1585 |
秀吉が関白任官直後に唐入り(中国侵攻)計画表明 |
1587 |
秀吉は九州平定に際し、対馬の宗氏に朝鮮国王の「内裏出仕(だいりしゅっし)」(服属の印しとして国王が来日し天皇に謁見すること)を申し付ける |
1590 |
朝鮮通信使が聚楽第で秀吉と会見。通信使は、秀吉の国内統一を祝賀したつもりであったが、秀吉はこの会見を服属の証しとみて「征明嚮導(せいみんきょうどう)」(明侵攻の道案内)を命じる。通信使は秀吉の真意をはかりかねたまま帰国。通信使の正使は、帰国後、秀吉は侵攻するつもりだと報告し、副使は、侵攻はありえないと報告する。朝鮮との交渉に当たった宗義智(そうよしとし)は、朝鮮が征明嚮導に応じることは有り得ないと判断し、「仮道入明(かとにゅうみん)」(日本軍が明へ行くために朝鮮を通る)を求めたが、朝鮮はこれを拒否した。一方、秀吉の侵略準備は着々と進行し、宗義智と小西行長の朝鮮との交渉はついに時間切れとなる |
1592/4 |
宗・小西軍の釜山上陸(4/12)に続き、日本軍が続々と朝鮮侵攻を始める(第1次朝鮮侵略、文禄の役・壬辰倭乱)。日本軍は20日足らずで首都漢城(現在のソウル)を占領(5/3)、朝鮮国王は平壌(現在のピョンヤン)へ都落ちする |
1592/6 |
小西軍が平壌を攻略(6/15)、朝鮮国王は明との国境近くの義州に逃れる。このほか、日本軍は朝鮮全土に散開する。しかし、李舜臣の率いる朝鮮水軍の活躍は目覚しく、抗日義兵も各地で蜂起する |
1592/7 |
明の援軍と朝鮮軍が平壌を攻撃するが、小西軍が撃退する(7/16)。日本軍は、漢城で軍議を開き、冬に向かい食料の調達も困難になるとの小西行長の報告を受けて、明への侵攻を延期する(事実上の中止)。 |
1592/9 |
小西行長と明の沈惟敬が講和交渉を始める |
1593/1 |
明軍の攻撃により平壌陥落(1/7)、小西軍は漢城に撤退する。漢城で講和交渉再開、日本軍の漢城撤退と引き換えに明軍は講和使節を派遣することとなる |
1593/5 |
明軍の講和使節が肥前・名護屋に到着、秀吉と交渉するも平行線となる。その後も交渉は続く。秀吉は、和睦の条件を朝鮮南四道の割譲、朝鮮王子の出仕、明の冊封使の派遣のみに限定するところまで譲歩した |
1596/9 |
大阪城に明の冊封使が到着、朝鮮の通信使が同行するが朝鮮王子は来参せず和睦は成立しなかった |
1597/1 |
加藤清正が慶尚南道多大浦に上陸、西生浦に着陣(1/14)。小西行長もこれに続く |
1597/2 |
秀吉が朝鮮再派兵の陣立定める |
1597/7 |
巨済島漆川梁の海戦(7/15)で本格的戦闘始まる(第2次朝鮮侵略、慶長の役・丁酉再乱) |
1597/12 |
加藤清正が蔚山に籠城 |
1598/8 |
豊臣秀吉死去 |
1598/10 |
五奉行が撤退命令 |