本書は、著者の博士論文を加筆訂正し出版したものです。博士論文といっても、現代史が対象なので、一般社会人にも理解可能な内容です。なお、本書の電子版は千葉大学附属図書館で公開されています。 皇国史観という用語は、戦前の天皇制イデオロギーを批判する立場から、天皇中心の歴史観全般を指すものと一般に捉えられています。しかし、著者は、戦前の文部省が思想統制の手段として提唱した用語としての皇国史観に限定して、時期としては満州事変以降の15年間に絞り検証しています。
●「文部省史観」と「平泉史観」は異なる 「第1章 戦後における「皇国史観」をめぐる議論の展開」では、今日において皇国史観という用語がどのように認識されているかを整理しています。 「皇国史観」という語が辞典類に載るようになったのは、1980年代以降のことで、そこでは、文部省が主体となり、国民統合や軍国主義教育のため採用した「万世一系の天皇が日本を統治するという歴史観」として批判的に扱われています。一方、史学史の上では、皇国史観とは、東京帝国大学教授であった平泉澄(ひらいずみきよし、1895〜1984)とその門弟たちの歴史観を指すとの認識が広く流布していたといいます。 この「文部省史観」と「平泉史観」は特に区別されることなく、ともに「皇国史観」と呼ばれていますが、両者の社会的な意味づけは大きく異なるはずだというのが著者の認識です。 戦前に文部省が推進した皇国史観教育に協力したことについて、「実証主義史学」の立場からの次のような弁明があったことを紹介しています(26〜27ページ)。さすがに、多くの歴史学者は「天皇は神の子孫である」という非科学的な歴史観を受け入れてはいなかったものの、政府の圧力により国民にはそれを高唱したということですが、学者として良心の呵責(かしゃく)はなかったのでしょうか。
ところが、1960年代に入り、教科書検定をめぐり、皇国史観=平泉史観が批判の対象として浮上します。平泉門下の三羽烏の一人といわれた村尾次郎が教科書調査官に就任しています。村尾は、平泉澄を中心に組織されていた東大内の右翼学生団体「朱光会」(任侠右翼団体・大日本朱光会との関係を示すネット情報は見当たりません)の会員でしたが、その村尾が調査官に就任したことから、「平泉一派が皇国史観の検定をしている」とのキャンペーンがなされ、皇国史観=平泉史観という印象が強くなったようです。 なお、平泉門下を自認する田中卓は、平泉史観は「皇国護持史観」であり、「皇国賛美史観」である皇国史観とは異なると主張しています。 ●天皇や国体は歴史研究のタブーに 「第2章 近代国体論の変容」では、近代国体論を扱っています。 国体とは「天皇による統治体制」と一応定義するならば、国体論は天皇の統治を正当化する理論ということになります。明治維新によって近代天皇制国家が成立するので、近代国体論はその近代国家における天皇統治を正当化する理論ということになります(近代なのに神話が堂々と登場します)。 近代国体論において、天皇統治の根拠とされたのは「天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅」です。これは、天照大神が孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を地上に遣わす(天孫降臨)にあたって授けたもので、「わが子孫(天皇)の繁栄は、天壌(あめつち=天地)とともに永遠に続く(無窮)」という宣言です(大した意味もない神話の一節です)。 この一文は古事記にはなく、日本書紀においても本文にはなく、参考のための一書中の一節に過ぎないものでしたが、神皇正統記や大日本史で重視されるようになり、近代天皇制国家において、天皇統治を正当化する究極的根拠として採用され、ここに近代国体論は一応確立します。大日本帝国憲法には、「万世一系の天皇が統治する」と明記され、憲法義解(ぎげ、解説書)では、神勅を根拠に天皇統治を正当化しています。 ただし、国体論といっても大まかな枠組みを示すものに過ぎず、通史と言えるものはなかったので、古代律令国家の勅撰国史を復活するものとして大日本編年史事業が計画されますが頓挫しています。この事業の途中に起こったのが久米事件です。この事件は、編纂に携わっていた帝国大学教授・久米邦武が「神道は祭天の古俗」という論文を発表したところ、神道家・国学者の一斉非難を浴び、教授と編纂委員の職を辞したというものです。この神道は祭天の古俗は、漢文古文交じりで現代人にとっては極めて難解ですが、「三器を持って神座を飾るは、天安河の会議に創まりたるに非ず、遙の以前より祭天の古俗なるべし」(賢所及ひ三種神器)、「世には一生神代巻のみを講して、言甲斐なくも、国体の神道に創りたればとて、いつ迄も其挙饗の裏にありて、祭政一致の国に棲息せんと希望する者もあり」「若し仏法にして渡来せざりしならんには、神道は或ひは宗教とまで発達したらんも知るべからずと雖も、中途にして仏法渡来し且つ之と共に文学移入したりければ、我神道は半夜に撹破せられたる夢の如く、宗教の体を備ふる能はざりしなり、後世に至り之を以て宗教となさんと欲するものありと雖も、是れ遅まきの唐辛にして国史は之を許さるゝなり」(儒学仏教陰陽道の伝播)などの記述からは、記紀神話に批判的な姿勢がうかがえます。 この事件以降、歴史研究においては、天皇や国体の起源を論じることは公然のタブーと化し、さらに、南北朝正閏問題も起こり、「応用史学」=歴史教育と「純正史学」=歴史研究が区別されるようになります。 ただし、大正期になり、美濃部達吉の天皇機関説が通説となり、内務省神社局が編纂した「国体論史」でも、神話に基づく国体論を不合理と排し、国体と実際の行政を切り離して捉える、機関説的な国体論が展開されているなど、国体論もいったん後景に退くことになります。 しかし、昭和に入り治安維持法が制定され、満州事変、五・一五事件など内外危機が進行し、思想統制の動きが出てきます。そして、天皇機関説事件、国体明徴声明を経て、その動きが一気に加速します。さらに、教学刷新評議会や教学局が設置され、「国体の本義」が発行され、文部省主導により教育や学問に対する思想統制のシステムが出来上がります。
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