読書ノート / 中近世史
 北条氏の支配論理を検証
2015/9/6
 北条氏と鎌倉幕府(講談社選書メチエ)
編・著者  細川重男/著
出版社  講談社
出版年月 2011/3/10
ページ数 230 
判型  四六版
税別定価 1500円
 「北条氏は、なぜ将軍にならなかったのか」ということについては、「なりたくてもなれなかった」というのが一般的な見方だと思われますが、著者は「なる必要がなかった」とし、その根拠は「北条氏の鎌倉幕府支配を支えた論理」から説明できる、と主張しています。
 その「論理」とは、次のようなものです(220ページ)。
@鎌倉将軍は、武家政権創始者源頼朝の後継者である。
A北条氏得宗は、八幡神の加護を受けし武内宿禰の再誕北条義時の後継者である。
B義時の後継者である北条氏得宗は、鎌倉将軍の「御後見」として鎌倉幕府と天下を支配する。

 @については、源氏将軍は、頼朝、頼家、実朝の三代で途絶え、後は頼朝の姉の血筋を継ぐ摂家将軍二代、その後は源氏の血筋とは無縁な親王将軍が四代続いています。ここに至っては、もはや「源頼朝の後継者」とは言えない感じもしますが、著者はこの点について、次のように説明しています(195〜196ページ)。
 鎌倉後期から南北朝初期の将軍にとって、必要であったのは、清和源氏であることではなく、頼朝の後継者であることではなかったろうか。「右幕下」「右大将家」(共に頼朝が任官した右近衛大将のこと)、あるいは「二品」(ここでは二位のこと。正二位か極位だった頼朝を指す)として神格化した頼朝の後継者であることが、武家政権の首長たる将軍にとって必要な資格であったのではないか。鎌倉末期成立の幕府訴訟解説書『沙汰未練書』は「将軍家トハ、右大将家(源頼朝)以来代々関東政務之君御事也」「地頭トハ、右大将家以来、代々将軍家奉公、蒙御恩人之事也」と記しているのである。
 「鎌倉将軍は頼朝の後継者である」という観念を具現化した者こそ、七代将軍源惟康であった。前述のごとく、文永七年(一二七〇)、時宗二十歳の十二月、惟康は七歳で源氏賜姓を受け、源実朝横死以来五十一年ぶりで鎌倉に源氏将軍が復活した。時宗二十九歳の弘安二年(一二七九)正月、惟康は十六歳で正二位に叙す。五年後の同七年四月、時宗は三十四歳で没するが、惟康は同十年六月五日、二十四歳で右近衛大将に任官するのである。
 つまり、惟康は時宗政権下で源氏・正二位となり、時宗没の三年後に右近衛大将となったのである。源氏・正二位・右近衛大将は、すべて頼朝に通じる。惟康は頼朝の再来であった。
 七代将軍源惟康は、惟康王(皇位継承資格のない皇族男子)として3歳で将軍に任官し、その後7歳で源氏賜姓を受け、24歳で親王宣下を受けています。つまり、一度は皇族を離れ源氏となった後、親王(皇位継承資格のある皇族男子)に戻っています。その後の親王将軍にはこのような例はありません。時宗以外の北条氏は「頼朝の後継者」に、それほどのこだわりを持っていなかったのではないかという気がしないではありません。
  Aは、北条義時は武内宿禰の生まれ変わりだという伝説です。
 著者によると、この話は「古今著聞集(ここんちょもんじゅう)」(1254年)と「平政連諫草(たいらのまさつらかんそう)」(1308年)で触れられており、「鎌倉末期にはこの伝説が鎌倉幕府中枢を含めた武家社会知識層の間に広く知られていたことを示している」(85ページ)とのことです。
 北条義時と武内宿禰を比較すると次のようになります。著者は、A、B、Cの類似を指摘し、さらに、D「ともに追討命令を蒙るも助かった」ことに王朝貴族が飛びついたと推測しています。天皇の追討宣旨を蒙りながら、それに反抗し勝利するということは、まさにあってはならない驚天動地の事態であり、「追討命令を蒙るも助かった」先例を武内宿禰に見出し、北条義時は武内宿禰の生まれ変わりだという伝説につながったというものです。そして、北条政権を正当化する根拠として、その伝説が鎌倉武家社会に受け入れられたとするのです。
  武内宿禰  北条義時 
@ 300歳超  61歳(1163−1224) 
A 5代の天皇に仕える  4代の将軍に仕える 
B 神功皇后を助け香坂・忍熊両王の乱を平定  政子を助け承久の乱を平定 
C 応神天皇の後見  4代将軍・藤原頼経の後見 
D 追討命令が出るが無実を証明し勅免  追討宣旨が出るが承久の乱に勝利
 ただ、武内宿禰が追討命令を蒙るも助かったのは無実を証明したからであり(そもそも武内宿禰の存在自体がおおいに怪しいですが)、追討宣旨(無理難題に近いものですが) に正面から反抗し武力で勝利を勝ち取った北条義時とは事情が違うようにも思えます。
 Bについては、「得宗」は北条義時に関係する何かであるとされているそうですが、「得宗が義時と結びつく語であることを示す史料は、実は極めて少な」
く、「実はよくわからない」と著者は述べています(90ページ)。
 著者は「佐野本北条系図」によれば、浄土系信者であった義時の法名は「観海」であった可能性が高いとし、「得宗」が本来の義時の法名であったとする説を否定しています(92ページ)。
 そして、「得宗」は「徳崇」の当て字、略字であり、「徳崇」は時頼が曽祖父義時に贈った禅宗系の追号であったと推測しています。庶子であり北条家家督としての正統性を欠く時頼が、同じく庶子でありながら家督を継承した義時に「徳崇」の追号を贈り、自らの法名に「道崇」を選び共通性を誇示したというのです(95ページ)。
 かくして、著者の言う「北条氏の鎌倉幕府支配を支えた論理」が完成するわけですが、推論に推論を重ねているという感じがしないでもありません。
 著者は、鎌倉武士の知的レベルについて次のように述べています(10ページ)。

 鎌倉武士・鎌倉御家人とは、こんな連中なのであり、こんなヤツらが鎌倉幕府を作っていたのである。平安・鎌倉時代の武士たちは、自分たちを「勇士」と称し、他者からも、そう呼ばれていたが、その「武勇」とは、こういうことなのである。ようするに野蛮人なのだ。王朝貴族は東国武士を蔑んで「東夷」(東に住む野蛮人)と呼んだが、まったくそのとおりである。

 王朝は奈良時代以来、全国を覆う律令制の支配機構を持ち、その支配機構の歴史は鎌倉幕府が成立した十二世紀末には、ほとんど五百年に及ばんとしていた。この間、王朝貴族は外交を含めた政権運営のデータとノウーハウを積み垂ねていた。しかし、紛争解決の方法として相手を殺すことを即座に選ぶ武士たちが作った鎌倉幕府は、まさに蛮族の政権であり、王朝のような知識の蓄積は、ほとんどなかっか。鎌倉武士たちは、支配機構を手探りで作っていったのである。

 また、後嵯峨以降の両統迭立について、次のように時宗の「不遜・僣上」を批判しています(185ページ)。

 『増鏡』は、時宗は「お二つの皇統で皇位におつきになるようにしよう(御二流れにて、位
にもおはしまさなむ)」と考えていたと記すが、時宗がそれがどのような事態を引き起こすかまで考えていたかどうかは、わからない。
 『増鏡』の記事からすれば、時宗は後深草の立場に同情し、親切からおこなったことである。兄を殺した時宗には、帝王兄弟の関係、特に後深草の置かれた状況に思うところがあったのかもしれない。
 しかし、時宗がどういうっもりであったかに関係なく、この皇位介入は極めつきに異常である。
 建治元年時点で時宗の官位は従五位上、官職は相模守。王朝身分秩序においては、ウジャウジャいる下っ端貴族の一人に過ぎない。このような者が事実上、皇位の行方を決めたのであるから、不遜の極み、僣上の至りである。

 著者は、王朝側の立場から鎌倉幕府を批判的に見ているようにも取れますが、保元の乱に見られるように朝廷の後継争いが争乱の一因ともなっており、それが朝廷の統治能力の低下と相まって武家政権を生み出したようにも思われます。ただ、朝廷の統治機構は完全に崩壊したわけではなく、鎌倉幕府が全国を完全に掌握していたわけでもないようです。いわば、この時代は朝廷と幕府の二重統治体制ともいえるわけで、両者の関係はどうなっていたのかおおいに興味の沸くところですが、本書ではその問題にはあまり触れていません。また、鎌倉幕府の統治基盤についても、ほとんど触れていません。そのあたりに物足りなさも感じます。