読書ノート / 近現代史
  竜馬暗殺・孝明天皇毒殺説の謎に迫る 
 2017/12/11
 幕末維新史の定説を斬る
編・著者 中村彰彦
出版社 講談社
出版年月 2011/5/20 在庫切れ・文庫版あり
ページ数 254
税別定価 1500円

 本書は、講談社の時代小説誌「KENZAN!」(2011年以降は休刊のようです)に、2009年から2010年にわたり連載された直木賞作家の史論をまとめたものです。
 テーマは、坂本竜馬暗殺(旧暦1867年11月15日)、松平容保の京都守護職指名、孝明天皇病死(旧暦1866年12月25日)の三つです。タイトルに「定説を斬る」とありますから、そもそも定説がどのようなものかが問題となります。
 竜馬暗殺については、京都見廻組犯行説と薩摩藩黒幕説が主要な説であると著者は考えているようです。松平容保の京都守護職指名に理由についてはこれまであまり論じられることはなかったので、特に定説というものはないようです(その意味ではタイトルにあまりふさわしくないテーマと言えます)。孝明天皇の死因については、病死説が定説といっていいでしょう。

黒幕などはいなかった? 
 竜馬暗殺について、京都見廻組犯行説は実行犯は誰かという問題であり、薩摩藩黒幕説は実行犯の背後にいる黒幕は誰かという問題ですから、両者は両立し得るものです。著者もそのような立場で、「実行犯=見廻組の今井信郎」「黒幕=薩摩藩の西郷隆盛」と推論しています。
 京都見廻組の今井信郎は、箱館戦争に参加し、1869年5月、五稜郭で降伏した後、取調べに対し、見廻組の一員として竜馬暗殺に関与したと認めたものの、見張りにすぎなかったと申し立てたため、1870年9月、禁固刑に処せられ、1872年1月に赦免されています。
 ところが、明治33年(1900年)に、「近畿評論」5月号の談話筆記では、今井信郎は、自分が坂本竜馬を斬ったと話しています。
 さらに、1983年、今井信郎の孫の今井幸彦が、「坂本竜馬を斬った男―幕臣今井信郎の生涯」を出版しています。それによると、今井信郎は、自分が坂本竜馬を斬ったことを「家伝」として語り残したということです。
 今井信郎が見張りにすぎなかったと申し立てたのは罪を逃れるためであって、実際に手を下したのは今井信郎であると、著者は断定しています。取調べに対し、見廻組の一員として竜馬暗殺に関与したと認めたのは、不利な事実を認めたものですから、信憑性は高いと思われます。見張りにすぎなかったというのは、極刑を免れるため嘘をついた可能性がありますし、30年後に、自分が坂本竜馬を斬ったと話したのは、見栄を張って嘘をついた可能性もあります。いずれにしても、見廻組の犯行かどうかが重要であって、今井信郎が斬ったかどうかは、どうでも良い気がします。
 次に、西郷隆盛黒幕説については、状況証拠と推論しか示していません。
 竜馬の潜伏先の情報を見廻組に伝えたのは薩摩藩だとしていますが、その根拠として、見廻組の佐々木只三郎と薩摩藩の八田知紀が親しかったらしいということを挙げているだけです。
 西郷隆盛が坂本竜馬を殺害しようとした理由については、著者は明確には述べていませんが、武力による倒幕を目指した西郷にとって、大政奉還を進めようとした竜馬が邪魔になったということのようです。
 小御所会議に徳川慶喜を招くべきと主張する山内容堂について、西郷隆盛が「唯短刀一本あれば足る」と刺殺をほのめかし、それを伝え聞いた容堂が急に弱気になり主張を取り下げたとする話を紹介し、「竜馬が出席して容堂を支持していたら、西郷から刺殺命令が出ていたことはまず間違いない」と著者は述べています。
 「唯短刀一本あれば足る」の真偽はともかくとして、一介の脱藩者に過ぎない竜馬が、小御所会議に出席し発言するということがありうるのでしょうか。
 ところで、坂本竜馬が「お尋ね者」であれば、見廻組はどうして暗殺という手段を使わなければならなかったのでしょうか。正々堂々と、見廻組であることを明かし、捕縛を告げ逆らった場合には斬り捨てればよいはずです。
 「一説に龍馬は幕府大目付の永井尚志から、伏見の一件の罪は不問とされ、安心していたともいわれます。仮にもし京都見廻組がそれを知れば、悔しさのあまり暗殺に及んだということも考えられなくはありません」(京都河原町近江屋で坂本龍馬、中岡慎太郎が暗殺される)という意見もあります。
 暗殺の直前にも、永井尚志を訪問していたようですから(龍馬暗殺5日前の書状 福井藩重臣宛て、3月に公開)、竜馬は、警察=見廻組には手の出せない存在となっていたのかもしれません。「お尋ね者」のままであれば、幕府の有力者を訪問して、ただで済むわけはありませんから。
 寺田屋事件で仲間2人を射殺された見廻組としては、それが悔しくて暗殺という手段に訴えた可能性も否定できません。つまり、黒幕などいなかったという推論もありえます。 

孝明天皇の死はグッドタイミングだった   
 天然痘により病死したとされる孝明天皇は、実は砒素により毒殺されたのではないかと疑われる背景には、孝明天皇の死が討幕派にとってグッドタイミングだったということがあります。
 孝明天皇は攘夷論者で、日米修好通商条約に勅許を与えませんでしたが、「幕府当局者は力を尽くして朝廷を説得し、ようやく列国の圧力を認識し」、1865年10月に勅許を与えていますから(条約勅許問題)、対外関係では障害はなくなりました。
 一方、孝明天皇は公武合体の立場から、1863年、倒幕を目指す尊攘派の公家や長州藩兵を京都から追放し(8月18日の政変)、1864年7月の禁門の変の直後、長州追討を命じています(孝明天皇とは)。したがって、長州勢は、1866年の第二次長州征討に勝利したものの、孝明天皇がいる限り、京に復帰することは困難な状態でした。また、1866年1月に長州と同盟を結び倒幕に転じ始めた薩摩にとっても、公武合体の立場の孝明天皇の存在は不都合なものとなりつつあったことは推測できます。つまり、孝明天皇の死(旧暦1866年12月25日)は、討幕派にとって、結果的には、まさにグッドタイミングだったといえます。
 ただし、武力倒幕が成功するのは、孝明天皇の死から1年後のことです。もし、孝明天皇が生きていたら、その後の薩摩や岩倉の倒幕計画に障害となったであろうと推論できるとしても、1年前の時点では具体的な倒幕計画はなかったのですし、後の歴史がどうなるかは誰にも予測できなかったのですから、「将来あるかもしれない倒幕計画の邪魔になりそうだから、とりあえず天皇を亡き者にしておこう」という発想が、このとき果たして有り得たでしょうか。

原口説が大きなインパクト  
 戦前は、孝明天皇は病死したというのが定説でしたが、戦後になって、ねずまさし(禰津正志)のように毒殺説を唱える研究者も出始めました。
 しかし、原口清が1989年10月、明治維新史学会『明治維新史学会報』第15号に「孝明天皇の死因について」を発表し、病死説を唱えます。これは「正確な痘瘡の医学的知識に基づき、『孝明天皇期』・『中山忠能日記』を読み解き、病死説を後押しした画期的な論文」だそうです(王政復古への道 (原口清著作集)トップカスタマーレビュー)が、学会に大きなインパクトを与え、佐々木克は毒殺説を撤回し(本書141〜142ページ)、病死説が定説化したそうです(本書161ページ)。原口は、「孝明天皇の死因について」に論文リストを掲載し(本書136〜141ページ)、「日本近代史の虚像と実像 1」の「孝明天皇は毒殺されたのか」でも文献を紹介しています(レファレンス協同データベース)。
1989/10 原口清 孝明天皇の死因について(明治維新史学会『明治維新史学会報』第15号王政復古への道 (原口清著作集)に再録
1990/1 原口清 孝明天皇は毒殺されたのか(日本近代史の虚像と実像 1
 上記の石井の著作物は現在では入手は困難ですが、「万年書生気分」というブログで、「孝明天皇の死因について」の内容が紹介されています。それによると、原口説は次のようなものだということです。
 毒殺説(急性砒素中毒)の根拠は、@天然痘の症状が順調に回復に向かい全快も間近いという時期に突然病状変化・死亡した、A病状急変・死亡の際の症状が痘瘡死とは考えられない、ということにある。
 しかし、@公式発表の病状経過は、天皇の症状の真実が人心に及ぼす影響を考え、政治的配慮から典医たちに報告書に病状悪化を示す事項の記載を議奏・伝奏また関白らが厳禁したのだろう、と推測される、A紫斑点・吐血・脱血を毒殺説の根拠に挙げているが、これらの症状こそが、出血性痘瘡の特徴である。

毒殺説は破綻している? 
 著者は、毒殺説に立って原口説に反論しています。
 反論の根拠とした主な文献は次のようなものです。 
1953/6 中野操 佐伯先生の事ども
1953/7 ねずまさし 孝明天皇の暗殺(天皇家の歴史 下
1954/7 ねずまさし 孝明天皇は病死か毒殺か(歴史学研究 173)
1975/4
1976/4
伊良子光孝 天脈拝診 孝明天皇拝診日記(日本医史学会関西支部編の医譚に掲載
1975〜1977 伊良子光孝 天脈拝診日記(滋賀県医師会報に連載)
1979 石井孝 幕末悲運の人びと
 本書では、143ページから160ページにわたって原口説を紹介していますが、もっぱら攻撃の対象となる箇所をピックアップしているだけで、 本書の説明だけでは全体像がよく分かりません。161ページから168ページまで、かなり細かな批判が続き、原口の「孝明天皇の死因について」は「落第論文、欠陥論文」と結論づけています。
 著者は、中野操「佐伯先生の事ども」という本を毒殺説を補強する趣旨で紹介しています。この本の著者の中野は、1940年に佐伯理一郎という医師が、大阪で開かれた学士会クラブ例会で、「岩倉具視が女官を使って孝明天皇を毒殺した」と話したのを聞いたということです。佐伯は、毒殺説の根拠として、伊良子光義という医師の祖父・伊良子光順(朝廷の典医)の残した日記を挙げており、天皇の死の直前で日記が中絶していることが傍証となると断言したということです。佐伯は、尼僧となっていた女官から直接、毒殺の真相を聞いたとも述べたということです。ただし、その女官の名前は明かさなかったようです。中野は、直接日記を見たわけではなさそうで、また、女官の話は再々伝聞ということになりますから、なんとも雲をつかむような話です
 著者は、次のように述べて(188〜189ページ)、毒殺説を唱える、ねずまさし「天皇家の歴史 下」を高く評価しています。砒素中毒の根拠として、中国の小説の記述を挙げることが「信憑すべき史料にもとづき天皇の死因が毒殺であることを論証した」 と言えるかはともかく、「医学書によると吐血・脱血こそが、出血性痘瘡の特徴である」というのが原口説の最大の論拠だと思うのですが、著者はそのことには触れていません。
 ここでふたたび、『天皇家の歴史』下の記述を見よう。
 「毒殺に砒(ひ)素を使うことは、中国や日本で古くからおこなわれたようである。中国の明時代の小説『金瓶梅』の第五話をみると、『淫婦が武太郎に毒を盛ること』のなかに、武太郎の妻が、砒霜を胸痛薬といって、胸痛にくるしむ夫にのませ、殺す状景がかいてある。呑んだ武大は、『おいら息がつまるよ』と叫んだ。その『肺臓心臓は油で煎(い)られ、肝臓はらわた火に焼け焦げる。胸は刺される氷の刃、腹はぐりぐり鋼(はがね)の刀、からだ全体氷と冷えて、七つの穴から血は流れ出る、、、、、、、、、、、、。歯はがちがちとかみ合って、魂はおもむく横死城、喉(のど)はごろごろ干からびて、霊は落ちゆく望郷台、地獄にゃふえる服毒亡者』……『女が蒲団を持ち上げてみると、武大は歯を食いしばり、七つの穴から血が流れている、、、、、、、、、、、、、』というように、むごたらしい砒霜の毒死の状況がかかれている(上、五八ページ、小野忍・千田九一訳、平凡社、昭和四十七年〈一九七二〉刊、傍点ねず)。全く同じ死の状況である」
 『金瓶梅』が九穴を「七つの穴」としたのは、衣装に隠されている肛門と尿道を省いているのであろうか。いずれにせ、ねずまさしは、湛海の日記の伝える孝明天皇の回復ぶりに信憑性を感じ取り、中山慶子の「二十五日後は御九穴より御脱血」という目撃記録が『金瓶梅』に描かれた砒素によって毒殺される者の姿と「全く同じ」であることを根拠として、孝明天皇は砒素によって毒殺されたという説を唱えたのである。
 「天皇の死因について、戦前にこれを論ずることはタブーであったが、戦後の一九五四年、ねずまさし氏は、信憑すべき史料にもとづき天皇の死因が毒殺であることを論証した」(『近代史を視る眼』)
 「氏の達成した成果は、高く評価されなければならない」(同)
 と石井孝がこの説を強く支持したのは、私にはきわめて自然なことに感じられる。ここまで要約紹介してきたねずまさしの論法に、原口清のそれのような論理の飛躍や不都合な史料の無視などはいっさいおこなわれていないからだ。
 前述の佐伯理一郎の発言に出てくる、伊良子光順の日記については、曾孫で医師の伊良子光孝が、2種類の文章、@「天脈拝診 孝明天皇拝診日記」とA「天脈拝診日記」を発表しています。
 伊良子光孝は、@では、毒殺説について「真実のところは医師である筆者にも判らない」、尊皇主義の討幕派が「天皇を毒殺することなど考えられない」と述べているそうです(本書215ページ)。
 一方、Aでは容態が急変した25日正午以降の様子を次のように描いています(本書223〜225ページ、パソコンで変換できない記号は一部変更してあります)。

「正午の御薬を服用されて丁度数時間を経たかと思われる七ッ時(午後四時・筆者注)頃。
 突如! 奥から慌しく御差し(女官)の一人が光順等の控える御敷の間へ血相を変えて走り込み。”お上がお上が”とうわづった声で叫んだ。
 この日の当直医は藤木近江守・福井主計助・三角摂津介・伊良子光信と昼夜詰切の光順等五名である。             
 彼等は期せずして立上ると一斉に御寝所へ走った。
 天皇は頑固な咳込みと共に吐血され御寝床の中で大変な御苦しみ様ではないか。
 直ちに典薬寮へも連絡して出仕中の御医全員が急拠駈けつけたが、何ら手の施しようもない。
 側近女官は唯オロオロするばかり、間もなく天皇の御意識も消失された。然し咽喉から何かを吐き出したいように胸をかきむしってのお苦しみょうだ。
 如何したことか。正午に差上げた御薬が悪かったのか、イヤそんな筈はない、御匙の高階典薬少允と山本典薬大允が、疱瘡御罹病以来精魂を傾けて調剤し毎日差上げているもの。
 疱瘡には御回復期にこのような症状が往々にしてあるのか。疱瘡治療に詳しい西尾土佐守もこのような事は勿論始めてである。
 医師の誰もが直感したのは”急性毒物中毒症状”である。
 かつて民間で自殺を図ったものが石見銀山、(砒素系劇薬)を飲んで死んでいった症状と全く同じ。
 御所内は上を下への大混乱に陥った。”主上の御容態急変”、つい先刻まで御回復は時間の問題と喜び合っていた矢先だけに驚き呆れ且つ狼狽した。
 (三行略)
 医師団のうち藤木伊勢守と三河守(藤木典薬権助と藤木近江守の誤り)の二人が、少しでもお苦しみを和らげようと御背を必死に擦する。
 意識不明のままお洩らしになる便、さぞ御痔も痛いことであろう。その都度光順が御手当し奉る。
 七転八倒しての苦しみとはこのことである。

 天皇の御意識は回復せず唯お苦しみのまま時間は経過して夜に入る。
 既に九時時間を超えた、もう御脈拍も微弱となった。何としてもと拝察医一同必死であるが、ついに天は彼等の願いをきき入れず午後十時半を過ぎた頃遂に崩御された。
 光順は(略)両手をついて”臣の至誠足らず――”といって泣き臥した。女官達も声を上げて泣いている。
 急を聞いて急拠参内してくる関白等諸卿も”崩御”の報を聞いて御寝所へ参入してくる。医師たちは手分けをして御遺骸を清めて御顔の上に白布を掩って控の間へ戻ったが誰も彼も無言。心の中ではあのような御症状がどうして起きたかの疑問で一杯であろう」

 これを読むと、毒殺説で決まりという印象を受けます。しかし、この部分すべてが伊良子光孝の潤色、というより創作です。そのことは、毒殺説に立つ本書の著者も、次のように述べて認めています(225〜227ページ)。日記の原文も掲載してあるから、注意深く読めばそのことに気づくはずだからといって、勝手に潤色・創作してよいことにはなりません。読者はそれが事実と思い込んでしまうかもしれませんから。
 現に、本書の著者は20年間も、「その場に居た伊良子光順が、砒素系劇薬による急性毒物中毒症状と直感した」と思い込んでいました。

 筆者がこのくだりを初めて読んだのは、もう二十年ほど前のことである。それから何度か拾い読みもしているのだが、この稿を書き出すまで筆者は、右引用部分も光順が日記かメモに書いたところを光孝が現代語訳したものと受け止めてきた。だから、
「医師の誰もが直感したのは”急性毒物中毒症状”である」
 と認識した主体は光順だと思いこんでいた。
「かつて民間で自殺を図ったものが石見銀山、(砒素系劇薬)を飲んで死んでいった症状と全く同じ」
 という文章にしても、光順にはかつて石見銀山によって自殺した人間の臨終の姿を目撃した経験があり、それを思いあわせて光順が孝明天皇の苦しむ姿を石見銀山を飲んだ者の「症状と全く同じ」と感じ取った、というように受け止めていた。
 ところがよくよく読み直してみると、どうもこの部分は光順の日記かメモを現代語訳したものとは思えない。というのも光孝は右引用部分のあとに、
「光順日記のメモ帖の方に、
 『御容態カワリハ一々日記ニ留ル』
 の一文があるが、御急変後の七転八倒のお苦しみように恐懼してか(その点に関する記述は)本日記には見当らない。
 この日の日記には次のように記されてある」
 として、左のようにつづけているからだ。
「七ツ時(午後四時・筆者注)頃、御痰喘の御容子二付、一同御次の間へ進む。
 藤木両人御サスリ御用ニ付、御前へ参る。
 織部正 御膏薬御用ニ付、御前へ参る。
 其余御通度(トオシタビ)毎二昼夜差別なく度々御療治上(タテマツル)。

 同日亥刻(イノコク)(午後十時・筆者注)過、実ハ崩御。
 一同、御前二進ム」
 すなわち右引用部分のような詳細な記述は、光順の日記にもメモにも存在しないのである。しかるに光孝がなぜ引用部分の文章を書いたのかといえば、答えはひとつ。光孝はAに読物的な味もつけようと考え、光順の日記とメモから離れて切迫した光時を小脱的に描き出してしまったのだ。
 そのため典医たちはすべて急性毒物中毒の症状と直感したとか、石見銀山を飲んだ者の症状とおなじだとする、だれの判断かわからない所感が混じりあってしまったのである。
 はなはだ画竜点晴を欠く筆法を採用したものだが、それもこれも光孝自身がすでにこれまでの考え方を改めて毒殺説を支持するようになっていたため、その思いが先走ってしまったということなのであろう。

 原口清は、この潤色・創作に気づいたようで、「ときに想像をまじえた講談調を思わせる筆致で種々論じているが、その内容はとくにとりあげる必要を見ない」と斬り捨てています(本書227ページ)。

 しかしこれは、毒殺説に反対する者たちにつけ入る余地を与えたようなもの。はたして原口清は、Aをつぎのように切り捨てた。
 「(伊良子光孝)氏は『天脈拝診日記』においては、天皇の死因を一応砒素系の急性毒物中毒による毒殺と仮定する立場に立って、ときに想像をまじえた講談調を思わせる筆致で種々論じているが、その内容はとくにとりあげる必要を見ない。
 なお、ついでに云えば、伊良子光順日記・メモは、他の面では貴重な史料であるが、こと天皇の症状については『孝明天皇紀』『中山忠能日記』所収のものに比し見劣りする内容のものであり、一部でジャーナリスティックに取り上げられたにもかかわらず、天皇毒殺説を裏づけるような史料はなに一つ存在しないと私は見ている」(「孝明天皇の死因について」)

 以上のように、毒殺説に立つ本書の記述からは、毒殺説は破綻しているように思えてなりません。
 孝明天皇がいったん回復していたことについては(原口清は、実は回復していなかったとしていますが)、「出血性のものは予後不良となりやすい」という情報もあります(国立感染症研究所/天然痘(痘そう)とは)。