読書ノート / 中近世史
 中世史から見える「三種の神器」の実体 
2019/8/10 
 奪われた「三種の神器」: 皇位継承の中世史/講談社現代新書 
編・著者  渡邊大門/著
出版社  講談社
出版年月 2009/11/20
ページ数 204 
判型  新書判
税別定価 720円
 本書の構成は次のようになっています。
 著者は、中世史の専門家で、本書では主に、平家滅亡、南北朝、後南朝における神器争奪事件を扱っています。時代を経るにつれ、神器の価値が失われていくのが明らかとなります。中世史から眺めれば、三種の神器の実体が見えて来ます。
<目次>
第一章 宝剣喪失――鎌倉期における三種神器
第二章 南北朝における三種神器
第三章 嘉吉の乱と赤松氏の滅亡
第四章 禁闕の変――神璽強奪
第五章 長禄の変――神璽奪還と赤松氏再興

即位に必要だったのは、鏡と剣だけ?
 「第一章 宝剣喪失――鎌倉期における三種神器」では、『日本書紀』(720年に完成)の記述に従い、三種の神器の由来をおおよそ次のように説明しています(13〜14ページ)。
・三種の神器とは、八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊曲玉(やさかにのまがたま)のことである
・アマテラス(天照大神)が孫のニニギを天下らせるとき三種の神器を授けた
・鏡は伊勢神宮に移され神体となり、剣は熱田神宮に移され神体となり、玉だけが宮中に存在する
・690年、忌部氏が鏡と剣を奉り、持統天皇が即位した
 8世紀前半に編纂された養老令の神祇令でも、「践祚の日には、中臣は天つ神の寿詞〔よこと〕を奏すること。忌部は神璽の鏡・劒〔たち〕を奉ること」(神祇令践祚条)となっていますから、即位に必要だったのは、当初は鏡と剣だけだったようです。

剣と鏡は本物がそれぞれ2つ?
 奈良時代には、三種の神器は後宮の蔵司(くらのつかさ)が保管し、平安時代になると、玉と剣は天皇の身辺に置き、鏡は賢所(かしこどころ)に安置された、ということです(17ページ)。しかし、剣と鏡は神体として神宮にあるはずです。ということは、剣と鏡は本物がそれぞれ2つあるということでしょうか。

剣璽がなくても上皇詔書により践祚
 1183年、木曽義仲の入京に伴い、平氏が都落ちするとき、安徳天皇を連れ三種の神器を持ち去ってしまいました。
 後白河法皇は、安徳天皇(1178~1185)を退位させ後鳥羽天皇(1180〜1239)を即位させようとしますが、三種の神器がないので剣璽渡御の儀が行えません。剣璽渡御の儀とは次のような儀式です(コトバンク)。つまり、天皇の即位には、当初は鏡と剣の奉上が必要だったのが、剣璽(剣と玉)を引き渡すことにより、譲位する方式に変化したということです。 
…践祚と即位が未分離の時代の皇位継承の儀礼は,中臣の寿詞(よごと)奏上と忌部の神璽(しんじ)の鏡剣の奉上および即位の宣命の宣読をおもな内容とした。それが践祚と即位が分離してからは,即位の宣布と群臣の拝賀は即位礼に,中臣の寿詞奏上と忌部の鏡剣奉上は大嘗祭(だいじようさい)に移り,ついでその鏡剣奉上も廃絶して神鏡は内侍所に安置され,神璽の宝剣と鈴印等を新帝にたてまつる践祚譲位の儀が形成され,さらに剣璽渡御の儀が成立した。この儀は先帝と新帝の御在所が異なる場合は,近衛中将ないし少将2人が剣璽使となってこれを奉仕し,同殿の場合は,女官(典侍ないし掌侍)の手により直接たてまつるのを例とした。…
 そこで、後白河法皇は、上皇詔書により践祚を行うという奇手に出ます。取りあえず譲位させ、剣璽は後から入手すればよい良いということでしょうか。

昼御座の剣で代用
 ところが、1185年、壇ノ浦で平氏が滅んだ際、鏡と玉は取り戻すことができたものの、剣は海底に沈んで行方不明となってしまいます。その後、大規模な捜索を行ったもののついに発見できませんでした。
 そこで、後鳥羽の元服(1190年)では、昼御座(ひるおまし)の剣で宝剣に代用します。その後も、宝剣の代用は続きます。さらに、1210年に、伊勢神宮の剣(1183年に後白河に贈られていたものですが)を宝剣として採用します(42〜43ページ)。
(宝剣は、アマテラスがニニギに授けたはずですが、もともとそんなものは存在しないのですから、儀式の体裁が整えば何でも良かったのかもしれません)

後醍醐が持ち出した三種の神器は別物?
 「第二章 南北朝における三種神器」では、南北朝時代の三種の神器の争奪を扱っています。
 1333年、後醍醐天皇は足利尊氏の協力で鎌倉幕府を倒し、建武の新政を始めますが、尊氏と対立するようになります。1336年8月、尊氏は後醍醐に対抗して光明天皇を擁立します。このとき、三種の神器は後醍醐側にあるので、光明の践祚は上皇詔書により行われました(64ページ)。
 軍事的に劣勢となった後醍醐は尊氏と和睦し、三種の神器を引き渡します。著者はその間の経緯を次のように説明しています(66ページ)。
 京都の花山院に入り、事実上の幽閉状態にあった後醍醐は、同年十一月二日に三種神器を東寺に置かれた御所に引き渡すことになった。このことは、『勘例雑々』等の史料に記されている。三種神器の警護には佐々木高氏(導誉)らの武士があたり、納めるための別殿が新造された。
 三種神器と引き換えに、後醍醐は太上天皇の尊号を与えられた。太上天皇とは、退位した天皇の尊称であり、六九七年に譲位した持統天皇に対し用いたのに始まっている。
 それとともに、後醍醐の皇子である成良親王が、十一月十四日に皇太子に定められた(『神皇正統記』)。尊氏は後醍醐を徹底的に弾圧するのではなく、むしろ両統迭立の原則にもとづき、円満に解決を図ったのである。
 このように、円満解決を図った尊氏は、前述したように十一月七日に建武式目を制定し、室町幕府を開幕した。光明践祚にはじまる一連の後醍醐との和解策が効を奏し、尊氏の究極的な目的はここに達成されたのである。
 しかし、その後、後醍醐は三種の神器を携えて京都を出奔し、吉野で天皇に復位し、南北朝時代が始まります。著者はその間の経緯を次のように説明しています(67〜68ページ)。     
 尊氏と和解後の後醍醐は、その後どうしたのであろうか。建武三年(一三三六)十二月二十一日、後醍醐は慌しく花山院をあとにすると、一路大和国の吉野をめざした。楠木氏一族らの護衛のもと、忘れることなく三種神器も携行していた。
 三種神器は新勾当内侍(しんこうとうのないし)に持たせ、童が踏みならした垣根から、女房の姿で持ち出された。後醍醐は用意された馬に乗ると、夜のうちに大和路をめざしたという。
 慎重に持ち出された三種神器は、足の付いた行器(ほかい)に入れ、まるで物詣(ものもうで)する人の破籠(わりご)のように見せかけていた(『太平記』)。行器も破籠も弁当箱の一種であるから、もはや体裁にこだわる余裕もなかったのであろう。
 吉野に到着した後醍醐の一行は、早速、吉野に御所を構えた。次に、後醍醐は重祚し、ふたたび天皇位についた(『皇年代略記』)。
 かくて『大乗院日記目録』が「一天両帝南北京也」と記すように、日本には南北に分かれて、二人の天皇が存在することになった。いわゆる南北朝時代のはじまりである。
 ところで、後醍醐と和睦した際、三種の神器を受け取った尊氏は、それを東寺に保管させ武士が警護していたはずです。すると、後醍醐が幽閉先の花山院から持ち出したという三種の神器は、それとは別物だったのでしょうか。

真偽の確かめようはない
 その後、1339年に後醍醐が死去し、後村上が南朝を継ぎますが、圧倒的に不利な状況は変わらず、1348年には吉野を攻略され、行宮(あんぐう)を賀名生(あのう)に移してます。
 しかし、その後、尊氏と弟の直義の間に対立が生じ、状況は一転します。1251年10月、鎌倉を拠点としていた直義を討つため出陣するに際し、尊氏は南朝と和議を結びます。その内容は、北朝の崇光天皇を廃位し、南朝の後村上天皇の親政を実現するというものです。
 三種の神器の扱いについては、著者は次のように説明しています(77〜79ページ)。
 さて、ここで問題となるのが三種神器の扱いである。
 すでに触れたとおり、北朝・南朝ともに三種神器を保持していると主張している。この点を中心に、述べることとしよう。この間の事情を詳しく記しているのが、洞院公賢(きんかた)の日記『園太暦』である。北朝の重鎮である公賢は、先例・故実に詳しく、南朝側からも厚い信頼を得ていた。
 公賢は、正平六年(一三五一)再び左大臣に任じられると、京都の公事を沙汰することになった。南朝方の勅使は、頭中将(とうのちゅうじょう)中院具忠(なかのいんともただ)である。南朝の要求は、さまざまあげられており、これに対して公賢が奉答している。
 そのなかで最も重要なのは、『園太暦』同年十二月九日条によれば、早速三種神器が話題にのぼり、北朝の持つ三種神器が虚器つまり偽物とされていることである。
 北朝の三種神器が虚器であるか否かは、軽々しく言うこともできない。そこで結局、公賢は北朝の三種神器を携え、南朝の指示通りに出京する旨を回答している。その九日後の十八日には、(北朝の)三種神器はもちろんのこと、なぜか壷切(つぼきり)の剣と昼御座(ひのおまし)の剣までもが差し出されることになった。
 壷切の剣とは、立太子のときに天皇から授けられるもので、皇位継承者の証とされたものである。なぜ、(北朝の)三種神器に加えて壷切の剣が接収されたかは不明であるが、光厳はこれを了承しているのである。……
 十二月二十八日に(北朝の)三種神器が賀名生(あのう)に戻ると、南朝では内侍所神楽(かぐら)を興行し、神慮を慰めている。北朝の三種神器が虚器であるならば、なぜそこまでしなければならなかったのであろうか。……
 しかし、実際は北朝の三種神器が虚器であったか否かは、判然としない。あえて推測するならば、接収した北朝の三種神器をあれだけ丁重に祀(まつ)ったのであるから、本物であった可能性が考えられなくもない。
 北朝も南朝も、それぞれが本物の三種の神器を持っていると主張していたわけですが、南朝の言い分が正しいとするならば、後醍醐は和睦した際、偽の三種の神器を尊氏側に引き渡したことになります。
 しかし、アマテラスがニニギに授けたという「本物の三種の神器」などそもそも存在しないのですから、いずれの三種の神器も、ともに本物であり偽物であるともいえるので、真偽の確かめようはありません。
 結局、南朝が北朝から引き渡された三種の神器を処分することによって決着をつける他なかったといえます。

広義門院を代役として強引に践祚
 尊氏は直義を破り鎌倉を回復しますが、その直後の1352年閏2月、南朝軍が一斉蜂起し、京都と鎌倉に攻め込みます。尊氏は鎌倉を追われ、京都の留守を預かっていた嫡男の義詮(よしあきら)も大敗し近江に逃れます。まもなく、北朝軍は鎌倉と京都を奪回しますが、南朝軍は、北朝の三上皇(光厳・光明・崇光)を賀名生に連れ去ってしまいます。
 京都を回復した義詮は北朝の再建を試みますが、三種の神器がなく、上皇も連れ去られいるので詔書による践祚も行えません。そこで、広義門院(後伏見女御)を上皇の代役として、強引に後光厳天皇を践祚させます。

●「三種神器などあってもなくても構わない」
 このような強引な手法が後に及ぼした影響について、著者は次のように述べています(82〜83ページ)。

 このような強引な手法は、やがて北朝内部において、「三種神器不要論」というべきものに発展することになる。実は、応安(おうあん)四年(一三七一)に践祚した後円融(ごえんゆう)天皇も、三種神器がなかった。しかし、二条良基は『永和大言会記』のなかで、次のように述べている。

そもそも三種神器は、まだ吉野の山中を出ていないと世の人は思っているであろう。しかし、私の考えでは、ことごとく北朝に存在すると思っているのだ。 

 その根拠とは、次のように要約できるであろう。

(1)  三種神器が天下のどこかにあれば、朝廷にあるのと同じである。 
(2)  神鏡と宝剣は「御代器」「分身」であり、もともと伊勢神宮と熱田神宮にあるのが本来の姿であるので、宮中にあるのと変わらない。 

 この見解に加えて、政治さえ正しく行っていれば、三種神器などあってもなくても構わない、という見解が一つの論調を形成しているのである。逆に、政治が乱れていれば、三種神器が宮中にあっても意味がないという。
 こうした考えによって、後円融践祚を正統化しているのであり、北朝正統の論理を貫徹しているのである(新田一郎「継承の論理 南朝と北川」)。ここまで来ると、理屈をこねれば、何とでも解釈できるような印象さえ持たざるをえない。かつて彼らが固執し続けた正式な儀式の執行率先例へのこだわりは、一体どこへ行ってしまったのであろうか。 

 1392年、第三代将軍・足利義満のとき、南北朝は合体します。
 三種の神器は、南朝の後亀山天皇から、北朝の後小松天皇に「譲国の儀」によって譲渡されました。
 皇位継承は、南北朝が交代で行うこととされますが、これは幕府によって反故にされ、不満を持った南朝の末裔は後南朝と呼ばれ、室町時代にトラブルの火種となります。

神鏡は、もはや原形を留めていない
 「第四章 禁闕の変――神璽強奪」では、禁闕の変(きんけつのへん
)を扱っています。
 禁闕の変とは、1443年、後南朝の一党が内裏を襲撃し、宝剣と神璽を奪ったという事件のことです。幕府は一党を鎮圧し、宝剣はしばらくして清水寺で発見されます。
 宝剣を放置した理由について、著者は、宝剣は目立つ上に、代用品であり価値が劣ると見られていたからではないかと推測し、さらに、次のように述べて(149〜150ページ)、無傷で伝わった神璽(玉)の重要性(鏡は燃えてしまっています)を指摘しています。(壇ノ浦で取り戻すことができた鏡は燃えカスのようなものだったのですから、後白河にとって、宝剣が行方不明になった衝撃は大きかったものと思われます)

 もう一つの重要な理由として、歴史的に見て、神璽だけは無傷で伝わったという事実がある。
 宝剣のように紛失までには至らずとも、もう一つの神器である神鏡には悲惨な歴史があった。神鏡は、過去に三回も焼損したという事実があったのである。次に、神鏡焼損の歴史を列挙しておこう。
 まず一回目は、天徳四年(九六〇)九月のことであった。二十三日の夜、内裏に火災が発生し、内侍所に納めていた「太刀契(たいとけい、百済伝来の宝器)等」が焼亡したと伝える。この「等」のなかには、神鏡が含まれたというのが通説である。ちなみに、宝剣と神璽は、いち早く脱出していた(以上『扶桑略記(ふそうりゃくき)』)。
 しかし、翌日になって探索してみると鏡が発見され、小さな傷があったものの、無事であったという。このことは、当時不思議なこととして伝わり、鎌倉中期に成立した説話集『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』には、神鏡が火を避けるために飛んで、紫宸殿(ししんでん)の桜の木にかかっていたとの記述がある。
 おそらく、実際にはそのようなことはなかったのであろうが、神鏡の神秘性や不滅性を強調したかったのであろうと推測される。
 二回目は、寛弘(かんこう)二年(一〇〇五)十一月のことであった。『古今著聞集』には、神鏡にあまりダメージがないように伝わっているが、実際はそうではなかったらしい。『日本紀略』や『御堂関白記(みどうかんぱくき)』によると、焼損の度合いが大きかった様子がうかがえる。
 とりあえずは、破損した神鏡を新しい辛櫃へ収め、改鋳を検討したが、小蛇が出現したため神威を恐れ、そのまま奉斎したという。
 三回目は、長暦(ちょうりゃく)四(一〇四〇)九月のことである。このときは、さすがの神鏡も原形を失うほどのダメージを受け、金色の玉二つほどが焼け跡から発見された。こうなると、その金色の玉が、もとの神鏡であったかどうかさえも疑わしいほどである。
 以上のとおり、神鏡については、もはや原形を留めることなく、その存在が正しいものであるかも疑わしく思えるほどである。そこまで大きく焼損していても、神鏡はその価値を失わなかったのである。
 こうした神鏡や宝剣の過去の来歴から、小槻晴富の『続神皇正統記』では、神代以来神璽だけは無傷であったことを強調している。後世においても、その点は十分に認識されていたのであろう。


●「神器が欠けていても正統性が保証される」
 唯一無傷で残っていた神璽が奪われてしまったのですが、朝廷にとってそれはさほど重大な痛手ではなかったようです。著者は、その事情を次のように説明しています(161〜165ページ)。

 ところが、この間において、神璽がないことで不都合が生じたとの記録がなかなか見当たらない。その鍵を握るのは、当時第一級の知識人として知られていた一条兼良とその著『日本書紀纂疏(さんそ)』の存在ではないだろうか。……
 では、兼良は『日本書紀纂疏』において、いかなる三種神器論を展開したのであろうか。兼良の神器論は、複雑多岐にわたるが、その要点を示すと次のようになろう。

(1)  統治者(天皇)にはそもそも徳が備わっており、三種神器は具体的に形となった末梢に過ぎない。 
(2)  ゆえに、三種神器を軽視することはないが、格別必要ともしない。 
(3) 三種神器のなかでは神鏡が重要であり、神鏡には宝剣と神璽が包摂されるものである。

 もう少し説明を加えておこう。まず(1)については、北畠親房が『神皇正統記』のなかで、徳の本質を三種神器に見出し、重要視するものと全く対照的である。親房が三種神器を重要視したのは、後醍醐が京都を脱出した際に持ち出され、皇位の正統性を主張したことと関係がある。
 次に、(2)は兼良の主張の延長線上に、先の二条良基説を継承するものであると考えてよい。そして、(3)は禁闕の変で、後花園が神鏡をいち早く持ち出したことと関係が深いと考えられる。従来は、三種神器のなかで唯一神璽が無傷で重んじられてきた。したがって兼良の三種神器の解釈は、現朝廷寄りの独特なものがある。
 ところが、兼良の『日本書紀纂疏』成立の背景を探ってみると、意外なことが指摘されている。それは、『日本書紀纂疏』が諸史料(『神祇雑々』『ト部家系譜』)の記述によって、内裏における『日本書紀』の講義がベースになっていることが判明したのである。
 兼良が内裏で『日本書紀』の講義を行ったことは、『大乗院寺社雑事記(だいじょういんじしゃぞうじき)』康正(こうしょう)三年(一四五七)六月三十日、九月二十二日の各条に見られることである。
 残念ながら、内裏でどのような講義が行われたかは、その詳細を明らかにできない。しかし、神璽が存在しないという現状において、神鏡の重要性が指摘され、天皇の存在基盤を三種神器によらない兼良の説は、何らかの安堵感をもたらしたことであろう。それも当代随一の学者のお墨つきである。
 禁闕の変で神璽を失ったことは、朝廷において痛恨の極みであったと考えられる。しかし、かつて二条良基が提唱した説に拠って、神器不在の不安や欠落感は緩和されていたものと推測される。またさらに、兼良が独自の神器観を披露したことにより、当時の支配層は、「神器が欠けていても正統性が保証される」との理念を確立したものと思われる。
 つまり、この頃には、三種神器を重要視するより、むしろ欠けていても正統性が確保される理論構築に重きが置かれたのであろう。その点において、兼良が果たした役割は大きいといえる。 


神璽奪還は、細川勝元の意向?
 「第五章 長禄の変――神璽奪還と赤松氏再興」では、長禄の変(ちょうろくのへん)を扱っています。
 長禄の変とは、1457年、赤松氏の遺臣らが後南朝の行宮を襲い、神璽を持ち去った事件のことです。
 嘉吉の乱後、赤松氏一族は、次々と討伐され、旧臣らは牢人となります。旧臣らは、吉野の後南朝討伐と神璽奪還を手土産に主家再興を願い、後花園天皇と将軍義政の了解を取り付けます。
 著者は、次のように述べて、この計画は、赤松氏再興により山名氏を牽制しようとした細川勝元の提案によるものではないかと推測しています(171〜172ページ)。

 加えて、赤松氏が復活することは、山名氏に対する圧迫にも繋がる。事実、備前国新田荘を赤松氏に与えたことは、後に山名氏との間で大きなトラブルとなっている。つまり、山名氏牽制策の一つともなりえたわけである。同じく、加賀国半国への入部も富樫氏の反抗に遭い、大きな困難を伴っている。
 先にも触れたとおり、三種神器を欠いても天皇の正統性が保たれることは、一条兼良によって理論的な構築がなされている。しかも、禁闕の変以後、三種神器がないことによって、さまざまな支障が出たとの記録もほとんど見当たらない。
 そう考えると、神璽奪還に関する天皇の意向というものは、ことさらなかっだのではないかとさえ推測される。つまり、神璽奪還は、天皇=朝廷の要求ではなく、むしろ細川勝元の意向を色濃く反映した、政治的な意味が大きかったのである。  


幕府は一兵も出さず?
 赤松氏旧臣らによる神璽奪還計画の実態について、著者は次のように述べています(173〜174ページ)。 幕府は一兵も出さなかったというのですから、神璽そのものには、もはやほとんど価値を認めていなかったということでしょうか。
 赤松氏旧臣らが吉野へ向かったのは、康正二年(一四五六)十二月二十日のことである。これより遡ること1ヵ月前、南方宮が吉野で蜂起したため、義政は大和興福寺などに対して、軍勢催促を行っている。
 そのような背景のもと、上月満吉、間島彦太郎(ましまひこたろう)を主要メンバーとする総勢二十数名が、神璽奪還に従事することとなった。しかし、彼らは決して、正面から「後南朝討伐、神璽奪還」を掲げて吉野へ向かったのではない。
 『赤松記』には、その攻略法について、次のように記されている。

吉野殿(後南朝)を攻略する作戦として、「赤松氏牢人はどこにも仕えるところがなく、これ以上辛抱することもできないので、吉野殿(後南朝)を頼り吉野へ参上することとした。赤松氏牢人が一味して、都を攻め落とし、ぜひ御供したい」と申し入れると、吉野殿(後南朝)は同心するとのことであった。 

 要するに、赤松氏は味方になることを装って、後南朝に接近したのである。幕府や朝廷は、赤松氏に対する全面的なバックアップ、つまり軍勢などの差配はしなかったのであろう。赤松氏旧臣は、必然的に少人数で戦うために、効率的な手法を考えざるをえなくなる。
 したがって、赤松氏旧臣は、嘉吉の乱で浪々の身になったことを強みにして、後南朝勢力に擦り寄ったのである。この作戦は功を奏したのか、赤松氏旧臣は後南朝のなかに潜り込むことに成功する。

●「神璽奪還は、単なる政治的な茶番」
 それから1年後の1457年12月2日、旧臣らは計画を実行に移します。
後南朝の後胤とされる一宮(自天王)、二宮(忠義王)の兄弟の首を討ち取り、神璽を奪いますが、郷民らの反撃に会い奪い返されてしまいます。1年がかりの計画は失敗に終わったわけです。
 その後、旧臣らは地元の土豪の協力を得て、神璽奪還に成功します。
 無事、神璽は帰還しましたが、著者は次のように述べて、一条兼良は一連の騒動を「政治的な茶番」と見ていたのではないかと推測しています。
 ところで、無事神璽が戻ってきたにもかかわらず、一人冷めた態度を取る人物がいた。独自の三種神器論を展開した一条兼良である。
 『大乗院寺社雑事記』長禄二年八月晦日(みそか)条によると、兼良は神璽が戻ってきたにもかかわらず、「無益のことと仰せなり。かくの如き例これなし」と感想を漏らしている。神璽の帰京を素直に喜んでいないのである(砥山洸一「一条兼良の三種神器論をめぐる若干の考察――『日本書紀纂疏』と禁闕・長禄の変」)。
 先に触れたように、兼良は三種神器に特段の意義を見出していないように思われる。三種神器を考えるうえで重要なことであるが、これだけの短い記事では、兼良の真意を計りかねるというのが現状である。兼良の冷徹な目には、さほど意義を有しなくなった神璽奪還は、単なる政治的な茶番にしか映らなかったのかもしれない。