読書ノート / 中近世史
 清正の実像に迫れたのか 
2014/12/3
 加藤清正:朝鮮侵略の実像(歴史文化ライブラリー)230 
編・著者  北島万次/著
出版社  吉川弘文館
出版年月 2007/4/1
ページ数 228 
判型  18.6 x 12.8 x 2 cm
税別定価 1700円
 出版元のページでは本書を、「忠君・武勇の英雄か? 無慈悲・兇暴な侵略者か? 秀吉の朝鮮侵略に焦点をあて、清正の新たな実像と侵略の実態に迫る!」と紹介しています。これが、編集部の意図だったようです。
 では、本書はそのような意図に沿うものとなったのでしょうか。これについて、原稿を読んだ編集者の反応を、著者自身が次のように述べています(221ページ)。
 まとめた原稿を読まれた宮川さんは、「原稿を拝見したところ、実証に徹する先生の学風かも知れませんが、この記述からは先生の顔が見えてきませんね」と言われた。慇懃(いんぎん)ではあるが厳しい言葉である。そのあと、自分の原稿を読み直してみると、たしかにそれは年表に史料をつけて並べたようなものであり、素朴実証主義と言われても仕方がないものであった。どうしたら自分の個性が出せるのか、「高校生にも分かるように書いてください」との注文もあり、試行錯誤した。そして、読者の立場を考え、自分が清正にかかわる熊本・名護屋・慶州(けいしゅう)・ソウル・臨津江(りんしんこう)・晋州(しんしゅう)・蔚山(うるさん)・西生浦(せいせいほ)などの史跡をめぐり歩いた体験と印象なども入れ、さらに授業をイメージしながら記述を試みた。本書をまとめることができたのは、この助言に負うところが多い。
 編集者が「先生の顔が見えてきませんね」と述べた意図がどのようなものであったのかは分かりませんが、本書は必ずしも「清正の新たな実像と侵略の実態に迫る」ものとはいえないように思われます。
 著者は、プロローグで、これまでの清正像について次のように説明しています。
 太平洋戦争が始まった一九四一年(昭和十六)、その時、私は国民学校(現在の小学校)一年生であった。その年の四月に発行された文部省検定の教科書『小学国史』は、朝鮮侵略における清正について、つぎのように記述している。
 釜山に上陸したわが軍は、いたるところ連戦連勝し、わづか三箇月余りの間に、ほとんど朝鮮全土を従へてしまった。この戦に、清正は、とりこにした二王子をいたはり、また人民を憐んだので、人々は皆その徳になついた(文部省検定尋常用教科書「小学国史」下巻、一九四一年〈昭和十六〉四月発行)。 
 また修身の教科書では、一五九六年(文禄五)、畿内一帯を襲った慶長大地震のさい、清正が伏見城の秀吉のもとに駆けつけたその忠義のほどについて、つぎのように記述している。
 清正は又誠実なる人なりき。石田三成(いしだみつなり)の讒言(ざんげん)によりて秀吉の怒を受け、朝鮮より召帰されてつつしみゐたり。或夜伏見に大地震あり、清正、秀吉の身をきづかひ、部下の者をひきゐて、まつさきに城にかけつけ、夜のあくるまで其の門を守りたり。これより秀吉の怒とけ、其の罪なきことも明らかになれり(『日本教科書大系』近代編三修身(三)、一九六二年〈昭和三十七〉一月十五日発行、講談社刊行)。
 ……
 これに対し、朝鮮側では清正をどのようにとらえているのだろうか。その典型的な例は民話や『壬辰録』(いく種類かの版本あり)と題される小説であり、秀吉の朝鮮侵略が「壬辰の悪夢」として語りつがれている。
 高麗大学の崔宮氏によれば、小説『壬辰録』などでは、清正は慶州を焼き払い、王子を捕らえた張本人であり、その無慈悲・兇暴・勇猛は他の日本諸将よりすさまじく、朝鮮人の怨恨と恐怖の的となっているという(崔官著『文禄・慶長の役』一九九四年、講談社選書メチエ)。
 このように清正の評価については、両国の間で大きな隔たりがある。それはかつて被害を加えた側と蒙った側の立場の違いによるものであろう。
 私は長年にわたって清正関係の史料を見てきたが、そこからは、忠君・武勇、あるいは無慈悲・兇暴とは別の清正像が見えてきた。清正の神経は繊細であり、人柄は几帳面。私はそのように感じた。それでは、秀吉の朝鮮侵略における清正の動向に焦点を絞って、その実像を語ることにしよう。
 つまり、「忠君・武勇」「無慈悲・兇暴」というのは、いずれも虚像であり、実像は別の姿であるということです。
 では、清正の実像がどうであったかというと、本書からはその姿は見えてこないように思われます。本書は、秀吉の朝鮮侵略に焦点を絞り、清正の足跡をたどっていますが、「実証に徹する」姿勢からか、戦闘や外交交渉(ほとんが小西行長との悪口の言い合いの感がありますが)の経過を詳細に述べていますが、そこからは清正の実像が見えてこないのです。
 とはいっても、大河ドラマのような赤裸々な人間ドラマが欲しいというのではないのです。そうではなくて、清正像がどのように作られ、当時の民衆はそれをどのように見ていたのかを知りたいのです。
 この点、熊本市ホームページ/加藤清正の実像〈24〉清正公信仰  ―神になった清正 ―では次のように説明しています。 
 清正公信仰は、いつごろどのようにして始まり、いかにして広がっていったのでしょうか。まず、清正死後50年ほど経った頃に代表的伝記である「清正記」と「続撰清正記」が成立しています。史実とかけ離れた部分も少なくありませんが、この2つの伝記で描かれている清正像が、今なお私たちが抱く清正イメージの原型となっています。……
 清正公信仰が隆盛を見せ始めるのは、江戸時代後半からです。享保元年(1716)に清正のひ孫にあたる徳川吉宗が第8代将軍となり、同16年には、前述した「清正記」を閲覧しています。このことが改易された加藤家の名誉回復につながり、その後、世間では清正を扱った芝居が続々と登場して、その波乱に満ちた人生に江戸や大坂の庶民たちが酔いしれます。……文化7年(1810)の200回忌法要では、本妙寺周辺だけでなく、熊本城下一帯は全国からの参詣人やひと儲けしようとする商売人で溢れ返り、空前絶後の賑わいを見せます。ここにきて清正公信仰の熱狂は最高潮に達します。人々は、商売繁盛や病除け、果ては芸事の上達まで様々な願いを神様・清正に託しました。幕末には、時代を反映するかのように、武運長久や攘夷成就などの祈願も加わり、力強い武者姿の清正を題材とした浮世絵も多く製作されました。
 明治時代になると富国強兵のスローガンのもと政府が推し進める大陸進出のシンボルとして、朝鮮出兵で活躍した清正が再びクローズアップされます。軍国主義が色濃くなる明治時代後半から昭和にかけては軍神として兵士や民衆の信仰を集めます。この時代の小学校の国定教科書や唱歌にも「忠君愛国」の理想的な人物像として清正が取り上げられ、戦争へと突き進む国家の教育政策に利用されることになります。

 本書のカバー写真は大判錦絵「地震加藤」ですが、それについて特に説明はありません。「地震加藤」は、明治初期の歌舞伎「増補桃山譚(ももやまものがたり)」(文化デジタルライブラリー/黙阿弥/明治期の作品)の1シーンです。
 「増補桃山譚」は、「桃山譚」の前に、秀次乱行の件三幕を加筆したものですが、「桃山譚」については、次のような説明があります(《桃山譚》(ももやまものがたり)とは - コトバンク)。
…72年(明治5)守田座の新富町進出を機に,歌舞伎は〈団菊左〉すなわち9世市川団十郎,5世尾上菊五郎,初世市川左団次の3名優を代表とする新富座時代に入り,黙阿弥はその座付作者に迎えられた。この期の作群の第1は明治新政府の教化方針と団十郎の写実趣味に合わせた史実尊重・忠孝鼓吹の活歴劇で《桃山譚》(地震加藤,1869),《新舞台巌楠(いわおのくすのき)》(楠正成,1874),《牡丹(なとりぐさ)平家譚》(重盛諫言,1876)など。しかし一般に用語がむずかしくて趣向に乏しく,成功しなかった。…
 この説明に従うなら、忠君愛国の加藤清正像は、明治新政府の教化方針に沿って、歌舞伎の演目として、明治になって創作されたものということになりそうです。 

 「地震加藤」では、加藤清正は、石田三成らの讒言により謹慎させられていたが、大地震の際に、伏見城に駆けつけ、申し開きをし許されたとなっており、一般的にも歴史的事実と受け取られています。 
 本書でも、小西行長と石田三成が加藤清正を讒訴したとしています。その内容は、@行長のことを堺の商人にすぎないと悪口を言ったA自分のことを豊臣朝臣と名乗ったB家臣が冊封使に狼藉を働いた、というもので、それが秀吉の逆鱗に触れ切腹させられることになったというものです。
 しかし、なぜ秀吉が激怒したのかよく分かりませんし、それが切腹させるほどのことなのかなという感じもします。
 この点、熊本市ホームページ/加藤清正の実像〈15〉「地震加藤」の真相は次のように述べています。果たして、歴史の実像はどうなのでしょうか。 
 ……この話は、清正死後まもなく編纂された清正の伝記「清正記」にも登場するため、あたかも事実のように語られていますが、真相は少し違うようです。
 まず、清正が日本に呼び戻された理由については、従来朝鮮における清正の横暴な振る舞いを行長が秀吉に訴えたことが原因だとされていますが、実は秀吉と行長が進めていた明国との講和交渉に関係しているようです。講和交渉の譲歩策として、日本側は文禄4年から拠点以外の倭城を破却するなど、秀吉の指示のもと段階的な軍縮に取り組んでいる状況でした。清正の帰国は、軍縮を象徴する出来事として講和締結に向けた秀吉の政治的パフォーマンスであったと同時に、明国の勅使一行を伏見で迎え入れるための要員としてわざわざ上方へ召還されたものと思われます。実際に清正は、文禄5年5月に朝鮮から対馬へ渡り、まもなく上方へ入っています。そのような中、閏7月13日午前2時頃、京都・伏見を中心とするマグニチュード7.0(推定)の慶長伏見大地震と呼ばれる地震が発生し、完成間もない伏見城が倒壊するなど、上方を中心に大きな被害をもたらしました。清正がこの歴史的な大地震に遭遇していたことは事実で、地震発生2日後の閏7月15日に清正は、熊本にいる家臣に書状を出しています。その中で清正は「上方で大地震が起きて、伏見城の中はことごとく揺れた。しかし、秀吉様をはじめ、こちらにいる方々は皆無事である。また我々も無事である。京都や大坂の屋敷は頑丈で倒壊しなかった。伏見には我々の屋敷がないため幸運だった。」と伝えています。この内容から清正は、秀吉の安否を気遣ってはいますが、「伏見には屋敷を持っていない」と言っていますので、地震が発生した13日深夜には伏見にいなかったと考えるのが自然で、地震発生後真っ先に伏見城の秀吉のもとへ駆けつけたとは考えにくいです。仮に秀吉に面会したとしても、早くても翌朝のことだったと思われます。
 当時の史料や状況を考えると、この「地震加藤」の出来過ぎたエピソードは、後世に脚色された清正伝説の一つと言えるでしょう。