本書は、講談社の時代小説誌「KENZAN!」(2011年以降は休刊のようです)に、2009年から2010年にわたり連載された直木賞作家の史論をまとめたものです。
●毒殺説は破綻している? 著者は、毒殺説に立って原口説に反論しています。 反論の根拠とした主な文献は次のようなものです。
著者は、中野操「佐伯先生の事ども」という本を毒殺説を補強する趣旨で紹介しています。この本の著者の中野は、1940年に佐伯理一郎という医師が、大阪で開かれた学士会クラブ例会で、「岩倉具視が女官を使って孝明天皇を毒殺した」と話したのを聞いたということです。佐伯は、毒殺説の根拠として、伊良子光義という医師の祖父・伊良子光順(朝廷の典医)の残した日記を挙げており、天皇の死の直前で日記が中絶していることが傍証となると断言したということです。佐伯は、尼僧となっていた女官から直接、毒殺の真相を聞いたとも述べたということです。ただし、その女官の名前は明かさなかったようです。中野は、直接日記を見たわけではなさそうで、また、女官の話は再々伝聞ということになりますから、なんとも雲をつかむような話です 著者は、次のように述べて(188〜189ページ)、毒殺説を唱える、ねずまさし「天皇家の歴史 下」を高く評価しています。砒素中毒の根拠として、中国の小説の記述を挙げることが「信憑すべき史料にもとづき天皇の死因が毒殺であることを論証した」 と言えるかはともかく、「医学書によると吐血・脱血こそが、出血性痘瘡の特徴である」というのが原口説の最大の論拠だと思うのですが、著者はそのことには触れていません。
伊良子光孝は、@では、毒殺説について「真実のところは医師である筆者にも判らない」、尊皇主義の討幕派が「天皇を毒殺することなど考えられない」と述べているそうです(本書215ページ)。 一方、Aでは容態が急変した25日正午以降の様子を次のように描いています(本書223〜225ページ、パソコンで変換できない記号は一部変更してあります)。
現に、本書の著者は20年間も、「その場に居た伊良子光順が、砒素系劇薬による急性毒物中毒症状と直感した」と思い込んでいました。
孝明天皇がいったん回復していたことについては(原口清は、実は回復していなかったとしていますが)、「出血性のものは予後不良となりやすい」という情報もあります(国立感染症研究所/天然痘(痘そう)とは)。 |