賊を大げさに記述したものかとも思えるが、そもそも『三国史記』にこのような古い時代の原史料が存在したのかという問題も含め、これらの記事を鵜呑みにするのは危険である。ここには『三国史記』編纂時の高麗、ひいては統一新羅の時代に日本が仮想敵国であったという事実の投影を読み取るべきであろう。
 一方、三世紀や四世紀の倭王権の様子を直接的に示す文献史料は、日本側にも存在しない。七支刀の銘と高句麗好太王碑文に加えて、『日本書紀』や『三国史記』の記事を注意深く読み説き、そこから一定の史実を汲みとることによって、倭王権成立直後の対朝鮮関係を描き出すこととしよう。

好太王碑所在地は、中国・集安市
 4世紀末の日朝関係を探るための貴重な史料とて、好太王碑文があります。好太王碑は、高句麗の好太王(広開土王、在位391〜412)の業績を称えるため、丸都城(国内城、現在の中国・集安市)付近に建てられた石碑です。当時の高句麗の勢力範囲と丸都城の位置は次のとおりです(高句麗/高麗 - Forum_tokyoblog)。

 好太王碑があるのは、国境沿いの中国・集安市にあります。高句麗は、現在の北朝鮮と中国東北部の一部を占める広大な領土を支配していました。


現在では文字の判読は困難
 石碑は1880年ごろ発見され、数多くの拓本が取られ販売されて来ました。その過程で、文字を読みやすくするため、周辺部に石灰を塗る作業が行われましたが、その石灰が剥がれ落ち、また風化も進んで現在では文字の判読は困難となっているそうです(新たな高句麗広開土王碑拓本(全四面)お茶の水女子大学で発見!)。
 実際の拓本は次のようなものです(4世紀後半の倭の実態(No.150)|藤井寺市)。左が墨水廓填本、中央が石灰拓本、右が精拓本です。
 墨水廓填本は、正確には拓本ではなく、石面の文字を一字いちじトレースして合成したものです。
 石灰拓本は、碑面に石灰を塗り、文字だけが浮き出るように細工したもので、拓本作者によって異なる文字に再現されている可能性が否定できず、資料としての扱いに注意が必要です。
 精拓本は、石面に画仙紙を貼り付けタンポで叩き出す通常の拓本手法によるもので、碑面を忠実に再現する点で資料価値が高いです。

 好太王碑文については、陸軍の情報将校であった酒匂景信(さこうかげあき)が1884年に拓本を参謀本部に持ち帰ってから、日本でも知られるようになりました。1970年代になって、酒匂が碑に石灰を塗って改竄したという説が注目を浴びましたが、現在では否定されているそうです(本書30〜31ページ、ひらけ!ゴマ!!早乙女雅博先生の巻)。現在、見つかっている原石拓本は13本にのぼるそうです(歴史系総合誌「歴博」第201号)。

潤色や誇大表現、さらに虚構?  
 好太王碑の第2段は好太王の功績を記していますが、そこに倭が登場します。本書(31〜32ページ)の記述を参考に、その部分についてまとめると、次のようになります。ただし、好太王碑は歴史書ではないので、好太王の功績を讃えるため、潤色や誇大表現、さらに虚構があっても不思議ではありません。
辛卯
(391)以前
百済と新羅はもともと、高句麗の「属民」として朝貢していた。
辛卯
(391)
倭が海を渡って百残(百済)・口口・新羅を破り、「臣民」とした。 倭vs百残・新羅
永楽6
(396)
これに対し高句麗は、好太王自ら水軍を率い、百済を討科して十八城を取り(列挙された城は五十三)、百済は生口(奴隷)と布を高句麗に献じ、奴客となることを誓った。 高句麗vs百済
永楽9
(399)
百済は誓いに違って倭と和通した。好太王は平壌に巡化(巡幸して教化すること)した。倭は百済・新羅国境に満ち、城池を潰破して百済(「奴客」)を民とした。新羅は遣使して、倭人が百済を民としたことを高句麗に告げ、命を請うた。 倭vs?
永楽10
(400)
高句麗は歩騎五万を遣わして新羅を救い倭賊を退けた。倭は新羅城のなかに満ちていた。高句麗は任那加羅(現韓国慶尚南道金海市)に追撃し、城は帰服した。 高句麗vs倭
永楽14
(404)
倭は帯方界(半島西岸の高句麗・百済国境付近)に侵入したが、高句麗軍と戦って、ついに潰敗し、斬殺されること無数であった。 高句麗vs倭

なぜ倭ではなく百済を攻撃?
 好太王碑文によれば、百済と新羅はもともと、高句麗の属民だったが、391年に倭が両者を破り臣民としたということです。これに対して、396年に高句麗が百済を討科したとなっています。倭が高句麗の支配領域に侵入し、百済と新羅を臣民としたのだから、高句麗は倭と戦うはずなのに、なぜか百済を攻撃しています。
 399年に、倭は百済・新羅国境に満ち、新羅は高句麗に救援を要請したようで、400年に高句麗は倭を討ち、任那加羅に追撃しています。
 404年に、倭が高句麗・百済国境付近に侵入して来たので、高句麗が戦って、壊滅的打撃を与えたということです。しかし、百済が参戦したかどうかについては全く触れていません。
 著者は、次(33〜34ページ)のように、「属民」や「臣民」については、表現方法の問題であり、「渡海」は軍事侵攻ではなく派兵であり、史実とみなしても差しつかえないと述べています。
 まず、碑文で三九一年以前に百済と新羅が高句麗の「属民」であったということは、百済と高句麗との抗争、また新羅が高句麗に人質を送ったという事実を、高句麗側から表現したものであろう。
 問題の碑文の三九一年の倭国の「渡海」と「臣民」であるが、この「渡海」を朝鮮半島への軍事侵攻と解釈せず、百済の要請を承けた派兵と捉え、これを交戦国の高句麗側から過大に表現したものと考えれば、実際に倭国の将兵が海を渡って半島南部に上陸したことは、史実とみなしても差しつかえないものと考えるべきであろう。……
「臣民」についても、倭国が別に「百残口口新羅」(口口に入るのを加耶と考えれば、百済・加耶・新羅)を自国民としたと考えなくても、倭国軍が百済や加耶と共同の作戦をとって高句麗と対峙したと解釈すべきである。

「全て虚構として作られた文章」
 一方、4世紀の韓日関係史−広開土王陵碑文の倭軍問題を中心に−は次のように、これらは「全て虚構として作られた文章である」と主張しています。つまり、これらの文章は、百済討伐の名分を述べたに過ぎないということです。このように考えれば、高句麗が倭と戦うのではなく、百済を攻撃したことにも納得が行きます。そもそも、駆逐すべき倭の勢力などは存在しないのですから。
 また、事実の問題から接近してみるとき、百済と新羅が昔から高句麗の属民として常に朝貢してきたというのは虚構である。4世紀後半に、新羅は高句麗とそのような関係にあったということを認定し得るが、百済は371年に高句麗の平壌城を攻撃し、故国原王を戦死させた強国である。それゆえ、百済は高句麗の属民でもなく、朝貢関係を確認することもできない。
 永楽6年の高句麗の百済討伐の名分は、故国原王の被殺に対する報復と見なければならない。しかし高句麗は、広開土王の勲績を讃える碑文において、百済による故国原王の被殺に言及することを欲しなかったようである。ゆえに、もう一つの虚構として倭の行為を誇張したものと思われる。高句麗が百済の同盟軍とみられる倭を高めたのは、怨讐である百済を百残と呼ぶのと同じく、これに対する一種の冒涜である。
 それゆえ、永楽6年条の前置文である辛卯年記事は、全て虚構として作られた文章であり、実状は百済に対する極度の敵愾心がその中に潜んでいたのである。

倭軍は巡邏兵で主力は加耶?
 好太王碑文は、400年と404年の戦いは、もっぱら高句麗と倭の対立として描かれています。本書では、これらの戦いには簡単に触れているだけですが、4世紀の韓日関係史−広開土王陵碑文の倭軍問題を中心に−は詳細に論じています。
 まず、400年の戦いについて、次のように分析しています。
 400年に倭軍が任那加羅の城に追われて入ったということは、何を意味するのか。新羅の首都である慶州から任那加羅の首都である金海までは、相当な遠距離に達する。その当時、高句麗軍は歩兵と騎兵で構成されていたため、倭兵が船に乗って任那加羅に退却したとは思われない。倭軍が、近くの甘浦や蔚山、または迎日などから船を利用して退却せず、ここまで陸路で逃亡してきたのは、何か理由がなければならないだろう。『三国史記』新羅本紀より見れば、船に乗ってくる倭兵が新羅の首都を攻撃しようとすれば、東海岸の方に船をつないで置いて入ってくるのが通常であった。
 あるいは、永楽10年条に見える倭軍の人員構成の主力が、加耶人であった可能性もある。当時、倭側の海上輸送能力を問題とし、広開土王陵碑文の倭は、大部分が倭を詐称する加耶人であり、ここに加耶に居住する倭人が若干混じっていただけだという井上秀雄の見解も参考となる。後日、6世紀中葉の管山城の戦闘の場合、数万名が参加する百済−加耶−倭連合軍において、倭軍の数字は1,000名程度に過ぎなかった。それならば碑文の倭賊というのも、実は百済の後援を受ける加耶−倭連合軍であり、人員の主軸は加耶人で構成されていたが、高句麗は服飾が異なる倭を過度に認識したのである。
 また、『三国史記』朴堤上伝における、堤上が倭国に到着した際(新羅訥祗王2年、418)の記事によれば、さきに百済人が倭に入り、新羅と高句麗が倭王国を侵略しようとしていると「讒言」し、倭が兵士を送って「新羅の国境の外」で「邏戍」させたが、高句麗が攻めてきて倭の「邏人」を全て捕らえて殺したため、倭王が百済人の言葉を本当に信じたという。これについて、ここでの百済人は百済太子の腆支であり、腆支は人質ではなく、倭国軍隊の出兵を誘導するために行った使臣だという見解があるが、これは妥当な推論である。ここで、倭の巡邏兵が新羅の国境の外、すなわち加耶地域に入って駐屯していたことを知りうるが、彼らは情勢を探知するための目的を持った巡邏兵に過ぎなかったため、倭兵の規模は大軍ではなく、小規模のものであったことがわかる。そして、この倭軍の動員に百済の意図が大きく働いていたということを推測することができる。百済には、加耶と倭の間の友好関係を利用して高句麗の後方の新羅を牽制して、有事の際には倭軍を動員しようという意図があったといえよう。
 ところで、加耶地域で繰り広げられたことに関して、加耶人の存在を全く排除して、他の外部勢力間の利害関係だけ考えるというのは、適当ではない。それゆえ、加耶人の意思を念頭に置いて推定してみれば、任那加羅は伝統的な友好関係にしたがって、倭の巡邏兵を受け入れ、新羅方面の辺境の城に駐屯させ、彼らに新羅や高句麗の動向を偵察させることを任せた可能性がある。それならば、倭軍は任那加羅から相当な代価を受けて、任務を遂行していたのであろう。そのような場合、任那加羅と倭の関係は、対等な契約による雇傭関係であるといえる。
 一方で新羅は、加耶が倭と同盟して自らの領土内に出没し、辺境の勢力を統合して行くことを独りで耐える余力がなかったのであろう。そして、新羅は急激な手段で高句麗を引き込み、任那加羅の勢力を挫いておこうとし、倭軍の存在を過度に浮き彫りにさせたのではないかと思う。この戦闘は、高句麗側の碑文の記述にしたがって、高句麗軍と倭軍が行ったようになっているが、実情は該当地域である洛東江流域を取り巻く二大勢力、すなわち新羅と加耶の間の覇権争いであったと見るのが妥当である。それは、この戦争の結果、加耶の一部小国が新羅へと離脱し、洛東江を境界として新羅−加耶文化圏が本格的に分化する様相を通じて確認することができる。
 高句麗の歩騎5万の大軍は、少数の倭軍を狙いとする軍隊ではなく、新羅の要請によってその背後の加耶連盟の核心部を攻めるために動員されたものとみなくてはならない。この戦争の結果として前期加耶連盟を主導した金海の加耶国は滅亡した。金海大成洞古墳群の最後の大型古墳である大成洞1号墳が築造された後、突如墓の築造が中断するのは、加耶王室の没落を反映するものである。高句麗は加耶征伐を通して百済と倭を牽制する効果のみならず、新羅からも一定の反対給付を得たであろう
 この論文では、400年の戦いを、加耶・倭同盟軍と、高句麗・新羅同盟軍の戦闘とみています。そして、倭軍は巡邏兵であって、新羅や高句麗の動向を偵察するのが任務であったと推測しています。したがって、主力は加耶であって、高句麗の参戦目的は、百済と協力関係にある加耶に打撃を与えることにあったとみています。

404年の侵攻には、多くの疑問
 404年の倭の侵攻についても、多くの疑問があります。400年の戦いが行われた新羅城や任那加羅は、対馬と近距離にありますが、404年に侵入した帯方界は、現在のソウルよりも北に位置し、加羅から西北に迂回し相当の距離があります。戦況が不利になったとしても撤退は困難です。にもかかわらず、どのような理由で出兵したのでしょうか。海路を渡ったのか、陸路をたどったのか不明です。また、百済も参戦したのか、倭の単独出兵だったのかも明確ではありません。
 4世紀の韓日関係史−広開土王陵碑文の倭軍問題を中心に−によると、永楽14年甲辰条の碑文は次のとおりです。百済の文字はなく、数か所判読不明の文字があります。
永楽十四年甲辰条。「而倭不軌、侵入帶方界、□□□□□石城、□連船□□□。王躬率□□、従平穣、□□□鋒相遇。王幢要截盪刺、倭寇潰敗、斬煞無數」。
 訳文は次のようになっています。「連船」は「船をつなぎ合わせ」と訳されています。「敵の道を途中で絶って席巻」からは、退路を断つように攻撃を仕掛けたことがうかがえます。
14年甲辰に倭が法度を守らず、帯方界に侵入した。(中略)石城を□し、船をつなぎ合わせ、□□□した。王は親しく軍士を率いていって討伐し、平壌から□□すると、□鋒が遭遇した。王の軍隊が敵の道を途中で絶って席巻すると、倭寇が潰滅した。斬り殺した者が数え切れないほど多かった。

「百済との共同作戦と見るのが妥当」
 論文では、百済との関連について、次のように推論しています。「和通残兵」とは、百済と和通して新羅に出兵したという倭の勢力の残存部隊を指すようですが、判読不明文字に、この4文字を自由にあてはめるのは、もはや解釈の域を超えているように思われます。結局、他の文献等を比較検討した結果、「百済との共同作戦と見るのが妥当」という結論を導いているようです。
 ここで問題となるのは、伏字に百済があるのかということである。そうして一説には、「帯方界」の後の見えない文字を「和通残兵」と読むこともあったが、「而倭」は原石拓本では比較的はっきりと見えており、「和通残兵」については、そのような心証はあるものの、碑面で確認することが難しい状態である。
 それゆえ、これを除外してみれば、帯方界すなわち黄海道方面に倭軍が侵入したが、高句麗の平壌から出動した広開土王の率いる軍隊に討伐されたという大筋は明白である。ただ、この碑文だけでは、倭と百済の連繋性が不確実であるため、この記事を単に倭軍の反撃とだけ見ることもあり、百済との結託による共同作戦と見ることもある。
 王健群の釈文を確認するのは難しいが、碑文の永楽9年(399)己亥条に「百残違誓、与倭和通」という文も現れ、『三国史記』百済本紀にも、阿莘王6年(397)に「王與倭國結好」という記事が現れるため、碑文の永楽14年甲辰条の記事は、百済との共同作戦と見るのが妥当だと思う。

404年の出兵は、加耶が媒介?
 論文は、考古学的発掘成果や記録、当時の国際交易の状況などを踏まえて、次のように論考を続けます。
 404年には倭軍がなぜ九州、加耶、百済を過ぎ、帯方界にまで現れて高句麗と戦ったのか。帯方界は当時、高句麗と百済の境界地域であった。
 ここで考えてみることは、その倭軍が加耶を助けるための軍隊であるのか、または百済を助けるためなのかという点である。文献史料上では、397年に阿莘王が倭国と結好したり、広開土王が399年に百済と倭が和通したということを聞いて、平壌城から下ったということから見て、ひとまず百済の援兵であったと考えられる。404年に、帯方界に現れて(残兵と和通し?)船を連ねて攻撃したが潰滅させられたという「倭寇」は、百済のために動員されたといえよう。その当時、外国の軍兵を大々的に引き入れる必要があったのは、広開土王の即位以後、高句麗に比べて軍事的に劣勢に置かれていた百済であったことは間違いない。
 しかし、397年に初めて国交を結んだ百済の王子腆支が倭国に行くや否や、大規模の倭兵を動員し得たとは考えられない。百済王子が、高句麗が倭を討ちにやってくるであろうと、どんなに危機意識をあおったとしても、また倭が加耶に派遣した少数の巡邏兵が高句麗軍に敗北したとしても、この理由だけで倭軍が高句麗−百済間の戦線に大挙投入はされなかったであろう。
 399年と400年に、新羅に侵入したという倭軍は、行動半径から見て、加耶のために働いていた。また、この間の考古学的発掘成果や記録から見ても、倭軍は加耶のための軍隊であったと見るのが妥当である。
 当時の日本列島に、加耶の文物は多く影響を及ぼしていたが、百済の文物とみられるものはほとんど現れていないためである。それならば、404年の倭兵は、百済が危機意識をつのらせて引き入れたものだとしても、やはり加耶を媒介せずしては不可能なことであった。
 加耶と倭は、伝統的に鉄を通じて密接な交流関係を結んでいた。日本列島の鉄生産は韓半島南部に比べ500年以上遅れ、日本で製鉄が行われていなかった5世紀後半まで倭は交易を通じて加耶から鉄素材を入手して、これをもって鍛冶過程を経て鉄器を生産した。
 しかし、金海の加耶国が鉄を倭に輸出し、何を主に輸入していたのかは明確でない。ある者は、加耶人が倭から労働力を輸入したものとみている。すなわち4世紀前半に金海や釜山などの地において発見される北九州および山陰地域の土師器は、日本列島から労働力として提供された倭人の1世代がもってきた土器だというのである。
 『三国志』魏書倭人伝の記録をみても、2〜3世紀に倭の対中国交易商品は地域内で生産される特定物品というよりも人的資源である男女生口,すなわち奴婢に該当する労働力が代表的なものであった。
上記の遺物出土状況からみると、倭のこのような伝統は加耶においてもそのまま通用していたことを確認できる。
 今後さらに綿密な調査が必要であろうが、土師器の出土地域分布からみて、その倭人たちは加耶において苦役である製鉄作業に動員された可能性が高い。状況からみても、鉄素材の需要者である倭が、その鉄素材を生産するのに必要な労働力を供給してくれという加耶の取引条件を拒絶することはできないからである。国際的交流が基本的に経済的交換の性格を帯びるという点は否定できない。
 ところで4世紀後半に加耶国が鉄素材供給の代価として倭国に対して求めるものが変わった可能性がある。なぜなら当時加耶は高句麗の支援をうけて成長する新羅と覇権を争っており、その過程でたやすく動員することができる倭の軍事力が必要だったためである。そのうえ百済は加耶との交渉過程で加耶−倭間の人的・物的資源交易の伝統を確認し、これを大々的に拡大して自身と高句麗の戦争に投入する計画をたてたようである。そのような必要性は高句麗との戦争が迫ってくる4世紀末の段階に高まったであろう。加耶は自らが生産した鉄の代価としてそのような交流が成り立つことを対内外的な影響力強化の契機と考え、これに応じたとおもわれる。
 すなわち金海の加耶国は対内的に加耶連盟内での主導権を掌握し、対外的に新羅に対抗して百済との先進文物交流に応じるために、倭の軍事力を動員したのである。これによって4世紀後半に伝統的な倭の交易商品である生口が、加耶側から求める性格の異なる人的資源である軍事力に代わったのである。それゆえこれは古代日本のいわゆる「南韓経営」という次元ではなく、平常的な加耶−倭間の人的・物的資源交易の伝統が百済の介入によって拡大され、高句麗との戦争に投入されたものであり、すなわち百済の異民族動員能力という次元で理解しなくてはならないだろう。
 『三国史記』新羅本紀に現れる、新羅に侵攻した倭人・倭兵は、時期的に制限されており、史料原典について追求されるべき問題点を抱えている。それも大抵、季節的に掠奪を行う海賊の性格を帯びるとみえるが、その中の一部は加耶の支援を受けた倭軍が加耶の領域に入り、新羅を攻略する場合もあったのであろう。
 論文では、倭の参戦目的を次のように推測しています。399年の出兵は、加耶からの鉄素材供給への見返りとして行ったものと見ています。一方、404年の出兵は、加耶の媒介により行ったものとしていますが、百済がその見返りとして何を提供したのかについては、述べていません。
399年 倭が加耶に加勢 鉄素材供給の代価として
404年 倭が百済に加勢 先進文物交流に応じるため加耶が媒介
 404年の出兵の経路については、「船を連ねて攻撃したが潰滅させられた」と説明していますから、水軍として参戦したと見ているようです。「王の軍隊が敵の道を途中で絶って席巻すると、倭寇が潰滅した」ということですから、百済軍との連携がうまく行かず、上陸したところを高句麗軍に囲まれ壊滅したということでしょうか。

圧倒的な戦力差
 本書では、倭の敗因を次のように推測しています(37〜38ページ)。高句麗が、最新式の騎兵を繰り出したのに対し、倭は旧式の重装歩兵で対抗したため、圧倒的に戦力差があったと説明しています。
 敗戦の原因としては、倭国軍が短甲(たんこう=枠に鉄の板を革紐で綴じたり鋲で留めたりした加耶由来の重い甲)と大刀で武装した重装歩兵を中心とし、接近戦をその戦法としたものであったのに対し、すでに強力な国家を形成していた高句麗が組織的な騎兵を繰り出し、長い柄を付けた矛(ほこ)でこれを蹂躙したことによるものと考えられる。歩兵にしても、高句麗のそれは鉞(まさかり)を持った者や、射程距離にすぐれた強力な彎弓(わんきゅう)を携えた弓隊がいたことが、安岳(あんがく)3号墳の壁画から推定されている(松木武彦『人はなぜ戦うのか』)。
 歩兵と騎兵との戦力差は格段のものがあり(一説には騎兵一人につき歩兵数十人分の戦力であるという)、これまで乗用の馬を飼育していなかった倭国では、これ以降、中期古墳の副葬品に象徴されるように、馬と騎馬用の挂甲(けいこう=鉄や革でできた小札を縦横に紐で綴じ合わせた大陸の騎馬民族由来の軽い甲)を積極的に導入していった。

「倭が優位にあったとは言い難い」
 4世紀の韓日関係史−広開土王陵碑文の倭軍問題を中心に−でも、軍事的格差について、次のように説明しています。中国文明と接していて実戦経験豊富な高句麗は「すでに重装騎兵に代表される先進的な騎馬武装が組織的に運営されていた段階であった」ということです。一方、伽耶も「一部上層部を中心に断面稜形鉄鉾と縦長板釘結板甲を主とする先進武装体系を整え、重装騎兵戦術を活用して」おり、「戦争に直接的に影響を及ぼす馬具、甲冑、武器の格差が大きい状態にあったので、倭が加耶に対して政治的や軍事的に優位にあったとは言い難い」と指摘しています。
 4世紀末まで高句麗と加耶および倭の馬具、甲冑、武器の文化様相をこのように比較してみる時、高句麗は鮮卑族の国家である前燕との実戦を経ながら、すでに重装騎兵に代表される先進的な騎馬武装が組織的に運営されていた段階であった。加耶もすでに4世紀に一部上層部を中心に断面稜形鉄鉾と縦長板釘結板甲を主とする先進武装体系を整え、重装騎兵戦術を活用していたが、これを利用して社会全般にわたって組織的な戦備体系を構築したり、または効率的に運営したりする段階には及んでいなかった。
 一方、倭は内部的には2世紀後半に長期間にわたる大乱を経験したことがあったといっても、社会的雰囲気がまだ平和的であり呪術的だった。4世紀の倭は地域勢力相互間の秩序を尊重する状態であり、全般的な武装体系も重装騎兵戦術をまったく理解できない水準に止まっていた。
 したがって、4世紀に韓半島南部は百済、加耶、新羅に分裂しており、日本列島は交易の必要性のために畿内地域を中心に一元的権威が作り上げられていたと言っても、その権威自体が儀礼中心の限界性を有し、戦争に直接的に影響を及ぼす馬具、甲冑、武器の格差が大きい状態にあったので、倭が加耶に対して政治的や軍事的に優位にあったとは言い難い。
 そのうえ加耶では早ければ紀元前1世紀、遅くとも紀元後2世紀からは鉄を量産しており、日本列島では5世紀後半まで鉄をほとんど生産できなかった。これは加耶が製鉄技術を日本列島に伝えず、一方では日本の畿内政権が加耶を制圧できずにいた証拠でもある。

帯方地域をめぐる争い
 帯方郡は、3世紀の初め頃(205年ごろ)、後漢の遼東太守であった公孫氏が、朝鮮の楽浪郡の南半分を割いて置いた郡で、その範囲は現在の北朝鮮に含まれる黄海北道・南道から軍事境界線の南、ソウル付近まで及んでいたと考えられています(世界史の窓/帯方郡)。魏が一時この地域を支配しており、この地名は魏志倭人伝にも登場します。高句麗が、313年に楽浪郡を、314年に帯方郡を滅ぼしたため、百済と国境を接することとなります。

 4世紀の韓日関係史−広開土王陵碑文の倭軍問題を中心に−は、次のように述べて、高句麗と百済の戦いは、単純な領域争いにとどまらず、旧帯方地域という古代国家の運営に必要な高級文化に関する所有権の争いでもあったと指摘しています。 
 高句麗と百済の間の争奪戦は単純な領域争いにとどまらず、古代国家の運営に必要な高級文化に関する所有権の争いでもあった。昔の楽浪郡・帯方郡地域は起源の上では古朝鮮の遺民が住んでいたとはいえ、後漢初期以後、漢化が急速に進行して当代の中原文化をたちまちに受容してきた貴族層が広範囲に存在していた。そこで高句麗はこの地域を無理に直接統治するよりも、4世紀中葉から5世紀初にかけて平東将軍・楽浪相冬寿、帯方太守張撫夷、幽州刺史鎭などの中国亡命客を代表者に立てて、これらの幕府組織を通じて間接統治した。百済が奪おうとしたのも、高句麗がこれを防ごうとしたのも、まさしく彼らの先進文化と技術人力であった。4世紀後半に韓半島をめぐる国際的交渉および戦争の裏には、高句麗−百済間の旧帯方地域の領域と文化人力に対する所有権争いが基調をなしていたのである。

閉店間際の大盤振る舞い?
 中国の南北朝時代の南朝の最初の王朝である宋(420〜479)には、倭の五王が遣使し冊封されています(世界史の窓/宋(南朝))。

 五王に対する叙正(叙授、叙爵)の内容は次のようなものです(50〜51ページ)。「安東将軍、倭国王」の地位は初回のご祝儀として全員に認められています。「使持節都督、倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事」の地位は、済と武のみに認められています。さらに武は、「安東大将軍」の地位も認められています。
413 東晋に朝貢する
421 安東将軍、倭国王?を叙授される
425 朝貢する
430 朝貢する
438 使持節都督、倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王の叙正を求めるも、安東将軍、倭国王のみ叙授される
倭隋十三人に平西・征虜・冠軍・輔国将軍号の叙正を求め、並びに聴される
443 安東将軍、倭国王に叙正される
451 使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加えられる(安東将軍は元の如し)
二十三人に軍郡を叙授される四六○朝貢する
460 朝貢する
462 安東将軍、倭国王に叙爵される
477 朝貢する
478 開府儀同三司、使持節都督、倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王を自称する
使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍、倭王 に叙正される
 済と武に対する叙正について、著者は次のように推測しています(52〜53ページ)。「百済王の方が、宋の官品では倭国王よりも上位にあった」ということですから、宋は倭より百済を重視していたことがうかがえます。武が最初の叙正で、いきなり「六国諸軍事」「安東大将軍」の地位が認められたのは、宋王朝自体の衰微によるものということですが、宋は翌年の479年に滅んでいますから、閉店間際の大盤振る舞いだったということでしょうか。

 ただし、済も珍と同様の倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事を求めたものと思われるが、宋が忠実な朝貢国である百済における倭国の軍事指揮権を認めるはずはなかった。それに百済王の方が、宋の官品では倭国王よりも上位にあったのである。百済を外した代わりに宋は、加羅を加えて、同じ六国の諸軍事を認めるという策を使っている。新羅が含まれているのは、この時期には新羅は宋には遣使をおこなっておらず、宋から見ると倭国の軍事指揮権を認めてもかまわない存在であったからである。
 ……
 武は四七八年に入貢し、自ら開府儀同三司を仮授(かじゅ=自ら仮に授けること)したうえで、使持節都督、倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王の叙正を求めた。これに対する順帝の冊封は、使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王であった。これまでの讃・珍・済・興が最初に叙正されたのが安東将軍・倭国王であったのにくらべると、高い地位に引き上げられたことになる(開府儀同三司・百済諸軍事がのぞかれたのは当然であろう)。ただしこれは、百済、および宋王朝自体の衰微によるものである。


倭国王の系譜は断絶か
 倭の五王と同時代の天皇は次のとおりです。日本書紀は編年体で編集されているので、在位期間と没年は西暦に換算することができます。没年の干支も西暦から算出することができます。一方、古事記は物語風に編集されていて、没年の干支しか記載されていません。したがって、西暦に換算する場合、60年単位のずれが生じます。つまり、古事記の没年の西暦年は、複数の候補のひとつに過ぎません。なお、古事記では、安康の没年の干支は記載されていません。
日本書紀 古事記
応神 270〜310 庚午 310 甲午 394
仁徳 313〜399 己亥 399 丁卯 427
履中 400〜405 乙巳 405 壬申 432
反正 406〜410 庚成 410 丁丑 437
允恭 412〜453 癸巳 453 甲午 454
安康 454〜456 丙申 456
雄略 457〜479 己未 479 己巳 489
 日本書紀に示された在位期間から、倭の五王に該当する天皇を推測すると次のようになります。允恭と雄略が複数の倭王名で朝貢したことになってしまいます。
允恭 讃・珍・済
雄略 済・興・武
 一方、古事記に記載された没年を手掛かりに、倭の五王に該当する天皇を推測すると次のようになります。仁徳と履中は、讃を名乗り、允恭と安康と雄略は複数の倭王名を名乗ったことになります。
仁徳
履中
允恭 珍・済
安康・雄略 済・興・武
 宋書によれば、讃と珍は兄弟、済と興・武は親子、興と武は兄弟とされていますが、珍と済の血縁関係は記されていません。系図で示すと次のようになります(山川&二宮ICTライブラリ)。
 この点について、著者は次のように述べています(49ページ)。

 三人目の済は珍とのあいだの血縁関係の記載が『宋書』夷蛮伝倭国条にはなく、ここで倭国王の系譜が断絶している可能性も、古くから指摘されている。ただし済も「倭」姓を称しており、実際の血縁関係はさておき、王権の交替はおこなわれていないことを、宋に対しては主張したことがうかがえる(森公章『倭の五王』)。じつはこの時期には、王権継承に血縁原理が導入されておらず、大王を生み出し得る特殊で神聖とされる血縁集団(大王家)が形成されてはいなかったのである(大平聡「世襲王権の成立」)。

 王権継承に血縁原理が導入されていなかったとすれば、日本書紀の示す天皇家の系図そのものが怪しくなってきます。

衰退する百済、発展する新羅
 百済と新羅は、4世紀に周辺勢力を統合して国家を形成します。百済が順調に発展し、高句麗と覇権を争うようになりますが、新羅は発展が遅れ、高句麗に従属する状態でした。
 5世紀には、百済は高句麗に漢城を奪われ、拠点を南方の熊津(ゆうしん)に移します。一方、新羅は高句麗から自立し、百済と連携し高句麗に対抗するようになります。
 6世紀に入ると、百済は、伽耶諸国へ勢力拡大し、王都を泗沘(しび=現在の扶余)に移します。新羅は、伽耶の盟主であった金官伽耶を滅ぼし、盟主の地位を引き継いだ大伽耶を滅ぼします。この結果、伽耶地域は、百済と新羅に併合され消滅します。新羅は、漢城を占領し西海岸に進出します。これにより、中国王朝と直接接触できることとなりました。
 7世紀になると、百済は高句麗と連携し新羅へ侵攻を始め、新羅は唐に依存し、高句麗と百済に対抗するようになります。唐は、和睦を命じたものの、百済は侵攻を続けたため、660年、新羅とともに百済を攻め王都を占領し、王族らを長安に連行します。
百済 新羅
5世紀 高句麗と抗争
475、王城の漢城陥落→熊津
高句麗から独立
百済と連携
6世紀 501、武寧王即位、反撃
伽耶諸国へ勢力拡大
538、熊津→泗沘に遷都
532、金官伽耶を滅ぼす
552、漢城を占領
562、大伽耶を滅ぼす
7世紀 高句麗と連携し新羅へ侵攻
660、唐・新羅の攻撃により滅亡
唐に依存し、高句麗と百済に対抗
 4世紀の朝鮮半島の勢力図は次のようになっています( 4世紀の朝鮮半島(『高校日本史』25頁、カラー))。百済は高句麗と対立し、新羅は金官伽耶と対立しています。

 6世紀の朝鮮半島の勢力図は次のようになっています( 6世紀の朝鮮半島(『詳説日本史』34頁、カラー))。百済は高句麗に圧迫され、都を漢城から、熊津(ゆうしん)、泗沘(しび=現在の扶余)へと後退させ、伽耶諸国へ勢力拡大を図っています。新羅は金官伽耶、大伽耶を滅ぼし、伽耶地域に勢力を拡大するとともに、 漢城を占領し、西岸まで領域を拡げています。

 6世紀末の3国の領域は次のようになっています( 朝鮮三国時代)。100年間で新羅は急拡大しています。
 

百済遺臣らが蜂起
 本書を参考に、百済滅亡後の動きをまとめると次のようになります。黄色は百済遺臣の動きで、朱色は倭国の動きです。
660/7 唐が新羅と同盟し、百済を滅し、王族を長安に連行。ただし、旧来の地方統治体制はそのままだったので、王族の鬼室福信や僧の道琛ら百済遺臣が決起し、泗沘城奪回を図る
661/1 斉明天皇はじめ倭王権の中枢部が、百済復興支援の派兵を決め、難波を出航
2 唐の増援部隊が到着、決起軍は泗沘城の包囲を解く
7 斉明が九州の朝倉で死去(67歳)
9 第1次百済救援軍5000人が、百済王族の余豊璋を送り届け帰国、部隊の一部は残留か
662/5 豊璋が即位
663/3 第2次百済救援軍2万7000人が渡海、新羅を攻撃する
6 豊璋が福信の謀反を疑い殺害する
8 第3次百済救援軍1万余人を派兵
27・28日、救援軍が白村江で大敗、豊璋は高句麗へ逃走
 百済が滅亡したといっても、王都が陥落し王族らが長安に連行されただけで、地方組織はそのまま残されていたので、王族の鬼室福信や僧の道琛ら百済遺臣が蜂起し、泗沘城を包囲します。その後、包囲は解かれますが、百済遺臣らの抵抗は3年間続きます。
 百済の滅亡とその後の遺臣らの蜂起の知らせを受けて、斉明天皇はじめ倭王権の中枢部は、百済復興支援の派兵を決め、661年1月に難波を出航します。斉明天皇は、661年7月に九州の朝倉で死去し、以降は中大兄が、即位しないまま称制を行い、指揮を執ります。
 9月に、第1次百済救援軍5000人が派遣され、余豊璋と救援物資を送り届けます。余豊璋は百済の王族で20年ほど前に来日していたが、百済が滅亡したため、遺臣らから新たな王として迎えたいという要請があったということです。救援軍は、戦闘に参加せず引き揚げますが、一部は現地に留まったようです。本書によると、秦田来津(はだのたくつ)は戦略決定にかかわり続け、白村江で戦死しています。なお、ネット情報では、田来津は、朴市秦造田来津(えちはたのみやつこたくつ)というそうです。

倭国軍と豊璋との間に不協和音
 662年5月に豊璋は百済王の位に即きます。しかし、12月には、次のように(131ページ)、倭国軍と豊璋や福信との間に意見の対立が生じます。この記述からは、蜂起勢力が守勢に回っていることがうかがえます。なお、最終的には蜂起勢力は周留城に立てこもり最後の攻防が行われます。

 ところが十二月、倭国軍と豊璋や福信とのあいだで、意見の齟齬(そご)が表面化する。豊璋や福信は、州柔(䟽留城・周留城)は防戦のための場所で、田畠に遠く、土地も痩(や)せていて農耕や養蚕に適していないから、長くいると民が食物にも事欠くということで、平地で豊かな避城(へさし、現韓国全羅北道金堤市)に移ることを、狭井檳榔と秦田来津に提案した。それに対し、田来津が反論した(『日本書紀』)。

「避城(へさし)と敵のいる場所とは、一晩で行けるほどの近さだ。もし攻撃をうけたら、後悔してももう遅い。人が飢えることより、国が滅びるかどうかということのほうが大切ではないか。いま敵がむやみに攻めて来ないのは、州柔が険しい山々を防壁とし、山高く谷せまくて、守るに易く攻めるに難いところにあるからだ。これが平地であったら、今まで守りを固めて動かずにいることがどうしてできただろう」

 豊璋がこの諫(いさ)めを聞き入れず、避城に都を遷したとあるのは(『日本書紀』)、倭国軍の意見を聞かない愚かで専制的な百済指導者という文脈で、やがて来る敗戦の責任を彼らに押しつけるという『日本書紀』の主張なのであろうが、多数に膨らんだ兵や民の生活を思う豊璋と、あくまで外国部隊である倭国軍との基本的な立場の相違と見ることもできよう。


豊璋が福信を殺害
 663年3月、第2次百済救援軍2万7000人が新羅を攻撃するため渡海し、6月、新羅の2城を攻めとります。しかし、このころ蜂起勢力で内紛があり、豊璋が福信を殺害するという事件が起こります。本書ではその経緯を次のように説明しています(136〜137ページ)。

 その頃、百済ではまたもや内紛が生起していた。六月、豊璋王は福信が謀反(むへん)の心を抱いているのではないかと疑い、掌(てのひら)に穴を開け、革ひもで縛りあげた。豊璋は自分では処断できず、諸臣に福信を斬るべきかどうかを問うた。徳執得(とくしゅうとく)という者が、「この悪逆人を放っておいてはなりません」と言うと、福信は執得に唾をはきかけ、「この腐れ狗(いぬ)め」と罵った。豊璋は福信を斬らせて、首を臨(塩漬け)にした(『日本書紀』)。
 この福信の「謀反」は、『旧唐書』や『三国史記』では、つぎのように語られている。福信が権勢をほしいままにし、豊璋と互いに疑い合って忌み嫌うようになった。福信は病気だと称して洞穴(どうけつ)に寝ていて、豊璋が見舞いに来れば捕えて殺そうとした。豊璋はこれを見抜き、福信を不意に襲って殺した(『旧唐書』百済伝、『三国史記』百済本紀)。
 長年にわたって倭国に滞在し、故国の事情に疎(うと)い文人タイプの豊璋と、優れた軍事指揮官として百済復興運動をまとめあげた実戦タイプの福信とでは、本質的に相容れないところがあり、戦況が悪化するにつれて、両者のあいだに大きな亀裂が生じたということなのであろう(森公章『「白村江」以後』)。
『日本書紀』では、百済王が自らの良将(りょうしょう)を斬ったことを、新羅が八月に知り、すかさず百済に入ってまず州柔城を陥(おと)そうとはかったという記事がつづく。自ら墓穴を掘った百済の愚かな王という文脈で、ここでも白村江敗戦の責任を百済王に転嫁(てんか)しているのである。
 ……
 いずれにせよ、福信にとっては豊璋は百済復興の象徴となるべき「冠」であるはずであったし、豊璋にとっては福信はもっとも頼みになる軍事指揮者のはずであった。この内紛によって、百済復興軍はその分裂が露(あら)わになってしまったのである。その軍事的な影響にも増して、精神的な打撃は、はかりしれないものがあったと言わざるを得ない。
 そこに「救援」にやって来たのが、統制も作戦もない、単なる豪族軍を寄せ集めただけの倭国の「大軍」だったのである。

 日本書紀では、猜疑心にさいなまれた豊璋が残虐な仕打ちを行ったように描かれているのに対し、旧唐書や三国史記では、権勢をほしいままにした福信の計略を見抜いた豊璋が機先を制したように描かれています。いずれにしても、当時の蜂起勢力は末期的症状だったようです。
 
白村江は広大な干潟?
 白村江の戦いの関連地図は次のとおりです(118ページ)。
 1913年に出された津田左右吉以来の通説(津田左右吉「百済戦役地理考」)では、白村江は錦江の河口とされてきました。そして、州柔城(䟽留城・周留城)は、乾芝山城(青線)と考えられてきました。
 しかし、近年の発掘で、乾芝山城が高麗時代以降の山城であることが明らかになったということです。そして、現地の山城を50年以上にわたって踏査した全榮來氏によると、位金岩山城(赤線)こそ周留城に相応しいということです(全榮來『百済滅亡と古代日本- 白村江から大野城へ-』)。著者が実際登ってみた結果、位金岩山城の方が、「険しい山々を防壁とし、山高く谷せまくて、守るに易く攻めるに難い」と実感したということです(132〜134ページ)。位金岩山城こそ周留城に相応しいということになると、白村江は東津江河口と考えるのが妥当となりますが、著者が現地を踏査した印象では、大軍を配置できるような大河ではないということです。そこで、著者は、白村江は錦江河口から東津江河口までの広大な干潟を指していたと推測しています(140〜141ページ)。


2万7000人は、どこへ行ったのか
 百済遺臣の蜂起当初は、唐の占領軍は泗沘城に孤立していましたが、新羅からの援軍もあって、次第に勢力を盛り返して行きます。663年5月に唐の増援軍7000人が到着します。8月には、唐と新羅の陸軍が周留城を包囲し、唐の海軍が白村江を封鎖し、倭国の第3次百済救援軍1万余人に備えます。第2次百済救援軍2万7000人は、6月に沙鼻城岐奴江城
(緑線)を攻略していますが、その後の動静は日本書紀には記されていないそうです(143〜144ページ)。

豊璋は部下を見捨てたのか
 白村江の戦い前後の経緯は次のとおりです。
8月 倭国が、駿河の豪族・廬原臣(いおはらのおみ)を将軍とする1万余人の第3次救援軍を派兵
8月13日 豊璋は「白村まで行き、そこで救援軍を迎える」と将軍たちに告げる
8月17日 唐と新羅の陸軍が周留城を包囲、水軍は軍船170艘で白村江に布陣する
8月27日 倭国の水軍の先着部隊が到着し唐の水軍と衝突するが敗北する
8月28日 倭国の水軍の後続部隊が次々に到着し決戦を挑むが大敗する
9月7日 周留城が陥落
10月21日 遅受信が任存城に籠って新羅軍の攻撃に耐える。その後、やがて陥落し、百済遺臣の抵抗は終了する
 663年8月、駿河の豪族・廬原臣(いおはらのおみ)を将軍とする1万余人の第3次救援軍が派兵されます。
 8月13日、豊璋は「白村まで行き、そこで救援軍を迎える」と将軍たちに告げたということですが、本書ではその経緯を次のように説明しています(142〜143ページ)。

 八月十三日、豊璋は新羅の戦略を知り、将軍たちにこう告げた(『日本書紀』)。

「大日本国の救援軍の将軍廬原君臣が万余の勇士を率いて今にも海を越えてやって来るとのことだ。将軍たちはあらかじめ計略を立てておくがよい。自分は自身で白村まで行き、そこで救援軍を迎えることとする」

 白村江という場所が、唐の水軍の進撃路にあたっているという情報を知ってのことか、それとも周留城への倭国軍の上陸地点ということで、そこまで迎えに出ようというととなのかはわからないが、周留城に籠もっていた百済の将兵たちにとってみれば、新国王が自分たちを見捨てて倭国軍に保護を求めたように映ったことであろう。その士気の低下は想像に余りある。豊璋の軍事顧問的役割を担っていたであろう秦田来津は、おそらくは豊璋に同行して白村江に向かったものと思われる。半月後の田来津の無念の戦死は、この時の憤りに基づくものとの推測もある(遠山美都男『白村江』)。

 「新羅の戦略」とは、周留城攻撃計画のことを指しています。日本書紀によれば、豊璋は何故か新羅の計画を知っていたことになっています。豊璋の言葉からは、第3次救援軍との合流地点は白村とするとの申し合わせがあったものと推測されます。豊璋の目的は救援軍の上陸支援あるいは、道案内であったと思われます。
 周留城攻撃が迫っている時期に、周留城を出ることは自らを無防備な状態にさらすことを意味します。倭国の救援軍と合流する前に、敵に見つかれば全滅する可能性がありますから、危険な賭けといえます。
 したがって、「豊璋が部下を見捨てて倭国軍に保護を求めた」というのはちょっと違う感じもします。

遅延が勝敗の明暗を分けた
 結局、唐と新羅が機先を制する形で、8月17日に、陸軍が周留城を包囲、水軍は軍船170艘で白村江に布陣します。8月27日になって、ようやく倭国の水軍の先着部隊が到着し、唐の水軍と衝突するものの敗退します。翌8月28日には、倭国の水軍の後続部隊が次々に到着し決戦を挑むが大敗し、第3次救援作戦は失敗します。
 8月13日に豊璋が計画を告げたときから、8月27日の先着部隊の到着まで2週間経っていますから、倭国の水軍の到着は、予定より10日以上遅れたことが推測されます。一方、8月17日には、周留城包囲と、白村江布陣が行われていますから、唐と新羅が、何らかの方法により、倭国の水軍の到着を察知していたか、豊璋の発言の内容を敵側に通報していた者がいたため、布陣を急いだ可能性があります。
 倭国の水軍が8月17日以前に到着していれば、周留城の救援に間に合ったことになります。倭国水軍到着の遅延が、勝敗の明暗を分けたといえそうです。

唐の戦艦は高い戦闘能力
 唐と倭国の水軍の戦力格差について、本書では次のように述べています(144〜145ページ)。
 「八月十七日、唐・新羅連合軍の陸上軍は周留城(州柔城)に到り、これを包囲した。一方、水軍は軍船百七十艘を率いて白村江に戦列を構えた(『日本書紀』)。
 倭国の水軍の先頭がようやく白村江に到着したのは、それから十日を経た八月二十七日のことであった。この水軍は、『旧唐書』劉仁軌伝によると「舟四百艘」、『三国史記』新羅本紀・文武王十一年(六七一)に引かれた新羅の文武王が唐の総管に送った答書によると「倭船千隻」とある。
 数は唐の船よりも多いのであるが、その大きさや装備は、とても比較できるものではなかったことであろう。『武経総要』に描かれた唐の戦艦(蒙衝⦅もうしょう⦆・楼舡⦅ろうこう⦆・海鶻⦅かいこつ⦆など)は、鉄甲(てっこう)で装備された巨大な要塞(ようさい)であるのに対し、倭国の「舟」は文字どおり小型の準構造船(竜骨⦅りゅうこつ⦆を持たず、刳船⦅くぐりぶね⦆の両舷⦅げん⦆に舷側板⦅げんそくばん⦆を組み合わせたもの)だったものと思われる。
 文献によると、蒙衝の構造は次のようになっています(蒙衝(中國古代具有良好防護的進攻性快艇)_百度百科)。

 復元模型は次のようになっています。

 準構造船は次のような構造です(準構造船)。

 復元想像図は次のようになっています。

 復元された遣唐使船は次のようになっています(復原遣唐使船】奈良では珍しい「船」の展示からかつての「大航海」に思いをはせる  |  奈良まちあるき風景紀行)。ただし、これは全くの想像に過ぎません。

 倭国の船が準構造船だったとするなら、それに比べ、唐の戦艦はかなり巨大だったことになります。ただし、速度や俊敏性においては、準構造船の方が有利ではなかったかと思われます。また、唐の水軍において、戦艦がどの程度の比率を占めていたのかも明らかとはなっていないようです。
 さらに、具体的な戦闘がどのように行われたのかについても、本書に記述はありません。日本書紀や旧唐書にも、具体的な記述はないようです。陸上戦の戦闘方法や壇ノ浦の戦いの模様から類推すると、ある程度接近すれば、矢を放ちあい、船がぶつかるまで接近すれば、互いの船に乗り移って白兵戦となるものと思われます。火の付いた矢を打ち込んだり、焙烙玉を投げ込んだりするのも有効ですが、この当時は火薬はありません。
 唐の戦艦は高い位置から矢を射ることができますし、相手の矢も容易に防ぐことができます。つまり、唐の戦艦は、高い戦闘能力がありますから、倭国船としては、戦いを避け、矢の届かないだけの距離を保つのが最善の防御策といえます。

白江は水路の防御の要
 では、白村江では、倭国は不利を承知でなぜ戦いを挑む必要があったのでしょうか。それは、周留城救援のためには、白江(白村江)を通過する必要があったからではないでしょうか。
 本書では660年の百済滅亡の経緯について次のように説明しています(112〜113ページ)。
 加えてその作戦も、大いに誤ったものであった。すでに六五六年に義慈王の淫荒を諫言(かんげん)して獄に投じられた成忠は、死の直前に書を進上して、いずれ戦争が起こることを予言し、陸路では沈峴(ちんけん、現韓国大田広域市儒城区炭峴)を越えさせず、水路では伎伐浦(ぎばつほ、現韓国忠清南道舒川郡長項)の沿岸に入らせないようにすべしと指摘したが、義慈王がこれを顧みることはなかった。
 また、これも配流(はいる)されていた興首(こうしゅ)に作戦を問うと、やはり唐兵を白江(はくこう、または伎伐浦)に入れぬよう、新羅人を炭峴(たんけん、または沈峴)を越えないようにせよと報答(ほうとう)した。しかし義慈王の取り巻きが、興首は長い配流生活で君主を怨(うらみ)み、国を愛していないだろうからその言葉を信用すべきではないとして、唐兵を白江に入らせ、新羅軍に炭峴に登らせたうえで撃てばよいという作戦を採用した(『三国史記』百済本紀)。
 そうこうしているうちに、唐軍は白江、新羅軍は炭峴を、それぞれ通過してしまった。百済は階伯(かいはく)の率いる五千人の決死隊で七月九日に黄山(こうざん、現韓国忠清南道論山市連山面)で迎撃(げいげき)して激戦となったものの、衆寡(しゅうか)敵せず、ついに新羅に降(くだ)った(『三国史記』百済本紀・新羅本紀)。
 残った百済軍は熊津江(ゆうしんこう、錦江=きんこう)の入口を塞(ふさ)いで戦ったが、これも同じ七月九日に大敗した。
 滅亡当時の百済の王都は、錦江流域の泗沘(しび=現在の扶余)にありました。そして、水路の防御の要は、白江または伎伐浦だったということですから、白江は錦江の河口部を指しているものと思われます。

熊津江は、錦江の上流部か
 伎伐浦では、676年に新羅と唐の海戦が行われ、唐水軍が敗れています(『むくげ通信』270むくげの会2015.5)。
 伎伐浦には、現在、長項スカイウォークという展望台が作られ観光名所となっています(長項スカイウォーク(伎伐浦海戦展望台))。

 660年の百済滅亡の関係図は次のようになっています( 『むくげ通信』270 むくげの会 2015.5)。7月9日の白村江の戦いとあるのは、 百済軍が熊津江の入口を塞いで戦ったことを指していると思われますが、唐軍は白江を通過してしまっているので、白村江の戦いと呼ぶのには少し違和感を覚えます。また、熊津江というのは、錦江の上流部を指しているではないかという感じもします。


熊津江から白江に往き、陸軍と合流
 日本書紀によると、663年6月の蜂起軍の内紛を知った新羅が8月に入って州柔城攻略を図ったということですが、旧唐書によれば、唐と新羅の連合軍による軍事作戦も作成されたということです。本書では、その経緯を次のように説明しています(137〜138ページ)。
 この頃、百済攻撃に関する唐軍の軍議が開かれていた。水陸の要衝である加林城(現韓国忠清南道扶余郡林川面の聖興山城。錦江を挟んだ泗批城の対面)をまず攻撃すべきであるという意見に対し、劉仁軌はつぎのように主張して、周留城(州柔城)の攻略を進言した。

「加林城は険しく堅固で、急に攻めれば戦士が傷損する。加林城は固く守れば持久戦となってしまう。周留城は賊(百済・倭国)の巣穴で、群兇が集まっている。悪の本拠地をのぞき、その源を抜けば、諸城は自ずから降るであろう」

 これによって、孫仁師・劉仁願と新羅の文武王は陸上から進撃し、劉仁軌および別将の杜爽と扶余隆が水軍と兵糧船を率いて、熊津江(錦江)から白江(白村江)に往き、陸軍と合流して周留城を攻撃するという作戦が採択された(『旧唐書』劉仁軌伝)。
 なお、扶余隆というのは義慈王の王子で、唐から熊津都督に任じられ、さらに帯方郡公に封じられた人物である。唐の傘下に入って故国に攻め込んできたことになる。
 前述のように、白江は錦江の河口部を指しているとするならば、熊津江は錦江の上流部を指していることになります。同じ川で上流と下流で呼び方が異なることは有り得ないことではないように思われます。
 そして、通説にしたがって、周留城が乾芝山城だとするならば、水軍が熊津江から白江に往き、陸軍と合流して周留城を攻撃するというルートが無理なく説明できます。そして、倭国の水軍は白江を通らなければ、周留城救援に向かえないのですから、不利を承知で戦いを挑まなければならないことになります。
 また、8月17日に、唐の水軍が白江に到着したにもかかわらず、すぐに周留城攻撃に向かわず、27日まで留まり続けたことも納得できます。何らかの手段により、第3次救援軍の派兵を知ったため、当初の計画を変更して、白江で倭国の水軍を迎え撃つことにしたと推測できるからです。
  一方、周留城は東津江流域の位金岩山城であったとすると、説明が難しくなります。唐の水軍が白江で待ち構えていても、倭国の水軍はそれを無視して、東津江を遡って周留城救援に向かえば良いからです。
 したがって、周留城は位金岩山城であったとして、無理なく説明しようとすると、白江は東津江河口だったとせざるを得なくなります。三国史記によれば、白江は錦江河口を指すが、旧唐書では白江は東津江河口を指すと考えるのです。あるいは、本書のように、白江は錦江河口から東津江河口までの広大な干潟を指すと考える方法もあります。しかし、いずれも、少し苦しい説明と言えるでしょう。

やみくもに突撃をくりかえした?
 本書では、白村江の戦いの様子を次のように描いています(146〜149ページ)。
 二十七日から二十八日にかけて、倭国の水軍が続々と白村江に到着したものと思われ る。普通であれば、前日に敗戦していた場合、その原因を分析して、次の決戦の作戦を練るものであろうが、倭国軍にはそういった形跡が見られない。
 これは日本の歴史を通じて見られる特徴なのであるが、要するに対外戦争をほとんどおこなった経験がなく、内戦も大した規模でおこなわなかったために、いざ戦争となっても、ろくな戦略も戦法も考えずに、やみくもに突撃をくりかえす、そのうちに英雄的な人物が現われて戦闘に一気に決着をつける、といった物語のくりかえしなのである。 小規模な内戦をおこなっていたあいだは、これでも何とかなったのであるが、これが世界帝国相手の対外戦争となると、そううまくいくはずはない。
 二十八日、倭国軍は唐の水軍と決戦をおこなった。

日本の将軍たちと百済の王とは、戦況(「気象」)をよく観察せずに、「我が方が先を争って攻めかかれば、相手はおのずと退却するであろう」と協議し、日本の中軍の兵卒を率い、船隊をよく整えぬまま、進んで陣を固めた大唐の軍に攻めかかった。すると大唐は左右から船を出してこれを挟撃し、包囲攻撃した。みるみる官軍は敗れ、多くの者が水に落ちて溺死し、舟の舳をめぐらすこともできなかった。秦田来津は、天を仰いで祈り、歯をくいしばって数十人を殺したが、ついに戦死した。この時、百済の 王豊璋は、数人と船に乗り、高麗(高句麗)へ逃げ去った。

 これが『日本書紀』の語る白村江の戦である。田来津は大化元年(六四五)の古人大兄王子の謀反に荷担したものの赦され、将軍にまで昇進したものの、ここに無念の最期を遂 げることとなった。この時も豊璋は全軍を棄てて逃走している。
 一方、『旧唐書』劉仁軌伝(『新唐書』劉仁軌伝、『資治通鑑』、『三国史記』百済本記もほぼ同文) は、つぎのように記す。

仁軌は白江の入口で倭軍と出会い、四度戦ってみな勝ち、彼らの舟四百装艘を焼いた。その煙と焔は天にみなぎり、海の水もみな赤くなった。賊の軍兵は大潰した。余豊は身を抜け出して逃げて行った。

 先に挙げた『三国史記』新羅本紀・文武王十一年に引かれた新羅の文武王の答書は、この戦闘を、

倭船千隻は白沙に停泊し、百済の精騎は岸の上からその船艦を守っていた。新羅の騎(疾い騎兵)は唐の先鋒となってまず百済の岸にあった敵陣を破ると、周留城は失望してついに降伏した。

と記している。これによると、水軍はもっぱら倭国のものだったことになる。
 前日の失敗を反省することなく、船隊を整えないまま、戦列を構えた唐軍に向かって我先にと突撃し、唐軍に左右から挟撃されて包囲されることとなった。倭国の舟は方向転換することもできなかった。「四度戦った」というのは、倭国軍が四回の突撃をおこなったことを指し、この二十八日においてもなお、眼前の失敗に作戦を変更することなく、無益な突撃をくりかえしたことになる。
 しかも唐軍は倭国の舟を火攻めにした。水に落ちて溺死する者が多かったというのは、火を避けて重い甲冑を着けたまま海に飛び込んだ結果であろう。唐の船艦が船同士で衝突して相手の舟を壊す撞破作戦をおとなって倭国の舟を撃破したという推定もある(盧泰敦『古代朝鮮三国統一戦争史』)。そうすると必然的に倭国兵は海に投げ出されることになり、溺死するという運命が待っている。
 いずれにしても、「賊衆大潰」という表現は、かつての好太王碑の「倭寇潰敗、斬殺無数」を思い起こさせて、何とも切なくなってしまう。
 倭国の将軍と百済の王が戦況(原文は「気象」)をよく観察せずに突撃したとあるが、この「気象」はもちろん、基本的には相手の陣形を指すものであるとはいえ、火攻めという結果から考えると、天候や風向き、潮流といった意味もあるものと思われる。また、海水の干満の差という考えもある。満潮の時に白村江に攻め込んだ倭国軍は、干潮に出くわして干潟の真ん中に釘付けにされて進退きわまり、左右から火攻めにあって海に飛び込んだというのである(全榮來『百済滅亡と古代日本』)。
 先にも述べたが、白村江の故地は広大な干潟である。干拓地に取り残されていた小舟は、あたかも進退きわまった倭国軍の舟のようであった。私は全榮來氏の著書を読んだ後に現地を踏査したものだから、ひときわ深い感慨に身を包まれた。その白村江も、やがて消滅してしまうことになる。
 しかし、本書の言うように、「ろくな戦略も戦法も考えずに、やみくもに突撃をくりかえす」というのが「日本の歴史を通じて見られる特徴」といえるかは少し疑問です。確かに、太平洋戦争末期には、いわゆるバンザイ突撃が繰り返されましたが、それらは、弾薬も食料も尽き、降伏することも禁じられた絶望的な状況の中で強いられた集団自殺とでもいうべき特殊なもので、「日本の歴史を通じて見られる特徴」を示す事例とはいえないと思います。
  前述のように、倭国の水軍は白江を通らなければ、周留城救援に向かえないという状況にあったとするなら、相手の術中にはまるのを承知で強行突破を図るか、周留城救援を断念するかの二者択一しかなかったことになります。
 さらに、前述のように、唐と倭国の水軍に圧倒的な戦力格差があったとするならば、どのような戦略や戦法を取りえたのでしょうか。結局、トップの大局的な判断ミスという外ないのであって、敗戦の責任はもっぱら現場指揮にあったとする日本書紀の記述は、問題の本質をすり替えるものといえそうです。

韓国では白村江の戦を教えていない
 韓国や中国にとっての、白村江の戦の意味について、本書では次のように述べています(152〜153ページ)。
白村江の戦の位置づけ
 これで百済復興に関わる戦闘は終わった。しかし、盧泰敦氏が指摘されているように、この戦争は、律令体制形成という日本史の展開にとっては一つの画期をつくる契機となったのであるが、白村江の戦自体は、唐にとっては特に大きな意味を持つ戦闘ではなく、新羅にとっても主たる戦場ではなかったのである(盧泰敦『古代朝鮮三国統一戦争史』)。
 私は先ごろ、この本の現地調査のために白村江や周留城、漢城や北漢山城の故地を踏査したのであるが、その際にお世話になった四人の韓国の歴史研究者がいずれも、「韓国では学校で白村江の戦を教えていない」「大学の史学科に入学した学生でも、古代史の研究をはじめるまでは白村江の戦を知らない」とおっしゃるのを聞いて、かなり驚いたものである。
 百済は現代の韓国にとっては滅んでしまった地方政権に過ぎず、その復興のための戦闘などどうでもいいとの由であった。新羅—高麗—李朝こそが朝鮮半島の正統王朝なのであり、滅んだ後の百済などを重要視することはないということなのであろう(数年前に訪れた旧加耶諸国の故地などは、もっとひどい扱いを受けていて、大加耶の故地である高霊など、泊まるホテルもなくて銭湯の二階に泊めてもらい、ろくな食堂もなかったので屋台で買った総菜を食べた)。
 中国にとっても、白村江の戦はそれほど意味のある戦争ではなかった。それは『旧唐書』の本紀には記事がなく、わずかに『新唐書』の本紀に「孫仁師が百済に赴き、白江で戦ってこれを敗った」とあるように(倭国は登場しない)、ほとんど本紀に採用されず、劉仁軌の列伝にのみ記録されていることからもわかる。唐にとっては、そもそも主要な戦争相手は高句麗だったのであり、百済は金春秋の要請によって滅ぼしたに過ぎない。白村江の戦というのは、すでに滅ぼした百済の残存勢力に荷担して出兵してきた倭国軍を苦もなく壊滅させたに過ぎないのであって、戦略的にもさほど重要な戦闘ではなかったのである。
 まず、現在の韓国では、白村江の戦いがあったことすら、一般に知られていないということです。では、歴史書ではどうかというと、劉仁軌伝や文武王の答書に簡単な記載がある程度のようです。
 結局、日本書紀の記載がもっとも詳しいということになります。日本書紀の編纂が始まったのは680年ころですから、当時は白村江の戦いが生々しい記憶として残っていたことになります。したがって、客観的な事実関係については、一応信頼してよいと思われます。しかし、中大兄(天智天皇)の敗戦責任を回避するための潤色がなされている可能性は否定できないのではないでしょうか。

国内的な要因による戦争?
 白村江の戦いの対外的目的については、本書では次のように説明しています(154ページ)。
 白村江の戦の対外的な目的に関しては、以前から言われていることであるが(石母田正『日本の古代国家』)、「東夷の小帝国」、つまり中華帝国から独立し、朝鮮諸国を下位に置き、蕃国を支配する小帝国を作りたいという願望が、古くから倭国の支配者には存在し、中大兄と鎌足もそれにのっとったのだということなのであろう。
 国内的対内的な目的については、4つの推論を設定して、かなり詳細に論じています(154〜157ページ)。その内容をまとめると次のようになります。@は目的というより動機です。ABは敗戦を利用した消極的目的、Cは敗戦を利用した積極的目的といえます。
@勝つ目算 百済遺臣の誇張された情報に乗せられた
A敗北も覚悟 戦えば国内統一の気運が高まる。負けても敵側に甚大な損害を与えたと言い繕える
B大敗も覚悟 大敗しても唐と新羅が来襲するとの危機感を煽り、権力を集中して強力な軍事国家を作ることができる
C大敗を望む 敗北により豪族の勢力を大幅に削減し中央集権国家を建設することができる
 以上のように、対外的体内的目的について述べて、本書では次のような結論を導いています(147〜148ページ)。大敗を積極的には望んでいなかったにしても、戦闘によって豪族の勢力を大幅に削減させようという意図があったと推測しているようです。
 以上、さまざまな可能性を考えてみた。これらのうち、どれがもっとも中大兄の思惑に近かったのか、それとも、中大兄自身がいくつかの可能性をシミュレートしていたのか、今となっては知る由もないが、いずれにせよ、白村江の戦は、必ずしも無謀な戦争だったのではないし、勝敗をまったく度外視していたわけでもないことは、明らかであると思う。
 なおかつ、負けてもかまわない、戦争を起こすこと自体が目的だった、という側面を強調したい。しかもそれは、対外的な目的よりも、国内的な要因によって起こしたというととを指摘しておきたい。
 ところで、@については、第1次救援軍派遣の段階では「百済遺臣の誇張された情報に乗せられた」ということもあったかもしれませんが、秦田来津ら救援軍の一部は現地に留まり、余豊璋と2年近く行動を共にしたのだから、現地の状況は十分に把握できたはずです。
 また、Cについては、敗戦後、次々と山城を造り、都も近江に移転する狼狽振りからは、とてもそのような深謀があったとは思えません。
 結局、「朝鮮諸国を下位に置き、蕃国を支配する小帝国を作りたいという願望」から、十分な情報収集や慎重な計画もなく、安易に海外派兵に踏み込み、痛い目にあって、羹に懲りて膾を吹くということになったのではないでしょうか。

朝鮮半島の情勢は急変
 本書の記述(166〜181ページ)を参考に、白村江の戦いの後の倭国と朝鮮半島の状況をまとめると次のようになります。紫色は唐・新羅と倭国の関係、青色は倭国内の状況、茶色は朝鮮半島の状況を示しています。朝鮮半島の情勢はめまぐるしく動き、高句麗を滅ぼした後、同盟関係にあった唐と新羅の間に戦争が勃発します。
664 5月、百済鎮将の劉仁願が郭務悰を筑紫に遣わす
筑紫に水城
665 8月、大宰府を包囲する羅城による防衛体制を構築
9月、唐本国から劉徳高ら254人が遣わされる
666 高句麗征討再開
667 3月、都を近江大津宮に遷す
11月、劉仁願の使者が筑紫に到る
11月、高安城、屋島城、金田城を築く
668 1月、天智が正式に即位
9月、高句麗が滅亡
9月、12年ぶりに新羅の使者
669 9月、新羅が調を進上
第6次遣唐使
10月、鎌足死去
670 庚午年籍を造り、地方支配の徹底をめざす
4月、高句麗遺臣が唐に叛乱を起こす
7月、新羅が旧百済領に侵攻
8月、新羅が小高句麗国を建てる
671 1月、百済鎮将の劉仁願が李守真を遣わす
6月、天智が回答
9月(あるいは8月)、天智が病に倒れる
10月、大海人が出家
11月、唐使の郭務悰が倭国人捕虜1400人を返還?、近江朝廷は武器と軍事物資を供与
672 6月、大海人と鸕野皇女(後の持統)が吉野脱出
7月、瀬田川の決戦で近江朝軍が敗北(壬申の乱)
676 新羅が唐軍を撃退し、半島の大同江以南を統一

唐は倭国侵攻を準備?
 唐の軍事行動の目標は、当初から高句麗攻略にあったのですから、その前に倭国に侵攻して戦力を消耗する余裕はなかったと考えるのが自然と思われます。この点について、本書は次のように述べています(166〜167ページ)。
 注意しなければならないのは、この時期の国際関係を、単なる白村江の戦後の敗戦処理と捉えてしまうという傾向である。歴史学研究においてもっとも警戒しなければならないのは、後年の結果を自明なものとして考え、その結果の枠組みのなかで当時の人間が思考・行動していたと誤解してしまうことである。
 結果的に唐や新羅が倭国に侵攻してこなかったからといって、当時の人間も唐・新羅には倭国に攻め込む余裕がなかったと認識していたと考えるととはできない。六六三年八月二十八日以降の日々は、彼らにとっては「戦後」だったのではなく、いつ果てるとも知れない「戦中」だったのである。特に、近代以降の戦争とは異なり、古代においては、戦争の開始と終結が明確ではない。
 あのままの情勢がつづいたら、唐は無礼な蕃国を攻めるために、倭国に出兵してくる可能性が高かったのであるし、実際、船舶を修理して倭国侵攻の準備をおこなっていたという史料も存在する(『三国史記』新羅本紀)。要するに、天智朝から天武朝前半にかけての時期は、決して戦後などではなくて、戦中、しかもいつ終わるかもわからない戦中であって、異様な緊張が高まっていたものと考えるべきであろう。
 次々と山城を造り、都も近江に移転する狼狽振りからは、天智政権が、「唐・新羅には倭国に攻め込む余裕がない」とは認識していなかったことは明らかです。問題は、客観的に見て、唐が倭国に出兵してくる可能性があったといえるかどうかです。

唐は和親を求めていた?
 664年と665年の唐の使節派遣について次のような見方があります( 「白村江の戦」後の天智朝外交)。唐が和親を求めてきたということについては研究者の間に異論はないようですが、倭国も和親に積極的であったかどうかについては意見が分かれていて、積極的であったとする説と消極的であったとする説があるそうです。
 研究史上、最も見解が分かれているのが唐との外交関係である。唐が天智三・四年(六六四・五)の連年にわたって使節を派遣してきたのを、日本との和親を目的としたとみる点については一致しているのであるが、そうした唐の遣使に日本がどう対応したかについては諸説がみられる。
 上記論文によると、唐は戦後処理として、旧百済領の橋・道路・堤防の復旧作業、貧民の救済などを行い、旧百済王子の扶余隆を熊津都督として唐から帰国させ、遺民を統治させ、さらに、新羅と百済の間に同盟を結ばせたということです。そして、唐の意図について次のように推測しています。
 さて、唐は百済を滅ぼすと、次に高句麗を滅ぽすことを考えていたのだが、最終的には新羅も倒し、朝鮮半島全域の支配をもくろんでいた。一方、新羅が百済・高句麗を倒すには唐との連合が必要だが、二国を滅ぼした後は唐の勢力を駆逐し、半島を統一しようと考えていたことは、後の歴史が示すとおりである。
 このような二国であるから、高句麗攻略という共通の目的をもつがゆえに、表面上提携していても、内面でお互い相手側の行動を警戒していたであろうことは容易に察せられる。ことに新羅にとって六六三年の鶏林州大都督府の設置、六六四年の熊津での同盟は不本意であった。
 百済復興運動鎖圧後、今回の唐使来日までの半島の情勢は以上のごとくであるが、このような半島の情勢から考えると、今回の唐使は、白村江での勝利の余勢をかって日本を威圧しようとするものではなく、むしろ日本に和親を求めるものであったと考えられる。
 百済・新羅間の同盟締結が二月で、唐使の来日が五月十七日である。唐の旧百済領確保の政策が新羅の希望するところではないことを知っていた唐は、百済の同盟国であって、復興運動に対して援軍も派遣した日本に、百済・新羅間の同盟その他の戦後処理について知らせ、唐が百済を再興させ、新羅から百済領を保護しているのだということを認めさせたかったに違いない。そして、計画している高句麗遠征の際、かつての日本・百済・高句麗三国間の同盟関係から、百済復興運動の時のように、日本が高句麗を援助することのないよう唐は日本と国交を回復し、日本を親唐的な立場におくことを考えていたのである。
 これに対し、唐への警戒心のとけない天智政権は、交渉に対し応ずる気配を見せず、北九州を中心とした防衛体制の強化に力を注ぎます。
 その後、666年に唐と新羅による高句麗攻撃が始まり、劣勢の高句麗から救援要請がありますが、天智政権はそれに応じることはなく、668年に高句麗は滅亡します。

外託征伐倭国其実欲打新羅
 「『三国史記』新羅本紀によれば、船舶を修理して倭国侵攻の準備をおこなっていた」という指摘に対しては、この論文は次のように述べています。
 六六八年九月に来朝した新羅使の帰還(同年十一月)の際に、道守臣麻呂・吉士小鮪が新羅に遣わされている。二人のその後の動向は不明だが、無事に帰還していれば、彼らによって高句麗滅亡のことが朝廷に伝えられたであろう。そうでなくとも天智八年(六六九)九月には新羅使が来ているので、おそくてもこの時には、高句麗滅亡の情報は朝廷に入ったはずである。
 そこで『日本書紀』天智八年是歳条に、
 遣小錦中河内直鯨等、使於大唐
とあるように、遣唐使が派遣されている。
 さて、ちょうどこの遣唐使の派遣された頃、唐で日本遠征計画がおこったとする説がある。その計画の有無によって、河内鯨らの遣唐使の意義も異なってくるので、ここでその説の是非を考えてみたい。日本遠征計画存在説の根拠とする史料は次の二つである。
 『三国史記』新羅本紀、文武王十一年(六七一)七月条の文武王が唐将薛仁貴へ与えた書中の一文
総章元年(六六八)…(中略)…又通消息云。国家修理船艘外託征伐倭国其実欲打新羅。百姓聞之。驚懼不安。
『日本書紀』持統四年(六九〇)十月乙丑(二十二日)条
詔軍丁筑紫国上陽東S人大伴部博麻曰「於天豊財重日足姫天皇七年、救百濟之役、汝、爲唐軍見虜。洎天命開別天皇三年、土師連富杼・氷連老・筑紫君薩夜麻・弓削連元寶兒、四人、思欲奏聞唐人所計、緣無衣粮、憂不能達。於是、博麻謂土師富杼等曰『我欲共汝還向本朝。緣無衣粮、倶不能去。願賣我身以充衣食。』富杼等、依博麻計、得通天朝。
 『三国史記』にみえる新羅文武王の書は、新羅の唐に対する叛逆(高句麗遺民の反乱への援助と旧百済領の侵略)を正当化するためのものだから、実際は新羅を攻めるためではなく、日本を狙っていたにもかかわらず、ただそのことで人心が動揺したのを取り挙げて新羅の主張に付会したのだと考えた上で、文武王の書の「外託征伐倭国」を、『日本書紀』の持統天皇の大伴部博麻に対する嘉詔の「唐人所計」と結びつけたのが日本遠征計画存在説である。
 しかし、この説にはいくつかの疑問点がある。文武王の書にいう「通消息云」が、いつ頃のことをさすのか明らかでないが、総章元年(六六八)九月の高句麗滅亡より後のことであるのはまちがいなく、それから翌年六六九にまたがった頃にに生じたことであろう。そしていつ頃まで「修理船艘」が行われていたのかもはっきりしない。ただいずれにせよ、まず第ーに、この頃なぜ唐が日本遠征計画を企てたのかが全く不明である。白村江の戦い後の唐の対日外交は、一貫して和平交渉に徹しており、しかもかなり積極的であった。六六四年から六六七年のわずか四年間に唐使が三度来日しているが、このように頻繁に唐使がやってきたことは他の時期にはみられず、極めて異例のことなのである。相当の理由がなければ唐の外交方針の転換は考えられないが、松田氏はこの点については言及されていない。
 第二に、松田氏が高句麗遺民の反乱や新羅の旧百済領への侵攻といった朝鮮半島情勢の変化のため、日本遠征は実行されなかったとされる点である。高句麗遺民の反乱と新羅のそれに対する援助は、六七〇年三月に始まるが、同年中の唐と高句麗遺民との戦いは、唐にとって著しく不利というわけではなく一進一退の状況である。したがって、仮に唐で日本遠征計画があったとしても、それが朝鮮半島の情勢変化で中止になるとすれば、六七一年六月における、唐の旧百済領での敗北以後であろう。ところが、持統天皇の大伴部博麻への嘉詔によれば、筑紫君薩夜麻らは、「天命開別天皇三年」に唐より帰国の途についている。もし、日本遠征計画が実在したとしても、それが新羅領内にまで知れわたっている状況下で、唐がこれから攻めようとする日本の人間を簡単に解放するということがありうるだろうか。六五九年に派遣された遣唐使が、『日本書紀』に「国家、来年、必有海東之政。汝等倭客、不得東帰。遂匿西京、幽置別処。閉戸防禁、不許東西」というように、百済遠征が理由で帰国が許されなかったことを考えれば、日本遠征計画があったのであれば、日本人の帰国許可がおりることは断じてありえないといえる。
 第三に、文武王の書が新羅の立場を正当化しようとしたものだということを理由に、日本遠征計画があったとすることである。文武王の書の性格は、新羅が六七〇年三月以来、高句麗遺民の援助、旧百済領への侵入にみられる対唐戦争を継続しており、それに対する唐の薛仁貴を派遣しての叱責に答えたものであることを考えれば、新羅が自国を正当化しようとしたものであることは認められる。しかし、「修理船艘」が六六九年前後に行われており、文武王の書が薛仁貴が新羅にやって来た六七一年七月二六日からそれほどへだたらない時期に仁貴に返されたであろうことを考えれば、時間的に新羅としても事実と全く相反することは主張できなかったに違いない。すなわち唐の日本遠征計画が実在したとすれば、「外託征伐倭国。其実欲打新羅。」という主張は不可能だったと考えられるのである。以上三つの理由から、唐の対日外交策の変更を示す明確な証拠のない限り、文武王の書を松田氏のように解することは困難であり、事実は文武王の主張通りであったと考えるべきであろう。
 「又通消息云。国家修理船艘外託征伐倭国其実欲打新羅。百姓聞之。驚懼不安」というのを普通に解釈すれば、「真の目的は新羅を討つためであるにもかかわらず、倭国を攻撃するという名目で、唐が船を修理しているという噂があるので民衆が動揺している」ということになると思われます。新羅が、高句麗遺民を援助したり、旧百済領への侵入したことを、唐将の薛仁貴が詰問したのに対し、文武王が「そちらこそ新羅を討とうとしているのではありませんか」と反論したと考えるのが自然であるように思われます。

政変の背景には外交方針をめぐる対立?
 乙巳の変と対朝鮮外交との関連について、本書では次のように述べています(106ページ)。
 いわゆる「乙巳の変」や、それにつづく「大化改新」と、対朝鮮外交との関連を考える論考も、かつては多かったが、それは第一義的な要因ではなく、やはり国内における権力集中の模索、また大王位継承をめぐる争い、さらには蘇我氏内部における本宗家争いこそが、その主要な契機であったと考えるべきであろう(倉本一宏『蘇我氏古代豪族の興亡』)。
 一方、壬申の乱直前の外交方針について、本書では次のように述べています(175ページ)。
 また倭国側も、親唐・新羅両面外交を主導した鎌足に加えて、明らかに新羅寄り路線を志向していた大海人も十月十七日に出家していてすでに政権にはなく、さらには天智も九月(あるいは八月)以降、病に倒れ、大海人の出家以後は政局に姿を見せていない。近江朝廷は、今や大友とその周囲の五大官、そしてブレインの亡命百済人のみによって運営されていたのである。彼らが急速に親唐外交路線へと傾斜していったと見る考えは、正鵠を射ているものと言えよう。
 7世紀後半の倭国内外では、645年の乙巳の変、653年の政権分裂、654年の皇極重祚、660年の百済滅亡、663年の白村江の戦い、672年の壬申の乱、と政変や重大事件が続きますが、その背景には外交方針をめぐる対立があったことは否定できないように思われます。
 「対朝鮮外交との関連を考える論考」では、改新政治を「急進的な孝徳大王の改革」(親唐派)と「抵抗勢力」たる中大兄(親百済派)の対立と評価するそうです( 外交拠点としての難波と筑紫)。
 この論考を参考に、7世紀後半の倭国政権の対朝鮮外交方針の推移をまとめると次のようになります。
皇極(642〜645) 蘇我宗家=親百済
孝徳(645〜654) 孝徳・蘇我石川麻呂=親唐・新羅
中大兄・斉明=親百済
斉明(655〜661) 親百済
天智(661〜671) 百済滅亡→親唐?
 乙巳の変の首謀者については、この論考は、「通説のように中大兄皇子と中臣鎌足ではなく軽皇子(孝徳)と蘇我石川麻呂であったとする議論を支持」しています。中大兄は蘇我宗家と同様に親百済派ですから、中大兄が首謀者だとすると、外交方針をめぐる対立は乙巳の変の要因ではないことになります。
 一方、軽皇子と蘇我石川麻呂が首謀者であったとすると、孝徳(軽皇子)を中心とする改新政権が、大化年間に中国からの帰朝者を重用し,新羅との積極的交渉を試み、新羅使も来朝していることや、百済への遣使がないことも容易に説明できます。
 このように理解すると、乙巳の変は、軽皇子を中心とする親唐・新羅派と、中大兄をする中心とする親百済派が、蘇我宗家を倒すために手を組んだクーデターだったということになります。
 孝徳没後、皇極が斉明として重祚し、親百済路線を突き進み、百済滅亡後、百済復興支援のため九州へ出向くも志半ばで死去、跡を継いだ中大兄が白村江で大敗し、親百済路線は挫折します。
 戦後処理として、唐・新羅との関係修復が必要となりますが、唐と新羅との戦争が始まり、どちらに付くかの選択を迫られることになります。天智が病となり、近江政権を主導した大友皇子は、唐に武器と軍事物資を供与しますが、大海人皇子が壬申の乱で近江政権を倒し、天武天皇として即位します。唐と新羅との戦争は676年まで続きましたが、天武政権が軍事的に関与することはなかったようです。

天皇のひ孫が即位するのは異例
 倭国の対外政策と関連して、乙巳の変をめぐる権力構造がどのようになっていたのか興味を惹かれるところです。軽皇子や中大兄の関係する系図は次のようになっています(秋の山〜姉弟の物語(2020年11月))。

 中大兄(天智)は舒明天皇の息子ですが、異母兄弟に古人大兄がいました。古人大兄の母は蘇我馬子の娘の蘇我法提郎女で、バックに蘇我宗家が付いていましたから、次期天皇の有力候補でした。
 一方、次の系図(山川&二宮ICTライブラリ)が示すように、軽皇子(孝徳)は、敏達天皇の孫の茅淳王の子に過ぎません。継体以降は、天皇の子(皇子、皇女)が異母兄弟間で順番に位を継承する慣習になっていたようです。同母兄弟では年長者が大兄と呼ばれ継承資格を認められていたようです。また、田村皇子(舒明)と山背大兄王は、ともに敏達天皇の孫で、皇位を争い、結局、田村皇子が即位していますから、天皇の孫にも継承資格を認められていたようです。ただし、軽皇子のように天皇のひ孫が即位するのは異例です。なお、同じく天皇の孫でも、田村は皇子と呼ばれ、山背は王と呼ばれています。


一番得をしたのは軽皇子
 日本書紀によれば、乙巳の変後、皇極は中大兄に譲位しようとしたが、 中大兄は軽皇子を推し、軽皇子は古人大兄を推し、古人大兄は固辞し出家したため、軽皇子が譲位を受け入れ、即位したことになっています。そして、古人大兄は、謀反を理由に、ほどなくして処刑されています。結局、一番得をしたのは軽皇子ということになります。その意味では、軽皇子と蘇我石川麻呂が、乙巳の変の首謀者であったする説にも十分の説得力があります。

反孝徳勢力を自派に吸収?
 古人大兄「謀反」事件の処理について、次のような見方があります(外交拠点としての難波と筑紫)。軍の派遣は、9月と11月の2度あったということですが、9月の派遣から2ヶ月間、古人大兄は無事でいられたということでしょうか。
記載は,三つの本文と三つの「或本」の異伝から構成される。本文は,一貫して改新政府の中心は中大兄であり,彼を責任者としてこの事件に対処しているという書きぶりになっている。この点は,『日本書紀』の編纂態度としては了解されるが,異なる伝承として左右大臣に密告したとある点を重視すれば,相対化して考える必要がある。さらに大きな相違は,事件の決着が本文のように9月なのか,異伝のように11月なのかという点である。門脇説が指摘するように,@に見える謀議に参加した人物のうちに,以後も活躍している人々が見えることは,一度は説得があり,これにより投降したと考えるのが自然である。また9月と11月に異なる人々が記載されていることを重視すれば,二度の征討軍派遣があったと考えられる。従って,おそらく事件の経過は,
@古人皇子が蘇我田口臣川掘・物部朴井連椎子・吉備笠臣垂・倭漢文直麻呂・朴市秦造田来津らと謀反の謀議
A吉備笠臣垂による阿倍大臣と蘇我大臣への密告
B9月に(中大兄系の)菟田朴室古・高麗宮知による説得で物部朴井連椎子・倭漢文直麻呂・朴市秦造田来津が投降
C11月に(孝徳系の)阿倍渠曽倍臣・佐伯部子麻呂と兵30人を派遣して古人皇子を討つ
という流れが想定される。
 「自首」した吉備笠臣垂は,後に密告した功により功田二十町を与えられている。さらに物部朴井連椎子は後に有間皇子の包囲指揮者として記載され,朴市秦造田来津は,百済派遣軍の将として見え,倭漢文直麻呂も白雉五年の遣唐使判官に任命されている。とりわけ,物部朴井連椎子や朴市秦造田来津は斉明朝以降も左遷されずに行動していることを重視すれば中大兄系の人材となったことが確認される。倭漢文直麻呂の遣唐使判官任命も勢力混在の妥協的人事と考えれば中大兄系としても支障はない。古人大兄の娘である倭姫王が後に天智の皇后ともなっていることを加味するならば,中大兄が,中大兄派と孝徳派の対立を前提に,蘇我氏の系譜を引く古人皇子系の反孝徳勢力を吸収したと考えることもできる。その後11月に派遣された阿倍渠曽倍臣は左大臣阿倍内麻呂の同族であり,佐伯部小麻呂は佐伯連子麻呂と同一人で,右大臣蘇我石川麻呂の推挙により入鹿暗殺に参加した経緯を考えると,孝徳派による第二次征討軍派遣が想定される。
 以上によれば,できるだけ蘇我本宗氏的勢力の弱体化を指向する孝徳系勢力に対して,中大兄はできるだけ自首や投降を促して,蘇我氏の系譜を引く古人皇子系の反孝徳勢力を自派に吸収したものと位置付けられる。
 三つの本文と三つの異伝の現代語訳は次のようになります(孝徳天皇(十二)吉備笠臣垂の自首・古人大兄の謀反)。なお、兵40人とあるのは30人の間違いかと思われます。
本文 異伝
9月1日に使者を諸国に派遣して、兵を治めました。 ある本によると、6月から9月までに使者を四方の国に派遣して、いろんな種類の兵器を集めさせました。
9月3日。古人皇子は蘇我田口臣川堀・物部朴井連椎子・吉備笠臣垂・倭漢文直麻呂・朴市秦造田来津と、謀反しました。 ある本によると、古人太子と言います。ある本によると、古人大兄と言います。この皇子は吉野山に入りました。そのため、吉野太子とも言います。
垂は之娜屢と言います。
9月12日。吉備笠臣垂は中大兄に自首して言いました。
「吉野の古人皇子は蘇我田口臣川堀たちと謀反しようとしています。私めはその徒に加わりました」
中大兄はすぐに菟田朴室古・高麗宮知を使って、兵を若干を率いて、古人大市皇子たちを征討させました。
ある本によると、吉備笠臣垂は阿倍大臣と蘇我大臣とに申し上げて言いました。
「私めは、吉野皇子が謀反する徒に加わりました。今、自首します」
と言ったと言います。 
ある本によると11月30日。中大兄は阿倍渠曾倍臣・佐伯部子麻呂の二人を使って、兵40人を率いて、古人大兄を攻めて、古人大兄と子を斬り殺しました。その妃妾は自殺して死んだと言います。
ある本によると、11月に吉野大兄王は謀反しようとしました。その事が発覚して殺されたと言います。
 日本書紀では、本文と異伝ともに中大兄が征討を命じたことになっています。また、武器を集めてから謀議したことになっていますが、古人大兄は武器を集めてから仲間を募ったということでしょうか。謀議に加わった5人のうち、吉備笠臣垂は自首し、物部朴井連椎子と朴市秦造田来津と倭漢文直麻呂は、処罰された様子はなく、後に重職に任命されているところを見ると、本当に謀議があったのか疑わしくなります。いずれにしても、日本書紀の記述は額面どおり受け取らない方が良さそうです。

皇極は強制的に退位させられた?
 乙巳の変の後、なぜか皇極は退位し、軽皇子(孝徳)に譲位し、孝徳の死後、斉明として重祚しています。生前退位と重祚は、きわめて異例です。これについては、次のように、皇極は強制的に退位させられたとする説があります(外交拠点としての難波と筑紫)。「新羅援軍の条件として女王を廃し唐王族を王とせよ」というのは新羅の弱みに付け込んだ唐の無茶な要求というべきであって、そんな「唐に迎合するため皇極の強制退位を選択」するというのは、随分弱腰だと思われます。
 近年,有力化してきた孝徳天皇を改革の中心に位置づける議論に従うならば,改新期における外交政策の対立軸は,改新の中心たる孝徳天皇と,皇極(斉明)・中大兄皇子との間に存在した。そして,皇極の生前譲位は外交方針の対立による,強制な退位であった可能性が指摘できる。具体的には,643年に唐は「国女君,故為鄰侮,我以宗室,主而国」という提案をしている(『新唐書』高句麗伝)。これは対高句麗戦において新羅援軍の条件として女王を廃し唐王族を王とせよとの提案であった。皇極女帝を擁する倭国にとっても,こうした提案は対岸の火事では済まない問題である。新羅では647年に「女王不能善理」を主張し女王の廃位を計画した毗曇の乱が発生している。倭国内の支配層においても,唐による高句麗遠征(645年),百済領「任那」の新羅への返還命令(649年),倭国への新羅援助命令(654年)に連続していく対外的な圧力,および高句麗の百済接近という事態に対して,唐に距離を置き,欽明期以来の蘇我氏路線を継承し,百済と親密な関係を維持していこうとする独立派と,超大国唐に迎合する親唐・新羅派の路線対立が存在した。おそらく,改新の中心たる孝徳は女帝を承認しない唐に迎合するため皇極の強制退位を選択し,男帝として即位する。これに対して不本意のまま退位させられた皇極(斉明)と中大兄は,唐に対しては独立的な立場,新羅に対しては大国的立場から白村江の戦いに連続する従来の親百済路線を重視したものと考えられる。
 皇極は中大兄に譲位することを望んでいたと思われます。しかし、中大兄は626年生まれということです。すると、645年の乙巳の変当時は20歳そこそこということになりますから、即位するには若すぎたといえそうです。なお、皇極の譲位については、「敏達統を内部分裂によって瓦解させてしまわないために採られた苦肉の策であった」とする説もあります( 『新版 大化改新』/遠山美都男インタビュー)。
 歴代天皇の生年、即位年、退位年は、おおよそ次のようになっています( 天武天皇の年齢研究−歴代天皇の年齢)。100歳を超える長寿の続く仁徳以前の天皇は実在が疑われますが、継体以降は、確実に実在したと考えて良いと思われます。

 ただし、生年については必ずしも明らかではありません。それを前提として、継体から桓武までの歴代天皇の即位時の年齢、退位時の年齢、在位期間をまとめると次のようになります。古代においては生涯現役が原則ですから、譲位を除いては退位年齢は没年齢と重なります。
 40過ぎてからの即位が多く、30代での即位は少数です。壬申の乱で滅ぼされた大友皇子(弘文)以前には、20代での即位はありませんから、20歳そこそこの中大兄が即位するのには、やはり無理があったようです。朱色で示したのは女性天皇です。皇極は譲位後、斉明として重祚し、孝謙は譲位後、称徳として重祚しています。 
即位 退位  期間
26 継体 57 82 25
27 安閑 65 70 5
28 宣化 68 73 5
29 欽明 30 63 33
30 敏達 34 48 14
31 用明 38 41 3
32 崇峻 66 72 6
33 推古 38 75 37
34 舒明 36 49 13
35 皇極 48 譲位52 4
36 孝徳 49 59 10
37 斉明 重祚61 68 7
38 天智 42 46 4
39 弘文 23 自殺25 2
40 天武 42 56 14
41 持統 45 譲位53 8
42 文武 14 25 11
43 元明 46 譲位55 9
44 元正 35 譲位45 10
45 聖武 23 譲位49 26
46 孝謙 31 譲位41 10
47 淳仁 26 廃帝33 7
48 称徳 重祚46 53 7
49 光仁 59 73 12
50 桓武 44 70 26

皇極と孝謙は譲位後に復権
 女性天皇で生前に譲位しなかったのは、推古のみです。
 持統は少年の文武を即位させるため譲位し、元明と元正は、聖武が成人するためまでの繋ぎとして、即位と譲位を行ったものと思われます。
 皇極と孝謙は譲位した後に復権していますから、譲位は必ずしも本位ではなかったものと推測されます。
 皇極の即位から退位、斉明としての重祚前後の経緯をまとめると次のようになります。
628 推古天皇没、後継を、田村皇子と山背大兄王が争います。田村皇子は30代敏達の孫で、山背大兄王は31代用明の孫です。蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺した跡を継いだ推古は、75歳まで生き、在位は37年に及びました。その間、有力後継候補であった厩戸王は先に他界し、孫の世代が次期後継者となりました
629 田村皇子が、蘇我蝦夷の支持を得て、舒明天皇として即位します。日本書紀によれば(舒明天皇(十三)境部摩理勢とその子供たちの死)、山背大兄王を支持していた境部摩理勢(蘇我蝦夷の叔父)は、蝦夷の兵によって絞殺されていますから、武力で決着が着いたものと思われます
641 舒明天皇没、日本書紀によれば(舒明天皇(二十五)無量寿経を読ませる・百済宮で崩御)、16歳の東宮開別皇子(中大兄)が弔辞を読んでいます。東宮とは皇太子のことですから、中大兄が次の天皇になるはずでした
642 皇極天皇即位。日本書紀には、なぜ皇極が即位したのかについては、まったく説明はありません。皇極は敏達のひ孫ですから、用明の孫の山背大兄王としては順番を越されたことになります。ただし、年齢的にはさほどの差はないものと思われます
643 日本書紀によれば、蘇我入鹿は、上宮王(山背大兄王)等を廃し、古人大兄を天皇にしようとしたとあります(皇極天皇(十四)蝦夷は紫冠を入鹿に・祖母が物部弓削大連の妹・古人大兄を天皇に画策)。入鹿は兵を送り山背大兄王を襲わせるが反撃され撤退(皇極天皇(十五)巨勢徳太臣と土師娑婆連は斑鳩宮を襲撃する)、その後ふたたび包囲された山背大兄王は自殺します(皇極天皇(十六)山背大兄王の自殺・余豊の養蜂)。皇極が即位しているはずなのに、山背大兄王と古人大兄が即位をめぐって対立していたようで、山背大兄王が自殺に追い込まれています。なんとも不可解な話です。また、上宮聖徳太子伝補闕記によれば、軽皇子(後の孝徳)も入鹿の兵に加わっていたということです
645 乙巳の変:中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を殺害、蘇我蝦夷も自殺し、蘇我宗家は滅亡します。そして、なぜか皇極が譲位し、弟の孝徳天皇が即位します。その後、古人大兄皇子が謀反を企てたとして処刑されます。また、孝徳は、都を飛鳥から難波長柄豊碕に移します( 奈良・京都だけじゃない! 古代大阪にあった難波京をご存じですか? #大阪歴史博物館コラボ企画
649 左大臣の阿部内麻呂が死没、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂が中大兄暗殺計画の嫌疑をかけられ自殺、日本書紀では無実の罪ということになっています(孝徳天皇(五十四)蘇我日向の隠流・蘇我造媛と堅塩
653 中大兄が孝徳の同意なく、皇極上皇、間人皇后以下公卿百官人を率き連れて大和・飛鳥に去り政権は分裂
654 孝徳が病死しますが、皇太子だったという中大兄が跡を継ぐことなく、なぜか皇極が復権し、655年に斉明天皇として重祚します
658 孝徳の遺児で18歳の有間皇子が謀反を企てたとして処刑される
661 斉明没、なぜか中大兄は即位せず、天皇は以後7年間も空位となります
667 飛鳥の岡本宮から近江の大津宮に遷都
668 中大兄が天智天皇として即位
671 天智没
 権力の座をめぐり、次のように王族や豪族が次々と歴史の舞台から姿を消して行きます。
抹殺された人物 抹殺した人物 理由
592 崇峻天皇 おじの蘇我馬子 馬子を殺そうとしたから
629 境部摩理勢 おいの蘇我蝦夷 権力闘争
643 山背大兄王 いとこの蘇我入鹿 権力闘争
645 蘇我入鹿・蝦夷 中大兄 権力闘争
645 古人大兄 異母兄弟の中大兄 謀反を企てた
649 蘇我倉山田石川麻呂 中大兄 中大兄暗殺計画の嫌疑
653 孝徳 中大兄 権力闘争、政治的抹殺
658 有間皇子 いとこの中大兄 謀反を企てた
672 大友皇子 おじの大海人 権力闘争
 乙巳の変までは、蘇我宗家の3代が主役です。血縁関係のある崇峻、
境部摩理勢、山背大兄を抹殺しています。蘇我馬子は、崇峻天皇を殺害していますから、逆賊ということになりますが、日本書紀によると崇峻が先に馬子を殺そうとしたとなっています(崇峻天皇(十六)いつか、この猪の頸を斬るように、朕が妬み嫌っている人を斬ろう)。
 推古没後、山背大兄と田村皇子(後の舒明)が後継を争います。両者の関係は次の系図(大王(天皇)家・蘇我氏関係系図(『山川 詳説日本史図録』33頁)
)のようになっています。山背大兄は蘇我の血を引いていますが、田村皇子は蘇我の血筋ではありません。にもかかわらず、蝦夷は田村皇子を支持し、山背大兄を支持する境部摩理勢(蝦夷のおじ)を抹殺しています。

 舒明の没後、642年に皇極が即位しますが、その翌年の643年には山背大兄が蘇我入鹿に攻め滅ぼされます。そして645年に乙巳の変で蘇我入鹿・蝦夷親子が中大兄らに攻め滅ぼされ、皇極は動乱続きの在位4年で譲位します。
 その後は、中大兄が暗殺劇の主役となり、政敵を執拗に追い詰め抹殺して行きます。孝徳については、暴力的手段によって抹殺したわけではありませんが、中大兄が皇極上皇、間人皇后、弟たち、公卿大夫・百官を引き連れては 倭の飛鳥河辺行宮へ移動し、孝徳だけが難波宮に残されたというのですから、一種のクーデターであったと思われます。実際の力関係がどうなっていたのかは分かりませんが、政権は難波と飛鳥に分裂したことになります。ほどなくして孝徳が病死したため、その分裂は解消されました。

神功皇后以来、新羅は日本の属国だった?
 唐と新羅の戦争については、天武政権は関与しなかったようですが、奈良時代に入っても、日本は朝鮮半島への積極的関与の意図は持続していたようです。
 天平勝宝4年(752年)に来日した新羅使の新羅王子・金泰廉(きんたいれん)の奏言と、それに答えた孝謙天皇の詔は次のようなものだったそうです(191〜192ページ、舟かじは旧字が見つからなかったのでひらがなにしています)。
 金泰廉は六月に、新羅国王(景徳王)の奏言を奏上した。「新羅国は遠朝(神功皇后)からはじめて、世々絶えず、舟かじを並べ連ねて国家(日本)に仕え奉ってきた。今、国王が親ら来朝して御調を貢進しようと欲するが、一日も主がいないと国政が絶え乱れる。そこで王子泰廉を遣わす」というものである(『続日本紀』)。
 ほんとうに新羅使がこんなことを言ったのかは疑問の残るところであるが、あるいは外交儀礼上の発言に、『続日本紀』が神功皇后伝説を加えて、さらに文飾を施したものであろうか。
 これに対し、孝謙天皇はこれを誉めながらも、つぎのような詔で答えた(『続日本紀』)。

「新羅国が来て朝庭(日本)に仕え奉ってきた事は、気長足媛皇太后(おきながたらしひめのおおきさき=神功皇后)があの国を平定したときからはじまり、今に至るまで、我が蕃屏となっている。ところが前王承慶(孝成王)・大夫思恭らが言行が怠慢で、恒の礼を欠失した。そこで使を遣わして罪を問おうとしたところ、今、彼の王軒英(景徳王)は、前過を改め悔いて、親ら朝庭に来ることを願った。ところが国政を顧みる為に、王子泰廉等を遣わして、代わりに入朝させ、兼ねて御調を貢った。朕(孝謙)はそこで嘉び歓しみ勤款めて、位を進め、物を下賜する。今から以後は、国王が親ら来て、辞を以て奏すように。もし余人を遣わして入朝する場合は、必ず表文をもたらすように」 

 これもほんとうにこんなことを要求したのかと疑ってしまうが(相手の国王を呼び捨てにしたりとかも)、国王自身の来朝や表文の奏上は、新羅側にとってはとうてい容認できるものではなかった。
 孝謙天皇の詔(752年)のほんの90年前には、白村江で唐と新羅の連合軍に大敗(663年)したにもかかわらず、神功皇后以来、新羅は日本の属国だったことになっています。
 日本書紀による神功皇后伝説=三韓征伐(皇紀860年、西暦200年)は、卑弥呼(〜248年)の時代よりも前の話ということになりますが、そのころの倭国が大船団を組織し、新羅、百済、高句麗を完全制圧するということは、およそ有り得ないことで、中国の歴史書にもそのような記載はありません。しかし、奈良時代の孝謙天皇はそれを歴史的事実と認識していたようです。

白村江の敗戦を、神功の勝利で、重ね塗り?
 神功皇后伝説の成立過程について、次のような意見があります(日本古代の朝鮮観と三韓征伐伝説 一朝貢・敵国・盟約一)。
 『日本書紀』の神功皇后説話の成立過程については、息長氏の保持する出征譚を含まない旧辞的内容の伝承が7世紀の舒明・皇極朝の時期に宮廷伝承に組み込まれ、住吉神を奉斎する津守氏の伝承や香椎宮の縁起譚として伝わる新羅征討の物語を取り入れながら、神功皇后のモデルとして推古・斉明・持統(鵜野皇女)の三女帝の史実を反映させて徐々に形成され、最終的に記紀編纂者の手でさらに潤色・造作が加えられて完成したとされている。その骨格が固まってくる天武・持統朝前後の時期の対新羅関係は次のようなものだった。
 倭政権は、5世紀末から6世紀初頭頃に伽耶諸国の連合体が高句麗の南下に対抗する目的で倭政権と結びつくために鉄資源などを有利な条件で提供したという過去の事実をもとに、532年に新羅に併合された南加羅(金官国)の貢納物を「任那調」として倭政権に振り向けるよう新羅に要求し、百済と結んで朝鮮の対立関係に介入する口実に利用した。しかし、642年の百済による旧伽耶地方占領に始まる唐も加えた朝鮮半島の対立・抗争が激化するなか、乙巳の変で中大兄を中心とする新政権を樹立した倭はこれに介入するのを避けて「任那調」を廃止し、百済・新羅との等距離外交を選択した。655年に高句麗と百済が同時に新羅北部を攻撃すると、新羅を支援する唐が倭に援軍を要請したがこれに応えず、657年にその釈明の仲介を新羅に依頼している。しかし新羅はこれを拒否し、唐・新羅との関係は崩れていく。等距離外交路線が破綻して選択肢が限られていくなか、660年に百済が唐・新羅連合軍に滅ぼされると、百済の遺将鬼室福信から百済復興のための救援と、質として来倭していた王子余豊璋の帰還要請がもたらされる。倭政権は百済・高句麗との軍事同盟に踏み切り、豊璋に織冠を授けて倭臣としたうえで百済王に冊立し、百済を属国として復興することで朝鮮半島への影響力を維持する方針に活路を見いだすが、663年の白村江の戦いで唐軍に壊滅的な敗北を喫する。朝鮮半島進出の望みは絶たれ、高句麗も滅亡するなか、唐の進攻に備えた国防臨戦態勢が敷かれる。しかしこの危機的状況は、新羅が半島統一を目指して670年から唐と交戦状態に入ったことで解消された。唐と新羅の戦争は676年に安東都護府を遼東に撤収するまで続く。この間、唐は倭国征討方針を転換して、671年には対新羅出兵を倭に要請する。新羅も高句麗滅亡に当たる668年から倭への遣使を再開し、8世紀初頭までほぼ毎年のように遣使を続けている。特に新羅は唐との戦争遂行のために倭に対して従属的な姿勢をとって「進調」し、半島統一の676年以後も4度の「請政」(国情報告)を行った。倭はもはやこの対立に軍事介入する道を取らなかったが、新羅の積極的な対日外交は白村江の敗戦という外交政策の致命的失敗をご破算にし、かえって新羅を「蕃国」として臣従・朝貢させる「大国」という意識を浮かび上がらせることになった。
 このように新羅に対する優越意識が生まれてくるなかで、神功皇后が天神地祇の教導によってたからのくに「財国」たる新羅を降服させ、新羅王は自ら「飼部」として「八十船之調」を日本に貢ぐことを約束し、高句麗・百済も永く「西蕃」・「内官家」として朝貢を絶やさないと誓ったという神功紀の三韓征伐伝説が形成されていくのである。最終的に和銅5(712)年に「古事記』が、養老4(720)年に「日本書紀」が撰上されて完成をみる三韓征伐伝説は以後の朝廷内で広く受容され、『懐風藻』序(751年)に「神后征火」、「経国集」巻20の天平宝字1(757)年の対策試の出題に「三韓朝宗為久失、占風輸貢、歳時廃絶」などとみえ、山上憶良が筑前守(神亀5[728]〜天平3[731]年、『万葉集』巻5)のとき、怡土郡に伝わる新羅征討にまつわる息長足日女命の鎮懐石の伝承を古老から聞いてこれを和歌に詠んでいる。また百済王氏一族は「近肖古王、遙慕聖化、始聘貴国、是則神功皇后摂政之年也」といい、『日本書紀』神功49年条にある百済の朝貢盟約説話を受容している。
 日本書紀の編纂が始まったのは681年とされていますが、663年の白村江の敗戦、672年の壬申の乱から、間もないころで、敗戦のよる自信喪失と内戦の混乱から、いかに立ち直るかが喫緊の課題だったと思われます。
 白村江の敗戦と神功皇后伝説には、次のような類似が見られます。斉明仲哀は遠征途上に九州で急死し、中大兄と神功がその後を引き継ぎます。ただし、中大兄は敗退しますが、神功は大勝します。白村江の敗戦を、同じような経緯をたどった神功の勝利で、重ね塗りし帳消しにしようとしたようにも思われます。
661年 斉明の死 中大兄が出兵、663年敗退
200年 仲哀の死 神功が三韓征伐 
 もっとも、白村江の敗戦では、女性(斉明)→男性(中大兄)の流れが、神功伝説では、男性(仲哀)→女性(神功)の流れになっています。
 この点は、日本書紀成立当時の事情と関係しているのかもしれません。日本書紀の編纂は、天武(673-686)の時代に始まりますが、その後、持統(690-697)、文武(697-707)、元明(707-715)を経て、720年、元正(715-724)のときに完成しています。この間の系図は次のようになっています(光明皇后(三)聖武天皇の即位と長屋王政権の始まり|日本の歴史)。

 天武没後、大宝律令を完成させたのは実質的には持統ですし、奈良遷都が行われたのは元明のときです。男性を受け継いだ女性が事業を完成させるという構図になっています。

不比等没後、長屋王が実権
 持統(645〜702)は、673年、天武即位とともに皇后となります。686年の天武没後は自ら政務に努め、689年、息子の草壁が早世したため、翌690年自ら即位します。697年、15歳の孫の文武に譲位し、上皇として後見し、702年死去します。707年、文武は24歳で早世します。
 その後、文武の母の元明(在位707-715)と姉の元正(在位715-724)を経て、青年となった聖武(701〜756)が即位します。
 この間、政権の実権を握っていたのは藤原不比等(659〜720)です(二つの顔を持つ男、不比等(コラム) - 奈良県)。
 720年に不比等が亡くなり、その後は長屋王が皇親勢力の代表者として実権を握ります。長屋王は、次の系図(長屋王の変)のように、天智と天武の孫で、藤原の血筋ではありません。

  辛巳(しんし)事件では、「聖武天皇が母親である藤原宮子に「大夫人(だいふにん)」の称号を与えようとすると、長屋王がそれを差し止めさせ」たということです(藤原四兄弟とは?奈良時代前半に権勢を振るった4人のについて簡単に解説  |  奈良まちあるき風景紀行)。
 「彷徨の王権 聖武天皇(遠山美都男)」(75〜77ページ)によると、天皇の妻の名称は、公式令(くしきりょう)により、次のように定められていたということです。
天皇存命中  没後 
皇后  皇族  皇太后 
妃  2名、4品以上の皇族のむすめ 皇太妃 
夫人  3名、3位以上の貴族のむすめ 皇太夫人
嬪(ひん) 4名、5位以上の貴族のむすめ
 藤原宮子は、藤原不比等の娘で文武天皇の夫人でしたから、文武没後は、公文書では皇太夫人と呼ぶべきことになります。すると、大夫人と呼ぶようにという天皇の命令に反することになり、違勅になってしまいます。長屋王にその点を問われた文武は勅を撤回します。
 皇太夫人と呼ぶべきところを、大夫人と呼ぶのは格下げとなってしまいます。文武がなぜそのような勅を出したのか、理解に苦しむところです。勅を撤回した文武は顔をつぶされた形になりますが、そのことが長屋王の変につながったとしたら、逆恨みのような気もします。
 「彷徨の王権 聖武天皇(遠山美都男)」(75〜77ページ)では、この勅を出した主体と理由について、次の2説を紹介しています。 
  主体  理由 
遠山美都男説 聖武天皇 皇族でない母に「皇」の称号を贈れば揉め事の種になるから 
倉本一宏説 長屋王 藤原氏と皇族を厳密に区別するため
 勅を出した主体が聖武天皇だとすると、勅を出した理由の説明が苦しくなります。一方、主体が長屋王だとすると、理由に説得力がありますが、臣下の長屋王が独断で勅を出せたのか疑問です。
 むしろ、聖武天皇が公式令の規定を知らなくて勅を出し、長屋王に公式令の規定の存在を指摘され、あわてて勅を撤回と考えるのが自然な感じもします。
720 最高実力者の藤原不比等が死去
721 長屋王が実権を握る
724 辛巳(しんし)事件:聖武天皇(在位724-749)が母親である藤原宮子に「大夫人(だいふにん)」の称号を与えようとしたが、長屋王がそれを差し止めさせた

藤原4兄弟が、長屋王を抹殺?
 727年、聖武天皇と安宿媛(後の光明皇后)の間に基王が生まれ立太子されましたが、翌728年に死去し、県犬養広刀自との間にが安積(あさか)親王が生まれます。そのことに危機感を抱いた藤原4兄弟が、光明立后を企て、それに対する反対派の中心となりそうな長屋王を抹殺したのが長屋王の変であるというのが一般的な理解です(長屋王の変)。
 天智から桓武までの天皇家の系図は次のとおりです(「史上初」女子たちのプレッシャー 光明皇后と孝謙(称徳)天皇)。

727 聖武天皇と安宿媛(後の光明皇后)の間に基王が生まれ立太子されたが、翌728年に死去 
729 長屋王の変:謀反の疑いがあったとして、長屋王の一家が藤原四兄弟により滅ぼされる
安宿媛が皇后となる。皇族以外から初めての皇后

対新羅、協調路線と強硬路線
 長屋王を滅ぼし、光明立后に成功し、藤原4兄弟が政治の実権を握りますが、このころから新羅との関係がギクシャクし始めます。
 668年に高句麗を滅ぼした後、唐と新羅は対立するようになり、670年に軍事衝突が始まります。676年に新羅が唐軍を撃退しますが、その後も唐との緊張関係は続きます。そのため、新羅は倭国との関係を維持する必要があり、倭国に朝貢を行うという形態を受け入れます。
 しかし、その後、新羅と唐との関係は改善し、735年には唐から朝鮮半島の領有を認められます。そうなると、新羅は日本に朝貢することは必要ではなくなります。しかし、日本は従来の維持しようとします。そして、736年の遣新羅使が、新羅より「常礼」を欠く対応を受けたとして、737年に新羅征討論が唱えられるようになります(新羅征討計画における軍事力動員の特質)。
 一方、新羅側の史料には、朝貢関係を示す記述が見当たらないことから、日本の中華思想が新羅との間で実際に機能していたかについては疑問を示す意見もあります(日本律令国家の中華思想 : 奈良時代の対新羅意識の展開を中心に)。さらに、新羅側の史料には、722年と731年に、新羅が日本の侵攻に対して反撃したという記述があるそうです。 
 736年に遣新羅使が、新羅より「常礼」を欠く対応を受けたことについて、737年の内裏で協議したところ、遣使によってその真意を問う協調路線と「征伐」を加えようとの強硬路線があったものの、結局、伊勢紳宮や香椎宮に、奉幣し(供物を捧げ)、状況を報告したにとどまったということです。
 このような状況について、上記論文では次のように述べています。
 私は、新羅が強固な意思表示をもって日本の中華思想を拒絶したという現実に直面し、律令官人がなすすべを失っていたのではないかと考える。と同時に、国家意識としてはまさに危機であったが、軍事力によって侵略されるという性格ではなかったのであろう。よって、自ら拠り所とする神功皇后伝説の舞台である香椎宮等の諸社への奉幣より他なしえなかったのであり、またそれだけに切実であったといえる。
 そのころ国内では、735年と737年に疫病が大流行し、737年の流行では、藤原4兄弟が相次ぎ亡くなっています。この疫病は天然痘と見られていますが、737年の流行は麻疹(はしか)あるいはチフスと見る説もあるそうです(天平の疫病大流行)。737年の内裏での協議では、強硬路線が唱えられたということですが、疫病が大流行している最中に出兵することは難しかったのではないでしょうか。

孝謙上皇が権力闘争に打ち勝ち重祚
 藤原4兄弟が亡くなった後、政治を主導したのは橘諸兄です。次の系図(第I部 原始・古代 第2章 律令国家の形成 3 平城京の時代 2)が示すように、橘諸兄は光明子の異父兄弟ですが、藤原氏の血は引いていません。

 橘諸兄は吉備真備と玄ムを重用します。吉備真備と玄ムは、717年、遣唐留学生として唐に渡り、735年に帰国しています。同じ留学組に阿倍仲麻呂がいますが、帰国がかなわず唐で没しています。
 吉備真備と玄ムの重用に不満を持った藤原広嗣が九州で挙兵するも、鎮圧されます。しかし、光明皇太后の信任が大きかった藤原仲麻呂が勢力を持ち始めたこともあって、吉備真備と玄ムは左遷されます。その後、橘諸兄の引退、橘奈良麻呂の反乱鎮圧を経て、藤原仲麻呂の実権が確立します。しかし、光明皇太后没、藤原仲麻呂の勢力は減退し、孝謙上皇との権力闘争に劣勢となり、反乱を企てるも失敗し、処刑されます。権力闘争に打ち勝った孝謙上皇は、その後、称徳天皇として、重祚します。
737 新羅征討論
藤原四兄弟が次々と天然痘で死去
738 橘諸兄が実権を握り、吉備真備と玄ムを重用
740 藤原広嗣の乱、吉備真備と玄ムを除くことを要求し、九州で挙兵するが、鎮圧される 
749 聖武天皇から孝謙天皇へ譲位、光明皇太后の信任が大きかった藤原仲麻呂が勢力を持ち始める
756 不敬発言問題で橘諸兄が引退、聖武上皇没、翌757年橘諸兄没 
757 橘奈良麻呂の変、諸兄の子奈良麻呂が藤原仲麻呂の打倒をはかるが、反乱は未然に鎮圧された 
758 孝謙天皇から淳仁天皇へ譲位 
759 新羅征討計画 
760 光明皇太后没、以降、藤原仲麻呂の勢力は減退 
764 藤原仲麻呂の乱

4万人の動員計画
 藤原仲麻呂は、759年から新羅征討の準備を始めます。計画は次のように進行します(新羅征討計画における軍事力動員の特質参照)。
758 遣渤海使の小野田守が、唐で安史の乱(755〜763)が発生していることを報告。ただし、唐は757年に長安を奪回していた
759 行軍式の作成命令、香椎廟に奉幣、船の建造命令
760 兵法の教授
761 新羅語の教習、節度使の任命
762 綿襖宵の製作、香椎廟に奉幣
763 南海道節度使の停止
764 東海道節度使の停止、西海道節度使の停止
 755年、幽州(現在の北京)を本拠とする范陽節度使の安禄山が反乱を起こし、洛陽、長安を占領します。その後、唐はウイグル軍の支援を受けて反撃に転じ、757年に洛陽と長安を奪還しています。しかし、反乱軍は、さらに洛陽を奪還し混乱は763年まで続きます(安史の乱)。
 当時の東アジア各国の勢力範囲は次のようになっています(渤海|世界の歴史まっぷ)。日本と渤海は友好関係にありました。幽州から洛陽にかけて反乱勢力が支配していますから、日本が新羅を攻めても、唐が新羅を支援するのは難しいという見方も成り立ちえます。

 新羅征討の準備は759年に始まりますが、まず、行軍式の作成と船の建造が命じられ、香椎廟への奉幣がなされます。行軍式の作成には、吉備真備が関与していたようですが、具体的内容は伝わっていないそうです。船の建造には3年かかるので、出兵が可能となるのは762年と見られていたようです。なお、香椎廟の竣工は724年だそうです(香椎宮のこと|夫婦の宮、香椎宮)。
 『続日本紀』天平宝字5年(761)11月丁酉条の記事から、動員計画の概要をまとめると次のようになります(新羅征討計画における軍事力動員の特質)。総数は、船394隻、軍団兵士40700人、子弟202人、水手17360人となります。しかし、760年に光明皇太后に亡くなり、以降、藤原仲麻呂の勢力は減退し、孝謙上皇派が実権を握り、763年には計画は停止されます。764年、藤原仲麻呂は武力蜂起に失敗し処刑されます。


平安時代の日本外交は積極的孤立主義
 平安時代の日本の外交姿勢について、本書では次のように説明しています(209ページ)。
 公的な使節の往来が途絶えた一方、日本政府は増加する「帰化」新羅人や、新羅海商、また漂着民への対応をおこなわざるをえなかった。従来、考えられていたような、平安時代の日本の外交姿勢を「退嬰的孤立主義」「自己封鎖的・排外的思想」と国家財政緊縮方針とが一体となった「鎖国方針」ととらえる見方(森克己『日宋貿易の研究』)は、現在ではほぼ克服されている。
 平安時代の日本外交も、秩序だって日羅貿易、帰化新羅人を受け入れ、漂着者の送還をおこなってきたと考えるべきである(石上英一「古代国家と対外関係」)。十世紀前半には、北東アジアの動乱が日本国内に波及する、または日本国内でも新羅勢力と西辺の反政府勢力が連携した内乱が発生し得る現実が存在することの認識が、中央政府に持たれており、日本の外圧および外圧と内乱・国内治安問題、異民族間戦争への危険性の認識との結合を避けようとした結果、「積極的孤立主義」とも呼び得るような外交方針を選択した(石上英一「日本古代一〇世紀の外交」)。そこには、海外の紛争に巻き込まれないようにする冷徹な外交姿勢を読み取るべきであろう(渡邊誠「平安貴族の対外意識と異国牒状問題」)。