読書ノート / 通史
 皇国史観から作られた日本古代史

 物語日本史(上) (講談社学術文庫)
編・著者  平泉澄/著
出版社  講談社 
出版年月 1979/2/10
ページ数 249 
判型  A6版
税別定価 563円
 著者の平泉澄(ひらいずみきよし、1895〜1984)は、元東京帝国大学教授で専門は日本中世史です代表的な皇国史観の歴史家とされており、戦後は厳しい批判にさらされます。しかし、1978年にインタビュー受けた際、突然日本刀を抜き放ち、「大和魂とは、これです」と言ったそうですから(「皇国史観」平泉澄 晩年のインタビューのエピソード オーラルヒストリーは大変という話)、批判には負けず、自説を貫き通したようです。
 本書は、同じ著者による「少年日本史」(皇學館大学出版部)を3部に分割した文庫版の上巻です。「少年日本史」はこちらのサイトで読むことができます。文庫版ではやや難しい漢字が平仮名に置き換えられている以外は、内容は同じものです。以下、本書の引用はこちらのサイトを利用させてもらいました。
●無理があるのは讖緯の説の責任? 
 古事記、日本書紀に登場する古代の天皇があまりにも長寿で、無理があることは、次のように著者も認めています(30〜31ページ )。 
 ところが、この日本書紀の年立に、困る事には、無理があるのです。それは古い時代に、長寿の人が多い事です。長寿と云っても、八十、九十ならば、信用出来ますが、百数十歳、或いは二百数十歳で活動するとなれば、これは疑わしいとしなげばなりません。そのような無理は、年立を殆ど気にかけていない古事記にも現れていますから、古事記や日本書紀の作られた時より、かなり前に、年立の混乱があって、それが影響したようです。人によっては、古事記や日本書紀を尊ぶのあまり、その記事を鵜呑みに呑み込んで信用しようとする人もありますが、それは贔屓のひき倒しで、無理でしょう。たとえば、神武天皇の御年、古事記には百三十七歳、日本書紀には百二十七歳とあり、第十代崇神天皇の御年、古事記は百六十八歳、日本書紀は百二十歳と記しているのです。殊に甚だしいのは、第十四代仲哀天皇は、日本武尊の御子でありますが、日本書紀の記事を、そのまま見てゆくと、日本武尊のお崩れになってより、三十六年後にお誕生になった勘定になるのです。何としても、これはあり得ない事ですから、日本書紀の年立には、大きな無理があり、そしてそれが古事記にも影響を与えてとる所から判断して、この二つの書物の書きおろされるよりは、ズッと前に、年立の混乱、或いは無理な年立が行われたに相違ありません。
 そして、「無理な年立」が行われた原因は、シナ(著者は中国のことをカタカナでこう呼んでいます)の讖緯(しんい)の学にあるとしています。
 十干十二支によると、60年サイクルで同じ呼び方の年が巡ってきますが(還暦)、そのサイクルが21回繰り返されるごとに、つまり1260年ごとに、歴史が転換するというのが讖緯説だそうです。そして、記紀では推古天皇9年(601年)に新しい時代が始まったとするため、その1260年前に神武天皇が即位したことにしたのではないかと、次のように著者は推測しています(35〜36ページ)。
 当時、漢学者の間に信用せられた讖緯の学説から推理すれば、かように判断せられたものの、実際の事実は、之と違っていたでしょう。どう違っていたかと云えば、神武天皇の御代と、推古天皇の御代との間隔が、それほど長く無かったのです。長く無いものを、長いとした為に、御歴代天皇の御寿命も、その御代に活躍した人物の命も、引き延ばして長くして、兎も角も話が合うように、まとめねばならなくなったのです。
 それで我が国の歴史、古いところは、一向デタラメで、信用出来ないものか、と云うに、そうではありません。年の立て方は誤り、年代は延びすぎているものの、事実そのものには、讖緯の説も介入せず、手をふれていません。若し手を入れたとすれば、たとえば、神武天皇より推古天皇まで、三十三代であるものを、十数代ふやして、四十五、六代とすれば、御寿命にも無理がなく、万事辻褄が合ったでしょう。それをしなかったものだから、年立に無理が生じたのですから、口伝には殆ど手を入れず、わずかに御寿命に影響で出た程度と思われます。
 そして、次のように述べて、中国の讖緯説に責任があるのであって、我が国の歴史には責任はないと結論付けています(38ページ)。
二千年、三千年も前となれば、どの国にしても正確に年月を押さえる事のむつかしいのは、この通りで、我が国の古代史に、年の延びすぎがあっても、それは珍しい事では無く、且つまたそれは讖緯の説の責任であって、我が国の歴史自体の責任では無いのです。即ち我が国の紀元、つまり今年を皇紀二千六百三十年と云うのに、あとから調べてみると、五百年ばかりの間違いが出ましたけれども、そのような間違いが出るほど、我が国の歴史は古いので、それはむしろ楽しい事で、少しも心配する必要は無いのです。
 しかし、「年代の繰上げ以外は、すべて本当の話だ」というのも随分都合の良い解釈のようにも思えます。また、年代の繰上げが讖緯説によったものだとしても、中国がそれを強制したわけではなく、記紀製作者がそのように編集したに過ぎません。「讖緯の説の責任であって、我が国の歴史自体の責任では無い」というのはまるで子供の喧嘩のようで滑稽にさえ感じられます。

●神功皇后伝説は防衛戦争だった? 
 著者は、神功皇后の新羅出兵を史実として述べています。出兵の原因については次のように説明しています(64〜65ページ)。つまり、新羅と高句麗が「九州に手をかけ、之をかき乱し」、また、百済が求めてきたので、「自国の防衛を全うすると共に、更に進んで高句麗と戦い、その半島侵略の野望を砕いて百済を救い、隣国の危急を救おう」したとしているのです。
 その頃の朝鮮半島の状況、どうであったかと云えば、鴨緑江(おうりょっこう)の北、満州の東南部に、高句麗と云う国があって、それが頗る強勢であって、四方を侵略したので、支那本土よりたびたび征伐せられていました。流石の高句麗も、支那本土の大軍にはかなわないので、西方への発展を思い切って、今度は南へ下ろうとしました。鴨緑江を渡って南へ下れば、即ち朝鮮半島でありますが、その西側には百済、東側には新羅と云う国がありました。新羅は高句麗の勢力を恐れて之に附いたばかりでなく、之と共同して我が九州に手をかけ、之をかき乱しました。一方の百済は、敢然として高句麗の侵略を喰い止めて独立を守りたいと思いましたが、国の力が弱く、独力ではどうにもならないので、我が国に助けを求めてきました。この様な情勢のもとに、神功皇后が、新羅を討って九州動乱の本を断ち、自国の防衛を全うすると共に、更に進んで高句麗と戦い、その半島侵略の野望を砕いて百済を救い、隣国の危急を救おうとせられたのは、当然の事である同時に、まことに目ざましい壮挙と云わなければなりません。
 しかし、日本書紀によると次のようになっています(日本書紀 巻第八)。つまり、「熊襲は痩せた地である。戦いをして討つのに足りない」から「目に眩い金・銀・彩色などが沢山ある」新羅を討つべしという神のお告げがあったが、天皇はそれよ信用しなかったので(神の罰?、天皇は神だったのでは?)、急病死したというのです。そこには、新羅と高句麗の内政干渉や百済の救援依頼などはなく、「金・銀・彩色などが沢山ある」から攻め取れという話しか出てきません。

秋九月五日、群臣に詔して熊襲を討つことを相談させられた。ときに神があって皇后に託し神託を垂れ、「天皇はどうして熊襲の従わないことを憂うれえられるのか、そこは荒れて痩せた地である。戦いをして討つのに足りない。この国よりも勝まさって宝のある国、譬えば処女の眉のように海上に見える国がある。目に眩まばゆい金・銀・彩色などが沢山ある。

これを栲衾新羅国たくぶすましらぎのくにという(栲衾は白い布で新羅の枕詞)。もしよく自分を祀ったら、刀に血ぬらないで、その国はきっと服従するであろう。また熊襲も従うであろう。その祭りをするには、天皇の御船と穴門直践立あなとのあたいほむだちが献上した水田――名づけて大田という。これらのものをお供えしなさい」と述べられた。

天皇は神の言葉を聞かれたが、疑いの心がおありになった。そこで高い岳に登って遥か大海を眺められたが、広々としていて国は見えなかった。

天皇は神に答えて、「私が見渡しましたのに、海だけがあって国はありません。どうして大空に国がありましょうか。どこの神が徒に私を欺くのでしょう。またわが皇祖の諸天皇たちは、ことごとく神祇をお祀りしておられます。どうして残っておられる神がありましょうか」といわれた。

神はまた皇后に託して「水に映る影のように、鮮明に自分が上から見下ろしている国を、どうして国がないといって、わが言をそしるのか、汝はこのようにいって遂に実行しないのであれば、汝は国を保てないであろう。ただし皇后は今はじめて孕みごもっておられる。その御子が国を得られるだろ」といわれた。

天皇はなおも信じられなくて、熊襲を討たれたが、勝てないで帰った。

九年春二月五日、天皇は急に病気になられ、翌日はもう亡くなられた。時に、年五十二。すなわち、神のお言葉を採用されなかったので早く亡くなられたことがうかがわれる。

 これに対し、著者は次のように述べています(66〜67ページ)。日本書紀に高句麗や百済の話が出てこないのは、「口伝が失われたのでしょう」とする一方で、広開土王碑が神功皇后伝説を裏付ける史料だとしています。 

 かように日本書紀には、新羅の事だけしか見えていませんが、実はまだまだ奥深く攻め込んで、平壌(へいじょう)あたりで激戦があったのです。百済の危急を救い、高句麗の野心を挫くとなれば、当然そうしなければならないのに、日本書紀にその事漏れているのは、口伝が失われたのでしょう。幸いにその事実が、高句麗の広開土王(こうかいどおう)の碑に記されて、今に残っているのです。
 ……
 それに、一体どんな事が書いてあるか。その石碑を見ると、日本軍が、西暦三九一年、海を渡って朝鮮半島に攻め入り、百済や新羅がその勢力下に入った事、その後たびたび戦いがあって、四〇四年には日本軍北上して漢江(かんこう)流域に入り、更に進んで平壌に迫り、高句麗と激戦した事が書いてあります。

 日本書紀では、「金・銀・彩色の宝の国・新羅を征服した昔話」として神功皇后伝説が語られているのに、本書では日本書紀には出てこない話を追加し、考古学資料などを強引に関連付けることにより、防衛戦争としての実話として描いています。その背景には、日韓併合から満州事変に至る大陸進出を防衛戦争として正当化しようとする意図が有りそうだということが、次の説明(68〜69ページ)からも伺えます。

 皆さん、地図を御覧。日本列島、北から南へ、帯の様に長く横たわっているでしょう。その東は一望の太平洋ですが、西の方にはアジア大陸の一部が突き出して、日本列島のいわば横腹に突きささる様な形になっているでしょう。それが即ち朝鮮半島です。それ故に、もし朝鮮半島に異変が起こり、大陸の強大な勢力が、野心を以て半島に進出した来る時は、日本は、自らの安全を脅かされるのです。現に仲哀点天皇の御代に、九州が動揺したのも、満州の高句麗が南下して半島を制圧して来たからでしょう。そこで日本の自衛の為にも、半島が他の侵略を拒否して平穏無事である事を希望し期待しなければならないのです。且つまた我が国は、その国民性として、正義を愛し、不義を憎むのが、もって生まれた性格です。今高句麗に侵されて、危うく亡びそうになった百済王父子から、助けを求められては、ふところ手をして見ているわけには行かなかったでしょう。他人の危険を、見て見ぬふりしている事は、日本人の義侠心が許さないのです。この二つの事情から、神功皇后の朝鮮出兵が行われたのです。よく事情を知らない人は、単に新羅を征伐されただけと考えたり、または之を以て半島侵略の野心から起こったのでは無いかと邪推したりしますが、それは全くの誤解です。


 史料の解釈の仕方によって様々の歴史像が有り得ます。ましてや本書は、「物語日本史」ですから、ある程度大胆な解釈も許されるとも言えなくもありません。しかし、国家の対外戦争を正当化するための特定のイデオロギーから、書かれていない事実を追加し推測に推測を重ねたのでは、少なくとも人文科学としての歴史とは言えないと思います。本書は、「皇国史観から作られた日本古代史」と言えるのではないでしょうか。
(2015/9/14)