読書ノート / 通史
 歴史研究の読み物としても楽しめる天皇の名前事典
2019/8/22 
 名前でよむ天皇の歴史/朝日新書 
編・著者  遠山美都男/著
出版社  朝日新聞出版
出版年月 2015/1/30
ページ数 293 
判型  新書
税別定価 820円
 
●「名前の変化は、認識の変化も反映している」
 本書は、天皇の名前だけ取り上げた事典です。天皇名は、歴史上の人物として区別し特定するための記号であって、あえて、それぞれの名前の由来を詳細に解説する必要はないという意見もあると思いますが、それに対して、著者は次のように述べています(28〜29ページ)。
 神武から孝明まで、長い時間幅を取ってこのテーマに取り組むならば、明らかになってくることは少なくない。たとえば、なぜ奈良時代にいっせいに漢風諡号が作られたのか、それでも平安時代の前期には漢風諡号がなくなり、代わって追号が献じられるようになるのはどうしてなのか。さらに、後白河・後鳥羽のような「後○○」という追号にはどのような意味がこめられていたのか、追号とは異なり諡号に後が冠せられないのはいったいどうしてなのか。いわゆる追号の時代になっても、時に漢風諡号があらわれるのはなぜなのか。そして江戸時代末期(幕末)になって漢風諡号が復活するのはいかなる理由によるのか、といったことである。
 このような天皇の名前の変化は、「名は体をあらわす」ではないけれども、各時代における天皇の存在意義や役割の変化に関わっていることは間違いない。それは、天皇がいかなる存在と見なされていたかという認識の変化も反映しているはずである。天皇の名前の変遷を追うことによって、天皇という地位の変質・推移、さらに各時代の天皇の歴史的な特質までが浮かびあがってくるであろう。たかが名前であるが、されど名前なのである。歴代天皇の名前に込められた「物語」を一つひとつ読み解いていきたい。 

天皇という称号も使われなくなっていた
 天皇も即位前には名前がありますが、即位後は単に「天皇」であり、名前はなくなります。そして、死後に業績をたたえ諡号(しごう)が贈られます。後世の我々は歴史上の人物として、それぞれの天皇を区別するため、「諡号+天皇」という組み合わせで呼んでいます。
 制度として諡号が贈られるようになったのは律令国家が成立する7世紀末になってからです。当初は諡号は和風でしたが、奈良時代の後期になって、それまでの歴代の天皇に対し、まとめて一挙に、漢風の諡号が贈られました(奈良時代初頭に完成した日本書紀には、神武や仁徳などの名称はなかったのです)。
 それ以降は、和風諡号と漢風諡号が併用されるようになります。平安時代になると和風諡号は姿を消し、さらに、漢風諡号に替わり追号が贈られることが多くなります。このころには、天皇の生前退位が常態化し、実権は摂関家、さらに後には上皇(退位後の天皇、院と呼ばれます)に移っていました。天皇が在位中には実権がなく、生前退位が常態化すると、死後に業績をたたえ諡号を贈るという意味は失われ、退位後のゆかりの地名や建物の名前にちなんだ追号が贈られるようになります。さらに天皇という称号も、一部を除いて使われなくなり、天皇は「追号+院」で呼ばれるようになります(26ページ)。これが「追号+天皇」に変換されたのは、つまり、天皇号が再登場したのは1925年になってからだそうです(27ページ)。また、幕末になって、漢風諡号が復活しますが、これは、尊王思想の高まりと関係があるのでしょうか。
 いずれにしても、明治国家の天皇制は、それまでの伝統とは異質だったようです。
 諡号と追号の概略をまとめると次のようになります。
和風諡号 天皇の死後に群臣らが奉献。6世紀前半に出現、7世紀末に制度的に固定。平安前期に姿を消す 
漢風諡号 漢字2文字、中国から輸入した概念。762〜764年に淡海三船(おうみのみふね)が、それまでの歴代分をまとめて一挙に撰進したのが始まり。平安時代には漢風諡号に替わり追号が贈られることが多くなり、9世紀末以降、漢風諡号は姿を消すが、幕末に復活 
追号  諡号と同じく死後に贈られた名前であるが、天皇ゆかりの地名や建物の名前に由来し、天皇を顕彰・称揚するという意識が乏しい 

獲加多支鹵大王は雄略天皇?
 古墳時代の統治者は、大王(おおきみ)と呼ばれていました。
 埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣から「ワカタケルノオオキミ」の文字が読み取れます(63ページ)。「獲加多支鹵」は、漢字の音を使って日本語音を表示したもので、いわゆる万葉仮名のようなものです。鉄剣からは「辛亥年(471年と推定される)」の文字も読み取れます(こんなに変わった歴史教科書参照)。この頃の日本は、漢字と万葉仮名を使って和化漢文を綴れる文化水準にあったといえそうです。

 この時代の天皇は21代雄略天皇とされており、名前は「大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)」となっています(76ページ)。
 
 この点について、著者は次のように述べています(77〜78ページ)。
 この天皇は、『宋書』倭国伝に見える倭の五王の一人、武にあたり(「わかたける」の「たける」に相当するのが武)、埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の鉄剣銘文の「獲加多支鹵大王」に相当し、実在したことが明らかである。だが、『古事記』『日本書紀』においては、あくまで上記したような仁徳に始まる王朝の興亡・盛衰の物語の登場人物とされているのである。「有徳天皇」や「大悪天皇」というそのキャラクター設定は、実在のこの天皇とは無関係といわねばならない。
 大泊瀬幼武尊は明らかに和風諡号とは異なるといわねばならない。和風諡号とは日本固有の語彙(ごい)を用いて、その天皇の人徳や業績を抽象的に讃えるものでなければならないからである。
 漢風諡号の雄略であるが、それには「すぐれて大きいはかりごと」「雄大な計画」「雄図(ゆうと)」といった意味があった。やはりこの天皇の即位に向けて取った果敢な行動をふまえれば、これが諡号としては妥当と考えられたのであろう。あるいは淡海三船が、この天皇が倭王武にあたることを知っていたとすれば、武の宋皇帝への上表に見える高句麗征討の雄大な計画を評してこの語をえらんだ可能性もあるのではないだろうか。

天皇号の成立は7世紀になってから
 古墳時代の統治者が、大王を名乗り始めた時期については、著者は次のように述べて(11ページ)、5世紀後半と推定しています。稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文が決定的な証拠となり、少なくともそのころには大王が出現していたと判断できるということでしょうか。
 天皇という称号が出来たのは七世紀に入ってからであり、それ以前は、中国から倭国と呼ばれていた日本列島の統治者は対外的には倭国王と呼ばれ、国内においては治天下王(大王)と名乗っていた。王・大王は同じものであって、王を飾り立てて称すれば大王となる。
 治天下王とは、天下を統治する王ということである。本来ならば中国の皇帝が支配する全世界(これを天下といった)の片隅にあるにすぎないちっぽけな日本列島(しかもその一部)を、おこがましくも天下ととらえ、そこに君臨する王という意味でこのように称したわけである。治天下王と名乗り始めたのは五世紀の後半、天皇でいえば雄略天皇の時代だったのではないかと考えられている。
 天皇号の成立時期をめぐる学説の変遷について、著者は次のように述べています(14〜15ページ)。津田左右吉は、天皇号の成立を推古の時代と考えていましたから、その影響が大きかったものと思われます。有力説の登場には、『旧唐書(くとうじょ)』の記載の発見が関係しているのでしょうか(読書ノート/シリーズ<本と日本史> 1 『日本書紀』の呪縛参照)。
 天皇号の成立を推古の時代にもとめる学説は、かつては定説の位置を占めていた。法隆寺などに伝わる同時代の仏像銘文に天皇の語が見えることがその主たる根拠であった。だが、その後、仏像銘文が書かれたのが推古の時代とはみとめがたいとされるようになり、天武の時代に天皇号が採用されたとする説がにわかに有力となった。天武の時代ならば、同時代の唐の皇帝(三代高宗)によって天皇号が採用されているので(六七四年。但し、これは一代限り)、これを模倣して天皇号が導入されたと説明が可能である。
 著者は、次のように述べ、有力説を支持しています(16ページ)。 
 結局、天皇という漢語が導入された時期を明らかにすることは容易ではない。私見では、倭国王の地位や権力が国内的に飛躍的に高まるのはやはり壬申(じんしん)の乱(六七二年)後の天武の時代であり、同時期に中国的な支配制度の完成も見られることから、王から天皇へという君主号の上昇・転換が起きたとすれば、それはこの時点であると考える。
 ただし、天孫降臨神話は7世紀初頭までには成立していたと見ており(16〜17ページ)、この点に関しては有力説とは異なる立場のようです。さらに「天孫降臨神話がすでに誕生していた推古の時代に天皇号が使われ始めた可能性もたしかに否定できない」とも述べているので、天皇号の成立時期についても、必ずしも有力説に全面的に同調しているわけでもなさそうです。
 天皇の語はたしかに中国に由来するものだが、その和訓である「すめらみこと」は、その前から我が国にあったとしてもおかしくない。「すめら」は「清浄な、神聖な」の意味であり、「みこと」は「神またはそれに准ずる人格の発した言葉」のことであった。転じて「みこと」はそのような尊い言葉を発する主体をも指すようになる。
 要するに「すめらみこと」とは、「至高の神の意思を伝達(体現)する神聖な御方」の意味であり、いわゆる天孫降臨(てんそんこうりん)神話を背景にして天皇の神聖性を強調した称号ということになる。天皇が天上世界に君臨する神の子孫であるという神話の成立とともに生まれたのが「すめらみこと」なのである。『隋書』(六三八年完成)倭国伝に倭国王の名前として「阿毎多利思比孤(あめたりしひこ)」が見え、これは「天降られた御方」を意味する倭国王の尊称と考えられるので、七世紀初頭までには天孫降臨神話が成立していたと見なしてよい。
 「すめらみこと」の語義をこのように考えるならば、それが天皇の語を輸入する以前から我が国にあったとしてもおかしくはない。結果的に天皇と「すめらみこと」は結びつくのであるが、両者は最初から同じ意味内容をそなえていたわけではなかった。天皇という漢語の訳語として「すめらみこと」が新たに考え出されたのではなく、もともと使われていた和語「すめらみこと」を漢字表記するために「天皇」が採用されたと考えることができるであろう。そうだとすれば、天孫降臨神話がすでに誕生していた推古の時代に天皇号が使われ始めた可能性もたしかに否定できない。
      
●「仁徳の実在性は極めて疑わしい」
 著者は次のように述べ、「仁徳の実在性は極めて疑わしい」とし、「聖帝キャラクターも創られたものである」としています(67〜68ページ)。
 応神の皇子とされるが、その実在性は極めて疑わしいといわねばならない。先に応神の項目で述べたように、五世紀段階では倭国王を出す血縁集団は一つに固定されておらず、複数存在したと考えられる。それは、この時期の倭国王が統治能力やその実績などによって選出されていたからであった。
 六世紀以降、それら複数の血縁集団を一つの巨大な同族集団にまとめあげるという系譜の統合作業が行なわれたのである。そのさい、履中(りちゅう)天皇・反正(はんぜい)天皇の集団と允恭(いんぎょう)天皇・安康(あんこう)天皇・雄略(ゆうりゃく)天皇を生んだ集団とを同じ一族とするために、両者の共通の祖として作り出されたのがこの天皇にほかならない。天皇が履中・反正、允恭の父親とされているのはそのためである。
 なお、天皇には和風諡号にあたる名前が伝わらないが、大鷦鷯(おおさざき)というその名はミソサザイという鳥の名に由来した。それは履中の子孫、武烈(ぶれつ)天皇の名である(小泊瀬=おはつせの)稚鷦鷯(わかさざき)から考え出されたものであったと見られる。天皇(仁徳)の周辺には根鳥皇子(ねとりのみこ)、雌鳥皇女(めとりのひめみこ)、隼総別皇子(はやぶさわけのみこ)、平群木菟宿祢(へぐりのつくのすくね)など鳥の名前をもつ者が多く、この鳥は部族のトーテムとして崇拝されていたものなのであろう。
 天皇の漢風諡号である仁徳が、彼が民の労苦を思いやり、三年にわたり租税を免除したとする「聖帝」というキャラクターに由来することはいうまでもない。だが、この天皇が「聖帝」とされているのは、我が国にも中国のような王朝とその交替があったことを主張するためにほかならなかった。すなわち、中国において「聖帝」とは天命をうけ王朝を開く人物の絶対条件とされていたから、「聖帝」たるこの天皇によって創始された王朝が何代かにわたって栄えるものの、やがて絶頂期を迎えた後に終焉に向かっていくというストーリーが設定されていたといえよう。
 天皇が皇后の嫉妬にもかかわらず、実に多くの女性と関係を重ねたとされているのも、彼が王朝の始祖とされているからと見られる。王朝隆盛は基本的に子孫繁栄によって保証されると考えられていたので、「聖帝」であると同時に好色の帝王としてのエピソードも創り出されたわけである。

仁徳を起点に血縁関係が擬制される
 応神から推古までの系図は次のようになっています(64ページ)。
 本文の記述にしたがって色分けすると、青とオレンジ、紫で囲ったグループは異なる血族集団となります。仁徳を起点として、それぞれの集団の血縁関係が擬制されることになります。
 以上、本書の一部を紹介しましたが、本書は単なる事典にとどまらず、歴史研究を踏まえた面白い読み物となっているといえます。