そもそも慰安所制度を考案したのは軍であるが、ソープランドを考案したのは警察や保健所ではない。軍人の志気の高揚、反日感情抑止のための(ごうかん)強姦防止策、性病予防、軍の機密(ろうえい)漏洩防止などの必要性から慰安所設置の具体的施策は現地軍が策定し、陸軍省もこれに指示をあたえた。上海派遣軍参謀副長であった岡村寧次は、「斯(か)く申す私は慰安婦案の創設者である」(稲葉正夫編『岡村寧次大将資料』上巻・戦場回想篇)などといい、一九三二年、上海事変のとき、強姦事件が発生したため海軍にならい、長崎県知事に要請して慰安婦団を招いたとも記している。私たちの知っている方々では、中曾根康弘元首相も主計将校として部下のためインドネシアで慰安所をつくってやったと自慢している。松浦敬紀編『終りなき海軍』の「二十三歳で三千人の総指揮官」からその部分を引用してみよう。
三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。 |
中曾根主計将校の目には慰安所に群れる兵隊の姿は"たらいのなかにひしめくイモ"に映っていたわけだ。なお、日本兵に襲われた「原住民の女」の証言は拙著『インドネシアの「慰安婦」』に記したので参照されたい。
また、産経新聞・フジテレビ社長となった鹿内信隆氏は陸軍経理学校で慰安所開設の仕方を教わったそうだ。これも櫻田武・鹿内信隆『いま明かす戦後秘史』上巻から引用しておこう。
そのとき〔慰安所の開設時〕に調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの"持ち時間"が、将校は何分、下士官は何分、兵は何分……といったことまで決めなければならない(笑)。料金にも等級をつける。こんなことを規定しているのが「ピー屋設置要綱」というんで、これも経理学校で教わった。この間も、経理学校の仲間が集まって、こんな思い出話をやったことがあるんです。 |
ピー屋というのは慰安所のこと、ピー屋設置要綱はつまり、慰安所利用規則や軍人(クラブ)倶楽部利用規定のたぐいである。
「女の耐久度とか消耗度」まで陸軍経理学校で教える「軍の関与」のあり方は、正常とは思えないが、それを当然とみる神経も相当に異常だ。 [川田文子] |