読書ノート / 通史
 対外関係も視野に入れた、沖縄・琉球の通史

 新琉球国の歴史(叢書・沖縄を知る) 法政大学出版局
編・著者  梅木哲人/著
出版社  法政大学出版局
出版年月  2013年3月29日
ページ数  260 
判型  A5判
税込定価  3360円 
 本書は、法政大学沖縄文化研究所刊行の「叢書・沖縄を知る」の1冊です。この叢書は、法政大学の総合講座「沖縄を知る」に関連して刊行されており、本書もやや専門的な内容を含んでいますが、一般の読者も念頭に置いて、十分理解できるように書かれています。出版元のホームページでは、本書の内容を次のように紹介しています。
 すなわち、中国・日本との対外関係も視野に入れた、沖縄・琉球の通史ということです。
沖縄・琉球国の歴史は、沖縄内部における社会的発展と、外からの影響を受けて発展するという、二つの面がからんだ形で展開している。その歴史においては、とりわけ外との関係の影響が顕著であった。本書は外との関係、なかでも中国・日本との関係について多くのスペースを割き、一次史料を用いて東アジア世界における沖縄・琉球の位置づけを通史的に論じる。 

 目次は、次のとおりです。 
序 論 琉球国の成立・展開・終焉 
1 南島における国家形成 
 一 先史文化
 二 グスク
 三 大型グスクと初期国家
 四 三山時代
 五 察度による進貢の開始と国政の二重構造化
2 琉球統一国家の成立と展開 
 一 正史による王統の記述
 二 思紹・巴志の政権確立と王統
  (イ)三山統合
  (ロ)尚泰久王
 三 仏教の伝来と国家形成
 四 尚円王統と尚真王(琉球統一国家の完成)
 五 国土創世神話と神女組織
 六 よあすたへ・よのぬし(琉球統一国家の構成)
 七 対外関係の活発化
  (イ)進貢と東アジア国際社会の構成
  (ロ)尚巴志を介しての明朝から足利義教への招諭の伝達
  (ハ)寧波の乱と琉球
 八 琉球の進貢・冊封と日明関係との比較
3 東アジア世界の変容と琉球 
 一 明朝の衰退と琉球
 二 応仁の乱と日明・日琉関係の変化
 三 豊臣秀吉の統一と琉球
 四 徳川家康と琉球
 五 島津氏の琉球侵攻
4 近世の琉球国(一) 
 一 琉球仕置
 二 向象賢の政治(琉球国の近世的改革)
 三 琉球在番奉行と鹿児島琉球館
 四 石高制の設定
  (イ)琉球
  (ロ)出米と徴税
  (ハ)琉球国政府財政の石高制構造
 五 近世琉球貿易の実現と日本
  (イ)明朝の滅亡と清朝の成立
  (ロ)琉球貿易と日本銀
 六 家譜の成立と唐格化
 七 近世の久米村
 八 琉球使節の江戸参府
 九 琉球国司について
5 近世の琉球国(二) 
 一 蔡温の政治(近世琉球国の確立)
 二 八重山と明和津波
 三 天明の飢饉
 四 薩摩藩の天保改革と琉球貿易
 五 近世末の農村疲弊
 六 アヘン戦争と琉球
 七 ペリー来航と琉米修好条約
 八 島津斉彬の開港構想と反動
6 琉球国の終焉 
 一 琉球藩の設置
 二 台湾出兵と互換条款の訂約
 三 内務大丞松田道之の派遣と沖縄県の設置
 四 旧制度の存置
 五 土地整理と地方制度の改革
  利用文献注記
  あとがき  
  琉球国の歴史年表
  人名・事項索引
 本書の記述は、時代区分図(17ページ)の古琉球のグスク時代から始まります。グスクは、一般に城跡と訳されています。グスク遺跡群は、2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に正式登録されました。なお、沖縄のグスクというサイトに遺跡の写真が多数掲載されています。
 ただし、グスク時代の歴史資料はほとんど残されていないので、実質的には琉球の歴史時代は、1372年に察度(さっと)王(名字はない)が中国への進貢を行ったころから始まります。なお、現在の宜野湾市には、「沖縄厨房 察度」という居酒屋があります。


 琉球の統一は、1429年に、思紹(ししょう)の子である巴志(はし)が三山(山北、中山、山南)を征服したことによって完成したといわれています。巴志は、1430年に明朝から尚(しょう)姓を賜り、尚巴志となります(それまでは、名字はなかった?)。尚巴志の統一王朝が時代区分図の第一尚氏時代です。
 第二尚氏時代というのは、1470年に、伊是名(いぜな)島の農民出身の金丸(かなまる)が、尚円として王位に就き、始めた王朝です。この王朝は、1879年の琉球処分まで400年も続きます。伊是名島では、「金丸・尚円」という泡盛(10年古酒)を造っています。


 明代の、アジア各国の朝貢貿易については、「2 琉球統一国家の成立と展開/七 対外関係の活発化」で、詳細に記述されています。
 明王朝は成立当初から、伝統的な中華世界を復活させるべく、周辺諸国に朝貢を促します。琉球はこの要請に即座に応じ、1372年に察度が弟の泰期(たいき)を遣使します。日本は、1401年、足利義満が遣使しています。著者は、源道義(足利義満)が、「中国皇帝から日本国王に冊封されていることは疑いのないことである」とし、日本も朝貢を行っていたとします。
 琉球は、明朝から大型の船を下賜され、そのことにより中継貿易国家として、おおいに繁栄します。しかし、明が衰え船が下賜されなくなり、また、中国沿岸商人の海上活動が解禁され、琉球の中継貿易も衰退していきます。

「3 東アジア世界の変容と琉球」の後半部では、豊臣秀吉の全国統一以後、島津氏が琉球への圧力を強め、1609年に侵攻するに至るまでを、かなり詳細に説明しています。
 琉球は、豊臣秀吉の朝鮮出兵に危機感を持ち、秀吉の動きを明に伝えています。ただ、琉球への朝鮮出兵の要請はなく無事存続しています。
 島津氏の琉球侵攻は、徳川家康の許可の下に行われていますが、なぜ琉球に侵攻するのかその理由は明確には説明されていません。家康は、明との通融(勘合の復活)を取り持つよう琉球に要求するも、色よい返答が得られなかったようですが、それでいきなり武力侵攻するというのも乱暴な気もしますが、戦国大名が領地を分捕るのに理由は要らないということでしょうか。
 本書では、琉球侵攻の様子はごく簡単にしか紹介されていませんが、島津軍の琉球侵攻(1)によると、それなりの組織的な武力抵抗はあったようです。島津軍80隻3000人は、3月4日の出港から1か月後の4月5日には首里城を占領しています。尚寧 (しょうねい) 王は、薩摩に連れ去られ、その後、江戸、駿河に移送され、(明との通融の仲介を迫るため?)家康と会見させられています。尚寧王は、1611年11月に、ようやく琉球に帰っています。 
 家康は、琉球侵攻を「手柄」と褒め、島津家久に琉球を与えると、御内書で明確に記しています。本書はこれを、琉球は薩摩の「附庸(ふよう)」となったと説明しています。
 goo辞書によれば、「附庸(ふよう)」とは、「宗主国に従属してその保護と支配を受けている国。従属国。付庸国。」ということですが、 支配の程度は具体的にそれぞれ異なるでしょうから、これだけでは実態は必ずしも明らかではありません。
 琉球の場合は、侵攻後も中国への進貢は認めれていますから、かなり特殊な形態の「附庸」ということになります。すなわち、琉球王は中国皇帝より王位を認められ、新しい国王が即位するごとに皇帝から冊封使が派遣されて来ます。「冊封使の琉球滞在は、4ヶ月から8ヶ月に及び、その間に国王招待の大宴が七度行なわれたために、これを七宴と呼び、この時に出された料理のことを、御冠船料理」というそうです(御冠船料理、こちらに再現された料理が掲載されています)。つまり、薩摩は琉球の内政に干渉し支配しますが、中国との外交や貿易は、冊封を受けた琉球王が担当しますから、その限りでは独立国の体裁を保っています。
 幕府と薩摩は、琉球侵攻までして、明との勘合貿易復活を図ったのですが、その計画は実現せず、明から疑いをかけられた琉球は進貢を一時停止させられてしまいます(まさに踏んだり蹴ったり?)。
 「4 近世の琉球国(一)」では、薩摩支配下での、琉球の内政(税制)と外交(貿易)を扱っています。
 薩摩は、琉球王と側近から起請文を取り服従を誓わせます。そして、琉球在番奉行と鹿児島琉球館を設け支配関係を強化し、検地を行い石高制による徴税・上納システムを構築し、支配体制(琉球仕置き)を確立します。
 一方、対中国関係では、明から清に王朝が交代した後も、琉球は進貢が認められます。ただ、進貢貿易には薩摩の船も参加し、折半した形で行われるようになります。また、多くの中国船が長崎にも来航するようになります。幕府はそれに伴い大量の日本銀が海外流出することを恐れ、貿易額の総量規制(御定高制)を実施します。その額は、長崎の中国船で年6000貫、オランダ船で年3000貫、一方、琉球の進貢は804貫だったということですから、この時期の貿易の主流は長崎に移っていたといえるのでしょうか。 
 「4 近世の琉球国(一) 七 近世の久米村」では、久米村(現在の那覇市久米、沖縄県庁・那覇市役所前の一角です)の来歴が紹介されています。
 久米村の起源は、1392年に察度が中国皇帝から三十六姓の中国人を賜い、この地に住まわせたことに始まるといわれています。この点について、琉球家譜目録データベース(久米・解説)では「商売その他の理由で来琉した中国人が自然発生的に港市・那覇に唐人集落を形成したというのが実際のところのようである」と説明しています。いずれにしても、外交文書の作成、使者・通訳、航海術指南などに長けた職能集団だったといえるでしょう。
 明の衰退と中継貿易の不振により、17世紀前後には、久米村も衰微・荒廃し、人口も激減しますが、17世紀中ごろから、王府は久米村の強化を図り、また、清への進貢が軌道に乗ったこともあって、久米村は往時の繁栄を取り戻します。このような経緯を、琉球家譜目録データベース(久米・解説)では、「近世の久米村は、それ以前の自然発生的な集落とは異なり、王府の施策によって政治的に創出された地域である」と説明しています。久米村出身の程順則(ていじゅんそく)と蔡温(さいおん)は、近世琉球の国作りに重要な役割を果たしています(久米村:“蔡温時代”の探訪ノート)。 
 「6 琉球国の終焉」は、明治維新から琉球処分による琉球国消滅までを扱っています。
 この時期は、朝鮮、清・台湾、琉球の東アジア近隣諸国に対する、明治政府の積極・強硬外交が進展して行きます。ただ、基本方針はどこにあったのか、そもそも一貫した外交方針があったといえるのか必ずしも明らかではありません。ただ、琉球処分は台湾への勢力拡大をにらんだものであったことは否定できないように思えます。つまり、琉球問題は、明治政府の東アジア外交と密接に関連しています。しかし、本書ではこの点にほとんど触れられていません。そこで、以下に維新政府の初期の外交をまとめて見ます。
 まず、明治政府は近隣諸国との関係を一新する必要に迫られていました。なぜなら、従来の外交関係は二重の意味でいびつなものであったからです。つまり、@江戸幕府と中国との関係は、直接的な交流ではなく、民間貿易や朝鮮・琉球を通じて間接的な文化交流を行うという変則的なものでした。また、A琉球を薩摩の属国として、幕藩体制に組み込む一方で、琉球王が独立国の体裁で、中国皇帝から冊封を受けることも認めていました。
 そこで、中国とは日清修好条規(1871)、朝鮮とは日朝修好条規(1876)を締結し、琉球は琉球処分により、沖縄県を設置(1879)し、完全に日本の領土に組み込みます。
 ただ、近代的な対等の外交関係を結ぶという一貫した方針があったわけではないようです。たとえば、対朝鮮政策について、征韓論争以降の経過は次のようになっています。
 1873年10月、明治六年政変
 1875年9月、江華島事件
 1876年2月、日朝修好条規
 1877年2月、西南戦争
 明治六年政変では、内治の整備が先決であるとした大久保利通、木戸孝允らが勝利したとされていますが、その2年後には江華島事件(砲艦外交?)を経て、翌年には国交を開かせているのですから、「内治の整備が先決」でもなかったようです。いずれにしても「征韓」派の本来の目的である国交回復は果たしたのですから、論争の意味はなくなったはずです。
 そもそも、明治政府の指導者は、さまざまのニュアンスの違いはあっても、「征韓」という点では共通していたのでないでしょうか。ただ、「名分条理」の貫徹にこだわり(読書ノート/明治維新と征韓論 吉田松陰から西郷隆盛へ)、天皇制イデオロギーに純化した西郷隆盛の「征韓」は少し異質な感じもします。そんな西郷が武闘派の板垣退助らに担がれることに危惧を持った大久保利通らが巻き返しを図ったのが、明治六年政変ではなかったのかという気がします。
 一方、琉球については外務省の管轄とし、1872年9月に天皇が琉球藩王として冊封し、華族に叙しています。1874年7月に、琉球は内務省の管轄となり、1875年に、清朝からの冊封が禁止されます。1879年に、琉球藩を廃し、沖縄県を設置し、琉球王国は消滅します。
 ところで、本書の琉球処分についての記述は、話が前後していて分かりにくい、年号の誤りがある、清との関係についてほとんど触れられていないなどの問題があるように思われます。
 琉球処分については、NHK高校講座 | ライブラリー | 日本史 | 第32回  琉球から沖縄へ 〜近代日本と沖縄〜の番組の動画ファイルが、コンパクトにまとめられていて参考になりました。その中で、琉球処分に異議を唱える清国政府との交渉で、日本側は次のような驚くべき交渉方針を立てていたことが紹介されています。それは、先島諸島(さきしましょとう)を清国領と認め、そこに琉球王国を復活させるというものです。この交渉は決裂し、琉球問題は日清戦争後に下関条約で、台湾・澎湖諸島割譲されたことにより事実上決着します。(ポツダム宣言受諾により、下関条約が破棄されたとするならば、この問題も復活するという主張も理屈としてはありえるでしょう。しかし、琉球処分から130年以上経過し、沖縄県民は日本人として生きてきたのですから、その歴史の重みは否定しがたく、いまさら巻き戻せるものではないと思います) 


 いずれにしても、琉球は、台湾、朝鮮を含め、日本と清の外交問題に密接に関係しています。歴史は生きているでは、最近の研究成果を踏まえ、これらの関係を検証しています。
  (2013/8/19)