読書ノート / 中近世史
 地震学者による文禄・慶長の役
2014/12/5
 小西行長と沈惟敬:文禄の役、伏見地震、そして慶長の役
編・著者  三木晴男/著
出版社  日本図書刊行会
出版年月 1997/6/30
ページ数 288 
判型  19.8 x 14.4 x 3.2 cm
税別定価 1800円
 著者は地震学者で(第二次世界大戦中の京大地球物理学教室の教官と学生の記念写真)、歴史が専門ではないようですが、「京都大地震―文政13年の直下型地震に学ぶ」などの著作もあり、歴史に造詣が深いようです。
 著者は、本書を執筆するに至った経緯を次のように説明しています(1ページ)。すなわち、伏見地震の歴史資料を調べているときに、死者に明国人が含まれていることが分かり、そのことから、文禄の役、講和使節、慶長の役へと興味の対象が広がったようです。 
 文禄五年(一五九六)閏七月十二日から十三日にかけての深夜、いわゆる伏見地震がおこった。豊臣秀吉がいた伏見城で数百人の死者がでた。伏見城は風光明媚な指月の里に造った隠居所を、秀吉が明の使節に己の威勢を誇示するために、文禄三年から改築を進めてきた城である。資料によると伏見から遠くはなれた大坂・堺でもかなりの被害があった。
 堺での死者の中に明の人たちがいた。彼らはなぜ堺にいたのだろうか。二十余人が死んだとのことだが、本当かしら。調査はこんな疑問から出発した。
 明国の人たちは文禄役の講和使節であった。和平交渉の内容は、その断絶すら、戦況と不可分なので、朝鮮での戦況とともに、和平への動きの始終や使節団来日のいきさつ及び来日後の彼らの動静を調べることが必要であった。これらの問題は「文禄の役」及び「講和使節団の被災」で扱った。
 本書のタイトルを、「小西行長と沈惟敬」としたことについては、次のように説明しています。つまり、戦前の国粋主義・軍国主義の時代の歴史観への批判があるようです。つまり、加藤清正を忠君武勇の象徴とし、小西行長を讒言・裏切りの悪役として描いた歴史学者への反発があったようです。
 本書執筆にあたり多くの史書に接した。「歴史に学べ」としばしば教訓的に語らわるが、一般人にとっての歴史は歴史学者の所説を通した「歴史」とならざるを得ない。ところが、少なくともここで調べた時代に関して、歴史学者は時代に流され時の権力にこびる者であることに気づいて愕然とした。驚きと怒りの気持ちの赴くまま、「おわりに――歴史学者は何をしたか」を書いた。
 小西行長は、加藤清正に「堺の商人」と、その出自を蔑まれた。武威さかんな日本軍で充満していた平壌にわずか数名の従者をつれてのりこみ、和平交渉の第一歩をすすめ、休戦協定をかちとった沈惟敬は「市井無頼の徒」と嘲られていた。この二人が、国益を背負って、多分にそれぞれの国内事情によるものであるが、和平への術策をきそった。口では勇ましく軍功を誇りながらも、多くの将兵は遠征の労苦と飢餓・疫病に悩み異国で歳をかさねる空しさから、行長・惟敬の工作を注視していた。張本人秀吉すら、文禄二年の名護屋会談以後、ふたたび名護屋で指揮することはなかった。文禄役の主役はこの蔑まれた二人であった。こういうことから題名を決めた。
 徳川時代には、石田三成や小西行長は神君家康に歯向かった武将ということで評価が低かったでしょうし、戦前の軍国主義時代にも、清正を陥れた卑怯者(「軍師官兵衛」もその流れ?)という扱いで、それが、一般人や歴史作家(あるいは歴史学者)の歴史像にも影響しているように思えます。
 その意味で、本書で小西行長がどのように描かれているのか興味があったのですが、行長の経歴や人物像についてはほとんど触れていません。また、沈惟敬についても、その経歴や人物像についてはほとんど触れていません。「小西行長と沈惟敬」というタイトルから想像したのとは少し違った内容であるように思われます。