読書ノート / 中近世史
 朝鮮侵略は織豊政権の終着点だった? 

 天下統一と朝鮮侵略:織田・豊臣政権の実像(講談社学術文庫) 
編・著者  藤木久志/著
出版社  講談社
出版年月 2005/10/10
ページ数 472 
判型  A4
税別定価 1350円
 豊臣秀吉の朝鮮侵略について、その動機や目的はなんだったのかを知りたくてこの本を読んでみました。その点、この本は朝鮮侵略だけではなく、織田・豊臣政権の全体像を描いています。
 出版社の説明によると、本書は「1975年に小学館より刊行された、『日本の歴史』第15巻『織田・豊臣政権』を底本とした」ということです。デジタル大辞泉によると、底本(ていほん)とは「写本や複製本の原本。また、翻訳・校訂・注釈などの際、よりどころとする本。そこほん」ということですが、ここでは、絶版になった『織田・豊臣政権』を文庫本として復刻(あるいは加筆)するという意味のようです。
 著者は、この本の性格を次のように説明しています。
 ……いま織田・豊臣政権をめぐる研究者たちの関心の焦点もまた、中世国家が解体し幕藩制国家がつくりだされてくる、この統一政権の成立を、一向一揆・大陸侵略との深い関連のなかで追究しようという点に、ようやく集中しはじめている。
 ……これまでの豊かな信長・秀吉論や安土・桃山文化論にも学びながら、やはりまさにこの天正四年を画期とする石山戦争から朝鮮侵略へという、ひと筋にだけすべてを託して、織田・豊臣政権の軌跡をたどってみることにしたいと思う。
 一向一揆と統一権力、統一と侵略。それは、西ヨーロッパ植民帝国の進出も加えて、激動する東アジア世界のなかの民衆にとって、何であったのであろうか。
 その波動と底流を、統一され侵略されたものの側からひたすら見すえていくことを、本書の、ただ一つのたいせつな課題としよう。 
 つまり、一向一揆と大陸侵略に焦点を絞り、織田・豊臣政権の権力主義的・侵略主義的本質を探ろうというものです。その意味では、国盗り物語・出世物語的な英雄伝とは一味違った視点から信長・秀吉を描こうとしたものと思われます。 
 本書前半部の信長時代は、一向一揆と石山戦争を軸に話は展開し、桶狭間の戦いや姉川の合戦、長篠の戦いなどにはほとんど触れていません。
 それは、著者の関心が、信長の支配体制の分析にあり、その確立は、一向宗の寺内(寺や道場を中心に発達し、治外法権的な特権を持った集落)解体とその背後にある石山本願寺権力の壊滅にあると見ているからだと思われます。
 桶狭間の戦い(1560年)から美濃制覇(1567年)、入洛(1568年)、姉川の合戦(1570年)を経て、畿内まで勢力を拡大しますが、石山戦争(1570〜1580年)の間、石山本願寺と連携した包囲網と各地の一向一揆に悩まされますから、信長の支配体制の確立は宗教勢力との争いであったともいえます。
 また、著者は、楽市楽座の狙いは、寺内の解体と「一向一揆の流通路(大阪通路)の破砕」にあったと見ていますが、信長の政策をそこまで一向一揆対策に還元してよいのかなという気もします。
 本書後半部の秀吉時代は、国替えと太閤検地による支配体制の強化と朝鮮侵略への動員体制の完成を軸に展開します。
 寺内解体、国替え、検地は信長時代に始まっていますが、秀吉はそれを全国規模で完成したものといえます。検地は豊臣政権の吏僚(石田三成、増田長盛、大谷吉継ら)が乗り込んで、各地の生産力を確認し石高に換算するものですから、それにより各大名の経済力を把握し、島津討伐、小田原攻め、朝鮮侵略の軍役の基礎とすることができます。
 一方で、検地により、農地の生産力を確実に把握することができますから、領主の直接的支配力は高まり、相次ぐ軍役と重なって年貢取立ては厳しさを増し、一揆や逃散が相次ぐこととなります。

 秀吉の朝鮮侵略のきっかけについて、著者は次のように述べています(193ページ)。信長がどれだけ具体的に中国侵略を計画していたのか疑問も感じますが、秀吉の大陸侵略は信長の意志を受け継いだものということでしょうか。それにしても、「日本の中世国家が、東アジア世界のなかで中国の権威と深くむすびついてなりたっていたという、史的背景にかかわるものであった」というのはよく分からない表現です。
 信長は、「日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成してシナを武力で征服し、諸国をみずからの子息たちに分かちあたえる」(『回想の織田信長』)という考えをいだいていた。信長のなかで、中世国家の解体を果たして、「天下」を完成させることと、中国を侵略することとは、疑いもなくわかちがたい課題としてとらえられはじめていた、といわなければならない。
 それは、日本の中世国家が、東アジア世界のなかで中国の権威と深くむすびついてなりたっていたという、史的背景にかかわるものであった。その課題も夢も、すべて、秀吉にうけつがれていくことになる。
 著者は次のよう述べて、秀吉が大陸侵略計画を公表したのは関白就任直後の1585年9月3日であるとしています(223ページ)。この時点では、島津氏降伏(1587年4月)も北条氏降伏(1590年7月)もなっていないのですから、大陸侵略計画は全国統一と並行する形で進められたことになります。

……フロイスの報告は、それを関白就任の翌春のこととしているが、それがはじめて公表されたのは、じつに秀吉が関白となった直後のことであった。

 秀吉、日本国のことは申すに及ばず、唐国まで仰せつけられ候こころに候。

 この一文は秀吉直臣の一柳市介にあてた九月三日(年号なし)付の朱印状の一部だが、この趣旨はフロイスの報告とほとんど一致する。朱印状といえば私信ではなく、その信頼度と公式な性格からいっても、これは秀吉の唐国つまり中国大陸(当時は明王朝)侵略計画の公表ないしは宣言として、そのもつ意味は重い。
 公表の時期は、岩沢愿彦氏の綿密な考証によって天正一三年(一五八五)の九月三日と確定された。秀吉兄弟が大軍をもって大和にのりこみ国分け・国替えを強行した、その日と合致する。じつに、内政強行と対外侵略の計画とは、秀吉の政権構想のなかに、わかちがたいものとしてむすびついていた。

 さらに、1586年の九州出動の動きの中で、朝鮮侵略が具体的に語られ始めたことを次のように紹介しています(225〜226ページ)。

 四月、毛利輝元に対して九州出動の態勢づくりを指令した朱印状ー四ヵ条のなかで、すでに「高麗(こうらい)御渡海事」というーヵ条を明記していたし、六月、対馬(つしま)の宗(そう)氏にあてた返信でも、

 日本の地は東国まで掌中に収め天下は静謐(せいひつ)となった。こんどは、筑紫(ちくし)を見物しながら、九州に軍を動かすつもりである。そのついでに、高麗国へも人数(軍勢)を派遣しよう。そのおりには、忠節を期待する。

と語り、九州動員はほんの見物で、軍を動かすのは高麗(朝鮮)が目的だと公言した。さらに二ヵ月後の八月五日には、諸大名に九州動員令を発しながら、これまた「唐国までもと、征服計画を考えてきたが、島津の反逆をたたきつぶすこの時を好機として、侵略態勢をつくりあげよう」と、まるで島津討伐は眼中になく、目ざすは唐国たといわんばかりの宣伝を行なっていた。一連の侵略宣言の文書は、いつも軍事動員の強化、つまり国内統一の過程と深い関連をもって語られていた。

 そして、「内政強行と対外侵略の計画とは、わかちがたいものとしてむすびついていた」理由については次のように説明しています(227ページ)。

……本書のはじめにみた孫一や与一のような、村々の中世名主たちを、小者から侍へ、大身の大名へととりたてていく過程。そこに、南部信直はじつに鋭く秀吉軍団の「からくり」をみてとっていたのだが、そうした領主階級の結集がすすみ、秀吉の「日本の治」のかたちづくられる過程が、じつは「唐国まで」という大陸侵略への道とわかちがたくむすびついていた、という「からくり」のもっとも深奥にある核心まで、はたして信直は見ぬいていたかどうか。
 秀吉の軍隊は、下剋上を組織した軍隊であると朝尾氏は簡潔に説いているが、下剋上の組織化が、そのはじめから大陸侵略への衝動を包みこんでいたことを、秀吉みずから、はっきりと語っているのである。
 下剋上の組織化と大陸侵略、まことに、豊臣政権の理解はこの「からくり」をどのように解き明かしていくかにかかっている。

 この文章からは、「からくり」が何であるのか容易には理解しがたいところですが、「成り上がり者集団を統率するためには、絶えず新たな目標と褒賞を示し続けることが必要であり、その究極が唐国であった」ということでしょうか。 
                                    (2014/11/15)