読書ノート / 西洋史
 権謀術数渦巻くイギリス革命前史

 イギリス革命史(上)オランダ戦争とオレンジ公ウイリアム
編・著者  友清理士(ともきよさとし)/著
出版社  研究社
出版年月  2004/7/25
ページ数  270 
判型  B6判
税別定価  2400円(品切れ) 

 アマゾンオンデマンド(ペーパーバック)で3888円です。通常の単行本で税別2400円でしたから少し高い気もしますが、1冊ごと印刷するから(1冊丸ごとコピーするようなもの)結構コストがかかるのかもしれません。

●名誉革命は牧歌的なものではなかった 
 本書は、名誉革命をテーマとした「イギリス革命史」の上巻で、清教徒革命から名誉革命前夜までを扱っています。
 名誉革命についての教科書的な理解は次のようなものが一般的と思われます(名誉革命(めいよかくめい)とは - コトバンク)。
《Glorious Revolution》1688〜89年の英国の無血革命。国王ジェームズ2世のカトリック復活政策と議会無視に反対した議会が、国王を国外に追放し、その長女のメアリー2世と夫のオレンジ公ウィリアム3世を共同統治者にしたもので、新国王は議会の決議した「権利宣言」を承認、「権利章典」として公布し、これにより英国立憲君主制の基礎が確立された。
 つまり、名誉革命の主体はイングランド議会で、ほとんど犠牲者を出さず(これが名誉)国王を追放し、オランダからオレンジ公ウィリアムを迎えて国王とし、「君臨すれど統治せず」というイギリス流立憲君主主義の土台を作ったというものです。 
 しかし、著者は「まえがき」で次のように述べています(Bページ)。
 イギリスの名誉革命といえば無血革命として知られている。ジェームズ二世の専制に耐えかねた議会がオランダのオレンジ公ウィリアムとその妃メアリーを招いて王位に迎えた、という形で総括されることが多い名誉革命であるが、そのプロセスは決してこのような記述が思わせる牧歌的なものではなかった。オランダを出発したウィリアムは大軍を載せた大艦隊を率いていたし、その時故国オランダはルイ十四世のフランス軍からの脅威にさらされていた。ウィリアムの遠征は、そうした状況下でオランダ軍の精鋭を本国から引き抜くという大ばくちだったのである。
 本書は、そうした軍事的側面も含めた名誉革命の進行の諸事実を、ヨーロッパ史のなかに位置づけて描き出そうとするものである
 つまり、オレンジ公ウィリアムが主体となり、大軍を載せた大艦隊を率いていてイギリスに上陸し、王位を勝ち取ったというものです。その詳細については、
下巻で扱っています。

●ウイリアム3世vsジェームズ2世 
 本書の主人公は、オレンジ公ウイリアム(ウイリアム3世)で、そのライバルはジェームズ2世です。両者の関係は次のようになります(口絵、四角で囲まれた人物が、イングランド及びフランスの歴代国王)。
 
 黄色で示したのがオレンジ公ウイリアム3世で、ピンクで示したのがジェームズ2世です。オレンジ公ウイリアム3世は、ジェームズ2世の姉メアリーとオレンジ公ウイリアム2世の間に生まれたので、ジェームズ2世とウイリアム3世は、叔父と甥の関係となります。さらに、ウイリアム3世は、ジェームズ2世の長女メアリー2世と結婚しているので、両者は舅と婿の関係でもあります。オレンジ公はオランダの名門貴族で、共和制のオランダでは総督に地位にある実力者です。ウイリアム3世はオレンジ公の地位を継ぎ、さらにイギリス国王にも即位したことになります。
 ウイリアム3世をめぐり2人のメアリーが登場しますが、エリザベス1世をめぐっても2人のメアリーが登場します。イングランド女王メアリー1世(ブラッディメアリー)とスコットランド女王メアリー=スチュアートです。こちらの方のメアリーの関係は次のようになります(最新世界史図説タペストリー14訂版166ページ)。

 メアリー=スチュアートは、NHKBSドラマ「クイーン・メアリー 愛と欲望の王宮」の主人公です。メアリー=スチュアートは、エリザベス1世暗殺計画への加担を理由に亡命先のイングランドで処刑されます。しかし、メアリー=スチュアートがヘンリー7世の血を引いていたことから(つまりスコットランドとイングランドの両国の王位継承権者であった)、その息子ジェームズ6世が、ジェームズ1世としてイギリス国王となりスチュアート朝を開きます。本書の主人公の一人であるジェームズ2世はジェームズ1世の孫ですから、メアリー=スチュアートの曾孫ということになります。スチュアート朝はアン女王で途絶えますが、ジェームズ1世の血を引くゲオルク・ルートヴィヒ(口絵右端)がジョージ1世として即位しハノーヴァー朝(現ウィンザー朝)を開きます。さながら、メアリー=スチュアートは英国版「お市の方」といったところでしょうか。

●一発逆転で王政復古 
 専制を強めるチャールズ1世と議会との対立が激しくなり、1642年に内戦(清教徒革命)が始まります。チャールズ1世の長女メアリーはオランダ(議会主導による共和制)の実質的支配者であるオレンジ公ウイリアム2世と結婚していたので、チャールズ1世はオレンジ公から資金援助を受けます。
 内戦が起こると、ブルボン王家出身の王妃ヘンリエッタ・マライアはフランスに亡命します。イングランドに留まって抵抗していた国王チャールズ1世は次第に劣勢となり、オリバー・クロムウェルの軍部が掌握した議会によって、1649年に処刑されます。1650年にオレンジ公ウイリアム2世が病死し、オランダでも議会が力を強めます。イングランドとオランダは、同じくプロテスタントの共和制となったわけですが、経済的利害の対立からその後、戦争を始めます(第1次英蘭戦争、1652〜54)。
 なお、ヘンリエッタ・マライアは熱心なカトリック教徒であったためか、その息子のチャールズ2世やジェームズ2世も後年カトリックへの傾倒を示すようになります。
 フランスに亡命していたチャールズ2世は、1654年にフランスがイングランドと同盟したため(フランスはスペインに対抗するためオランダに近い立場だったが、英蘭に講和がなったのでイングランドにも接近することになった)、ケルンに移り、さらにスペイン領ネーデルランドに移り、フランス軍の士官となっていたジェームズ2世もそこに合流し、スペインと手を組んで英仏と対抗しますが、劣勢は否定し難く風前の灯という状態でした。しかし、その後、1658年にオリバー・クロムウェルが死ぬと共和制は崩壊し、チャールズ2世が議会に迎えられ、1660年に、イングランド国王として正式に即位し、一発逆転で王政復古となります。クロムウェルは対立する議会勢力を軍の力によって押さえつけていたものの、統治体制は組織として確立したものではなかったようです。
 イギリス革命の流れは、次のようになります(最新世界史図説タペストリー14訂版 167ページ)。


●英蘭戦争は海の戦争 
 本書の副題が「オランダ戦争」とあるように、本書の記述の大半は、オランダをめぐる断続的な2つの戦争に当てられています。2つの戦争とは、オランダとイギリスとの戦争(英蘭戦争)と、拡張主義のフランスと、それに対抗するオランダ、スペイン、神聖ローマ帝国諸国同盟との戦争です。
 3次にわたる英蘭戦争(もっぱら海上戦)の概要は次のとおりです。
第1次英蘭戦争(1652〜54) 
海外貿易や海上覇権をめぐって対立、前半はオランダが有利だったが、後半は大型艦主力のイングランドが巻き返し圧倒する。和解に積極的だったクロムウェルが、議会に代わって政権を握り、戦争終結 
第2次英蘭戦争(1665〜67) 
アメリカや西アフリカの植民地支配をめぐり対立が高まり本国同士の戦争に発展する。オランダは艦船の大型化を進めていたが、主力砲の大きさにまだ差はあった。数度の海戦ではイングランドが優位だったが、フランスがオランダ側に立って参戦し、イングランドに疫病が流行り、ロンドンが大火災に見舞われたこともあり、国内に厭戦気分が広がる。財政難から防衛に転じたイングランドに対し、オランダが奇襲をかけテムズ川を封鎖し、講和が成立する
第3次英蘭戦争(1672〜74) 
1670年にフランスと密約したチャールズ2世が、王権強化のため一方的に仕掛けた戦争。数度の海戦では、英仏艦隊を相手に、オランダ艦隊は互角の戦いを進める。海戦におけるフランス艦隊の無気力さに国民の反感がたかまり、またカトリックに傾倒するチャールズ2世に対し、議会の疑念が強まったことから、戦費支出への同意を得ることが困難となり、チャールズ2世はオランダからの和平提案を受け入れる 
 著者は、英蘭戦争を通じて、海戦の形態が変化したと指摘しています。それまでは、小型艦船だったのが、大口径砲の大型艦戦列による砲撃戦に変化したということです。
 ところで、オランダのような小国が、どうして英国のような大国と互角に戦えたのか疑問に感じていましたが、この本を読んでその理由が分かりました。
 その理由として、まず、当時のイギリスには、強力な中央政権というものがなかったことが挙げられます。イングランドは、スコットランドやアイルランドとは別の国家でしたし、清教徒革命期には、議会と王党派の対立、次いで共和制期、クロムウェルと議会の対立がありました。王政復古後にも、王権と議会の対立があり、さらに国王には十分の財政基盤がなく、議会の同意がなければ戦費に事欠く状態でした。そのため、チャールズ2世はルイ14世から財政支援を受けています。
 さらに、英蘭戦争が海の戦争であったことも理由と考えられます。大艦隊を揃えるためには、財政力と技術力が必要ですが、その点において両国にはさほどの差がなかったようです。「中継貿易と金融による利益だけでなく、ライデンなどの毛織物工業、東インド会社によるアジア貿易によって得られた富があった」という指摘もあります(世界史の窓>ネーデルラント連邦共和国)。
 17世紀中盤の西ヨーロッパは、イギリスは清教徒革命、フランスはフロンドの乱(1648〜53)、ドイツは30年戦争(1618〜48)と混乱の最中にあり、そのような状況が新興小国オランダに繁栄をもたらしたようです。

●かなり複雑なオランダ共和国 
 オレンジ家とオランダ共和国の関係はかなり複雑です。
 オレンジ家は、フランス南部アヴィニョンの小公国ですが、フランス王家の支配を受けない名門でした。しかし、16世紀に男系が絶えて、オレンジ公位はドイツのナッサウ伯家のウイリアム1世に継承されます。ナッサウ家はオランダ各地に領地を持ち、ウイリアム1世はスペインに対するオランダ独立運動を指導し、オレンジ・ナッサウ家は歴代のオランダ総督を輩出します。
 1650年にオレンジ公ウイリアム2世が病死し、生まれたばかりのウイリアム3世が跡を継ぎます。ウイリアム3世は生まれながらにして、ドイツ、オランダ各地の領土とオレンジ公の地位を継承します。さらに、母親メアリーに次ぐ、イングランド王位継承権者でもありました。
 オランダのスペインからの独立の歴史は次のようになります(最新世界史図説タペストリー14訂版 165ページ)。
 現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルクに当たるネーデルラント地方は、ハプスブルク家のカール5世=カルロス1世(神聖ローマ皇帝兼スペイン国王)の領地でしたが、その退位後、ハプスブルク家は東西に分割承継され、ネーデルラントはスペイン国王・フェリペ2世の領地となりました。
 1568年、オレンジ公ウイリアム1世(オラニ公ウィレム1世)が独立を求め、反乱を起こします。南部は離脱しスペイン領に留まる途を選びますが、北部7州は闘争を続け、1609年事実上の独立を勝ち取ります。17世紀前後は、オランダの発展とスペインの没落の分岐点といえそうです。
 
 オランダ共和国は、スペイン統治下から引き続き、連邦議会、州議会、総督という機関により、統治されていましたが、連邦議会の権限は外交や防衛に限られており、内政については、州に大幅な自治が認められていました。さらに、各都市も州議会から独立した権限を保持していました。
 さらに、7州のうちでも、ホラント州が人口の4割を占め、連邦歳費の6割を支出していました。海軍は、ホラント州の艦隊が主力でした。
 州議会や都市の自治を支配していたのは、都市門閥=商業資本家で、貴族階級はオレンジ家を除いて影響力は低下していました。つまり、オランダ共和国に政治は、ホラント州の大商人が牛耳っていたといえます。
 総督は、独立前は君主の名代として州間の調停権限を持っていたのが、独立後もそのまま引き継がれ、各州に対して大きな影響力を行使するようになりました。
 総督は、各州に置かれるのが原則ですが、通常は、1人が2〜3州の総督を兼ねていました。特に、オレンジ公ウイリアム2世は6州の総督を兼ね、さらに、歴代のオレンジ公の慣わしとして、大将軍・大提督に就任していましたから、さながら、君主のような存在になっていました。
 ところが、1650年にウイリアム2世が天然痘で急死し、その8日後に生まれたウイリアム3世が、跡を継ぎます。つまり、共和国の最大の実力者が急死し、その跡を継ぐ者がいないという緊急事態となったわけです。そのような状況で第1次英蘭戦争(1652〜54)が勃発します。
 このとき、共和派の頭目として頭角を現してきたのがヨハン・デ・ウィットです。デ・ウィットは、1653年にホラント州法律顧問に就任します。この役職は当時の連邦首相のようなものだったそうです。

●まさにマキャベリズムの極み  
 名誉革命に至る約40年間の、オランダをめぐる国際関係は次のようになっています。
 17世紀前半は、イングランドが清教徒革命の内乱状態にあり、フランスはフロンドの乱とスペインとの戦役という内外の敵と戦っており、神聖ローマ帝国は30年戦争の混乱にありました。そんな中で、オランダはスペインから独立を果たし、海外貿易で繁栄していました。
 ところが、1650年に事実上の権力者であったオレンジ公ウィリアム2世が急死し、1652年には第1次英蘭戦争が始まります。そのような危機的状況の中で、共和派のデ・ウィットが権力者として登場します。同じころ、イングランドでは、オリバー・クロムウェルが武力で実権を掌握します。
 一方、フランスはスペインとの戦争が続いていたため、同じくスペインと対立していたオランダとは近い関係にありました。一方、イングランドは、海外植民地をめぐりスペインと対立し、その点ではフランスと利害関係が一致していました。そして、1657〜58年に、英仏同盟が成立し、フランスを支援してスペインと戦うため、イングランド兵が大陸に送られます。カトリックの王国フランスが、プロテスタントの共和国イングランドと同盟したわけですが、その結果、フランスに亡命中のジェームズ2世は、スペイン軍に加わり英仏軍と戦うことになります。
 ところが、1658年にクロムウェルが病死し、1660年に王政復古がなり、チャールズ2世がイングランド国王に即位します。1661年には、ルイ14世が親政を始めます。これで、英仏関係はさらに強固になると思いきや、1662年、ルイ14世は、共和国オランダと同盟を結び、第2次英蘭戦争では、1666年、オランダ側について、イングランドに宣戦を布告します。
 これは矛盾した選択に見えます。しかし、スペインに敵対するという点では、フランスとオランダの利害は一致しています。また、オランダが負け、オレンジ派政権が成立すると英蘭同盟が成立する恐れがあり、フランスとしては、共和派の支配するオランダの方が都合が良いと考えたからということです。
 ところが、その後、ルイ14世は、スペイン領ネーデルラント併合に野心を示し、遺産帰属戦争を始めます。この野望は、オランダ外交により阻止されます。さらに、ルイ14世の野心を警戒したオランダは、1668年、イングランドとスウェーデンの間に三国同盟を結びます。
 しかし、ルイ14世もこれに対抗して外交攻勢を仕掛けます。ルイ14世は、財源難のチャールズ2世に資金援助を持ちかけ、1670年、ドーヴァーの密約を結びます。この辺りは、まさにマキャベリズムの極みといえそうです。
 そして、1972年、チャールズ2世はオランダに宣戦を布告し(第2次英蘭戦争)、ルイ14世もオランダに宣戦を布告します(オランダ戦争)。海陸から大国に攻められたオランダは、存立の危機を迎えたわけです。
 オランダ艦隊は善戦し、イングランド艦隊の侵略を食い止め、また、イングランド議会の戦争継続反対もあって和約が成立します。一方、陸地戦では、フランスに攻め込まれ、捨て身の洪水戦術により、最後の一線を持ちこたえている状況でした。このような中で、大将軍に就任していたウイリアム3世が総督に就任し、デ・ウィットが民衆に殺害されるという政変が起こります。
 オランダの軍事と政治の実権を掌握したウイリアム3世は、ブランデンブルク選帝侯や神聖ローマ皇帝の支援を得て、フランスとの死闘を戦い抜くことになります。  
 ウイリアム3世は、1677年、ジェームズ2世の長女メアリーと結婚し、英蘭同盟への布石を打ちます。一方、イングランドでは、カトリックとの関係を疑われたジェームズ2世は、1679年、出国を余儀なくされます。その後、チャールズ2世の治世は安定し、1684年、ジェームズ2世は復権します。
 ところが、1685年、チャールズ2世は突然病死します。
 下巻では、イングランド国王に就任したジェームズ2世と、甥で婿でもあるウイリアム3世との終生の対立が、名誉革命を挟んで描かれます。

 

イングランド 

オランダ 

フランス 

1649 

チャールズ1世処刑 

 

 

1650

 

ウイリアム2世が急死

 

1649〜53 

 

 

フロンドの乱
スペインとの戦役

1652〜54

第1次英蘭戦争 

 

1653 

オリバー・クロムウ
ェルが実権を掌握 

デ・ウィットがホラント
州法律顧問に就任 

 

1657〜58

英仏同盟

 

英仏同盟
スペインとの戦役

1658 

クロムウェルが病死 

 

 

1659      スペインと和約 
1660  王政復古でチャール
ズ2世が即位
   
1661      ルイ14世が親政 
1662    蘭仏同盟  
1665〜67  第2次英蘭戦争   1666参戦 
1667〜68      遺産帰属戦争 
1668  英蘭スウェーデン三国同盟    
1670  ドーヴァーの密約    ドーヴァーの密約 
1672    ウイリアム3世が大将
軍に、開戦後、総督
に。デ・ウィットが民
衆に殺害される 
 
1672〜74  第3次英蘭戦争    
1677  ウイリアム3世とメアリーが結婚    
1672〜78    オランダ戦争  
 2016/11/27