対朝鮮観と敵国視が噴出 古代の対外戦争は、対高句麗戦と白村江の戦しかなく、後は秀吉の朝鮮侵攻のみで、近代以前の日本は対外戦争の経験がきわめて少なかったと指摘した上で、著者は次のように述べています(11ページ)。
三韓征伐は作られた説話 神功皇后の三韓征伐は、編年体の日本書紀では皇紀860年、西暦200年の出来事とされています。一方、古事記は物語調で記述されていて、具体的年代は示されていません。 夫の仲哀天皇が神の祟りで没した後、身重の神功皇后が朝鮮半島に遠征し、新羅、百済、高句麗の三韓を討つというストーリーですが、著者はその概要を次のように説明しています(40〜42ページ)。
「まことに辻褄が合う話」 神功記の年代については、干支2運、つまり120年繰り下げるべきだという説があります。たとえば、神功記52年は、皇紀912年なので西暦252年に当たりますが、120年繰り下げて372年と考えるべきだということになります。これについて、著者は次のように述べています(26、27ページ)。「何らかの史実が反映されている可能性も、まったくないわけではない」「話ができ過ぎている感もする」という表現からは、干支2運120年繰り下げ説に、必ずしも賛成ではないという著者の姿勢がうかがえます。
宮崎市定「謎の七支刀―五世紀の東アジアと日本」は、「泰始四年」(468年)を主張しています。 宮崎説を支持するものとして、次のような指摘もあります( 4世紀の韓日関係史−広開土王陵碑文の倭軍問題を中心に−)。
三国史記の信頼性について 三国史記(三国史記とは - コトバンク )は高麗時代の1145年に編纂された史書で、新羅(~935)、高句麗(〜668)、百済(〜663)の起源から滅亡までを扱っています。この三国史記の信頼性について、著者は次のように述べています(21〜22ページ)。
好太王碑所在地は、中国・集安市 4世紀末の日朝関係を探るための貴重な史料とて、好太王碑文があります。好太王碑は、高句麗の好太王(広開土王、在位391〜412)の業績を称えるため、丸都城(国内城、現在の中国・集安市)付近に建てられた石碑です。当時の高句麗の勢力範囲と丸都城の位置は次のとおりです(高句麗/高麗 - Forum_tokyoblog)。 好太王碑があるのは、国境沿いの中国・集安市にあります。高句麗は、現在の北朝鮮と中国東北部の一部を占める広大な領土を支配していました。 現在では文字の判読は困難 石碑は1880年ごろ発見され、数多くの拓本が取られ販売されて来ました。その過程で、文字を読みやすくするため、周辺部に石灰を塗る作業が行われましたが、その石灰が剥がれ落ち、また風化も進んで現在では文字の判読は困難となっているそうです(新たな高句麗広開土王碑拓本(全四面)お茶の水女子大学で発見!)。 実際の拓本は次のようなものです(4世紀後半の倭の実態(No.150)|藤井寺市)。左が墨水廓填本、中央が石灰拓本、右が精拓本です。 墨水廓填本は、正確には拓本ではなく、石面の文字を一字いちじトレースして合成したものです。 石灰拓本は、碑面に石灰を塗り、文字だけが浮き出るように細工したもので、拓本作者によって異なる文字に再現されている可能性が否定できず、資料としての扱いに注意が必要です。 精拓本は、石面に画仙紙を貼り付けタンポで叩き出す通常の拓本手法によるもので、碑面を忠実に再現する点で資料価値が高いです。 好太王碑文については、陸軍の情報将校であった酒匂景信(さこうかげあき)が1884年に拓本を参謀本部に持ち帰ってから、日本でも知られるようになりました。1970年代になって、酒匂が碑に石灰を塗って改竄したという説が注目を浴びましたが、現在では否定されているそうです(本書30〜31ページ、ひらけ!ゴマ!!早乙女雅博先生の巻)。現在、見つかっている原石拓本は13本にのぼるそうです(歴史系総合誌「歴博」第201号)。 潤色や誇大表現、さらに虚構? 好太王碑の第2段は好太王の功績を記していますが、そこに倭が登場します。本書(31〜32ページ)の記述を参考に、その部分についてまとめると、次のようになります。ただし、好太王碑は歴史書ではないので、好太王の功績を讃えるため、潤色や誇大表現、さらに虚構があっても不思議ではありません。
なぜ倭ではなく百済を攻撃? 好太王碑文によれば、百済と新羅はもともと、高句麗の属民だったが、391年に倭が両者を破り臣民としたということです。これに対して、396年に高句麗が百済を討科したとなっています。倭が高句麗の支配領域に侵入し、百済と新羅を臣民としたのだから、高句麗は倭と戦うはずなのに、なぜか百済を攻撃しています。 399年に、倭は百済・新羅国境に満ち、新羅は高句麗に救援を要請したようで、400年に高句麗は倭を討ち、任那加羅に追撃しています。 404年に、倭が高句麗・百済国境付近に侵入して来たので、高句麗が戦って、壊滅的打撃を与えたということです。しかし、百済が参戦したかどうかについては全く触れていません。 著者は、次(33〜34ページ)のように、「属民」や「臣民」については、表現方法の問題であり、「渡海」は軍事侵攻ではなく派兵であり、史実とみなしても差しつかえないと述べています。
「全て虚構として作られた文章」 一方、4世紀の韓日関係史−広開土王陵碑文の倭軍問題を中心に−は次のように、これらは「全て虚構として作られた文章である」と主張しています。つまり、これらの文章は、百済討伐の名分を述べたに過ぎないということです。このように考えれば、高句麗が倭と戦うのではなく、百済を攻撃したことにも納得が行きます。そもそも、駆逐すべき倭の勢力などは存在しないのですから。
倭軍は巡邏兵で主力は加耶? 好太王碑文は、400年と404年の戦いは、もっぱら高句麗と倭の対立として描かれています。本書では、これらの戦いには簡単に触れているだけですが、4世紀の韓日関係史−広開土王陵碑文の倭軍問題を中心に−は詳細に論じています。 まず、400年の戦いについて、次のように分析しています。
404年の侵攻には、多くの疑問 404年の倭の侵攻についても、多くの疑問があります。400年の戦いが行われた新羅城や任那加羅は、対馬と近距離にありますが、404年に侵入した帯方界は、現在のソウルよりも北に位置し、加羅から西北に迂回し相当の距離があります。戦況が不利になったとしても撤退は困難です。にもかかわらず、どのような理由で出兵したのでしょうか。海路を渡ったのか、陸路をたどったのか不明です。また、百済も参戦したのか、倭の単独出兵だったのかも明確ではありません。 4世紀の韓日関係史−広開土王陵碑文の倭軍問題を中心に−によると、永楽14年甲辰条の碑文は次のとおりです。百済の文字はなく、数か所判読不明の文字があります。
「百済との共同作戦と見るのが妥当」 論文では、百済との関連について、次のように推論しています。「和通残兵」とは、百済と和通して新羅に出兵したという倭の勢力の残存部隊を指すようですが、判読不明文字に、この4文字を自由にあてはめるのは、もはや解釈の域を超えているように思われます。結局、他の文献等を比較検討した結果、「百済との共同作戦と見るのが妥当」という結論を導いているようです。
404年の出兵は、加耶が媒介? 論文は、考古学的発掘成果や記録、当時の国際交易の状況などを踏まえて、次のように論考を続けます。
圧倒的な戦力差 本書では、倭の敗因を次のように推測しています(37〜38ページ)。高句麗が、最新式の騎兵を繰り出したのに対し、倭は旧式の重装歩兵で対抗したため、圧倒的に戦力差があったと説明しています。
「倭が優位にあったとは言い難い」 4世紀の韓日関係史−広開土王陵碑文の倭軍問題を中心に−でも、軍事的格差について、次のように説明しています。中国文明と接していて実戦経験豊富な高句麗は「すでに重装騎兵に代表される先進的な騎馬武装が組織的に運営されていた段階であった」ということです。一方、伽耶も「一部上層部を中心に断面稜形鉄鉾と縦長板釘結板甲を主とする先進武装体系を整え、重装騎兵戦術を活用して」おり、「戦争に直接的に影響を及ぼす馬具、甲冑、武器の格差が大きい状態にあったので、倭が加耶に対して政治的や軍事的に優位にあったとは言い難い」と指摘しています。
帯方地域をめぐる争い 帯方郡は、3世紀の初め頃(205年ごろ)、後漢の遼東太守であった公孫氏が、朝鮮の楽浪郡の南半分を割いて置いた郡で、その範囲は現在の北朝鮮に含まれる黄海北道・南道から軍事境界線の南、ソウル付近まで及んでいたと考えられています(世界史の窓/帯方郡)。魏が一時この地域を支配しており、この地名は魏志倭人伝にも登場します。高句麗が、313年に楽浪郡を、314年に帯方郡を滅ぼしたため、百済と国境を接することとなります。 4世紀の韓日関係史−広開土王陵碑文の倭軍問題を中心に−は、次のように述べて、高句麗と百済の戦いは、単純な領域争いにとどまらず、旧帯方地域という古代国家の運営に必要な高級文化に関する所有権の争いでもあったと指摘しています。
閉店間際の大盤振る舞い? 中国の南北朝時代の南朝の最初の王朝である宋(420〜479)には、倭の五王が遣使し冊封されています(世界史の窓/宋(南朝))。 五王に対する叙正(叙授、叙爵)の内容は次のようなものです(50〜51ページ)。「安東将軍、倭国王」の地位は初回のご祝儀として全員に認められています。「使持節都督、倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事」の地位は、済と武のみに認められています。さらに武は、「安東大将軍」の地位も認められています。
倭国王の系譜は断絶か 倭の五王と同時代の天皇は次のとおりです。日本書紀は編年体で編集されているので、在位期間と没年は西暦に換算することができます。没年の干支も西暦から算出することができます。一方、古事記は物語風に編集されていて、没年の干支しか記載されていません。したがって、西暦に換算する場合、60年単位のずれが生じます。つまり、古事記の没年の西暦年は、複数の候補のひとつに過ぎません。なお、古事記では、安康の没年の干支は記載されていません。
この点について、著者は次のように述べています(49ページ)。
衰退する百済、発展する新羅 百済と新羅は、4世紀に周辺勢力を統合して国家を形成します。百済が順調に発展し、高句麗と覇権を争うようになりますが、新羅は発展が遅れ、高句麗に従属する状態でした。 5世紀には、百済は高句麗に漢城を奪われ、拠点を南方の熊津(ゆうしん)に移します。一方、新羅は高句麗から自立し、百済と連携し高句麗に対抗するようになります。 6世紀に入ると、百済は、伽耶諸国へ勢力拡大し、王都を泗沘(しび=現在の扶余)に移します。新羅は、伽耶の盟主であった金官伽耶を滅ぼし、盟主の地位を引き継いだ大伽耶を滅ぼします。この結果、伽耶地域は、百済と新羅に併合され消滅します。新羅は、漢城を占領し西海岸に進出します。これにより、中国王朝と直接接触できることとなりました。 7世紀になると、百済は高句麗と連携し新羅へ侵攻を始め、新羅は唐に依存し、高句麗と百済に対抗するようになります。唐は、和睦を命じたものの、百済は侵攻を続けたため、660年、新羅とともに百済を攻め王都を占領し、王族らを長安に連行します。
6世紀の朝鮮半島の勢力図は次のようになっています( 6世紀の朝鮮半島(『詳説日本史』34頁、カラー))。百済は高句麗に圧迫され、都を漢城から、熊津(ゆうしん)、泗沘(しび=現在の扶余)へと後退させ、伽耶諸国へ勢力拡大を図っています。新羅は金官伽耶、大伽耶を滅ぼし、伽耶地域に勢力を拡大するとともに、 漢城を占領し、西岸まで領域を拡げています。 6世紀末の3国の領域は次のようになっています( 朝鮮三国時代)。100年間で新羅は急拡大しています。 百済遺臣らが蜂起 本書を参考に、百済滅亡後の動きをまとめると次のようになります。黄色は百済遺臣の動きで、朱色は倭国の動きです。
百済の滅亡とその後の遺臣らの蜂起の知らせを受けて、斉明天皇はじめ倭王権の中枢部は、百済復興支援の派兵を決め、661年1月に難波を出航します。斉明天皇は、661年7月に九州の朝倉で死去し、以降は中大兄が、即位しないまま称制を行い、指揮を執ります。 9月に、第1次百済救援軍5000人が派遣され、余豊璋と救援物資を送り届けます。余豊璋は百済の王族で20年ほど前に来日していたが、百済が滅亡したため、遺臣らから新たな王として迎えたいという要請があったということです。救援軍は、戦闘に参加せず引き揚げますが、一部は現地に留まったようです。本書によると、秦田来津(はだのたくつ)は戦略決定にかかわり続け、白村江で戦死しています。なお、ネット情報では、田来津は、朴市秦造田来津(えちはたのみやつこたくつ)というそうです。 倭国軍と豊璋との間に不協和音 662年5月に豊璋は百済王の位に即きます。しかし、12月には、次のように(131ページ)、倭国軍と豊璋や福信との間に意見の対立が生じます。この記述からは、蜂起勢力が守勢に回っていることがうかがえます。なお、最終的には蜂起勢力は周留城に立てこもり最後の攻防が行われます。
豊璋が福信を殺害 663年3月、第2次百済救援軍2万7000人が新羅を攻撃するため渡海し、6月、新羅の2城を攻めとります。しかし、このころ蜂起勢力で内紛があり、豊璋が福信を殺害するという事件が起こります。本書ではその経緯を次のように説明しています(136〜137ページ)。
白村江は広大な干潟? 白村江の戦いの関連地図は次のとおりです(118ページ)。 1913年に出された津田左右吉以来の通説(津田左右吉「百済戦役地理考」)では、白村江は錦江の河口とされてきました。そして、州柔城(䟽留城・周留城)は、乾芝山城(青線)と考えられてきました。 しかし、近年の発掘で、乾芝山城が高麗時代以降の山城であることが明らかになったということです。そして、現地の山城を50年以上にわたって踏査した全榮來氏によると、位金岩山城(赤線)こそ周留城に相応しいということです(全榮來『百済滅亡と古代日本- 白村江から大野城へ-』)。著者が実際登ってみた結果、位金岩山城の方が、「険しい山々を防壁とし、山高く谷せまくて、守るに易く攻めるに難い」と実感したということです(132〜134ページ)。位金岩山城こそ周留城に相応しいということになると、白村江は東津江河口と考えるのが妥当となりますが、著者が現地を踏査した印象では、大軍を配置できるような大河ではないということです。そこで、著者は、白村江は錦江河口から東津江河口までの広大な干潟を指していたと推測しています(140〜141ページ)。 2万7000人は、どこへ行ったのか 百済遺臣の蜂起当初は、唐の占領軍は泗沘城に孤立していましたが、新羅からの援軍もあって、次第に勢力を盛り返して行きます。663年5月に唐の増援軍7000人が到着します。8月には、唐と新羅の陸軍が周留城を包囲し、唐の海軍が白村江を封鎖し、倭国の第3次百済救援軍1万余人に備えます。第2次百済救援軍2万7000人は、6月に沙鼻城と岐奴江城 (緑線)を攻略していますが、その後の動静は日本書紀には記されていないそうです(143〜144ページ)。 豊璋は部下を見捨てたのか 白村江の戦い前後の経緯は次のとおりです。
8月13日、豊璋は「白村まで行き、そこで救援軍を迎える」と将軍たちに告げたということですが、本書ではその経緯を次のように説明しています(142〜143ページ)。
周留城攻撃が迫っている時期に、周留城を出ることは自らを無防備な状態にさらすことを意味します。倭国の救援軍と合流する前に、敵に見つかれば全滅する可能性がありますから、危険な賭けといえます。 したがって、「豊璋が部下を見捨てて倭国軍に保護を求めた」というのはちょっと違う感じもします。 遅延が勝敗の明暗を分けた 結局、唐と新羅が機先を制する形で、8月17日に、陸軍が周留城を包囲、水軍は軍船170艘で白村江に布陣します。8月27日になって、ようやく倭国の水軍の先着部隊が到着し、唐の水軍と衝突するものの敗退します。翌8月28日には、倭国の水軍の後続部隊が次々に到着し決戦を挑むが大敗し、第3次救援作戦は失敗します。 8月13日に豊璋が計画を告げたときから、8月27日の先着部隊の到着まで2週間経っていますから、倭国の水軍の到着は、予定より10日以上遅れたことが推測されます。一方、8月17日には、周留城包囲と、白村江布陣が行われていますから、唐と新羅が、何らかの方法により、倭国の水軍の到着を察知していたか、豊璋の発言の内容を敵側に通報していた者がいたため、布陣を急いだ可能性があります。 倭国の水軍が8月17日以前に到着していれば、周留城の救援に間に合ったことになります。倭国水軍到着の遅延が、勝敗の明暗を分けたといえそうです。 唐の戦艦は高い戦闘能力 唐と倭国の水軍の戦力格差について、本書では次のように述べています(144〜145ページ)。
復元模型は次のようになっています。 準構造船は次のような構造です(準構造船)。 復元想像図は次のようになっています。 復元された遣唐使船は次のようになっています(復原遣唐使船】奈良では珍しい「船」の展示からかつての「大航海」に思いをはせる | 奈良まちあるき風景紀行)。ただし、これは全くの想像に過ぎません。 倭国の船が準構造船だったとするなら、それに比べ、唐の戦艦はかなり巨大だったことになります。ただし、速度や俊敏性においては、準構造船の方が有利ではなかったかと思われます。また、唐の水軍において、戦艦がどの程度の比率を占めていたのかも明らかとはなっていないようです。 さらに、具体的な戦闘がどのように行われたのかについても、本書に記述はありません。日本書紀や旧唐書にも、具体的な記述はないようです。陸上戦の戦闘方法や壇ノ浦の戦いの模様から類推すると、ある程度接近すれば、矢を放ちあい、船がぶつかるまで接近すれば、互いの船に乗り移って白兵戦となるものと思われます。火の付いた矢を打ち込んだり、焙烙玉を投げ込んだりするのも有効ですが、この当時は火薬はありません。 唐の戦艦は高い位置から矢を射ることができますし、相手の矢も容易に防ぐことができます。つまり、唐の戦艦は、高い戦闘能力がありますから、倭国船としては、戦いを避け、矢の届かないだけの距離を保つのが最善の防御策といえます。 白江は水路の防御の要 では、白村江では、倭国は不利を承知でなぜ戦いを挑む必要があったのでしょうか。それは、周留城救援のためには、白江(白村江)を通過する必要があったからではないでしょうか。 本書では660年の百済滅亡の経緯について次のように説明しています(112〜113ページ)。
熊津江は、錦江の上流部か 伎伐浦では、676年に新羅と唐の海戦が行われ、唐水軍が敗れています(『むくげ通信』270むくげの会2015.5)。 伎伐浦には、現在、長項スカイウォークという展望台が作られ観光名所となっています(長項スカイウォーク(伎伐浦海戦展望台))。 660年の百済滅亡の関係図は次のようになっています( 『むくげ通信』270 むくげの会 2015.5)。7月9日の白村江の戦いとあるのは、 百済軍が熊津江の入口を塞いで戦ったことを指していると思われますが、唐軍は白江を通過してしまっているので、白村江の戦いと呼ぶのには少し違和感を覚えます。また、熊津江というのは、錦江の上流部を指しているではないかという感じもします。 熊津江から白江に往き、陸軍と合流 日本書紀によると、663年6月の蜂起軍の内紛を知った新羅が8月に入って州柔城攻略を図ったということですが、旧唐書によれば、唐と新羅の連合軍による軍事作戦も作成されたということです。本書では、その経緯を次のように説明しています(137〜138ページ)。
そして、通説にしたがって、周留城が乾芝山城だとするならば、水軍が熊津江から白江に往き、陸軍と合流して周留城を攻撃するというルートが無理なく説明できます。そして、倭国の水軍は白江を通らなければ、周留城救援に向かえないのですから、不利を承知で戦いを挑まなければならないことになります。 また、8月17日に、唐の水軍が白江に到着したにもかかわらず、すぐに周留城攻撃に向かわず、27日まで留まり続けたことも納得できます。何らかの手段により、第3次救援軍の派兵を知ったため、当初の計画を変更して、白江で倭国の水軍を迎え撃つことにしたと推測できるからです。 一方、周留城は東津江流域の位金岩山城であったとすると、説明が難しくなります。唐の水軍が白江で待ち構えていても、倭国の水軍はそれを無視して、東津江を遡って周留城救援に向かえば良いからです。 したがって、周留城は位金岩山城であったとして、無理なく説明しようとすると、白江は東津江河口だったとせざるを得なくなります。三国史記によれば、白江は錦江河口を指すが、旧唐書では白江は東津江河口を指すと考えるのです。あるいは、本書のように、白江は錦江河口から東津江河口までの広大な干潟を指すと考える方法もあります。しかし、いずれも、少し苦しい説明と言えるでしょう。 やみくもに突撃をくりかえした? 本書では、白村江の戦いの様子を次のように描いています(146〜149ページ)。
前述のように、倭国の水軍は白江を通らなければ、周留城救援に向かえないという状況にあったとするなら、相手の術中にはまるのを承知で強行突破を図るか、周留城救援を断念するかの二者択一しかなかったことになります。 さらに、前述のように、唐と倭国の水軍に圧倒的な戦力格差があったとするならば、どのような戦略や戦法を取りえたのでしょうか。結局、トップの大局的な判断ミスという外ないのであって、敗戦の責任はもっぱら現場指揮にあったとする日本書紀の記述は、問題の本質をすり替えるものといえそうです。 韓国では白村江の戦を教えていない 韓国や中国にとっての、白村江の戦の意味について、本書では次のように述べています(152〜153ページ)。
結局、日本書紀の記載がもっとも詳しいということになります。日本書紀の編纂が始まったのは680年ころですから、当時は白村江の戦いが生々しい記憶として残っていたことになります。したがって、客観的な事実関係については、一応信頼してよいと思われます。しかし、中大兄(天智天皇)の敗戦責任を回避するための潤色がなされている可能性は否定できないのではないでしょうか。 国内的な要因による戦争? 白村江の戦いの対外的目的については、本書では次のように説明しています(154ページ)。
また、Cについては、敗戦後、次々と山城を造り、都も近江に移転する狼狽振りからは、とてもそのような深謀があったとは思えません。 結局、「朝鮮諸国を下位に置き、蕃国を支配する小帝国を作りたいという願望」から、十分な情報収集や慎重な計画もなく、安易に海外派兵に踏み込み、痛い目にあって、羹に懲りて膾を吹くということになったのではないでしょうか。 朝鮮半島の情勢は急変 本書の記述(166〜181ページ)を参考に、白村江の戦いの後の倭国と朝鮮半島の状況をまとめると次のようになります。紫色は唐・新羅と倭国の関係、青色は倭国内の状況、茶色は朝鮮半島の状況を示しています。朝鮮半島の情勢はめまぐるしく動き、高句麗を滅ぼした後、同盟関係にあった唐と新羅の間に戦争が勃発します。
唐は倭国侵攻を準備? 唐の軍事行動の目標は、当初から高句麗攻略にあったのですから、その前に倭国に侵攻して戦力を消耗する余裕はなかったと考えるのが自然と思われます。この点について、本書は次のように述べています(166〜167ページ)。
唐は和親を求めていた? 664年と665年の唐の使節派遣について次のような見方があります( 「白村江の戦」後の天智朝外交)。唐が和親を求めてきたということについては研究者の間に異論はないようですが、倭国も和親に積極的であったかどうかについては意見が分かれていて、積極的であったとする説と消極的であったとする説があるそうです。
その後、666年に唐と新羅による高句麗攻撃が始まり、劣勢の高句麗から救援要請がありますが、天智政権はそれに応じることはなく、668年に高句麗は滅亡します。 外託征伐倭国其実欲打新羅 「『三国史記』新羅本紀によれば、船舶を修理して倭国侵攻の準備をおこなっていた」という指摘に対しては、この論文は次のように述べています。
政変の背景には外交方針をめぐる対立? 乙巳の変と対朝鮮外交との関連について、本書では次のように述べています(106ページ)。
「対朝鮮外交との関連を考える論考」では、改新政治を「急進的な孝徳大王の改革」(親唐派)と「抵抗勢力」たる中大兄(親百済派)の対立と評価するそうです( 外交拠点としての難波と筑紫)。 この論考を参考に、7世紀後半の倭国政権の対朝鮮外交方針の推移をまとめると次のようになります。
一方、軽皇子と蘇我石川麻呂が首謀者であったとすると、孝徳(軽皇子)を中心とする改新政権が、大化年間に中国からの帰朝者を重用し,新羅との積極的交渉を試み、新羅使も来朝していることや、百済への遣使がないことも容易に説明できます。 このように理解すると、乙巳の変は、軽皇子を中心とする親唐・新羅派と、中大兄をする中心とする親百済派が、蘇我宗家を倒すために手を組んだクーデターだったということになります。 孝徳没後、皇極が斉明として重祚し、親百済路線を突き進み、百済滅亡後、百済復興支援のため九州へ出向くも志半ばで死去、跡を継いだ中大兄が白村江で大敗し、親百済路線は挫折します。 戦後処理として、唐・新羅との関係修復が必要となりますが、唐と新羅との戦争が始まり、どちらに付くかの選択を迫られることになります。天智が病となり、近江政権を主導した大友皇子は、唐に武器と軍事物資を供与しますが、大海人皇子が壬申の乱で近江政権を倒し、天武天皇として即位します。唐と新羅との戦争は676年まで続きましたが、天武政権が軍事的に関与することはなかったようです。 天皇のひ孫が即位するのは異例 倭国の対外政策と関連して、乙巳の変をめぐる権力構造がどのようになっていたのか興味を惹かれるところです。軽皇子や中大兄の関係する系図は次のようになっています(秋の山〜姉弟の物語(2020年11月))。 中大兄(天智)は舒明天皇の息子ですが、異母兄弟に古人大兄がいました。古人大兄の母は蘇我馬子の娘の蘇我法提郎女で、バックに蘇我宗家が付いていましたから、次期天皇の有力候補でした。 一方、次の系図(山川&二宮ICTライブラリ)が示すように、軽皇子(孝徳)は、敏達天皇の孫の茅淳王の子に過ぎません。継体以降は、天皇の子(皇子、皇女)が異母兄弟間で順番に位を継承する慣習になっていたようです。同母兄弟では年長者が大兄と呼ばれ継承資格を認められていたようです。また、田村皇子(舒明)と山背大兄王は、ともに敏達天皇の孫で、皇位を争い、結局、田村皇子が即位していますから、天皇の孫にも継承資格を認められていたようです。ただし、軽皇子のように天皇のひ孫が即位するのは異例です。なお、同じく天皇の孫でも、田村は皇子と呼ばれ、山背は王と呼ばれています。 一番得をしたのは軽皇子 日本書紀によれば、乙巳の変後、皇極は中大兄に譲位しようとしたが、 中大兄は軽皇子を推し、軽皇子は古人大兄を推し、古人大兄は固辞し出家したため、軽皇子が譲位を受け入れ、即位したことになっています。そして、古人大兄は、謀反を理由に、ほどなくして処刑されています。結局、一番得をしたのは軽皇子ということになります。その意味では、軽皇子と蘇我石川麻呂が、乙巳の変の首謀者であったする説にも十分の説得力があります。 反孝徳勢力を自派に吸収? 古人大兄「謀反」事件の処理について、次のような見方があります(外交拠点としての難波と筑紫)。軍の派遣は、9月と11月の2度あったということですが、9月の派遣から2ヶ月間、古人大兄は無事でいられたということでしょうか。
皇極は強制的に退位させられた? 乙巳の変の後、なぜか皇極は退位し、軽皇子(孝徳)に譲位し、孝徳の死後、斉明として重祚しています。生前退位と重祚は、きわめて異例です。これについては、次のように、皇極は強制的に退位させられたとする説があります(外交拠点としての難波と筑紫)。「新羅援軍の条件として女王を廃し唐王族を王とせよ」というのは新羅の弱みに付け込んだ唐の無茶な要求というべきであって、そんな「唐に迎合するため皇極の強制退位を選択」するというのは、随分弱腰だと思われます。
歴代天皇の生年、即位年、退位年は、おおよそ次のようになっています( 天武天皇の年齢研究−歴代天皇の年齢)。100歳を超える長寿の続く仁徳以前の天皇は実在が疑われますが、継体以降は、確実に実在したと考えて良いと思われます。 ただし、生年については必ずしも明らかではありません。それを前提として、継体から桓武までの歴代天皇の即位時の年齢、退位時の年齢、在位期間をまとめると次のようになります。古代においては生涯現役が原則ですから、譲位を除いては退位年齢は没年齢と重なります。 40過ぎてからの即位が多く、30代での即位は少数です。壬申の乱で滅ぼされた大友皇子(弘文)以前には、20代での即位はありませんから、20歳そこそこの中大兄が即位するのには、やはり無理があったようです。朱色で示したのは女性天皇です。皇極は譲位後、斉明として重祚し、孝謙は譲位後、称徳として重祚しています。
皇極と孝謙は譲位後に復権 女性天皇で生前に譲位しなかったのは、推古のみです。 持統は少年の文武を即位させるため譲位し、元明と元正は、聖武が成人するためまでの繋ぎとして、即位と譲位を行ったものと思われます。 皇極と孝謙は譲位した後に復権していますから、譲位は必ずしも本位ではなかったものと推測されます。 皇極の即位から退位、斉明としての重祚前後の経緯をまとめると次のようになります。
境部摩理勢、山背大兄を抹殺しています。蘇我馬子は、崇峻天皇を殺害していますから、逆賊ということになりますが、日本書紀によると崇峻が先に馬子を殺そうとしたとなっています(崇峻天皇(十六)いつか、この猪の頸を斬るように、朕が妬み嫌っている人を斬ろう)。 推古没後、山背大兄と田村皇子(後の舒明)が後継を争います。両者の関係は次の系図(大王(天皇)家・蘇我氏関係系図(『山川 詳説日本史図録』33頁) )のようになっています。山背大兄は蘇我の血を引いていますが、田村皇子は蘇我の血筋ではありません。にもかかわらず、蝦夷は田村皇子を支持し、山背大兄を支持する境部摩理勢(蝦夷のおじ)を抹殺しています。 舒明の没後、642年に皇極が即位しますが、その翌年の643年には山背大兄が蘇我入鹿に攻め滅ぼされます。そして645年に乙巳の変で蘇我入鹿・蝦夷親子が中大兄らに攻め滅ぼされ、皇極は動乱続きの在位4年で譲位します。 その後は、中大兄が暗殺劇の主役となり、政敵を執拗に追い詰め抹殺して行きます。孝徳については、暴力的手段によって抹殺したわけではありませんが、中大兄が皇極上皇、間人皇后、弟たち、公卿大夫・百官を引き連れては 倭の飛鳥河辺行宮へ移動し、孝徳だけが難波宮に残されたというのですから、一種のクーデターであったと思われます。実際の力関係がどうなっていたのかは分かりませんが、政権は難波と飛鳥に分裂したことになります。ほどなくして孝徳が病死したため、その分裂は解消されました。 神功皇后以来、新羅は日本の属国だった? 唐と新羅の戦争については、天武政権は関与しなかったようですが、奈良時代に入っても、日本は朝鮮半島への積極的関与の意図は持続していたようです。 天平勝宝4年(752年)に来日した新羅使の新羅王子・金泰廉(きんたいれん)の奏言と、それに答えた孝謙天皇の詔は次のようなものだったそうです(191〜192ページ、舟かじは旧字が見つからなかったのでひらがなにしています)。
日本書紀による神功皇后伝説=三韓征伐(皇紀860年、西暦200年)は、卑弥呼(〜248年)の時代よりも前の話ということになりますが、そのころの倭国が大船団を組織し、新羅、百済、高句麗を完全制圧するということは、およそ有り得ないことで、中国の歴史書にもそのような記載はありません。しかし、奈良時代の孝謙天皇はそれを歴史的事実と認識していたようです。 白村江の敗戦を、神功の勝利で、重ね塗り? 神功皇后伝説の成立過程について、次のような意見があります(日本古代の朝鮮観と三韓征伐伝説 一朝貢・敵国・盟約一)。
白村江の敗戦と神功皇后伝説には、次のような類似が見られます。斉明と仲哀は遠征途上に九州で急死し、中大兄と神功がその後を引き継ぎます。ただし、中大兄は敗退しますが、神功は大勝します。白村江の敗戦を、同じような経緯をたどった神功の勝利で、重ね塗りし帳消しにしようとしたようにも思われます。
この点は、日本書紀成立当時の事情と関係しているのかもしれません。日本書紀の編纂は、天武(673-686)の時代に始まりますが、その後、持統(690-697)、文武(697-707)、元明(707-715)を経て、720年、元正(715-724)のときに完成しています。この間の系図は次のようになっています(光明皇后(三)聖武天皇の即位と長屋王政権の始まり|日本の歴史)。 天武没後、大宝律令を完成させたのは実質的には持統ですし、奈良遷都が行われたのは元明のときです。男性を受け継いだ女性が事業を完成させるという構図になっています。 不比等没後、長屋王が実権 持統(645〜702)は、673年、天武即位とともに皇后となります。686年の天武没後は自ら政務に努め、689年、息子の草壁が早世したため、翌690年自ら即位します。697年、15歳の孫の文武に譲位し、上皇として後見し、702年死去します。707年、文武は24歳で早世します。 その後、文武の母の元明(在位707-715)と姉の元正(在位715-724)を経て、青年となった聖武(701〜756)が即位します。 この間、政権の実権を握っていたのは藤原不比等(659〜720)です(二つの顔を持つ男、不比等(コラム) - 奈良県)。 720年に不比等が亡くなり、その後は長屋王が皇親勢力の代表者として実権を握ります。長屋王は、次の系図(長屋王の変)のように、天智と天武の孫で、藤原の血筋ではありません。 辛巳(しんし)事件では、「聖武天皇が母親である藤原宮子に「大夫人(だいふにん)」の称号を与えようとすると、長屋王がそれを差し止めさせ」たということです(藤原四兄弟とは?奈良時代前半に権勢を振るった4人のについて簡単に解説 | 奈良まちあるき風景紀行)。 「彷徨の王権 聖武天皇(遠山美都男)」(75〜77ページ)によると、天皇の妻の名称は、公式令(くしきりょう)により、次のように定められていたということです。
皇太夫人と呼ぶべきところを、大夫人と呼ぶのは格下げとなってしまいます。文武がなぜそのような勅を出したのか、理解に苦しむところです。勅を撤回した文武は顔をつぶされた形になりますが、そのことが長屋王の変につながったとしたら、逆恨みのような気もします。 「彷徨の王権 聖武天皇(遠山美都男)」(75〜77ページ)では、この勅を出した主体と理由について、次の2説を紹介しています。
むしろ、聖武天皇が公式令の規定を知らなくて勅を出し、長屋王に公式令の規定の存在を指摘され、あわてて勅を撤回と考えるのが自然な感じもします。
藤原4兄弟が、長屋王を抹殺? 727年、聖武天皇と安宿媛(後の光明皇后)の間に基王が生まれ立太子されましたが、翌728年に死去し、県犬養広刀自との間にが安積(あさか)親王が生まれます。そのことに危機感を抱いた藤原4兄弟が、光明立后を企て、それに対する反対派の中心となりそうな長屋王を抹殺したのが長屋王の変であるというのが一般的な理解です(長屋王の変)。 天智から桓武までの天皇家の系図は次のとおりです(「史上初」女子たちのプレッシャー 光明皇后と孝謙(称徳)天皇)。
対新羅、協調路線と強硬路線 長屋王を滅ぼし、光明立后に成功し、藤原4兄弟が政治の実権を握りますが、このころから新羅との関係がギクシャクし始めます。 668年に高句麗を滅ぼした後、唐と新羅は対立するようになり、670年に軍事衝突が始まります。676年に新羅が唐軍を撃退しますが、その後も唐との緊張関係は続きます。そのため、新羅は倭国との関係を維持する必要があり、倭国に朝貢を行うという形態を受け入れます。 しかし、その後、新羅と唐との関係は改善し、735年には唐から朝鮮半島の領有を認められます。そうなると、新羅は日本に朝貢することは必要ではなくなります。しかし、日本は従来の維持しようとします。そして、736年の遣新羅使が、新羅より「常礼」を欠く対応を受けたとして、737年に新羅征討論が唱えられるようになります(新羅征討計画における軍事力動員の特質)。 一方、新羅側の史料には、朝貢関係を示す記述が見当たらないことから、日本の中華思想が新羅との間で実際に機能していたかについては疑問を示す意見もあります(日本律令国家の中華思想 : 奈良時代の対新羅意識の展開を中心に)。さらに、新羅側の史料には、722年と731年に、新羅が日本の侵攻に対して反撃したという記述があるそうです。 736年に遣新羅使が、新羅より「常礼」を欠く対応を受けたことについて、737年の内裏で協議したところ、遣使によってその真意を問う協調路線と「征伐」を加えようとの強硬路線があったものの、結局、伊勢紳宮や香椎宮に、奉幣し(供物を捧げ)、状況を報告したにとどまったということです。 このような状況について、上記論文では次のように述べています。
孝謙上皇が権力闘争に打ち勝ち重祚 藤原4兄弟が亡くなった後、政治を主導したのは橘諸兄です。次の系図(第I部 原始・古代 第2章 律令国家の形成 3 平城京の時代 2)が示すように、橘諸兄は光明子の異父兄弟ですが、藤原氏の血は引いていません。 橘諸兄は吉備真備と玄ムを重用します。吉備真備と玄ムは、717年、遣唐留学生として唐に渡り、735年に帰国しています。同じ留学組に阿倍仲麻呂がいますが、帰国がかなわず唐で没しています。 吉備真備と玄ムの重用に不満を持った藤原広嗣が九州で挙兵するも、鎮圧されます。しかし、光明皇太后の信任が大きかった藤原仲麻呂が勢力を持ち始めたこともあって、吉備真備と玄ムは左遷されます。その後、橘諸兄の引退、橘奈良麻呂の反乱鎮圧を経て、藤原仲麻呂の実権が確立します。しかし、光明皇太后没、藤原仲麻呂の勢力は減退し、孝謙上皇との権力闘争に劣勢となり、反乱を企てるも失敗し、処刑されます。権力闘争に打ち勝った孝謙上皇は、その後、称徳天皇として、重祚します。
4万人の動員計画 藤原仲麻呂は、759年から新羅征討の準備を始めます。計画は次のように進行します(新羅征討計画における軍事力動員の特質参照)。
当時の東アジア各国の勢力範囲は次のようになっています(渤海|世界の歴史まっぷ)。日本と渤海は友好関係にありました。幽州から洛陽にかけて反乱勢力が支配していますから、日本が新羅を攻めても、唐が新羅を支援するのは難しいという見方も成り立ちえます。 新羅征討の準備は759年に始まりますが、まず、行軍式の作成と船の建造が命じられ、香椎廟への奉幣がなされます。行軍式の作成には、吉備真備が関与していたようですが、具体的内容は伝わっていないそうです。船の建造には3年かかるので、出兵が可能となるのは762年と見られていたようです。なお、香椎廟の竣工は724年だそうです(香椎宮のこと|夫婦の宮、香椎宮)。 『続日本紀』天平宝字5年(761)11月丁酉条の記事から、動員計画の概要をまとめると次のようになります(新羅征討計画における軍事力動員の特質)。総数は、船394隻、軍団兵士40700人、子弟202人、水手17360人となります。しかし、760年に光明皇太后に亡くなり、以降、藤原仲麻呂の勢力は減退し、孝謙上皇派が実権を握り、763年には計画は停止されます。764年、藤原仲麻呂は武力蜂起に失敗し処刑されます。 平安時代の日本外交は積極的孤立主義 平安時代の日本の外交姿勢について、本書では次のように説明しています(209ページ)。
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