読書ノート / 近現代史
 南京事件の実像と背景を探った日中現代史研究書
2012/3/17
 南京事件 (岩波新書) amazon
編・著者  笠原十九司/著
出版社  岩波書店
出版年月  1997/11
ページ数  248 
判型  新書判・並製・カバー
税込定価  819円
 最近(2012年2月22日)、名古屋市の河村たかし市長が「南京事件というのはなかったのではないか」と発言したことを受け、中国・南京市政府が両市間の公の交流を当面停止すると発表したことで、日中関係がギクシャクしています。
 そこで、南京事件のことを調べてみようと、アマゾン検索で始めに表示される本書をまず読んでみました。
 南京事件の研究書というと、残虐な写真が出てくるのかなと思っていましたが、写真は各章の始めにカットとしてあしらわれているだけで、しかも、新聞社提供の通常の報道写真がほとんどです。また、本文で引用されている虐殺や強姦の描写も、さほどどぎついものでもありません。歴史家の視点から、南京事件の実像と背景を探った、日中現代史の研究書といえるでしょう。
 著者は、「序 何がどう裁かれたのか」で、東京裁判と南京軍事法廷について、次のように述べています。
 右の判決文は、法廷における証言をもとに残虐行為の「事実認定」をおこなったのであって、南京事件の全体像をあきらかにしたものではなかった。しかし、裁判資料がすぐに公刊されなかったこと、日本の歴史学者や研究者の側にもそれらの資料を検討して事件の実態を解明しようとする関心が弱かったことなどもあって、東京裁判や南京裁判の法廷で陳述・提出された膨大な証言資料にもとつく南京事件の実相が解明されずにきたため、この判決文だけがひとり歩きをして、あたかも南京事件の全体像を描いたものであるかのような誤解が生まれた。……
 ……東京裁判や南京軍事法廷で陳述された「証言」も、結局は、個々の虐殺事例=「木」の実在を証明したものであった。裁判は多数の「木」の実在をあきらかにすれば、それで「戦争犯罪」が立証できたのであり、かならずしも「森」の全体像を解明する必要はなかった。東京裁判の判決文は犯罪の「事実認定」と刑罰の「軽重認定しであって、歴史学的に事件の全体像を解明したものではない。……
 ……本書では、東京裁判や南京軍事法廷の「判決文」とは異なる「歴史書」として、南京事件の原因と経過およびその全体像の叙述を試みる。 

 「T 南京渡洋爆撃の衝撃」では、日中全面戦争に積極的であったのは、陸軍ではなく海軍、中でも山本五十六を中心とする航空戦力重視派であったとします。そして、航空戦力の実績作りとして、1937年8月15日から12月13日の南京占領まで、50数回延べ900余機、投下爆弾数百トンに及ぶ南京空襲を行い、その結果、都市機能がマヒし、国民政府は11月20日重慶への遷都を宣布します。南京爆撃は「南京攻略戦の前哨戦」だったと著者は述べています。
 「U 上海派遣軍、独断で南京へ向かう」では、日中戦争不拡大派の中心であった参謀本部第1部長の石原莞爾が更迭される経緯が説明されています。石原莞爾といえば、中央の統制を無視して、満州事変を主導した張本人ですが、今度は事件拡大を抑えようと苦心するわけで、前とは逆の立場になったといえます。11月中旬、日本の上海派遣軍は激戦の末、上海全域を制圧しますが、その結果、兵士は消耗、疲労し、指揮低下、軍紀の弛緩、不法行為の激発が深刻な問題となり、陸軍省軍務局軍事課長もそのことを憂慮していたといいます。そして、派遣軍の再編、再教育の必要性を痛感していたといいます。にもかかわらず、兵站の準備もなく、派遣軍が独断で南京へ向かったことが、兵士の略奪や性的蛮行を招いたのではないかと、著者は考えています。
 「V 近郊農村で何が起きたか」では、派遣軍が行軍途中、南京特別市の近郊区(近郊農村)で行った破壊・略奪、放火の様子が述べられています。南京事件というと南京城区での被害が問題とされますが、150万の人口があった近郊区あわせて、南京特別市全域で事件は発生したとします。
 「W 南京陥落」では、南京防衛について、国民政府内に意見の対立があったといいます。幕僚は南京を撤退し持久戦に持ち込むことを主張したのに対し、蒋介石が南京固守を譲らず押し切ったといいます。そして、その結果、膨大な民衆を含め、日本軍の包囲殲滅戦にさらされ、犠牲が拡大したとします。一方、日本軍の方面軍司令部は、南京陥落後、一部の軍紀厳正な選抜された部隊だけを城内に入れるよう注意事項を下達していたが守られなかった。その結果、軍紀の弛緩した日本軍7万人以上が城内に入り、略奪が始まってしまったとします。
 「X 残敵掃蕩の実相」では、敗残兵に対する集団殺戮の様子が紹介されています。陥落翌日13日朝から、掃蕩作戦が始まります。「青壮年はすべて敗残兵又は便衣兵(ゲリラ)と見なし、すべてこれを逮捕監禁すべし」との指示や、「捕虜は作らぬ方針」が示された部隊もあって、一般市民も含めて敵兵と疑われるなら次々と射殺されたといいます。さらに、松井司令官が17日に入城式を強行したため、無理な掃蕩に拍車がかかったといいます。
 「Y 事件の全貌、そして国際的影響を考える」では、事件の発生区域は南京特別市全域、期間を1937年12月4日から38年3月28日としています。犠牲者については、その数を正確に算定するのは不可能としつつ、防衛軍15万人のうち4万人が脱出再結集、2万人が戦死傷、1万人が行方不明、残り8万余人が虐殺されたと推定しています。一方、民間人犠牲者については、推定はきわめて困難として、各種資料の数字をあげるにとどめています。そして、全体での犠牲者総数は、10数万人から20万人前後になるのではないかとしています。