読書ノート / 近現代史
 実戦データから幕末戦争の実像に迫る   
 2014/4/30
 幕府歩兵隊 幕末を駆けぬけた兵士集団(中公新書) 
編・著者 野口武彦/著
出版社 中央公論新社
出版年月 2002/11/25
ページ数 295
判型 新書判
税別定価 860円

●歩兵隊は職能集団であった 
 幕府歩兵隊とは、幕末の1862年に創設された洋式の歩兵部隊(総勢8000人程度?)です。兵員は知行地から徴収された近郊農民ですが、江戸で雇い入れた傭兵(町人?)もいました。
 武士の部隊ではない点は長州の奇兵隊と同じですが、奇兵隊が郷土防衛の意識の高い志願兵であったのに対し、幕府歩兵隊は徴兵や傭兵であったという違いがあります。それでも、幕府歩兵隊は長州戦争や鳥羽伏見の戦いでは幕府軍を支え、1868年の幕府瓦解後も主力部隊は江戸を脱走し、1869年に函館で降伏するまで戊辰戦争の影の花形となって各地を転戦し活躍しました。
 将軍に対してさほどの恩義があるようにも思えない徴兵・傭兵集団が、瓦解した幕府に最後まで忠誠を貫いたのも不思議に思えますが、その点について著者は次のように説明しています(22〜23ページ)。つまり、素人の徴兵・傭兵集団は戦歴を重ねるにつれ、プロの兵士集団(戦争請負人)へと変貌したということでしょうか。
 主君のためでなく、自分の業前(わざまえ)で食いつなぐために戦う。多数の兵士がまとまって脱走し、大鳥圭介や古屋佐久左衛門の指揮下に入ったのは、リーダーヘの心服があったことはもとよりだが、動機は決して徳川家への忠義心ではなく、失業不安と集団再就職の希望だったのである。歩兵隊は職能集団であった。品行方正とは言い難く、聞き分けもよくない兵士たちを纏(わざ)め上げたのは、実際のところ軍紀と給料しかなかった。

●ゲベール銃とミニエー銃 
 著者は、当時の世界の銃器事情を次のように説明しています(74ページ)。
 開国から維新内乱までの十数年間は、世界史の上でも変動期であった。クリミア戦争(一八五三−五六)、南北戦争(一八六一−六五)、普墺戦争(一八六六)と相次いだ戦乱は、銃器の驚くべき改良進歩期であり、急速な開発競争期であった。新式が発明されれば旧式はたちまち中古品になる。幕末日本はそれを売り込む「絶好のマーケット」(所荘吉『図解古銃事典』)だったのである。
 この時期に起きた銃器の発達は、ごくおおざっぱにいえば、ゲベール銃からミニエー銃へ、滑腔式から施条(ライフル)式へ、前装(口込)式から後装(元込)式に変ったと要約できる。
 ゲベール銃とミニエー銃の最も大きな違いは、砲身内に施条(ねじ式の溝)が施してあるかどうかです。施条があると弾丸は溝に沿って(進行方向と垂直に)回転することにより、方向が安定します。また、そのことにより弾丸を円錐形とすることにより、空気抵抗を大幅に減らすことができます。ラグビーボウルを横方向に回転させながら投げるようなものです。
 その結果、ミニエー銃はゲベール銃よりも、次のように弾丸の飛距離と命中率が大幅に向上しています。
ゲベール銃 ミニエー銃
砲身内 滑腔式 施条式
装填 前装(口込) 前装(口込)
→後装(元込)
弾丸 球体 円錐形
91b命中率 74.5% 94.5%
182b命中率 41.5% 80%
273b命中率 16% 55%
365b命中率 4.5% 52.5%

●長州は竜馬の仲介でミニエー銃購入 
 長州はミニエー銃の威力を早くから認識していたようで、そのあたりの事情を次のように説明しています(107ページ)。この記述からは、長州がミニエー銃を購入したのは、1864年8月のようにも取れますが、1865年8月ではないかと思われます。いずれにしても1866年6月の長州戦争の直前に、ようやく最新のミニエー銃を入手したことには違いはないようです。
 早くもミニエー銃の威力に眼を付けていたのは桂小五郎、後の木戸孝允であった。文久三年(一八六三)五月、外国船砲撃の以前からミニエー銃の購入に努力しているし、特に緊急の必要を痛感したのは、元治元年(一八六四)七月、禁門の変に際して、当時敵対関係にあった薩摩兵にこっぴどい目に遭わされてからであった。火力の差である。長州藩は手持ちの銃装備では「大いに不利あるを知り、今日の機に乗じ兵勢を一変せん」(『木戸孝允文書』八)と堅く決意していたのである。
 追討令が出されて間もない同年八月二十五日、幕府は触書を発して長州藩への武器売却を禁止した。「毛利大膳父子叛逆につき、近国の面々え追討被仰付侯につきては、武器その外米穀等を始め、諸国より長防の両国元輸入候儀相成らず」というのである。当然、外国商人も取引を渋り、長州藩が銃器を購入するのは難しくなっていた。
 そのさなか、伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)が一働きした。裏から手を廻し、薩摩藩を名義人として、長崎の有名な「死の商人」グラバー商会から禁制品を購買したのである。仲介をしたのが坂本龍馬だったことはよく知られた話である。
 八月二十六日、三田尻と下関に陸揚げされたのは、ミニエー銃四千三百挺、ゲベール銃三千挺であった。『防長回天史』には「ミネーゲベール短筒」とあるが、二つバンドのミニエー銃のことであろう。

●井伊の「赤備え」はあっけなく敗退 
 長州戦争で幕府軍先鋒の井伊家の軍勢があっけなく敗退する様子を次のように述べています(120〜125ページ)。時代錯誤の井伊勢は滑稽であると同時に哀れにも感じられます。
 慶応二年(一八六六)六月十四日の早朝である。
 ちょうど幕府軍先鋒の井伊家の軍勢が、芸防国境(現在の広島・山口県境)の小瀬川を渡河して対岸の岩国へ侵入しようとしている時であった。突然、右手の山上から一斉に銃の乱射を浴びせられ、井伊勢はたちまち崩れ立った。実はこの日の払暁から、長州藩の遊撃隊・衝撃隊・維新団の数小隊がひそかに上流の地点で東岸に渡り、山の峰に登っていたのである。
 渡河中の敵は絶好の獲物だった。壊乱した井伊勢は、高所から乱射を受けながら、陸路は小方・玖波へ逃げ走り、退路を失って海上の船に殺到して溺死する者まであった。この辺一帯は、海岸線と連山とが平行している地形である。途中で踏み止まらせようとすれば、長州兵は間近の峰々に現われて銃撃を加えてきたので、士卒はいよいよ混乱して逃げまどった。
 『防長回天史』によれば、長州勢の軍監にも「此度の大勝利、実に意外に出侯」と報告されるほどの戦果だった。しかも逃げ去った後には、大量の装備が遺棄されていた。…… 
 井伊家の軍装はいたって古風であった。総勢およそ四千人が、有名な「赤備え」で固めていた。甲州の武田軍団から伝わり、旗差物はもとより、甲冑から足軽の寵手・脛当、馬具に至るまですべて赤一色の拵えで、関ヶ原の戦場で勇名をひびかせた伝統の軍装である。井伊家の面々は、桜田門外で首を取られた先代直弼の雪辱戦をやろうと燃えていた。必勝を期して、昔ながらの刀・鎗・鎧兜に法螺貝といった行列で押し出して来たのである。
 それが一敗して、文字通り地にまみれた。……
 その彦根藩中には西洋嫌いの武士が多かった。芸州口での陣立ても、旗・幟・陣羽織などさすがは「四天王」と感じさせる見事さだったが、装備には洋銃が少なく、和筒が多かった。『連城紀聞』七に見える行列人数の記録によれば、井伊勢は全五百十挺の装備のうち、内訳は和銃四百八挺、洋銃六十五挺、不明三十七挺である。榊原勢は数字が残っている限りでは二百十八挺であるが、すべてゲペール銃である。
 現地で待ち受けていたのは、四千三百挺のミニエー銃だった。
 ただ数量の問題ではない。井伊・榊原軍では鉄砲隊が技能集団だったのに対し、長州軍は全員が銃兵だった。この違いが決定的だったのである。

●「戦闘」の概念を一度に変えた 
 ミニエー銃という新兵器登場により一変した戦場の様子を次のように赤裸々に描いています(126〜128ページ)。15万ともいわれる大軍を動員した幕府がどうして長州1藩に負けたのか長く疑問に思っていましたが、この記述を読んで長年の疑問が氷解した感じがします。
 井伊家はともかく実際にはあまり鎧兜で戦場に臨む武士は少なかったが、それでも簡単な小具足――龍手や臑当といった防備具――だけは身に着けて出陣した士卒は多かった。ところが実際に戦闘してみて、具足は無益どころかかえって危険だということがわかったのである。負傷者には、刀傷や槍傷は一人もいない。全員が鉄砲傷であった。深いのも、浅いのもある。つまり貫通銃創も盲管銃創もあるが、なかには腹の皮と肉の間に弾丸が残り、自分で掘り出して抜くといった恐ろしい話もある。頭で考えると助かりそうもないが、意外にも、いったん弾丸を抜いてしまえば治癒も早いのだそうだ。
 具足は着けない方がよい。足を射たれた者がいた。急所ではないから軽傷だと思っていたら大間違い。臑当をしていたので鎖が肉の中にめりこんでひどい傷になった。いくら掘り出しても取り除けられず、いつまでも治らないし、大変な苦しみだったという話である。
 ミニエー銃の使用は、「戦闘」の概念を一度に変えたのである。
 この福山藩士は、自分が対戦した長州兵の戦いぶりを次のように語っている。
 こういう射撃にたけた兵士を相手にしたら、エイエイドンドンの指図による槍隊の進撃ではとても間に合わない。法螺貝や太鼓も平素の調練のようには行かず、まるでデロレン左衛門――浪花節の原型の大道芸――みたいにブウブウ音が出るだけで、てんから戦闘にならなかった。
 長州兵は、四、五町(四三六―五四五メートル)先から川を隔てて射ってきたが、残らずミニエー銃なので、尖り弾がひゅうと音を立てて、耳もとを掠めて飛んで行く。わが軍のゲベール銃は届かない(!)。敵兵は、一大隊が半隊ずっに分かれて一列縦隊で前進して来、号令一下、散兵になってもかならず二人一組で動き、樹木の蔭あるいは農家の屋根の上から射撃してくる。身体は顕わさない。煙を目当てに射たれないように、一つの場所から二発続けては発射せず、一発放つとただちに場所を変える。当時の黒色火薬は、点火されると濠々たる白煙を上げた。発射地点を教えるようなものだったのである。立ったまま弾込めをせず、皆地面に伏せる。山を登り、また駈け下り、屋根の上から発射してはすぐ飛び降りる。間合が迫ると密集せずに、さっと散るから、こちらは相手が多人数のように思い込んでしまう。
 戦場に穿いて出た大口袴(裾の口の大きな袴)は、道のない場所を駈け回る間に樹木に引っ掛かってずたずたに裂け、下を切り取るしかなかった。伊賀袴でさえ駄目である。股引かダン袋でないとどうしようもない。それが体験的にわかったのである。
 戦地から引き揚げてきた面々には、もう西洋流が好きも嫌いもなかった。「戦場に出るなら具足ならびに赤・白・黄の筒袖・陣羽織・大口(袴)の類、かならず用ひまじく、また銃はミニー。ゲヴェールにては丁間(射程)飛ばず、中り(命中)粗く、かならず用ひまじ」と口々に語るようになっていた。

●幕府歩兵隊は強かった 
 このような劣勢の中で、幕府歩兵隊の活躍を次のように説明しています(133ページ)。
 新しい相手は見違えるように強かった。
 幕府歩兵隊は「黒き胴服」、紀州兵は「白き筒袖」と区別していたのだが、今日の戦闘では、歩兵隊の制服が変っていたことが確認された。新手(三番町屯所?)に入れ替えられたのか、胴服を違う色に染め直したのかはわからないが、戦いぶりがまるで一変したというのである。
 これまでの戦闘では五、六十発も射てば敵は退却したが、今度ばかりは百敷十発を打ちまくっても駄目で、銃身は熱くて手が火傷するくらいになり、弾丸が込めにくくて何度も掃除しなくては発砲できなかった。こちらは山上から打ちまくり、士官二人を狙撃で射ち倒したのをはじめ、死傷数百人という損害を与えているはずなのに敵は一歩も退かない。
 士官二人を「即死」させたとあるのは誤報で、これに該当すると思われる三番町歩兵組の差図役頭取の間宮帯刀は顎から喉を打ち抜かれ、大砲差図役の三本多一郎は頭の前面を首まで貫通されていて、どちらも重傷である。
 交戦体験を積むにつれて、歩兵たちはたくましくなっていった。

 実戦データから幕末戦争の実像に迫るこの本を読んでみて、近代戦の主役は新式銃と平民兵士であり、徳川の武士社会は滅びるべくして滅んだのだと、つくづく実感しました。