読書ノート / 中近世史
 制度史を軸とした鎌倉幕府通史
2015/9/12
 敗者の日本史 7 鎌倉幕府滅亡と北条氏一族
編・著者  秋山哲雄/著
出版社  吉川弘文館 
出版年月 2013/04/15
ページ数 244 
判型  四六版
税別定価 2600円
 目次は次のようになっています。鎌倉幕府の権力闘争では、北条氏一族、特に得宗家が勝者ですが、著者は北条氏一族そのものを敗者と見ているようです。北条氏一族は鎌倉幕府そのものと言えますから、本書で扱われている「敗者の日本史」は「鎌倉幕府の歴史」ということになります。著述の中心は政治史、特に制度史ですから、「制度史を軸とした鎌倉幕府通史」が本書のテーマと言えそうです。
鎌倉幕府の成立と展開 プロローグ
T 鎌倉幕府の機構整備
  (執権・連署・評定・引付/得宗の登場/鎌倉幕府の制度史)
U 蒙古襲来と安達泰盛
  (蒙古襲来に備えよ/弘安徳政/敗者、安達泰盛)
V 六波羅・鎮西と北条氏
  (六波羅探題の制度史/鎮西探題の制度史/西国の北条氏一族)
W 敗者、北条氏
  (あるべき姿をもとめて/鎌倉をとりまく変化/鎌倉幕府の滅亡)
敗者の遺産 エピローグ

 鎌倉幕府は関東を中心とする地方政権として出発し、奥州藤原氏を滅ぼして東北地方に勢力を拡大し、承久の変で京に進駐し(六波羅探題設置)、文永・弘安の元寇を機会に九州に影響力を及ぼします。しかし、(次第に衰退して行くものの)朝廷もまだ統治機能を維持しており、朝廷と幕府の二重統治であったとも考えられ、その実態は曖昧模糊としています。この点について、著者は次のように述べています(4ページ)。 
 鎌倉幕府を国家レベルでいかに評価するかについては、現在のところ二つの大きな学説がある。ひとつは黒田俊雄氏(黒田一九九四)によって提唱された権門体制論(けんもんたいせいろん)。もうひとつは、佐藤進一氏(佐藤一九八三)に代表されるような東国国家論である。
 権門体訓諭とは、複数の権門による競合対立と相互補完の上に、天皇を中心とした中世の国家が成り立っているという考え方である。権門とは、貴族や大寺社などを指す。この説にしたがえば、幕府は国家の軍事や警察を担当するひとつの権門に過ぎないことになる。
 一方で東国国家論とは、中世には王朝国家と鎌倉幕府という二つの国家があったとする考え方である。この説にしたがえば、幕府は東国にうまれた日本列島における第二の国家だということになる。
 いずれの説をとるかはまだ決着を見ていないが、どちらにも説得力は感じられる。ただし、幕府を国家だと断言するのにはやや抵抗がある。そこで本書では、朝廷に対しては軍事・警察部門を担当するという役割を果たしつつ、東国では東国独自の政権としてふるまっていたという立場で、幕府をとらえることにしたい。
 朝廷の軍事・警察部門が東国に軍事政権を樹立し次第に統治機能を整え、全国に支配を広げ、その統治機構が室町幕府に引き継がれ、全国的な武家政権が出来上がったと、著者は見ているようです。
 「T 鎌倉幕府の機構整備」では、鎌倉幕府の統治機構をかなり詳細に説明しています。幕府成立期に作られた次の3つの機構は、後に北条氏が作り出した諸制度の前提となっていて、室町幕府もこれらの機構を引き継いでいます。
  設置年 長官 初代長官 内容
侍所 1180 別当 和田義盛 治安維持・御家人統制
政所(当初は公文所) 1184 別当 大江広元 一般政務
問注所 1184 執事 三善康信 訴訟 
 北条氏が作り出した諸制度・機関と設立時期は次のとおりです。
鎌倉幕府の諸制度・機関と成立時期  
執権 1213 政所別当と侍所別当を兼務
連署 1225 執権と同格、執権の後見役あるいは見習い機関としても機能 
評定衆 1225 最高意志決定機関 
御成敗式目 1232 武家法、室町幕府にも継承
引付方 1249 評定衆の下に3つ設置、訴訟の予備審理機関、判決原案を作成、室町幕府にも継承 
得宗 1256 北条時頼が病気で幕府の役職を辞任、出家するが、その後回復、北条氏の本宗家である得宗として幕府の実権を握る 
寄合    「深秘御沙汰(しんぴのごさた)」(重要事項を決める幕府中枢の秘密会議)が、時宗の時代に得宗の諮問機関として発展した組織、その後、実質的に最高意志決定機関となる 
 玉川学園・玉川大学・協同 多賀歴史研究所/変化する幕府の組織によると、諸制度・機関の関係は、次のようになっています。

 玉川学園・玉川大学・協同 多賀歴史研究所/変化する幕府の組織によると、北条時頼のころに得宗専制政治が成立し、「図は得宗家の独裁政治(どくさいせいじ=他の意見を聞かずに政治を行うこと)を現しています.得宗が自ら執権になれば,すなわち執権が最高権力者(さいこうけんりょくしゃ)になるので赤字にしてありますが,そうでない時はかざりものでした.こうして鎌倉時代の後期には完全に北条一族が政権をひとりじめしていたのです.」ということです。

 しかし、本書では、次のように述べて、得宗独裁体制という考え方には否定的です(34ページ)。
 細川重男氏の言葉を借りれば、時宗没後の幕府の政治体制は「寄合合議制」(細川二〇〇〇)であった。これまでの研究でいわれてきたような得宗による独裁的な体制ではなく、寄合によって重要な判断が決定されるような体制だったのである。
 鎌倉時代は、承久の変、文永・弘安の役という外部との戦争を挟んで、内部の権力闘争が頻発しています。比企、和田、三浦といった有力御家人が北条氏に滅ぼされる一方で、名越、安達といった北条一門や外戚が得宗や御内人・平頼綱によって討たれ、平頼綱も得宗により滅ぼされます。ただ、名越、安達、平の子孫はその後も幕府の要職に就いています。 
  事件 勝者 敗者 結果
1203 比企の変 北条時政 比企一族滅亡、源頼家追放 源実朝が将軍就任
1205 牧氏の変 北条義時 北条時政と後妻牧方追放  
1213 和田合戦 北条義時 和田義盛の一族が滅亡、  北条義時が侍所別当となる。執権が成立  
1221 承久の変 鎌倉幕府 朝廷   
1224 伊賀氏の変 北条泰時 故北条義時の後妻伊賀方追放   
1246 寛元の政変 北条時頼 名越光時ら失脚、九条頼経を京に送還   
1247 宝治合戦 北条時頼
安達泰盛
三浦泰村一族滅亡   
1272 二月騒動 北条時宗 名越時章・教時兄弟と北条時輔が討たれる   
1274 文永の役 鎌倉幕府 蒙古  
1281 弘安の役 鎌倉幕府 蒙古  
1285 霜月騒動 平頼綱 安達泰盛が襲撃され自害、安達一族が各地で討たれる  
1293 平禅門の乱 北条貞時 平頼綱が自害  
1305 嘉元の乱  北条貞時 北条宗方が連署・北条時村を襲撃し殺害。その宗方が貞時の命令で誅殺される  

 「U 蒙古襲来と安達泰盛」では、安達泰盛による弘安徳政の試みとその失敗を取り上げています。
 安達泰盛が自害した霜月騒動については、著者は次のように述べています(98ページ)。
 かつて霜月騒動は、御家人代表の安達泰盛と御内人代表の平頼綱との争いと理解されていた。
 しかし頼綱方のなかにも御家人はいたので、泰盛を単純に御家人代表とは言い切れない。また佐々木一族の頼氏と宗清のように、一族が敵味方に分かれている御家人の例もある。岩門合戦も、少弐経資と景資という御家人の兄弟の争いでもあった。
 近年では、霜月騒動を幕府内の主導権争いととらえるのが一般的である。
 この主導権争いについて、安達泰盛の弘安徳政と平頼綱の政策の違いを次のように説明しています(153ページ)。
 弘安徳政は、幕府を全国統治権力にまで高める試みであった。そのために、名主職安堵令によって御家人でない武士も御家人と認めようとした。しかし、この試みは否定されたのである。御家人層を拡大するのではなく、現状を維持したまま非御家人を異国警固などに動員する道を、頼綱は選んだ。本所などと折り合いをつけながらも軍事動員をおこなわなければならない幕府にとっては、現実的な判断であった。
 弘安徳政は、幕府の地位の上昇を目指していた。それに対して頼綱の政策は、これまでの幕府の地位を確保し、現実的な対応をとることを目指したのである。示した政策は異なっていたが、安達泰盛も平頼綱も幕府の本来あるべき姿を求めていた。泰盛の政策を否定した頼綱は、自分の政策こそが徳政だと思っていたことであろう。

 「V 六波羅・鎮西と北条氏」では、六波羅探題と鎮西探題の制度と人事の変遷を極めて詳細に説明しています。
 「W 敗者、北条氏」では、鎌倉末期から北条氏滅亡までを取り上げています。滅亡の原因については、直接言及しているわけではありませんが、当時の状況を検証することにより、それを示唆しています。
  霜月騒動、平禅門の乱、嘉元の乱などの争乱を通じて、得宗の外戚、近親、得宗家執事、得宗自身、北条家庶家、それぞれが一度は敗者となり、「それぞれがその形式を残しつつ微妙なバランスを保ちながら、幕府が運営されるようになった」(168ページ)と、強力な指導者不在の状況を指摘しています。
 幕府成立の当初は、鎌倉に多くの御家人が集まってきていたものの、中ごろを過ぎると、鎌倉での儀式に参加するという御家人の役目が特定の特権的支配層に固定され、それ以外は鎌倉から離脱する傾向にあったとしています。
 鎌倉時代の守護制度は東国と西国では性質が異なっていて、東国では「守護」の語が使用されない国があり、古代以来の既得権が認められていたが、守護制度が画一的に適用されるようになり、摩擦が生じるようになったと見ています。
 後醍醐天皇の倒幕計画は、次のように述べて(176ページ)、自らの系統で皇位を独占したいという個人的都合から生じたものであるとしています。
 後醍醐は即位した当初から、鎌倉幕府の打倒を考えていたともいわれている。しかし彼にとって重要だったのは、両統迭立という原則を超えてでも自分の皇位を安定させ、自分の子孫へとそれを継承させることであった。
 皇位継承には幕府の意向が大きく作用する。後醍醐が皇位を維持して子孫に継承させるには、両統迭立の原則にたつ幕府の存在が、大きなさまたげとなっていた。後醍醐による倒幕計画は、彼のこうした発想に端を発したものである。
 13世紀半ばころから、夜討・強盗などの行為に及ぶ悪党の活動が目立つようになっていたが、西国の本所一円地の荘園には幕府の警察力は及ばなかった。しかし、鎌倉時代後半になって、朝廷と幕府が協調路線をとるようになり、荘園にも幕府の警察力が及ぶようになる。そして、荘園に対する敵対勢力が悪党と名指しされると、幕府はそれを取り締まらざるを得ない。その結果、悪党とされた勢力は幕府に対する抵抗勢力となる。著者は、次のように述べ(180〜181ページ)、楠木正成もそのような悪党勢力であったとしています。
 もともとどこの地域にも、不断に争いはあるものだ。争いがその地域内で完結しなくなると、いずれかの勢力が相手方を朝廷や幕府に訴えることになる。鎌倉時代後半になると、訴えられた側は悪党とみなされるようになった。こうして悪党と名指しされる勢力は、増えることはあっても減ることはない状況となったのである。
 悪党は、後醍醐の倒幕を支える勢力にもなった。楠木正成はその代表格である。実はこの楠木正成は、駿河国入江荘の楠木を名字の地とする御家人で、早い段階に得宗の被官となった一族だとする説がある。正成は和泉国若松荘に所領をもっていたが、何らかの理由で権益を奪われ、それへの反抗によって悪党と名指しされたともいわれている。幕府に鎮圧される対象となった正成は、こうして倒幕へと傾いていったらしい。
 正成のような東国御家人が西国へ移住することは、当時は珍しくなかった。彼らの移住は、西国に新たなあつれきをもたらしたであろう。そこで起きた争いによっても、悪党は誕生することがあった。悪党は自分たちを鎮圧しようとする幕府に抵抗する。鎌倉時代後半に多くみられる悪党の蜂起には、このような背景もあったのである。
 足利高氏が挙兵した理由については諸説ありますが、著者は次のように述べ(183〜184ページ)、いずれも決定的根拠にはなり得ないとしています。
 高氏が挙兵を決めた要因は、さまざま想定できよう。本来は格下の北条氏が幕府を主導しているのに対して、将軍にもなりうる源姓足利氏という出自をもつ高氏が反感を覚えたからともいわれる。
 しかし、幕府には幕府の格や序列があった。北条氏の格を低くみるのは、京都の尺度の適用によるものである。幕府の尺度では、北条氏はあきらかに足利氏よりも上であった。足利氏も、その序列のなかで一定の地位を得ている。幕府の役職にこそついていないものの、足利氏は独白の家政機関をもっていたし、袖判下文(そではんくだしぶみ)という形式をとる文書も発給していた。この形式を継続的に使用できたのは、御家人では北条氏と足利氏だけである。
 また足利氏は、北条氏と重ねて姻戚関係を結んでいた。たとえば足利高氏の父の貞氏は、北条氏一族で引付頭人にまでなった金沢顕時の娘を妻に迎えている。彼女の生んだ高義は早世したものの、当初は足利氏の嫡男であったらしい。高義没後に嫡男となった高氏は、やはり北条氏一族で執権にまでのぽった赤橋守時の妹を妻に迎えている。足利氏と北条氏は、対立を続けたあげくに衝突したのではなく、本来は姻戚関係を結ぶような近しい関係にあったのである。
 一方で、将軍が源氏でなければならないという考え方は当時からあった。しかし、足利氏は数ある源氏のなかのひとつでしかない。そのため足利氏は、得宗の擁立する親王将軍に仕えることで源氏嫡流という立場を確保し、幕府内では得宗につぐ格の高さを維持できていたともいわれる(田中二〇一三)。
 ただし、幕府内の地位は幕府が健在であってこそ保たれる。二度にわたって上洛した高氏は、幕府とは異なる尺度をもとに倒幕を主張する人々を目の当たりにして、幕府そのものの存立の危機を感じ、倒幕に動いたのかもしれない。
 新田義貞が倒幕の挙兵を決めた経緯を、著者は次のように説明しています(187〜188ページ)。
 畿内・西国の反乱を鎮圧するため、幕府は関東の国々から臨時の兵粮を徴収した。その催促は、義貞の本貴地である上野国新田荘世良田(こうずけのくににったのしょうせらだ)の有徳人(うとくにん)にも及んだ。有徳人とは、一般的に裕福な人々のことをさす。この時期には、新たに富を集積した有徳人とよばれる人々が各地に勃興していた。世良田までやってきた幕府の使者たちの催促ぶりは、目に余るものであったらしい。見かねた義貞は使者を斬り捨てた。こうして倒幕を決意した義貞は、生品(いくしな)神社(群馬県太田市新田市野井町)に一族を集めて挙兵したという。
 上記のような『太平記』の記述にしたがえば、幕府も私腹を肥やすために兵粮を集めていたわけではなかった。少なくとも表向きの名目は、畿内・西国の反乱を鎮圧するためである。しかし東国の人々にとっては、これまでにない新たな負担を強いられると感じられたのであろう。西国において軍事権門であろうとすればするほど、東国政権としての幕府の基盤である東国に負担を強いなければならなかったのである。
 一方、九州の武士については、著者は次のように(197〜198ページ)、比較的幕府に協力的であったと述べています。
 九州で特徴的なのは、ニカ月前の菊池合戦では探題方が勝利していることである。この時から探題滅亡の直前まで、九州の有力武士たちは探題方についていた。六波羅の陥落や関東での幕府方の劣勢を聞いてはじめて、彼らは探題を攻撃したのである。
 鎌倉幕府滅亡の理由としてしばしば指摘されるのが、蒙古襲来の影響である。九州で戦った武士たちが恩賞を与えられなかったことに不満を抱き、それが幕府に向けられたというのである。ところが鎮西探題の滅亡をみると、九州の武士たちはそれほど不満を感じていたようには思えない。
 確かに幕府は、武士たちの恩賞要求に苦慮した形跡はある。しかし九州の武士たちは、できないことはできないと承知していたはずだ。ゴネれば得をすると思っていたかもしれないが、幕府が恩賞として与える所領がないことくらい、分かっていたはずである。むしろ彼らは、鎌倉から派遣される異国打手大将軍(いこくうってのたいしょうぐん)らを受け入れ、異国警固番役を負担し、石築地を造営するなど、幕府に対しては比較的従順であった。
 しかし、幕府そのものがなくなってしまえば、鎮西探題にもしたがう必要はない。九州での幕府の影響力は大きかったが、それは幕府が組織として機能しているからこそであった。九州の武士たちは幕府組織としての探題にしたがい、幕府の実質的な滅亡とともに探題を見限ったのである。
 以上をまとめると、@末期のの争乱を通じて、鎌倉幕府には強力な指導者がいなくなっていた、A東国の御家人が鎌倉から本貫地に引き上げつつあった、B東国に守護制度を適用したため既得権益との摩擦が生じた、C後醍醐天皇は個人的事情により倒幕を計画した、D幕府が西国の荘園の紛争に関与することにより悪党の反乱に直面せざるを得なくなった、E悪党の反乱を鎮圧するため東国から兵粮を徴収し、新田義貞ら東国の御家人は生活を守るため蜂起した、F足利高氏は幕府の特権的支配層であったが、東国の御家人の棟梁として祭り上げられ幕府に反旗を翻した、G九州の武士は蒙古襲来での恩賞についてさほどの不満はなかったが、六波羅や鎌倉の状況を見て鎮西探題を見限った、ということになります。
 つまり、(私なりの見解でやや強引に結論付けるならば)楠木正成や新田義貞は所領と生活を守るため、足利高氏は倒幕勢力の棟梁に祭り上げられ、やむなく蜂起せざるを得なくなり、後醍醐天皇の野望に従ったということになるのでしょうか。