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 皇国史観の全容解明に挑む  
 2015/9/23
 「皇国史観」という問題
  十五年戦争期における文部省の修史事業と思想統制政策
編・著者  長谷川亮一/著
出版社  白澤社
出版年月  2008/1/30
ページ数  365 
判型  四六判
税別定価  3800円

 本書は、著者の博士論文を加筆訂正し出版したものです。博士論文といっても、現代史が対象なので、一般社会人にも理解可能な内容です。なお、本書の電子版は千葉大学附属図書館で公開されています。
 皇国史観という用語は、戦前の天皇制イデオロギーを批判する立場から、天皇中心の歴史観全般を指すものと一般に捉えられています。しかし、著者は、戦前の文部省が思想統制の手段として提唱した用語としての皇国史観に限定して、時期としては満州事変以降の15年間に絞り検証しています。
第1章 戦後における「皇国史観」をめぐる議論の展開
第2章 近代国体論の変容
第3章 「皇国史観」の提唱と流布
第4章 『国史概説』の歴史像
第5章 『大東亜史概説』の歴史像
第6章 国史編修事業と国史編修院

●「文部省史観」と「平泉史観」は異なる  
 「第1章 戦後における「皇国史観」をめぐる議論の展開」では、今日において皇国史観という用語がどのように認識されているかを整理しています。
 「皇国史観」という語が辞典類に載るようになったのは、1980年代以降のことで、そこでは、文部省が主体となり、国民統合や軍国主義教育のため採用した「万世一系の天皇が日本を統治するという歴史観」として批判的に扱われています。一方、史学史の上では、皇国史観とは、東京帝国大学教授であった平泉澄(ひらいずみきよし、1895〜1984)とその門弟たちの歴史観を指すとの認識が広く流布していたといいます。
 この「文部省史観」と「平泉史観」は特に区別されることなく、ともに「皇国史観」と呼ばれていますが、両者の社会的な意味づけは大きく異なるはずだというのが著者の認識です。
 戦前に文部省が推進した皇国史観教育に協力したことについて、「実証主義史学」の立場からの次のような弁明があったことを紹介しています(26〜27ページ)。さすがに、多くの歴史学者は「天皇は神の子孫である」という非科学的な歴史観を受け入れてはいなかったものの、政府の圧力により国民にはそれを高唱したということですが、学者として良心の呵責(かしゃく)はなかったのでしょうか。
もともと明治政府は、日本史の教育をもって国民教育の重要な要素とし、これに国体観念の確立、国民思想涵養の任務を負わせた。従ってその大目的にそう史実を強調し、それに反する史実をかくす傾きがあった。学者は、これを応用史学といい、純正史学と応用史学とはおのずから別であるとして、学的良心を納得させた。〔…〕満洲事変の前後から、政府は強圧的に学問・思想の統制にのり出した。文部省が国体の本義を出して、神話を歴史事実の如く解釈することを強要するようになって、歴史は神がかりしてしまった。学者の自由な研究は学問上でもさし控えねばならぬようになった。アカデミズムの多くの学者は、神秘的な皇国史観が日本人としての唯一の歴史観でなければならぬと高唱した。
 第二次世界大戦の敗北によって、この勢いは一ペんにくつがえった。皇国史観は姿を消し、古代史は神話から解放され、神武紀元は無視されることになった。この改革は連合国の占領政策として実施されたものであり、一般には大きな驚きを与えたが、専門史学者にはさはどの衝撃をいみしなかった。なぜならば学問的にはいずれも承認ずみのものばかりであり、いわゆる明治の応用史学、戦前戦中の皇国史観が是正されたに止まるからである。
 1950年代に入り、平泉澄の名を「皇国史観」に結びつける言説も次第に見られるようになったものの、戦前戦後を通じて、平泉澄は皇国史観の主唱者とは見なされていなかったということです。
 ところが、1960年代に入り、教科書検定をめぐり、皇国史観=平泉史観が批判の対象として浮上します。平泉門下の三羽烏の一人といわれた村尾次郎が教科書調査官に就任しています。村尾は、平泉澄を中心に組織されていた東大内の右翼学生団体「朱光会」(任侠右翼団体・大日本朱光会との関係を示すネット情報は見当たりません)の会員でしたが、その村尾が調査官に就任したことから、「平泉一派が皇国史観の検定をしている」とのキャンペーンがなされ、皇国史観=平泉史観という印象が強くなったようです。
 なお、平泉門下を自認する田中卓は、平泉史観は「皇国護持史観」であり、「皇国賛美史観」である皇国史観とは異なると主張しています。

●天皇や国体は歴史研究のタブーに  
 「第2章 近代国体論の変容」では、近代国体論を扱っています。
 国体とは「天皇による統治体制」と一応定義するならば、国体論は天皇の統治を正当化する理論ということになります。明治維新によって近代天皇制国家が成立するので、近代国体論はその近代国家における天皇統治を正当化する理論ということになります(近代なのに神話が堂々と登場します)。
 近代国体論において、天皇統治の根拠とされたのは「天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅」です。これは、天照大神が孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を地上に遣わす(天孫降臨)にあたって授けたもので、「わが子孫(天皇)の繁栄は、天壌(あめつち=天地)とともに永遠に続く(無窮)」という宣言です(大した意味もない神話の一節です)。
 この一文は古事記にはなく、日本書紀においても本文にはなく、参考のための一書中の一節に過ぎないものでしたが、神皇正統記や大日本史で重視されるようになり、近代天皇制国家において、天皇統治を正当化する究極的根拠として採用され、ここに近代国体論は一応確立します。大日本帝国憲法には、「万世一系の天皇が統治する」と明記され、憲法義解(ぎげ、解説書)では、神勅を根拠に天皇統治を正当化しています。
 ただし、国体論といっても大まかな枠組みを示すものに過ぎず、通史と言えるものはなかったので、古代律令国家の勅撰国史を復活するものとして大日本編年史事業が計画されますが頓挫しています。この事業の途中に起こったのが久米事件です。この事件は、編纂に携わっていた帝国大学教授・久米邦武が「神道は祭天の古俗」という論文を発表したところ、神道家・国学者の一斉非難を浴び、教授と編纂委員の職を辞したというものです。この神道は祭天の古俗は、漢文古文交じりで現代人にとっては極めて難解ですが、「三器を持って神座を飾るは、天安河の会議に創まりたるに非ず、遙の以前より祭天の古俗なるべし」(賢所及ひ三種神器)、「世には一生神代巻のみを講して、言甲斐なくも、国体の神道に創りたればとて、いつ迄も其挙饗の裏にありて、祭政一致の国に棲息せんと希望する者もあり」「若し仏法にして渡来せざりしならんには、神道は或ひは宗教とまで発達したらんも知るべからずと雖も、中途にして仏法渡来し且つ之と共に文学移入したりければ、我神道は半夜に撹破せられたる夢の如く、宗教の体を備ふる能はざりしなり、後世に至り之を以て宗教となさんと欲するものありと雖も、是れ遅まきの唐辛にして国史は之を許さるゝなり」(儒学仏教陰陽道の伝播)などの記述からは、記紀神話に批判的な姿勢がうかがえます。
 この事件以降、歴史研究においては、天皇や国体の起源を論じることは公然のタブーと化し、さらに、南北朝正閏問題も起こり、「応用史学」=歴史教育と「純正史学」=歴史研究が区別されるようになります。
 ただし、大正期になり、美濃部達吉の天皇機関説が通説となり、内務省神社局が編纂した「国体論史」でも、神話に基づく国体論を不合理と排し、国体と実際の行政を切り離して捉える、機関説的な国体論が展開されているなど、国体論もいったん後景に退くことになります。 
 しかし、昭和に入り治安維持法が制定され、満州事変、五・一五事件など内外危機が進行し、思想統制の動きが出てきます。そして、天皇機関説事件、国体明徴声明を経て、その動きが一気に加速します。さらに、教学刷新評議会や教学局が設置され、「国体の本義」が発行され、文部省主導により教育や学問に対する思想統制のシステムが出来上がります。
1891 3 久米事件  帝国大学教授・久米邦武の「神道は祭天の古俗」が非難を浴び職を追われる。以後、天皇や国体は歴史研究のタブーとなる 
1911   南北朝正閏(じゅん)
問題 
国定教科書が南北朝を並立していることが政治問題化し国民教育においては南朝正統論となる 
1912   天皇機関説論争  美濃部達吉の天皇機関説が通説となり、事実上国家公認の学説と見なされる 
1921   「国体論史」刊行  内務省神社局が編纂、神話に基づく国体論を不合理と排し、国体と実際の行政を切り離して捉える、機関説的な国体論が展開されている 
1925   治安維持法制定  左翼運動弾圧を目的とし、日本共産党は1930年代半ばまでには事実上壊滅する。その後は右翼的宗教団体が対象となる 
1935 2 天皇機関説事件  右翼・軍部の圧力で天皇機関説を葬り去り「合法無血のクーデター」と評される 
  8 第一次国体明徴声明  天皇機関説は国体の本義に反するとした 
  10 第二次国体明徴声明  政治・教育・学問などあらゆる分野が国体の本義に基づくものとして再構築されることになる 
  11 「教学刷新評議会」
(教刷評)設置 
文部大臣の諮問機関。教育・学問の分野において国体原理による思想統制(教学刷新)を目的とする 
  12 第二次大本教事件  日本主義・天皇中心主義であっても、公的解釈と異なる国体観や神話体系を持つ宗教団体は排除される状況となる 
1936 2 天津教検挙  日本の天皇が全世界を統治していたとする天津(あまつ)教が不敬罪で検挙される 
  10 「教学刷新ニ関スル答申」提出  「天壌無窮の神勅」に基づく天皇による永遠の統治こそが「国体」であると定義される 
1937 3 「国体の本義」発行  文部省思想局が編纂。「近代天皇制の正統性の源泉を「記紀神話」における天孫降臨の神勅に一元化しようとした公的なテキスト」 
7 「教学局」設置  思想局を文部省外局として改組。教学刷新に関する事務を掌握する機関