読書ノート / 中近世史
 一級史料を駆使して徳川史観のフィルターを剥がす
2014/12/12
 消された秀吉の真実:徳川史観を越えて
編・著者  山本博文・堀新・曽根勇二/編
出版社  柏書房
出版年月 2011/6/10
ページ数 325 
判型  B6
税別定価 2800円
 出版社のページでは、本書を次のように紹介しています。
 これを見る限りでは、意外な歴史エピソードを集めた歴史読み物という感じを受けますが、実際は一般読者をも意識した歴史論文集です。論文といっても、学術誌に掲載するようなものではなく、研究者が専門分野の研究内容を一般読者にも分かるように工夫して紹介したものです。
テレビ・小説で語られてきた秀吉像を覆す!教科書には載っていない真実を、気鋭の研究者らが、人物像・政権構想を一級史料に基づき解明していく!

本書は読むと、こんなことがわかる
○徳川家康は豊臣家康だった?
○長久手の戦いで秀吉は負けていなかった。
○刀狩り令は全国に出されていない?
○右筆(書記)は戦国大名より偉かった?
○50日以上前に出された命令で戦う朝鮮在陣の大名たち!
 本書は豊臣秀吉関係文書研究会の参加者が研究内容をまとめたものです。豊臣秀吉関係文書研究会は、本書の編者(山本博文・堀新・曽根勇二)が中心となって、2005年7月に発足し、年3、4回のペースで報告会を開いているそうです。その成果は、山本博文「天下人の一級史料:秀吉文書の真実」(2009年)にまとめられており、本書はそれに続いて、メンバーが寄稿という形で成果を発表しています。
 それぞれの寄稿文では、古文書を写真で紹介し、それに釈文と現代語訳を付け、その内容を検証するというスタイルがとられています。これは、次のような編者の指摘(324ページ)と関連しているようです。
 本書の執筆・編集作業を通じて浮かび上がってきたのは、徳川史観の影響力の根強さと深さである。徳川史観とは、徳川家康や将軍職をことさらに神聖化・絶対化する江戸幕府のイデオロギー工作である。これが三百年近く諸書を通じて繰り返された結果、日本人の歴史認識に潜在意識のように刷り込まれてしまっている。これは歴史研究者も例外ではない。知らず知らずのうちに徳川史観に沿って史料解釈してしまったり、あるいは所与の前提としている「常識」こそが徳川史観の産物だったりする。我々は原本を中心とする一次史料をしっかりと読み込むことを通じて、等身大の豊臣政権像を描き、それを正当に位置づけようとした。結果的に、その作業は徳川史観の克服を目指すことになったのである。
 つまり、これまで学会にも大きな影響を及ぼして来た「徳川史観を克服」するためには、一次史料を使って新説を立証する必要があるということでしょう。しかし、それは学会の話であって、一般の読者にとって、その論証を理解するのは容易ではないし、そこまで専門的な説明を求めているわけではありません。そこで、詳細な説明は読み飛ばして、興味の持てそうな結論部分だけつまみ食いするような読み方をせざるを得ないように思われます。

 出版社のページの紹介文にある「○徳川家康は豊臣家康だった?」というのは、「第五章 豊臣秀吉と「豊臣」家康  堀 新」に出てくる話です。しかし、明確に「豊臣家康」と名乗っていた証拠はないようで、「羽柴江戸大納言殿」という徳川家康宛の文書が一点残っているだけだそうです。そして、この論文の著者はそのことから、家康が「羽柴名字・本姓豊臣」を授姓されたのではないかと推測しています。本姓と名字の関係についての説明はありませんが、足利将軍の場合、「足利名字・本姓源」ということになるのでしょうか。
 ところで、なぜ本姓を問題とするのかについて、著者は次のように説明しています(151〜153ページ)。つまり、家康が豊臣姓であったことを立証するのは「徳川史観のフィルターを剥がす」意味があるようです。
 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康を、俗に三英傑(えいけつ)と言います。家康が乱世を最終的に統一して江戸幕府を開き、東照大権現(とうしょうだいごんげん)として神格化されました。そのため、信長・秀吉時代の家康の事績は過大評価され、改竄(かいざん)もされました。例えば、三代将軍家光(いえみつ)が日光東照宮にあった家康の官位叙任文書(じょにんもんじょ)(辞令のようなもの)をすべて源姓に書き替えたことを、米田雄介氏が明らかにしています(「徳川家康・秀忠の叙位任官文書について」〔『栃木史学』八、一九九四年〕)。征夷大将軍は源氏に限られるはずだからです。この背景には、平氏や藤原氏の信長・秀吉は将軍になれなかったが、源姓である神君(しんくん)家康こそが真の武家の棟梁だ、だから江戸幕府は正当な権力だという政治的なメッセージがあるのです。
 事績を改竄されたのは家康だけではありません。将軍になりたかった秀吉が、足利義昭に養子入りを断られて仕方なく関白になったというエピソードは有名です。しかしこれは、寛永十九年(一六四二)に江戸幕府の御用学者である林羅山が著した『豊臣秀吉譜』に初めて出てくる話です(石毛忠「思想史上の秀吉」〔桑田忠親編『豊臣秀吉のすべて』新人物往来社、一九八一年〕)。同時代史料には、秀吉は天皇に将軍任官を勧められて断ったとあります(『多開院日記』天正十二年十月十六日条)。よく考えてみれば、その後秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)になる義昭が、秀吉の申し入れを断ることができたでしょうか。それに関白になることは、将軍よりもずっと難しかったはずです(三鬼清一郎「戦国・近世初期の天皇・朝廷をめぐって」〔『歴史評論』四九二、一九九一年〕)。鎌倉・室町幕府の将軍は何人も暗殺され、最後の将軍義昭は落ち武者狩りあって身ぐるみ剥(は)がれ、「貧報(乏)公方」と嘲られています(『信長公記』)。当時、将軍職そのものにそれほどの権威があったとは思えません。さらには、鎌倉幕府には藤原将軍と皇族将軍がいて、源氏将軍の方が少数派ですから、将軍=源氏という議論の前提そのものが怪しくなってきます。
 江戸時代を通じて、家康や将軍職がことさらに神聖化・絶対化された結果、現代の我々にもこうした徳川史観が刷り込まれています。天下人となる以前の家康の実像をとらえるためには、こうした徳川史観のフィルターを一つ一つ剥がす必要があるのです(堀新「信長・秀吉の国家構想と天皇」〔池享編『天下統一と朝鮮侵略』吉川弘文館、二〇〇三年〕)。

 出版社のページの紹介文にある「○長久手の戦いで秀吉は負けていなかった。」というのは、「第一章 長久手の戦い 秀吉が負けを認めたいくさ 鴨川達夫」に出てくる話です。
 この論文の著者は、「秀吉が負けを認めたいくさ」とタイトルにあるように、「長久手の戦いで秀吉は負けていなかった」とは言っていません。次のように、秀吉は書状で負けたことを認めていると説明しています(50ページ)。
 ちなみに、秀吉の書状では、@岩崎城を攻略、Aさらに岡崎方面へ、B勝利を失った、という流れになっています。岩崎から岡崎への途上で第二の戦闘が発生し、そこで大敗したことになります。岩崎から岡崎へ、つまり南下したのですから、岩崎より南で大敗を喫したはずですそして、今日の「長久手古戦場」が、大敗の現場であるとされています。しかし、すでに述べたように、「長久手古戦場」は岩崎より北にあるのです。
 死屍累々の戦場が誤って記憶されたとは思えませんので、これは秀吉が繕いごとをしているのでしょう。秀吉軍が背後から襲われたことは、書状にはっきり記されています(『愛知県史』四〇七号)。実際の状況は、先頭の部隊は岩崎城を攻略したが、後尾の部隊はまだ岩崎より北にあり、それが襲われたのではないでしょうか。行動が緩慢であったために、文字通り敵に尻尾を押さえられたということです。それだけでも無様なのに、しかも大敗したとあっては、秀吉も体裁を気にせざるを得なかったでしょう。そのため、果敢に前進したのだが上手くいかなかった、というストーリーを仕立てたのだと思います。
 では、なぜ「負けていなかった」ということになるのでしょうか。それは、論文中の次のような記述と関係があるようです。つまり、秀吉は、「岩崎の戦い」ではいったん勝利を収めたが、「長久手の戦い」で逆転負けしたということになります。ということは結局、「長久手の戦いで秀吉は負けた」ということになるのではないでしょうか。
 すでに述べたように、当事者たちの間では、この戦いは「岩崎の戦い」と認識されていました。「長久手の戦い」という呼称は、明らかに後世の産物です。では、なぜ「岩崎」ではなく、「長久手」なのか――。その理由は、家康の行動を以上のように解釈すれば、説明ができるように思います。岩崎を確保することに、家康は失敗したわけです。徳川幕府が成立し、家康が神格化されてゆく、そのような空気の中では、岩崎という地名は封印されざるを得ません。それに代わって、長久手で秀吉軍の尻尾をつかまえ、逆転勝利に持ち込んだことがクローズアップされ、そのため「長久手の戦い」という呼称が定着していったのでしょう。

 出版社のページの紹介文にある「○○50日以上前に出された命令で戦う朝鮮在陣の大名たち!」というのは、「第七章 秀吉と情報 佐島顕子」に出てくる話です。これは、秀吉の戦況把握と実際の現地での戦況悪化とでは、かなりのタイムラグがあったという話ですから、いわゆる徳川史観とは直接関係はありません。
 古文書の記載から当時の通信状況をまとめると次のようになります(231ページ)。漢城(ソウル)から名護屋(佐賀県唐津市)まで最短で14日かかっています。漢城などから畿内までは1ヶ月以上かかっていますが、さほど急ぎの文書ではなかったのかもしれません。

 当時の戦況は次のように経緯しています(秀吉の朝鮮侵略(日本史リブレット)34)。5月の漢城占領のときには、秀吉は名護屋にいますから、月内にはその知らせを受け取っていたものと思われます。7月下旬には、母危篤の知らせを受けて、秀吉は畿内に向かっていますから、7月中旬の漢城での軍議(明への侵攻延期)の報告を受け取ったのは、8月以降だったと思われます。いずれにしても、具体的な作戦は現地の部隊に任せるほかなかったでしょう。
1592/4  宗・小西軍の釜山上陸(4/12)に続き、日本軍が続々と朝鮮侵攻を始める(第1次朝鮮侵略、文禄の役・壬辰倭乱)。日本軍は20日足らずで首都漢城(現在のソウル)を占領(5/3)、朝鮮国王は平壌(現在のピョンヤン)へ都落ちする 
1592/6  小西軍が平壌を攻略(6/15)、朝鮮国王は明との国境近くの義州に逃れる。このほか、日本軍は朝鮮全土に散開する。しかし、李舜臣の率いる朝鮮水軍の活躍は目覚しく、抗日義兵も各地で蜂起する 
1592/7  明の援軍と朝鮮軍が平壌を攻撃するが、小西軍が撃退する(7/16)。日本軍は、漢城で軍議を開き、冬に向かい食料の調達も困難になるとの小西行長の報告を受けて、明への侵攻を延期する(事実上の中止)。 
1592/9 小西行長と明の沈惟敬が講和交渉を始める
1593/1  明軍の攻撃により平壌陥落(1/7)、小西軍は漢城に撤退する。漢城で講和交渉再開、日本軍の漢城撤退と引き換えに明軍は講和使節を派遣することとなる