読書ノート / 近現代史
 日本海海戦はハイテクの勝利だった 
 2016/2/13
 日露戦争と大韓帝国:日露開戦の「定説」をくつがえす
編・著者 金文子/著
出版社 高文研
出版年月 2014/10/15
ページ数 480
判型 四六判
税別定価 4800円
 
 本書は、同じ著者の「朝鮮王妃殺害と日本人:誰が仕組んで、誰が実行したのか」の続編ともいえます。著者は、本書の狙いについて次のように説明しています(471ページ)。

 五年前に、『朝鮮王妃殺害と日本人』(高文研、二〇〇九年二月)を上梓しました。
 この本では、日清戦争終結から半年後に、朝鮮に駐屯していた日本の軍隊によって実行された朝鮮の王妃殺害事件を考察しました。そしてこの事件の背景には、日清戦争中に日本軍が占領した朝鮮の電信線を、戦後も引き続き日本軍の支配下に置こうとする大本営と日本政府の野心があったことを論じました。
 これに対し、拙著を好意的に評価してくださった研究者の方々からも、電信線は、他の諸々の利権の一種であって、日本の侵略政策をそれのみに集約しすぎているという批判をいただきました。
 本書『日露戦争と大韓帝国』は、この批判に対して答えようとしたものです。日清戦争から一〇年後に、韓国を完全に日本の支配下に置くことを目的とし、日本がロシアに仕掛けた日露戦争を分析しました。
 日本の韓国侵略において、電信利権は、他の諸々の利権、例えば鉱山利権、鉄道利権、漁業利権等と同じような、単なる利権の一種では決してありません。電信線は、海外に軍隊を出して近代戦を遂行する上で必須の軍事施設だったのです。このことについては、本書においてより具体的に実証できたかと思います。

 「朝鮮王妃殺害と日本人」では、王妃殺害の影の主役・川上操六参謀次長に収斂する軍関係者の見えざる糸を手繰り寄せることに主眼が置かれ、電信線の確保という目的については、ほとんど論証がなされていなかったように思われます。王妃殺害は、下関条約が締結され、遼東半島返還問題が最終的に決着した後に起こった事件ですから、軍事目的で電信線を確保しておく必要性は低かったようにも思われます。
 もっとも、1895年時点で、韓国の完全支配、さらに満州への勢力拡大の意図や、それに伴いロシアとの武力衝突が不可避なものとなるとの予測があれば、電信線確保は重要な意味を持つことになります。
 @日露戦争は日本がロシアに仕掛け、A仁川、旅順奇襲や日本海海戦で電信線が重要な役割を果たしたことを証明するのはその傍証となります。それが「朝鮮王妃殺害と日本人」の続編としての本書の狙いであるように思われます。

 王妃殺害以降の流れを年表にまとめると次のようになります。
1895/10/8 王妃殺害
1896/2/11 露館播遷(ろかんはせん):高宗が王宮(景福宮)を抜け出し、ロシア公使館に保護を求める。親日派の閣僚を罷免し、新たな内閣を組織
1896/6 山形・ロバノフ協定
 日本はソウル以北の電信線の占有を放棄、ロシアの電信架設権を認める
 日本は、釜山−ソウル間に架設した電信線の占有を維持、電信線守備のための憲兵200名、ソウルに2中隊、釜山と元山に各1中隊を派遣
1897/2/20 高宗がロシア公使館を出て、慶運宮(現在の徳寿宮)に移る。宮内の静観軒裏側にはロシア公園に通じていた狭く長い秘密地下通路が今も残っているそうです
1897/10/12 高宗が大韓帝国皇帝に即位
1898/3 ロシアが旅順、大連を25年租借
1898/4 西・ローゼン協定:満韓交換論に一歩近づく
 ロシアは韓国における日本の投資を妨害しない
 日本は満州がロシアの勢力圏であることを暗に認める
1900 義和団事件
1902/1 日英同盟の締結
1902/4 ロシアと清は満州還付条約を締結するが、ロシアは満州から撤兵せず
1903/8 日露交渉始まる
1904/1/21 高宗が中立宣言を世界に向け発表。
 1895年10月8日、三浦梧楼公使の指揮により日本兵と日本人が閔妃を殺害します。閔妃が朝鮮王朝の親露派の中心人物であったため標的になったのですが、この事件は、高宗を親露派路線に追いやることになります。
 1896年2月11日、高宗は(二度にわたり日本軍に蹂躙された)景福宮を脱出し、ロシア公使館に保護を求め、そこを拠点に巻き返しを図ります。そして、親日派の閣僚を罷免し、新内閣を組織し、反日の姿勢を明確にします。王妃殺害という強硬手段は、日本にとって、裏目と出たことになります。
 しかし、ロシアは日本と全面対決してまで朝鮮王朝に肩入れするつもりはなかったようで、1896年6月、山形・ロバノフ協定で日本と手打ちを図ります。ソウル以北については、ロシアの電信架設権を認める代わり、釜山−ソウル間では、日本に電信線の保持を認め、限定的ながら部隊の派遣も認めました。
 その後、1897年2月20日、高宗がロシア公使館を出て、慶運宮に移り、10月12日、国号を大韓帝国とします。一方、日本とロシアは、1898年4月、西・ローゼン協定を結び、満韓交換の姿勢がさらに鮮明となります。
 しかし、1900年の義和団事件を契機に、ロシアが満州に派兵、事件後も撤兵しなかったため、日本との間に緊張が高まります。

 日露交渉から開戦までの動きについて、著者は次のように述べています(33〜34ページ)。「もっぱらロシアの南下政策が過大に宣伝され」たことが、日露戦争=祖国防衛戦争という主張につながったものと思われます。

 日露開戦の前年、一九〇三年の八月から開始された日露交渉とは、「満州還付条約」で決められたロシア軍の第二期撤兵期限(同年四月)をロシアが守らなかったことを「奇貨」として、日露協定を見直し、日本が韓国においてロシアから受けている制約を撤廃し、韓国における日本の完全な自由権をロシアに認めさせようとしたものである。
 しかし、ロシアは日本の要求する韓国における完全な自由権を認めなかった。とりわけロシアが最後まで譲らなかったのは、韓国領土の戦略的使用の禁止という条項である。
 そして重要なことは、このロシアの主張は、当時日露両国に対し、韓国の戦時中立の保障を求めていた大韓帝国の主張に合致するものであったということである。
 これに対し、日本ではもっぱらロシアの南下政策が過大に宣伝され、日本の韓国侵略を正当化してきた。しかし最近のロシア史研究の成果が教えてくれることは、「開戦前夜、ロシアには主戦派はいなくなっていた、ロシアは戦争をするつもりがなかった」ということである。〈注12〉
 またそのことを含め、日露戦争は避けることができた戦争であることを認めながらも、相互の意思疎通ができなかったために不幸にも開戦に至ったという説が繰り返し出てきているが、これは新たな装いの日本正当化論にすぎない。〈注13〉
 ロシアに対日開戦の意思がなく、妥協の余地があることは、日本の首脳部は知っていた。そのことを承知の上で、手段を尽くして対露開戦へ持ち込んだのだということを論証することが、本書の目標の一つである。

 著者は、〈注12〉の「最近のロシア史研究」として、和田春樹「日露戦争 起源と開戦 上」(岩波書店)(28ページ)を挙げています。また、〈注13〉の「新たな装いの日本正当化論」として、千葉功「旧外交の形成」(勁草書房)(146ページ)、伊藤之雄「立憲国家と日露戦争」(木鐸社)(224ページ)、大江志乃夫「バルチック艦隊」(中公新書)(179ページ)を挙げています。

 本書の記述にしたがって、日露交渉から開戦までの動きを年表にまとめると次のようになります。
1903/8 日露交渉始まる。両国とも強気の姿勢で、交渉は平行線。シベリア鉄道が完成すれば、不利になると日本は認識
1904/1/6 ロシアが譲歩の姿勢を見せる。
1/12 内閣元老会議は早期開戦で意志統一。御前会議で天皇は「尚お一度催促して見よ」と慎重姿勢。しかし、それ以降、軍部は1月末開戦へ向け準備を進める
1/16 海軍大臣と逓信大臣が、海外電報取締に関する協定を結ぶ
1/29 日本の要求を呑んだ回答書が、ロシア政府から2月2日に旅順の極東総督に送られ、数日中にも日本政府に届くかもしれない、という報告が、栗野駐露公使から日本外務省に届く
1/30 午前9時、政府首脳会議で、伊藤博文が「一刀両断の決を為さざるを得ざる(しなければならない)」と述べる
1/31 海軍大臣が海軍幹部に「最後の訓示」
2/3 午前、内閣元老会議が開戦を議決
午後3〜4時半、御前会議の開催を奏請 
午後7時、「旅順艦隊が出港、行方不明」の電報届く
2/3〜4 ロシアの回答書が、旅順の極東総督と駐日ロシア公使に電送される。極東総督は5日に電文を駐日ロシア公使に転送。いずれの電文も、7日午前7時に駐日ロシア公使に届く(著者は、譲歩案を示されると開戦の口実がなくなるため、日本がこの回答書を検閲し抑留したと推測)
2/4 御前会議で、海軍大臣が、「行方不明」の旅順艦隊の出動目的は佐世保、対馬襲撃などにあるとの予測を説明(実際は洋上訓練などが目的と見ていた)、天皇は旅順艦隊撃破を許可、軍事行動開始のゴーサインとなる 
夕刻の陸海軍合同会議で、陸軍への動員令発令を解除、海外との通信規制などを決定。海軍大臣が1月16日の協定に基づき、2月5日正午から8日正午まで72時間の海外発送電報の停止を依頼。
2/5 陸軍に動員令発令、韓国北部と満州からロシアに通じる電信線は、日本の軍事諜報員により切断される。正午から8日正午まで、日本のロシア公館は、海外への送信ができなくなり、通信社の電信も検閲を受ける
2/6 午前9時、連合艦隊が続々と佐世保を出港
午後4時、日本政府が、駐日ロシア公使に最後通牒を通告
 日本政府は、シベリア鉄道が完成すれば、不利になるとの認識の下、1904年1月12日には開戦を決定していたということです。天皇は開戦には慎重でしたが(平和主義というよりも敗戦を心配していたようです)、「ロシアが攻めてくる」と脅されて、開戦に同意したようです。
 一方、ロシアは直前まで妥協の道を探っていたようで、戦争する意志はなかったようです。ロシアのラムスドルフ外務大臣は、2月2日にも譲歩案を示せそうだと、栗野中露公使に伝えています。実際、2月4日までには回答書を旅順の極東総督と駐日ロシア公使に電送されています。ただし、電文が駐日ロシア公使に届いたのは7日午前7時だったということです。著者は、日本政府が電文を検閲し、7日まで留め置いたと見ています。
 ロシアとしては、妥協案を示したにもかかわらず、いきなり最後通牒を通告され面食らったものと思われます。さらに、電信線を遮断されたことにより、旅順艦隊や仁川の軍艦は、最後通牒通告という状況が把握できないまま、突然日本艦隊の奇襲を受けたようです。

 当時、駐露公使であった栗野慎一郎は、次のように再三にわたり、「ロシアに戦意はなかった」と発言しているとのことです(127〜128ページ)。

 『伊藤博文秘録』は、一月三〇日付伊藤の手書、同日付小村の栗野あて電報に続き、さらに「子爵栗野慎一郎氏談」を載せている。栗野は次のように語った。

私は当時露国駐在公使の任にあったのであるが、私の見た処では、露国としては日本と事を構へようなどとは毫頭考へて居らなかったらしい。外務大臣ラムスドルフ伯爵は非常に温厚な好紳士であった(中略)風雨二十年、今にして当時を想到すれば、露国も随分馬鹿を見たものであるし、日本としても危い橋を渡ったものであった。

  ………… 
 栗野は、このほか、ラムスドルフが日本との関係を円満に進めるために、日本人の友人を多く持つローゼンを再び駐日公使に起用した話をし、ラムスドルフが「此辺の事まで心配して居た」とか、「此人は非常な君子人だった」とか語っている。
 栗野についてはまた、ロシアから召還されて帰国した後、郷里の福岡で有志の歓迎会に出席したとき、「ロシアには戦意はなかった」と発言して物議をかもしたことが『小村外交史』三五九頁に書かれている。それから二十数年後、伊藤の手書に解説を求められたときも、再び「私の見た処では、露国としては日本と事を構へようなどとは毫頭考へて居らなかったらしい」と発言したのである。栗野慎一郎の胸中には、結果的に自分がラムスドルフを騙していたことについて、呵責の念が去来していたのではないだろうか。

 本書では、基本史料として、「極秘明治三十七八年海戦史」と「日露戦役参加者史談会記録」に依拠しています。 著者は、「極秘明治三十七八年海戦史」について次のように説明しています(148ページ)。

 海軍軍令部は日露戦争終結直後の一九〇五年一二月から一九一一年三月にかけ、およそ五年余の年月を費やして、全一二部一五〇冊に及ぶ膨大な『極秘明治三十七八年海戦史』(以下『極秘海戦史』と略)を編纂した。同書は、日本においては防衛省防衛研究所図書館史料室が所蔵する千代田史料中に、ほぼ完全な形で一組のみ保存されている。
 千代田史料とは、明治以降、皇居内に保管されてきたもののうち、第二次世界大戦後、防衛研究所に移管されたもので、日清日露戦争期の上奏書類・記録などが中心となっている。皇居内に保管されていたため、敗戦時に日本軍が自らの手によって行った大規模な資料焼却と、その後に実施された占領軍による資料接収から免れた。
 この『極秘海戦史』はどうしたわけか戦後も長期間にわたって、一部の防衛関係者を除き、研究者間にもその存在が知られていなかった。一九八〇年代になって初めて防衛関係者によって本書の存在が学界に報告され、八五年には防衛大学で海戦史の講義を担当していた外山三郎が本書を用いて学位論文を書き、『日露海戦史の研究』上下二巻として教育出版センターから刊行された。
 しかし歴史学の分野を見れば、日露戦争をテーマにした出版物ですら、今なお本書を全く参照していないものも多い。二〇〇五年以降、アジア歴史資料センターからインターネットでほぼ全文が公開されたことにより、今後は本書を無視して日露戦争を論じることはできなくなった。

 ネット情報によると、「極秘明治三十七八年海戦史」により、次のような事実が明らかとなっています(いずれのサイトも、かなり詳細な記述が続きます)。「ここには「T字戦法」や「丁字戦法」の言葉はなく、淡々と時系列に従い戦闘が記述されている」( 平間洋一 歴史・戦略・安全保障研究室解題 海軍軍令部編『明治三七八年海戦史』の資料的価値)、「 26日の夜が更け、時計が27日にまわるとまもなく、最前線に出ていた信濃丸から「敵艦隊見ユ」という通知が入り、いわゆる日本海大海戦の大勝利がここに行われるわけでございます。これが、『極秘明治三十七八年海戦史』に書いてある事実です。日本の海軍はこういう経緯を全部消して「東郷さんは神のような英和をお持ちであった。そして泰然自若として『ここに来るでごわす』と言った。あれこそ日本のリーダーのとるべき態度である」と強調されたのです。こういう話が、そのままそっくり海軍大学校、陸軍大学校で教えられ、陸軍士官学校、海軍兵学校で教えられ、「日本のリーダーはかくあるべし」という形が出来上がったと言ってもいいかと思います。」( 学士会アーカイブス | 会報・発行物 | 一般社団法人学士会>日本のリーダーシップについて 半藤一利)  
 つまり、東郷ターンやT字戦法などはなかったようであり、バルチック艦隊の航路もちゃんと把握されており「東郷さんは神のような英和」によって予測したのではなかったようです。
 「日露戦役参加者史談会記録」については、著者は次のように説明しています(154〜155ページ)。

 一九三五(昭和一〇)年には、日露戦争三〇周年を記念して、新聞社が各種の企画を組み、またその記録が単行本として出版された。
 ……
 一方、海軍自らも、海軍省海軍々事普及会から委嘱を受けた海軍有終会(予備役海軍士官の親睦団体)が主催する形で、同年六月二五日、二八日、二九日の三日間、東京水交社において「史談会」を開催した。『日露戦役参加者史談会記録』(全九巻、以下『史談会記録』と略)はその記録である。
 但しこの「史談会」は、民間座談会とは異なり、「極秘事項に触ると」と多々あるを以て公表せず、談話者及び世話人の外特に関係ある現役海軍士官のみ出席す」とされた。また記録の取扱についても、「談話事項は全部速記し(手記を提出されしものは之を採録す)、記録整理の上四部謄写し、速記原稿と共に全部海軍省に提出す」と、厳重に管理された(同書第九巻、総目録「序」による)。よって、『極秘海戦史』と同様に近年に至るまで公開されなかった。現在では、防衛研究所所蔵本がアジア歴史資料センターからインターネットで公開されている。

 「極秘明治三十七八年海戦史」は、戦争終結直後に編纂された海軍の戦史であるのに対し、「日露戦役参加者史談会記録」は30年後に語られた関係者の談話集です。30年経てば記憶が薄れる反面、関係者が他界したことにより、本音が話せるようになったということもあるかもしれません。いずれにしても、これらの史料を照合することにより、より近く真実に迫ることが期待できそうです。

 本書によると、日本海軍は開戦直前に、対馬と佐世保から韓国南岸に、(赤と青で示した)2本の海底電線を次の図(242〜243ページ、クリックで拡大)のように敷設しています。

 佐世保−八口浦(パルグポ)の第一線は、1904年1月11日、佐世保から敷設を始め、1月15日に作業を完了しています。2月6日に佐世保を出港した連合艦隊(第一艦隊、第二艦隊)は、7日に八口浦に集合し、海底電線により軍令部から最新情報を受け取り、旅順と仁川への奇襲に出撃します。
 厳原(いずはら)−馬山浦(マサンポ)の第二線は、第三艦隊の鎮海(チネ)湾占領と並行して敷設されます。第三艦隊は、5日朝、呉を出港し、6日、鎮海湾と馬山電信局を占領、ロシア船舶を捕獲します。著者は、これをもって日露戦争が始まったとしています。
 鎮海湾(下図、257ページ)は、釜山西方にあり、広い湾内は、湖水のように静穏で、水深が深く、大型戦艦も入ることができ、入り口は事実上、北東の1箇所しかなく、防衛にも適しています。日本海軍は、ここを根拠地とすることを計画しており、後に、松真浦は連合艦隊旗艦「三笠」の専用泊地となります。
 海底電線の敷設は、6日朝、対馬から始まり、10日朝には完了しています。これで、「三笠」は電信で東京とつながることになります。
 
 日本海海戦に至る経緯と、海戦の真相を著者は次のように説明しています(332〜334ページ)。〈注1〉は、大江志乃夫「バルチック艦隊 (中公新書)」(196ページ)で、〈注2〉は、ロストーノフ「ソ連から見た日露戦争」(336ページ)で、〈注3〉は、外山三郎「日露海戦新史」(223ページ)です。

 一九〇五(明治三八)年五月二七日から二八日にかけて、日本では「日本海海戦」と呼ばれ、ロシアでは「ツシマ海戦」と呼ばれる日露両艦隊の一大海戦があり、日本の連合艦隊によってロシアの第二、第三太平洋艦隊(バルチック艦隊)が壊滅させられた。
 この前年、一九〇四年二月八日深夜に、旅順口(港)を本拠地とするロシアの太平洋艦隊が、日本の駆逐艦隊による奇襲攻撃を受け、その後旅順港内に封鎖された状況下で、ロシア海軍は同年四月三〇日に第二太平洋艦隊の編成と極東への派遣を発表した。但し、このとき新たに編成される艦隊の主力となるべき戦艦は新造中で、まだ竣工の見込みすらついていなかった。よって第二太平洋艦隊が実際にバルト海のリバウ軍港を出港したのは、同年の一〇月一五日になってからであった。しかも、装備の点検、試運転、乗員の訓練等、すべてが不十分なままでの出発となった。
 バルト海から北海に入り、英仏海峡を通って大西洋を南下したバルチック艦隊は、ジブラルタル海峡に面するモロッコのタンジールにて、スエズ運河を通行することができる吃水の浅い二隻の戦艦を中心とする支隊と、アフリカ最南端の喜望峰を迂回する五隻の戦艦が率いる本隊に分かれた。両者は、一九〇五年一月一一日にマダガスカル島北端部で合流し、ここで旅順港を見下ろす二〇三高地の激戦をへて旅順港が陥落したという報を聞いた。
 旅順艦隊全滅という事態に直面したロシア海軍は、急きよ老朽船をかき集めて第三太平洋艦隊を編成して第二太平洋艦隊の後を追わせるという追加作戦を立てた。このため、第二太平洋艦隊は赤道直下の島において二ヶ月もの間足止めさせられ、乗組員の身体と精神が損なわれただけでなく、旅順艦隊の攻略を終えた日本の連合艦隊に十分な準備の時間を与えてしまった。
 「日本海海戦」とは、七ヶ月もの間、三万キロもの航海を続けてきたために、船体も乗組員も極度に疲弊していたロシアのバルチック艦隊と、十分な休養と訓練期間を与えられ、すべての艦船のドック入りを終えて待ち構えていた日本の連合艦隊が衝突した海戦であった。
 したがって、両者が正面からぶつかった場合、日本側が勝利することは当然であった。これについては両艦隊の物的戦力を綿密に分析した上で、「日本艦隊のバルチック艦隊に対する圧倒的優位は絶対的であり、万に一つも敗北する可能性はなかった」と断定した軍事史研究者の言葉を紹介しておこう。〈注1〉
 日本では一般に、巨大な海軍力をもつロシア帝国に果敢に挑んで奇跡的に勝利した日本海軍という神話が広く信じられているが、それは事実ではない。
 このことはロシア側も認識していた。バルチック艦隊の司令長官ロジェストヴェンスキーは、五月。四日に最後の寄港地となった仏領インドシナのバン・フォン湾(現在のベトナム)を出航するに際し、ペテルブルクに向けて、自分の艦隊があまりにも弱体であるから、制海権をにぎることはできないと書き送っている。〈注2〉
 またロジェストヴェンスキーは、朝鮮海峡(対馬の東西両水道を含む)に突入する直前の五月二三日に最後の訓令を出し、「艦隊の直接目的とする所は浦塩斯徳[ウラジオストック]に達せんとするに在る」と明言している。〈注3〉
 ロジェストヴェンスキーは、決して日本海軍との出合いがしらの決戦を望んでいたのではなかった。日本海軍との決戦は、ウラジオにおいて艦船を修理し、艦隊を立て直した上で可能となるはずのものであった。
 この観点から見ても、バルチック艦隊の太平洋迂回という選択は有り得ない。船速の遅い石炭補給船隊を伴ってゆっくり日本東方の太平洋を北上し、五月には濃霧の発生する宗谷海峡を通過するわけにはいかなかったし、また機雷で封鎖されているに違いない津軽海峡を通過するわけにもいかなかったからである。
 詳しくは後述するが、バルチック艦隊が朝鮮海峡を通過するしかないという点について、海軍の首脳部の見解は一致していた。それを前提に、一九〇五年初めには朝鮮海峡の哨戒計画が決定されたのである。

 ウェブ上では、「バルチック艦隊はスエズ運河通行を拒否され、アフリカの希望峰を回る航路になった」「客観的にみても圧倒的不利な状況下で日本は、バルチック艦隊に壊滅的な打撃を与え勝利した」などの情報が散見されます。また、司馬遼太郎「坂の上の雲」(1968〜1972、産経新聞夕刊に連載)では、バルチック艦隊の進路について、東郷平八郎が(予言者のごとく?)「それは対馬海峡よ」と言い切り、「東郷が、世界の戦史に不動の位置を占めるにいたったのはこの一言によってであるかもしれない」とされています。
 また、2000年3月29日放送の「その時歴史が動いた 運命の一瞬、東郷ターン 〜日本海海戦の真実〜」では、東郷ターンの成功が勝利に結びついたとしています。
 これらの「定説」を覆すのが、本書の狙いであったと思われます。

 「バルチック艦隊が朝鮮海峡を通過するしかない」という前提で決定された「朝鮮海峡の哨戒計画」とは次のようなものです(382〜383ページ、クリックで拡大)。第二太平洋艦隊(バルチック艦隊)がバルト海のリバウ軍港を出港した1904年10月中旬から1ヶ月半、旅順要塞が降伏した1905年1月1日付けで作成、10日から実施されました。朝鮮海峡に海底電線をめぐらし、艦船の無線通信と組み合わせて、バルチック艦隊の動きを監視しようという計画です。

 海軍首脳は、朝鮮海峡がバルチック艦隊との決戦場となると考えていたでしょうが、バルチック艦隊が太平洋を迂回し、津軽海峡経由でウラジオストックを目指す可能性も全く否定することもできなかったと思われます。
 2000年3月29日放送の「その時歴史が動いた 運命の一瞬、東郷ターン 〜日本海海戦の真実〜」では、「極秘明治三十七八年海戦史」の記述をもとに、津軽海峡に向かうべきか直前まで迷う東郷平八郎の姿を描いています。
 東郷ターンについては、2005年1月26日放送の「その時歴史が動いた 日露戦争100年 日本海海戦 〜参謀 秋山真之・知られざる苦闘〜」では、当初の作戦が失敗した様子を描いています。
 結局、机上の作戦はうまく行かなかったものの、@バルチック艦隊は、装備の点検、試運転、乗員の訓練等、すべてが不十分であり、A七ヶ月、三万キロの航海で極度に疲弊、B日本海軍の海底電線と無線通信の監視網により動きが完全に読まれていたこと、が日本海海戦の勝敗を決したようです。

 本書では、リヤンコ島(リヤンコールト、竹島)の戦略的価値に注目しています。
 現在の竹島は江戸時代には松島と呼ばれ、鬱陵島が竹島と呼ばれていました。ところが、明治になって、松島と竹島という呼び名がそっくり入れ替わってしまうという珍事が起こります。その経緯を次のように説明しています(337〜339ページ)。 

 その後、日本において、竹島、松島の名前が入れ替わってしまう。
 ことの起こりは、一八世紀末にフランスとイギリスによって鬱陵島につけられたそれぞれの呼び名「ダジュレー」と「アルゴノート」が、別個の島として欧米の地図に記載され、さらにシーボルトの『日本』付録の「日本地図」及び「日本辺境略図」に、東の「ダジュレー」に「MatsusimaJ、西の「アルゴノート」に「Takesima」という日本名が振られたことにある。かつて日本にいたシーボルトが、日本と朝鮮との間に、二つの島が存在し、日本では東を「松島」、西を「竹島」と呼ぶことを知っていたために起こった誤りであった。〈注7〉
 欧米諸国の海図や水路誌をもとに、日本近海の海図や水路誌を作成していた海軍水路局の出版物では、一八八三(明治一六)年四月発行の『寰瀛(かんえい)水路誌』第二巻「露韓沿岸」以降、鬱陵島を「一名松島」とし、従来「松島」と呼ばれてきた島については「リヤンコールト列岩」と表記された。〈注8〉
 海軍水路局は一八七八(明治一二年に軍艦「天城」を派遣して朝鮮沿岸調査を行い、鬱陵島の正確な位置は「ダジュレー」の方であり、その西に位置するとされる「アルゴノート」は存在しないことを確認しているが、シーボルトによって鬱陵島につけられた「マツシマ」という名前は、その後も訂正されることなく維持されたのである。
 海軍水路局が、日本海上にあるもうひとつの島にあてた「リヤンコールト」という名前は、一八四九年にフランスの捕鯨船リヤンコールト号が初めて発見したとして、船名にちなんでつけられた名前である。
 こうして日本においては、江戸時代から「竹島」と呼ばれてきた鬱陵島が「松島」となり、「松島」と呼ばれてきた島の名前が「リヤンコールト」、略して「リヤンコ島」と呼ばれるようになったわけである。

 さて、リヤンコ島は、狭い水道(海峡)をはさんで東西にふたつの岩礁が向き合う形の石の島であり、吹き荒ぶ海風にさらされて樹木も生えず、飲料水もほとんどなく、人の住める島ではない。ただ、水道の両側にわずかばかりの平坦の礫地があり、そこに舟を引き揚げて小屋掛けをすれば、持ち込んだ水と食料で暮らしながら、アシカ猟やアワビ漁を行うことができた。
 但し、そうした漁業は、鬱陵島を基地として行われていた。当時の漁船では、鬱陵島に避難基地と加工基地をもたなければ、リヤンコ島における漁業は成り立たない。リヤンコ島が鬱陵島の付属の島と見なされていた所以である。
 ところが、日本政府は、日露戦争中の一九〇五年一月二八日の閣議で、リヤンコ島を新たに「竹島」と命名し、日本の領土に編入することを決めた。そしてその四ヶ月後に、このリヤンコ島付近の海域が日露両艦隊の最後の決戦場となったのである。

 島名変遷の経緯を表にすると次のようになります。
架空の島 鬱陵島 竹島・独島
江戸時代の日本 竹島 松島
李氏朝鮮 鬱陵島 独島
シーボルト アルゴノート
(竹島)
ダジュレー
(松島)
1883・海軍水路局 鬱陵島
(一名松島)
リヤンコールト
(リヤンコ島)
1905/1/28・閣議 松島 竹島
 問題の発端は、シーボルトが鬱陵島の西に別の島(架空の島)があると思い込み、東からそれぞれ松島、竹島と呼んだことから、鬱陵島=松島となってしまったことです。そして、明治になり海軍水路局が鬱陵島の西には別の島は存在しないことを確認したものの、鬱陵島=松島という間違った呼び方を継承したことから話はややこしくなります。その一方で、もとの松島は、フランスの捕鯨船の名前にちなんでリヤンコ島と呼ばれることになります。このころは、島の領有権を主張するつもりはなかったのかもしれません。
 そして、日本海海戦を目前に控えた1905年1月28日、リヤンコ島を日本領とする閣議決定がなされます。その際、島名を日本風の竹島と名付けます。江戸時代は松島と呼ばれていたのだから、そのように名付ければ良さそうですが、その名前はすでに鬱陵島に使われているので、安直に竹島と名付けたようです。これで、島名の入れ替わりが完了します。
 リヤンコ島は、バルチック艦隊の監視網の最終ラインにあり、ウラジオ艦隊の監視網の入り口にもなりますから、当時は戦略上重要な意味があったものと思われます。
 しかし、当時の日本海軍は、日韓議定書を根拠に、韓国の領土を自由に使えたのですから、あえて日本領に編入する必要もなかったようにも思えます。この点について、著者は次のように推測しています(390〜392ページ)。

 「日本海海戦」は、無線電信と有線電信を組み合わせ、朝鮮海峡の戦略的封鎖網を構築した日本海軍のハイテク勝利であったことを述べた。そして、この戦略的封鎖網構築の過程で、鬱陵島とその付属の島、リヤンコ島がにわかにクローズアップされてきたことも紹介した。
 大本営は、一九〇四年八月の蔚山沖海戦の後、鬱陵島への海底電線敷設を急ぎ、リヤンコ島情報収集に乗り出した。また、一九〇四年末から一九〇五年初にかけて、東京において、山本海軍大臣、伊東軍令部長、東郷連合艦隊司令長官、上村第二艦隊司令長官は今後の戦略を協議し、一九〇五年一月一日付けで「朝鮮海峡に於ける地点幹線警戒線予定図」を制定し、一月一〇日から実施した。
 同図の中央にX点という符号をつけられた「リアンコールド島」に「竹島」という名前を与えて日本の領土に編入することを決めたのは、その半月ほど後の一月二八日の閣議においてである。
 しかし日本政府はこのことを『官報』に告示せず、島根県に訓令して管内への公示を指示するに留めた。島根県では二月二二日に『島根県報』で告示し、地元の『山陰新聞』が二月二四日に「隠岐の新島」という小さな記事を掲載した。よって、「竹島編入」の事実は、島根県外ではほとんど知られることもなかった。
 それから二ヶ月後の四月一四日、島根県では、リヤンコ島におけるアシカ漁を「許可漁業」に指定した。中井善三郎は竹島漁猟合資会社を設立して、六月五日に島根県から鑑札を受けた。すでに漁期は始まっていたため、中井は警察官を同行して出漁し、六月八日にリヤンコ島に到着した。同島で操業していた同業者たちに警察官が退去を命じると、彼らは漁舎と漁具を竹島漁猟会社に売り渡して退敞した。〈注55〉
 六月―四日、山本海軍大臣が「竹島仮設望楼」の建設を命じたのは、リヤンコ島に多数の漁民が自由に出漁していた状況を改め、このように許可を得ていないものを密漁者として追い出す手筈を整えてからであった。
 こうした行政権の適用は、同島を日本領土に編入しなければできなかったであろう。このことは、海軍がリヤンコ島に計画した望楼が外から建物が見えないもの、つまり望楼の設置自体を秘匿するという極めて特異なものであったこととも関連して、当時、「日韓議定書」の第四条「軍略上必要な地点を臨機収用することを得る事」を根拠に、韓国の領土をほしいままに軍用地に収用していた日本政府が、何故、敢えてリャンコ島のみ日本領土に編入するといった行為を密かに行ったかを説明してくれるであろう。