読書ノート / 近現代史
 過去の歴史から日米韓関係の今後を占う?
 2015/10/21
 朝鮮開国と日清戦争
   :アメリカはなぜ日本を支持し、朝鮮を見限ったか
編・著者  渡辺惣樹/著
出版社  草思社
出版年月  2014/12/12
ページ数  400
判型  四六判
税別定価  2800円
 
 出版社のページでは、著者を次のように紹介しています。
日本近現代史研究家。1954年生まれ。東京大学経済学部卒業。著書に『TPP知財戦争の始まり』『日本開国』『日米衝突の根源 1858-1908』『日米衝突の萌芽 1898-1918』(第22回山本七平賞奨励賞)『朝鮮開国と日清戦争』、訳書に『日本 1852』『日米開戦の人種的側面 アメリカの反省1944』『ルーズベルトの開戦責任』『ルーズベルトの死の秘密』(いずれも草思社刊)がある。 
 この経歴と本書を読んだ印象では、主に経済・外交を中心とした日米関係史を研究しているように思われます。本書の主題とはあまり関係のない、アメリカの経済や外交の話が随所に登場します。それなりの情報としては意味があるかもしれませんが、懐石料理を頼んだのにフレンチのオードブルが次々と出てくるようで、少しいらっとさせられます。
 本書の副題にある「アメリカはなぜ日本を支持し、朝鮮を見限ったか」は、現在の日米韓関係を意識したものと思われます。慰安婦問題などをめぐり日韓は対立関係にありますが、アメリカは日本を支持し、韓国を見限ることになるということを過去の歴史から予測できるというメッセージが、この副題に込められているように思われるのです。
 ただ、戦争直前の朝鮮半島では、日清両軍がにらみ合って緊張が高まっており、同時撤兵させることにより戦争を回避すべく、イギリスとロシアが日本に外交圧力をかけている状況でした。つまり、日本と朝鮮の対立が問題になっていたのではありません(朝鮮としては頼みもしないのにやってきた日本軍に早く引き上げて欲しいとは思っていたでしょうが)。
 では、「日本を支持し、朝鮮を見限った」とはどのようなことを指しているのでしょうか。この点について、著者は次のように説明しています(295〜296ページ)。
 七月に入ると、列強の間で米国に日清間の仲介を依頼したいという声が高まってきた。英国が米国に仲介のイニシアティブをとるよう願ってきたことが、デンビー駐清国公使から国務省に報告されている(七月六日付グレシャム長官宛)。李鴻章自身も、仲介を依頼してきたことが報告されている(七月八日付グレシャム長官宛)。
 このような動きに対してアメリカ国務省の態度ははっきりとしていた。仲介はしない。それが国務省の判断だった。
 アメリカはなぜ周旋条項に「違反」したのだろうか。アメリカにとっては単純な理屈であった。周旋条項の適用は、朝鮮が独立国として振る舞うことが前提であり、そうでない場合は適用されないとアメリカは考えたのである。すでに述べたように、アメリカと日本だけが朝鮮を独立国として扱おうとしていた。しかし、その二力国の期待に反して、朝鮮は実質「楽浪郡」となった。その朝鮮が今になってアメリカに周旋を要求するのは虫が良すぎる。そうアメリカは考えたのである。
 著者は、中国のことを「支那」と呼んでいます。国名としては「清国」と呼ぶこともありますが、中国人は支那人と呼んでいます。時々、漢人という表現も使うようですが、満州民族=支那人、漢民族=漢人ということなのでしょうか。その点については、明確な説明はないので、よくわかりません。一方、中国語については、支那語とはいわず、漢語と呼んでいます。
 また、朝鮮については、次のような表現に、蔑視や反感が感じられるようにも思えます。
 朝鮮使節一行が見せた作法は、あの悪名高い三脆九叩頭の礼にそっくりであった。中国皇帝を前にした属国(冊封国家)からの使者がとる作法である。脆き、額を三度床につける動作を三回繰り返す。ホテルでの朝鮮使節は少なくともこの動作を一回はとったことが右のように記録されている。おそらく三度繰り返したのだろうが、そのことは書かれていない。
 この作法を見たアーサー大統領らがどのように感じたかは想像するしかないが、相当に面食らったに違いない。
 ……
 朝鮮はアメリカと国交を結ぶ以前に日本にだけは開国していたことはすでに述べた(日朝修好条規〈江華島条約〉 一八七六年)。この時にも朝鮮王朝から日本に使節が派遣されている。しかし、彼らの振る舞いは、アメリカに派遣された朝鮮全権使節の見せた態度とはまったく異なっていた。(40〜41ページ)
 日朝修好条規の締結を受けて朝鮮から使節が派遣されることになった。その模様は明治の錦絵師歌川芳虎が残している(朝鮮信使来朝の図。次頁)。芳虎の錦絵は、日朝修好条規第一条でうたう「朝鮮の独立国家の規定」から想像される日朝関係とはまったく異なる実態を浮かび上がらせている。仰々しい行列の様、輿に担がれた正使の不遜な態度。朝鮮の日本への開国は清朝からの指示であり、日本に対しては、朝鮮はあくまで「兄」の立場で付き合うことを示そうとする傲慢な姿勢がそこにある。江戸期の朝鮮通信使に比べ若干規模は小さいが、本質的に使節の意味合いは同じであることがわかる。この図は、「朝鮮は、日本の砲艦外交の脅かしに屈して開国させられた」とする主張がいかに的外れであるかを示している。(136ページ)
 開戦直前の1894年7月23日、日本軍は朝鮮王宮を占拠しますが、その様子を次のように述べています(280〜282ページ)。この記述は、通俗教育普及会編「波瀾重畳幕末以降重要史談」を参考にしたそうです。この書物は、1929年に発行されたものですが、その内容を史実として参照しているのには、少し驚かされます。また、著者は、 澤田獏「きままに歴史資料集」というウェブサイトを頻繁に引用していますが、研究者であれば自分で原典にあたるべきではないかと思われます。なお、著者は、陸奥宗光の「蹇蹇録」には全く言及していません。 
 袁世凱が消えると朝鮮王朝の事大派は動揺した。袁世凱は、「直ちに大軍を率いて来たるべし」と言い残したが事大派は不安でならなかった。この時期を見計らったように、大鳥公使は高宗への謁見を求めた。七月二十三日早朝、大礼服を着用した大鳥は、護衛兵を率いて、王宮に向かった。王宮の東側にある景福宮近くまでやってくると、朝鮮警備兵が突然発砲した。予想されていた事態だけに直ちに応戦した。この小戦闘はおよそ十五分ほどで終わり、王宮の東門と北門の安全が確保され、ようやく国王との謁見がなった。
 大鳥が内政改革についての日本の提議が見向きもされない事実を高宗に告げると、高宗は、日本の厚意に感謝し、改革断行をあっさりと約束した。自らのリーダーシップをまったく見せない高宗という人物の、典型的な行動であった。大鳥は、清国から戻って以来ほとんど幽閉状態にあり閔氏一族から敬遠されていた大院君を利用して内閣改造を実行した。日本兵に護衛されて参内した大院君に、高宗が政務全般を任せたのである。
 「翌二十四日に大院君は上奏して内閣百官の更迭を行い、又皇帝(国王)はこれまで自分に悪政を行わせた閔泳駿(ヨンジュン)、閔畑植(ヒョンシク)、閔唐桧(ユンシク)、閔致憲(チホ)等を悉(ことごと)く処罰するようにとの勅諭を出し」、大鳥公使に対しては、諸般の政務の改革および牙山駐屯の清兵を撤兵させるよう依頼した。さらに、これまで冊封関係を前提とした清国との条約一切の破棄を清国代理公使唐紹儀に通告した。
 大院君が、清国は蛮族の国であり朝鮮こそが中華思想の正当な後継国である(小中華思想)と考えていたことはすでに述べた。大鳥公使に促されての政権中枢への返り咲きであったとしても、清国幽閉時代に清国の恐ろしさを体験していただけに、覚悟の上の再登場だったに違いなかった。大院君の決定は、朝鮮が「楽浪郡」であることをやめ、独立国であることを清国にはっきりと伝えるものであった。これによって清国と日本の軍事衝突は決定的になった。
 旅順虐殺事件については、「怪しいジャーナリスト」クリールマンの報道だとし、そのような「虐殺事件」を事実として扱っている日本の史書(大谷正「日清戦争:近代日本初の対外戦争の実像(中公新書)」)を名指しで激しく批判しています(316ページ)。そして、事件の存在を否定するものとして、次のような観戦武官の報告を引用しています(313〜316ページ)。  

 添付されたオブライェン大尉が現地から寄せた報告書は次のようなものだった。

 ダン公使殿
 旅順における不幸な状況について私か報告できるのは、あくまでも私自身が見たことだけです。軍隊というものは、どんな些細なことであっても、非難に晒されるのがつねの組織です。とくに今回の報道内容は大山(巌)大将のこれまで声明(方針)と大きく異なっていることから非難が起きているものと思われます。
 本官も、抵抗をやめた兵士を殺さずとも捕虜にできた場面をいくつか目撃しました。無防備で明らかに降伏しようとした兵士が殺害されたこともありました。また後ろ手に縛られたままの死体も見ました。銃剣によって切り刻まれた死体もあり、それらは(殺された時点では)無抵抗だっただろうと思わせるものもありました。私の観察は、あえて戦争の恐ろしさを見つけようとしてなされたものではありません。通常の戦闘や戦場の視察の過程で見たものです。
 (クリールマン報道にある)十一月二十二日、二十三日に発生したとされる虐殺について、従軍記者らに質問してみました。というのは、私はそうしたことがあったことをまったく知らないからです。私自身、この両日、周囲の丘から何発か銃声が響くのを聞きましたが、(市民への)暴力行為(act of violence)は見ていません。私は二十二日は一日中、二十三日は午後だけですが旅順市内にいました。その間、戦闘行為(act of war)も暴力行為(pillage)も見ていません。ただ民家や商店に対する略奪行為はあり、それは物がなくなるまで続きました。
 二十一日の日本車の行為に対しての言い訳になりそうですが、彼らの気持ちは理解できないこともありません。清国兵による残虐行為(barbarities committed by the Chinese)があったからです。市内の入口付近の濯本に日本人捕虜の首が吊り下げられていたのです。これが日本兵を怒らせたことは間違いないでしょう。もう一点は、日本車は旅順市内での抵抗は相当に激しいものになると覚悟していたことです。市内や周辺の要塞の攻略がこれほど容易だとは思っていなかったのです。拍子抜けした兵士たちが不要な殺害に走ったのです。
 このような背景があったにせよ、それは免罪符にはなりません。ただこの程度の事件は世界のどの軍隊にもあることを頭に入れておく必要があります。日本の兵士だけに奇跡のような行動を求めることはフェアではありません(hardly fair to expect miracles of the Japanese)。少しでも行きすぎた行為があれば非難を浴びることになります。今回がそのケースでしょう。
 日本軍兵士の親切さ、礼儀正しさ、優しい振る舞い。そうしたことを本官自身よく知っています。日本の軍隊を知る者にとっては旅順の事件は大変残念であります。日本軍の行動は、貧しい支那人に対しても、軍はまさにこうあるべきだという見本のようなものでした。私はいま金州にいますが、日本人は支那人に対して実に優しくかつフェアな態度で接しています(訳注一戦前の史書には、「占領地行政庁を金州城内に置き、天津領事荒川巳次を庁知事に任じて州民を愛撫しました」とあり、この記述が誇張でないことがわかる)。民衆のためにできることは何でもしています。そのやり方は正義に基づくもので、フェアなものでした。
 市場も開かれ、商品は適正な値段で売買されています。(軍による)無法行為はなかったし、民間人を不当に扱うようなことは一切ありませんでした。実際のところ、支那人民衆の生活はそれまでよりもずっと改善され、彼らはそのことを喜んでいたと思います。こうした事実に鑑みますと、旅順で起きた行き過ぎた日本兵の行為についていつまでも拘泥すべきではなく、忘れていいものと考えます。旅順での事件の原因には私の知らない何かがあるのかもしれません。
 いずれにしましても、誇張された報道がなされたことは間違いありません。本官自身、当該記事を見ていないので、これ以上の論評はできません。本官はまだ正式な報告書を提出していませんが、今ここに(旅順での戦闘の模様を)取り急ぎ報告するのは、公使のもとに報道された記事が届いていて、公使がその内容の真贋を判断し、評価を下すためには、より正確な情報が必要であろうと考えたからです。
 本官はこれまで接したすべての日本陸軍士官から親切な扱いを受け、かつ礼節をもって遇されています。大山(巌)大将をはじめとして、私に対する丁重な扱いに深く感謝しています。私は広島では、川上(操六)将軍や彼の部下に大変お世話になりました。彼らの示してくれた配慮は、世界中のいかなる軍隊からも期待できないほどのものでした。
                                M・J・オブライェン
           一八九四年十二月二十八日 清国金州にて

 確かに、この報告は日本軍に好意的なものではありますが、「無防備で明らかに降伏しようとした兵士が殺害されたこともありました。また後ろ手に縛られたままの死体も見ました。銃剣によって切り刻まれた死体もあり、それらは(殺された時点では)無抵抗だっただろうと思わせるものもありました」ということは認めています。著者は、それでも「虐殺事件」そのものが全くのでっち上げだと主張するつもりなのでしょうか。