日韓の学者3氏、中塚明・奈良女子大名誉教授、井上勝生(かつお)・北大名誉教授、朴孟洙(パクメンス)・円光大教授による東学農民戦争の概説書です。 中塚教授は、戦前生まれで近代日朝関係史が専門です。井上教授は終戦の年の生まれで、幕末・維新史が専門ですが、この20年程、東学農民戦争の研究に踏み込んでいます。朴教授は戦後世代で、フィールドワークを主体に30年にわたって東学農民革命の研究を続けています。 執筆の分担は次のようになっています。中塚教授が総論的に日清戦争と東学農民戦争の関係を説明し、井上教授が本論として東学農民戦争の実態を解説し、朴教授が付論的に韓国における東学農民戦争の評価を解説しています。
「T 日清戦争をめぐる歴史の記憶」では、日清戦争開戦の実情をまとめています。ここでは、東條英教(日清戦争当時の大本営参謀、東條英機の父)「征清用兵隔壁聴談」から、軍中枢が本音で語った開戦秘話を次のように(22〜23ページ)紹介(現代文に意訳)しています。この「隔壁聴談」の現代語訳は、泉章四郎「東條英教『日本の戦争論』を読む」(文藝春秋企画出版部) に収められています。訳者によると、この本は東條英機が1896年5月以降、参謀本部戦史編纂部長時代に著したものだそうです(東條英利「東條的世界最古の国へようこそ」も参照)。
いったんは放棄していた「清国からの独立問題」というのは、「清韓宗属」問題を開戦の理由とする案が「そのようなことは大昔からのことだ」として、閣議で伊藤博文総理らに反対されたことを指しています。なお、王宮占領案も閣議で反対されていたようです。現地部隊の独断専行はこのころから始まっていたのかも知れません。 「U 東学農民戦争はどうして起こったのか」では、東学の歴史を解説しています。その内容を年表にまとめると次のようになります。
全州和約成立の経緯については、次のように述べています(45〜46ページ)。
全州を維持することすら困難な状況であることが分かり漸進的な穏健路線に転換したということのようです。国王李氏の本貫・全州李氏の発祥の地である 全州を占領されたため、あわてて清に援軍を依頼したことが、農民軍の譲歩を引き出すことに役立った面もあるでしょうが、それが日本に出兵の口実を与えたのですから、やはり結果的には戦術を誤ったといえそうです。 東学思想の特徴については、36〜38ページに、かなり詳細な説明があります。その内容を十分理解できたわけではありませんが、平等主義、福祉主義、民族主義に加え、「教えを真心から信じるようになれば病もなおる」といった、幻想的な宗教的側面も併せ持っていたように思われます。 「V 日本軍最初のジェノサイド作戦」では、第2次農民戦争の経緯を詳細に解説しています。年表にまとめると次のようになります。
1894年10月になって、日本軍の主力が鴨緑江を渡り、清国領に侵入すると、北接農民軍が忠清道の安保、忠州、可興の各兵站部を狙って一斉に蜂起します。日本軍の主力部隊が清国領に侵攻した隙をついて、兵站線という弱点を標的として攻撃を仕掛けたわけです。これに対し、川上操六兵站総監が「東学党を悉く殺戮すべし」との命令を発します。また、大本営が、ソウル守備隊3個中隊(後備第18大隊)と東学農民軍討伐専任の3個中隊(後備第19大隊)の派遣を決定します。1個中隊の兵力は220人程度ですから、殲滅作戦を担当した後備第19大隊は660人程度の規模だったことになります。 後備第19大隊の3個中隊は、11月12日、3方面から南下し、東学農民軍を全羅道西南部に追い込み殲滅する作戦を開始します。さらに、ソウル守備の後備第18大隊のうち第1中隊が東学農民軍の北上に備え、後備第10連隊第1大隊も釜山から全羅南道に進軍し農民軍包囲に協力し、軍艦2隻も作戦を支援しています。最近の研究では、作戦に参加した日本軍は4000人に及ぶことが分かってきたそうです(99ページ)。 東学農民戦争最大の激戦地・牛金峙(ウグムチ)では、第1次(1894/11/20〜22)、第2次(1894/11/20〜22)の2度の激戦が行われました。農民軍の分断作戦が成功し、戦闘に参加できた日本軍は第2中隊のみで、特に第1次戦では、さらにその半分の100人程度の兵力だったそうです。それで、2万人にも及ぶ農民軍を撃退できたのですから、200名に1名で対抗できるほどの著しい戦力差があったことになります。 著者は、このように農民軍を殲滅するような処罰法は、当時の朝鮮の社会通念とは異質のものであったと、次のように述べています(66〜67ページ)。
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