読書ノート / 中近世史
 日韓友好の視点から秀吉の朝鮮侵略とその後を語る
2014/12/4
 日韓共通歴史教材 朝鮮通信使:豊臣秀吉の朝鮮侵略から友好へ
編・著者  日韓共通歴史教材制作チーム/編
出版社  明石書店
出版年月 2005/4/30
ページ数 116 
判型  A5
税別定価 1300円
 本書は、広島と韓国・大邱の小中高教師11人が共同執筆した歴史の副教材です。前半は豊臣秀吉の朝鮮侵略を取り上げ、後半は江戸時代の朝鮮通信使を取り上げています。
 ドイツとフランスは両国政府の支援で、次のように共通歴史教科書を作成しています(独仏共通歴史教科書を東アジアで読む)。 
……エリゼ条約40周年を機に独仏両政府の支援のもとで2003年に開始された共通歴史教科書作成プロジェクトは、やはり注目に値する。両国の高校生に向けて2006年に第3巻「1945年以降のヨーロッパと世界」が刊行され、2008年に第2巻『ウィーン会議から1945年までのヨーロッパと世界』、そして2011年に第1巻「古代から1815年までのヨーロッパと世界」の出版が続き、このうち第3巻はすでに邦訳が出ており、第2巻の翻訳も現在進められている 
 広島と大邱の教職員組合が、日韓でも同じような企画のものを作ろうと作成したのが本書です。 
 助言者の金両基(キムヤンキ)常葉学園大学客員教授(当時、金両基氏の退職惜しむ ゼミ生が「最終講義」…常葉学園大)は、この企画について次のように述べています(6ページ)。 
 近現代史を取り上げようと考えたが検討の過程で、こうした作業の経験がないために荷が重いことを知り、内容を文禄・慶長の役(壬辰倭乱・丁酉再乱)と朝鮮通信使にかえた。それは戦争と平和という大枠で検討できる時代であり、広島では蒲刈(かまがり)や鞆(とも)の浦(うら)に朝鮮通信使が立ち寄って交流した歴史も理由の一つに含めた。また、豊臣軍に属していたが朝鮮王朝の武将となって豊臣軍と戦いそのまま定住した沙也可(さやか)という人物のこと、日本に巡行された陶工李参平(イサムビョン)が有田焼の基礎を築く実話など、戦争と平和、さらに民の生活から歴史を検討した。…………
 今回の体験を活かせば、難題の近現代史の共通認識を実らせることができるとわたしたち関係者は思っている。共通の歴史認識を持つことが東アジアの平和を招来し、共生時代構築の堅固な礎石になるとかたく信じ、このプロジェクトに参加して、その一石を投じることができたことを関係者全員が心からよろこんでいる。
 いうなれば、日韓友好の視点から秀吉の朝鮮侵略とその後の関係修復の歴史を語るというのが、この本のテーマであると思われます。
 高校生に語りかけるような平易な文章で、ほぼ全頁にわたり、カラー写真や地図や使われていて、とても読みやすい内容となっています。
 文禄・慶長の役は、8ページほどの客観的記述(新しい歴史教科書をつくる会の人たちには異論があるかもしれませんが)でコンパクトにまとめられており、一方で、陶工・李参平や降倭・沙也可など庶民に焦点をあてたサイドストーリーがふんだんに紹介されています。なお、「おたあジュリア」(32ページ)は、わらび座のミュージカルになったそうです(わらび座ミュージカル「ジュリアおたあ」公演)。読書ノート/小西行長を見直す:記録集でも、おたあジュリアが取り上げられています。
おたあジュリア(小西行長の養女) 
 文禄の役の時、平壌を攻めた小西行長は城中で親を失っていた両班の娘と思われる6歳の少女を保護しました。行長はこの少女を日本へ連れ帰り、「おたあ」と名づけて育てました。行長はキリスト教徒であったので、この少女にも洗礼を受けさせ、ジュリアという洗礼名を与えました。
 秀吉の死後、行長は徳川家康と関ケ原で戦いましたが敗れ、処刑されました(1600年)。
 おたあジュリアは行長が死んだ後、徳川家康に使え、家康から側妻になるよういわれましたが拒否しました。その後、家康はキリスト教の禁止令を出し、キリスト教徒を追放しました(1613年)。信仰を守り通したおたあジュリアも神津島(伊豆諸島の一つ)に島流しとなりました。その後、彼女は信仰を守りながら、薬草学の知識を生かして島の人々の医療のために献身的な奉仕をしました。
 いま、神津島ではおたあジュリアの遺徳をしのんで毎年5月にジュリア祭が開かれ、韓国からも多くの信者が来島しています。

 後半の朝鮮通信使の部では、対馬藩の国書書き換えの経緯や、通信使の回数や構成員など詳細に説明、さらに、行路や宿泊地、歓迎の料理などをカラー写真で紹介され、面白い読み物となっています。
 朝鮮通信(よしみを通じるという意味)使の日本への派遣は、室町時代の1429年に始まり、戦国の動乱期には途絶えたものの、江戸時代に復活し1811年まで続きます。(つまり、400年近くの間、両国は友好関係にあり、秀吉の朝鮮侵略による敵対関係は特異な事態であったということもできそうです)。
 しかし、幕末になって尊王攘夷運動が激しくなり、それが日本型華夷意識、征韓論につながって行きます。ただ、次のように朝鮮に小中華思想があったことも指摘しています。
華夷意識(中華思想)と日本型華夷意識・小中華思想 
 華夷意識(中華思想)とは中国漢民族に見られた思想で、漢民族を政治・文化的に優れた民族(中華)とし、周辺の民族を野蛮(夷)と見る考え方です。中国(漢民族)は、世界の中心の文化国家として、周辺の遅れた民族に対して周りの国々を導いていくという発想につながっています。
 17世紀前半、明(漢民族が作った国家)が清(満洲民族が作った国家)に滅ぼされたために、朝鮮では朱子学の考えを正当に受け継ぎ、中国の高い政治性・文化性を受け継いでいるのは自分かちであるという意識が高まりました。そこで、朝鮮が清や日本よりも文化的に優れているという民族的優越感を生み出しました。これを小中華思想といいます。
 一方日本では、江戸時代中期、儒教の教えや仏教の研究を中心とする学問ではなく、日本独自の文化・思想などを日本の古典や歴史に見いだしていこうとする国学が盛んになりました。日本の文化が優れているという国学の考え方はやがて、天皇を中心とする日本が周りの国々(中国・朝鮮など)より優れているとする日本型華夷意識へと発展していきます。