読書ノート / 近現代史
 京都は原爆投下の筆頭候補地だった
2012/5/10
 京都に原爆を投下せよ ウォーナー伝説の真実 amazon
編・著者  吉田守男/著
出版社  角川書店
出版年月  1995/08
ページ数  238 
判型  19.6 x 13.6 x 2.4 cm
税込定価  1300円(絶版重版未定)
 目次
第1章 ウォーナー博士は古都を救った恩人か?
第2章 京都に原爆を投下せよ!
第3章 京都の運命
終章 《ウォーナー伝説》を創作したのはだれか?

 「太平洋戦争で京都や奈良が戦災を免れたのは、文化財を守るためアメリカが空襲を控えたためだ。それはウォーナー博士の尽力によるものだ」という美談が語り継がれています。しかし、京都が戦災を免れたのは、原爆投下の筆頭候補地だったからであり、ウォーナー伝説は意図的に作られた虚構にすぎないと著者は主張し、その立証に挑んでいます。

 「第1章 ウォーナー博士は古都を救った恩人か?」では、まず、《ウォーナー伝説》の由来を説明しています。ウォーナー博士が、古都京都・奈良の爆撃の中止を大統領に進言したという噂(うわさ)話は、戦時中からあったといいます。そして、戦後に新聞がその功績を事実として報道したことにより、「伝説」が定着した。その「伝説」とは、ウォーナー博士が、(文化財保護を目的に設立された)ローバーツ委員会に、文化財リストを提出し、空爆からの除外を懇請し、それが功を奏したというものです。
 しかし、ローバーツ委員会からアメリカ政府に提出された報告書のコピー(著者がボストンの図書館から入手)を調べたところ、同委員会の主要な目的は、ナチスによって略奪された美術品を返還させるための準備を行うことであったといいます。
 このような事情は、次のように、新聞でも詳細に報道されたといいます(48〜49ページ)。
 だからこそ、この委員会の結成を詳しく報じた『ニューヨーク・タイムズ』(一九四三年九月一九日付)は、その記事の見出しとリード文で次のように報じていたのである。

 ヨーロッパの略奪された美術ーそれは取り戻せるか? ナチスは征服地の美術品を略奪した。盗まれた資産を取り戻して救済することが新しいアメリカ委員会の職務である。 

 以上の検討で明らかなように、ロバーツ委員会の目的は、枢軸国によって略奪された文化財を取りもどして、もとの所有に返還することであり、活動はそのための準備であった。《ウォーナー伝説》の言い分は、この委員会の目的に照らしてみると全く誤っていると断じざるを得ない。 
 そして、ウォーナー博士が作成した文化財リスト(ウォーナーリスト)は、ローバーツ委員会が作成した40種類の文化財リストの一部に過ぎなかった。しかも、それらはヨーロッパ諸国を中心としたものであり、アジア地域4カ国(中国、日本、朝鮮、タイ)については「適当な長さのリストが追加的に作られた」だけたといいます。
 「報告書」によれば、ロバーツ委員会の目的は、略奪された文化財を取りもどすことにあったわけで、「文化財リスト」は略奪された文化財の保管場所を特定するためのものだったといいます。さらに、「文化財リスト」は「弁償」用の文化財を選別するためのものでもあったと著者は指摘します。略奪された文化財が取り戻せなかった場合、略奪国が所有する同程度の価値を持つ文化財で「弁償」させることも、ロバーツ委員会の目的であったのであり、「文化財リスト」に略奪国所有の文化財が含まれているのは、そのためだというのです。
 ただ、「文化財リスト」がそのようなものだったとしても、「弁償」用文化財として、空襲を免れたという効果はあったという意味で、「保存」に役立ったといえなくはないように思えます。
 この点について著者は、そのような意味でも「保存」に役立ったという可能性は考えられないと、次のように指摘しています。
 このように見てくれば、〈ウォーナー・リスト〉に記載されていた*印による重要度表示の意味ももはや明白である。
 それは、前述の政策文書「文化財返還の諸原則」に関わっていた。*印による四等級の区分は、略奪文化財に紛失や破損が生じた場合、それに「匹敵する」「等価値」の文化財を弁償用に選び出すための基準だったのである。
 また、〈ウォーナー・リスト〉が空襲と何の関係もなかった例をあげておこう。
 米軍による爆撃によって焼失した日本の文化財は、国宝二九三件、史蹟名勝天然記念物四四件、重要美術品一三四件であり、合計四七一件もが灰になったという。先の〈ウォーナー・リスト〉には一五の城が掲載されているが、このうち、名古屋城天守閣・首里城・青葉城など八つもの城が戦火で焼失している。全国に無数といってよいほど多数存在する城のうち、リストに掲載されたのはそのうちの代表的なもの一五に過ぎないにもかかわらず、その半数が爆撃によって失われたのである。逆に〈ウォーナー・リスト〉に記載されなかった彦根城、富山城、丸岡城などの名城は爆撃をうけていない。これでは、爆撃を制限するためのリストであるどころか、爆撃の目標に定めるためのリストだったのではないかと考えざるをえないほどである。
 また、〈ウォーナー・リスト〉が実際に何の役に立ったかについては、戦後、占領軍兵士たちが日本を観光してまわる際のガイドブックとして重宝がられたと言われている。

 「第2章 京都に原爆を投下せよ!」では、京都が原爆投下の筆頭候補地だったという驚くべき事実が、米国の公文書によって明らかとされます。
 1945年5月10日と11日、アメリカ・ニューメキシコ州で、原爆投下の目標を選定するための第2回目の委員会(議事録のコピー、76ページ)が開かれました。候補地として、次の5箇所が上がっていましたが、2発の原子爆弾に対して、予備の目標を含めて、新潟を除く4箇所が選ばれました。なお、議事録のコピーを見る限りでは、皇居への原爆投下も議論されたことが伺えます。結局、政府と軍部の最高首脳が決定すべきことだとしながら、 皇居への原爆投下の効果については、情報収集を続けることになったようですが。
候補地    評価 
1.京都  人口100万、都市工業地域、知的中心地であり、住民は特殊兵器の意義を理解できる(心理的効果?)  AA 
2.広島  陸軍の重要補給基地、物資積み出し港  AA 
3.横浜  重要都市工業地域、対空火器が密集しているので不利  A 
4.小倉造兵廠  日本最大の造兵廠の一つ  A 
5.新潟  物資積み出し港  B 

 しかし、古都京都がなぜ筆頭候補地となったのでしょうか。
 委員会の会議録によれば、@都市地域が直径3マイル(4.8キロメートル)以上の広さ、A爆風が最大の効果を発揮できる地形等、B8月の原爆投下まで空襲を受けていないこと、の3点が基準として挙げられていたといいます。つまり、新兵器の実験地として、原爆の威力を検証するのに適しているかどうかが、選定の基準となったわけです。
 そして、この基準に照らして、京都が最適地とされたということです。
 原爆関係極秘文書の中から発見された地図(下に引用)によれば、梅小路機関車庫が原爆投下の標準点とされ、そこを中心に直径3マイル(4.8キロメートル)の円が描き込まれています。
 これを、広島と長崎の原爆投下地図と比較すると、上記の基準の意味がよりいっそう明らかとなります。広島の場合は、被害地が完全に直径3マイルの円内に収まってしまいます。長崎に至っては、被害地は直径3マイルの円内のほんの一部に過ぎません。つまり、都市地域が狭すぎる上、地形に邪魔されて原爆が十分の威力を発揮できないのです。
 原爆の実験地としては、上記の基準@Aに照らして、広島でようやく合格点、長崎は明らかに落第なのです。

(本書89ページ)

(「詳説日本史図録第3版 山川出版社」282ページ)

(「詳説日本史図録第3版 山川出版社」283ページ) 
 では、基準Bについてはどうかというと、1945年3月には、東京、名古屋、大阪、神戸への空襲が始まっているので、1945年5月の時点で残されていたのは、大都市では京都、横浜ぐらいで、後は中規模の地方都市ということになります。そして、その時点で原爆投下の候補地とされた都市に対しては投下に備えて、その後の空襲が控えられたということは、次のような被害データ(本書102ページ)からも明らかであると、著者は指摘しています。


 「第3章 京都の運命」では、筆頭候補地とされた京都が、原爆投下対象から除外されるに至った経緯が説明されています。
 京都に原爆を投下するかどうかについては、陸軍長官のヘンリー・スチムソンと、現場責任者であったレスリーグローブズ少将との間に激しい意見の対立が、最終決定直前まで続いたが、結局、スチムソン長官が現場の反対を押し切って、除外を決定したといいます。
 このことから、「スチムソン恩人説」が、オーティス・ケーリ元同志社大学教授らによってとなえられていることについて、著者はそれを「新しい伝説」だと批判しています。
 スチムソンが京都を除外したのは、文化財保護のためではなく、戦後の国際情勢をにらんだ政治的配慮によるものだと、著者は次のように述べています(159〜160ページ)。
 スチムソンは、京都除外を通告した三日後の日記において、この問題に関するトルーマン大統領との議論を紹介している。そこに、スチムソンがトルーマンを説得して京都除外を決めた理由が次のように記されている。この部分はすでに紹介したが、スチムソンの手記と比べるためにやや詳しく見ておこう。

 七月二四日(中略)我々(スチムソンとトルーマン)はS1計画(原爆計画)についてさらに二言三言話をした。私は、提案された諸目標の一つ(京都)を除外する理由を再び彼(トルーマン)に説明した。この問題について彼は私の意見に信念をもって同意する旨を繰り返し述べた。もし(京都の)除外がなされなければ、かかる無茶な行為によって生ずるであろう残酷な事態のために、その地域において日本人を我々と和解させることが戦後長期間不可能となり、むしろロシア人に接近させることになるだろう、という私の意見に彼は大いに賛成した。それ(京都への原爆投下)は、我々の政策が要求するもの、つまり、満州でロシアの侵攻があった場合に、日本を合衆国に同調させることを妨げる手段となるであろう、と私は指摘した。                       〔Stimson Diaries,July 24,1945.〕

 陸軍長官が大統領を説得して京都の除外を決定したいきさつを記したこの日記には、文化などという言葉はどこにも見当たらない。あるのはきわめて現実的な国際情勢に対する判断だけである。先の回想的手記が京都除外の理由を、「日本の芸術と文化の聖地」(=京都)としていたのとは全く異なっている。この手記と日記と、どちらが真相を語っているのであろうか。
 後になって当時を回想して書いた回顧録の類と、その時々に記録された日記とでは、一般に後者の方が史料として信憑性(しんぴようせい)が高いと評価することは、歴史学のイロハである。まして、この場合のように、回想的手記が政治的弁明の傾向を持っていることが明らかな場合は、なおさらのことである。
 スチムソンが広島・長崎への原爆投下の責任者であったことや、戦後の国際情勢への影響に無関心でいられなかったを考えれば、京都の除外を決定したのは純粋に文化財保護の目的のみにあったとはいえないと思います。しかし、スチムソンが反対したから京都に原爆が投下されなかったというのは事実です。ただ、だからといって「恩人」と呼べるかどうかは議論の分かれるところでしょう。

 「終章 《ウォーナー伝説》を創作したのはだれか?」では、「ウォーナー伝説」は、GHQがそれが真実であると断定したから広く流布するようになった指摘しています。
 結果として、京都が戦災を免れたこと、それを文化財保護を目的としたものであると日本側が誤解したこと、それをGHQが利用しようとしたことは否定できないように思えます。ただ、それを「創作」と呼べるかは判断の分かれるところでしょう。