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 征韓論の系譜を探る
 2013/3/7
 明治維新と征韓論 吉田松陰から西郷隆盛へ 明石書店
編・著者  吉野誠/著
出版社  明石書店
出版年月  2002/12/20
ページ数  256 
判型  21.8 x 15.8 x 2.4 cm
税込定価  品切れ 
 本書は、日本思想史上、連綿と続く朝鮮蔑視観が幕末の対外危機の認識を経て征韓論に収斂する過程を考察し、吉田松陰や維新政府の初期外交に大きな発言力を持った西郷隆盛の征韓論は明治期の外交政策にどのような影響を及ぼしたかを探っています。
「序 章 東アジアにおける日本と朝鮮」は、古代からの歴史の流れの中で、朝鮮蔑視観が形成される過程を次のようにたどっています。
 7世紀後半に天皇の称号が誕生し、中華帝国のミニチュア版を志向したものの、その理想は現実を伴わず、百済の亡命王族に「百済王」姓を与えることで満足し、さらに新羅に朝貢を要求するも拒否され、断交するに至る。
 1401年、足利義満は明皇帝から「日本国王」として冊封されるが、李氏朝鮮に対しては国王号の使用を避ける。この点については、朝鮮と対等となることを避けたという見方もある。一方、豊臣秀吉は「日本国関白」として、朝鮮に天皇への服属を要求する。
 江戸時代には、将軍は国王とは名乗らず、通信使は「日本国大君」あて国書をもたらす。(天皇に遠慮して国王を名乗らなかったとする説もある)
 一方、明が清に滅ぼされると、その伝統は朝鮮が引き継いだとする「小中華主義」が李氏朝鮮にも芽生える。
 中国との関係については、日本を夷狄と見る考えが日本国内にもあったが、万世一系の天皇が支配する日本の方が優越するという考えもあった。一方、国学は神代の理想を体現している皇国であるから優れていると考えた。
 朝幕関係について、儒者は天皇は将軍の権威を安定させるためにあるとしたのに対し、国学は幕府は天皇の委任を受けて国を支配しているにすぎないと考えた。このような国学の立場は、尊皇攘夷、王政復古、明治維新へとつながる。 
「第一章 吉田松陰と朝鮮――征韓論の原型」では、吉田松陰の言説から朝鮮に対する姿勢を次のように検証しています。
 養子として山鹿流兵学師範吉田家の当主となった松陰は、ペリ−来航の危機に臨み、西洋兵法の習得を目指して密航を試みるも失敗する。一方、松陰は困難打開の道は歴史の教訓に学ぶべきと考えた。松陰にとってのそれは、三韓征伐など古代の朝鮮進出であった。絶対的尊王論を唱える松陰にとって、徳川幕府と朝鮮の対等の外交関係は許しがたいものであり、朝鮮は日本に臣属すべきであり、それが征韓論につながることになる。
「第二章 王政復古と征韓論――書契問題の背景」では、明治6年の征韓論争につながる幕末以来の征韓論の底流を次のように紹介しています。
 王政復古を理念として成立した維新政府にとって、日朝関係も本来の姿に戻すべきものとされた。そして、朝廷親交となるからには、書契(外交書)には、「皇」「勅」という文字を使用しなければならないこととなる。しかし、対等の外交を主張する朝鮮はそれを拒否する。つまり、書契問題をめぐる対立が生じることとなる。そして、朝鮮の無礼は武力で正さなければならないという征韓論が唱えられることとなる。
「第三章 初期外務省の朝鮮政策――朝廷直交論のゆくえ」では、明治初期の対朝鮮外交について次のように説明しています。
 対朝鮮外交については、@断交論A朝鮮への皇使派遣論B日清交渉先行論、の3つの考えがあった。
 B日清交渉先行論は、清と対等の関係に立ち、日朝交渉を有利に進めようとするもので、これは直ちに使節が派遣された。一方、Aについては、交渉が進まず、とりあえず中断することとなった。
「第四章 西郷隆盛の真意――明治六年の征韓論争」は、西郷の征韓論に真意について、次のように推測しています。
 従来は、征韓論の西郷が、これに反対する大久保に敗れて下野したというのが一致した見方であった。しかし、毛利敏彦「明治六年政変の研究」が、西郷の唱えたのは、平和的な使節派遣論であって征韓論ではなかった、と主張してから、西郷の真意について論争が展開されてきた。確かに、西郷の主張は、まず使節を派遣するというものであった。そして、自分がその使節となり、もし自分が殺されるようなことがあれば、そのときは軍隊を派遣すればよいというものであった。
 西郷の真意については、前半に重点を置くならば平和的な使節派遣論であって、後半に重点を置くならば征韓論であったと解することもできる。
 この点について、西郷の真意は「名分条理」の貫徹にあったのではないか、と著者は見ています。名分条理を正すことこそが、王政復古の理念に基づく「御一新の基」である。そして、それは書契問題で名分条理を貫くことにある。平和的遣使か武力的制韓かは西郷にとって重要な問題ではなかった、というのが著者の考えのようです。
「第五章 江華島事件――征韓論から万国公法論へ」では、その後の展開を解説しています。
 政変の翌年(1874年)、内治派政府は交渉を再開するも書契問題と礼服問題などで頓挫します。一方で、軍艦雲揚号が江華島で放火を交えるという江華島事件が発生し、交渉の舞台は、それまでの釜山から江華島に移ります。そこで、内治派政府は書契問題における「皇」「勅」の主張を取り下げ、万国公法に基づく日朝修好条規を結びます。(まさに名を捨て実を取った形となります。「自主の邦」との不平等条約ですが、この「自主の邦」という前提が、清国の不当な介入を排除する、という日清戦争の名目とつながることになります。そして、朝鮮の保護国化、日韓併合を通じて、王政復古の名分条理は貫徹することとなったように思われます。)