読書ノート / アジア史
 熱い思いを込め台湾人が語る台湾史
2013/9/24
 図説台湾の歴史 増補版  amazon
編・著者  周婉窈/著、濱島敦俊/監訳
石川豪・中西美貴・中村平/訳
出版社  平凡社
出版年月  2013/2/15
ページ数  276 
判型  21.7 x 15.1 x 1.8 cm
税込定価  3150円 
 本書は、台湾人の歴史学者・周婉窈教授の「台湾歴史図説」(1997年10月)の日本語版の増補版です。「台湾歴史図説」は、平凡社のページによると、「10万部以上読まれた、台湾出版史上最大のベストセラー」だそうです。
 もとの中国語版では、先史時代から1945年までを扱っていましたが、日本語版(2006年)では、戦後編が追加され、さらに今回の日本語版の増補版では、「第10章知識人の反植民地運動」と「第11章台湾人の芸術世界」が追加され、もとの中国語版にに比べ、倍近くのページ数となっています。
 目次は、次のようになっています。「先史時代〜清朝統治」「日本統治時代」「戦後」がそれぞれ3分の1ずつの分量です。



 本書には、年表がついていないので、記述内容を年表にまとめました。
1624  オランダ東インド会社が大員半島(現在の台南・安平)に堡塁(安平古城、ゼーランジャ城)を建設 
1635  オランダが、大員付近の先住民を討伐し、外へ向けて拡張を始める。その後、先住民の半分近くを統治するに至る。さらに、漢人の入植を奨励し、台湾に漢人社会が誕生する 
1662  鄭成功が、オランダ人を駆逐して反清復明の基地とする。鄭氏政権は人口の誘致に力を注ぎ、漢人人口12万人(あるいは15〜20万人)は先住民10〜12万人を上回るようになる 
1683  清朝が台湾を征服、漢人人口は急減するが、その後、渡航禁止令の有無にかかわらず、移民(6〜7割は福建出身、3〜4割は広東出身)が後を絶たず、漢人人口は急激に増加する 
1894  中日甲午戦争(日清戦争)開戦 
1895/4/17  下関条約締結、台湾を日本に割譲 
1895/5/23  割譲に反対する台湾の軍官民が台湾民主国の成立宣言、台湾巡撫唐景ッ(とうけいすう)を総統に推挙する 
1895/5/29   近衛師団が台湾上陸、各地で激しい戦闘が始まる 
1895/6/17  台北開城、樺山資紀が始政式を行う 
1895/10/20  台南開城、全島の占領が完成。その後も1902年まで、抗日武装蜂起が頻発。1902〜1915年には、局部的「陰謀事件」が主となる 
1906  漢人人口290万人に対し、先住民(山地先住民のみ)11万人余となる 
1915  噍吧哖(タバニー)事件(日本では西来庵事件と呼ばれることが多い)。抗日義勇軍経験者3人(余清芳、羅俊、江定)が合同して起こした「陰謀事件」。余清芳は台南の西来庵(道教施設?)を拠点としていた。5〜6月に、謀議の段階で情報が漏れ、関係者が次々に逮捕され、6月29日に羅俊も捕まる。余清芳軍は、8月に台南・噍吧哖で警察・軍と激しく戦うが、8月22日に余清芳逮捕。江定も翌年4月に自首する 
1930/10/27  霧社事件。台中州能高郡霧社(現在の南投県仁愛郷、南投県の旅)で、先住民が霧社公学校などを襲い、式典に参加していた日本人女性や子ども含め139人を殺害する。翌28日、日本の軍隊・警察による討伐作戦が始まり、12月26日に終了する。
1931/4  日本に協力した先住民が、当局の黙認のもとに、霧社事件の先住民生存者を襲い214人を殺害する 
1936  皇民化運動(@国語運動、A改姓名、B志願兵制度、C宗教・社会風俗改革)始まる 
1937  台湾人軍夫の軍事動員始まる 
1942  台湾人志願兵制度始まる 
1945/8/15  日本降伏 
1945/10/25  国民政府の統治始まる(台湾光復節) 
1947/2/27  台北で闇煙草の取締りをめぐるトラブルから取締官が威嚇射撃、通行人に命中(翌日死亡) 
1947/2/28  台北で民衆の抗議のデモ行進に対し、兵士が一斉射撃し多数の死傷者を出す。民衆が台湾放送局を占拠し、全省に決起を呼びかけ、全島抗争へ発展する(二・二八事件) 
1947/3/8  大陸政府の派遣軍が上陸、二・二八大虐殺が始まる。犠牲者は1万8000人に上ると言われる 
1949/5/19  台湾に戒厳令が敷かれる。1987年の解除まで38年、20世紀の世界でもっとも長く続いた戒厳令と言われる 
1949/12/7  中華民国政府が台湾へ撤退
白色テロが始まる。1950年代から1987年の戒厳令解除まで、2900余件の政治事件が発生し、14万人が拷問を受け、3000〜4000人が処刑されたといわれる 
1950/6  朝鮮戦争が勃発、アメリカが急遽、中華民国支持を決め、第7艦隊を台湾防衛に派遣し、物質的援助を行ったため、台湾統治は急速に安定に向かう。 
 大雑把に時代区分すると、次のようになります。
 @先史時代(〜1624)
 Aオランダ統治時代(1624〜1662)
 B鄭氏政権統治時代(1662〜1683)
 C清朝統治時代(1683〜1895)
 D日本統治時代(1895〜1945)
 E中華民国統治時代(1945〜)
 台湾の現在の民族構成は次のようになっています(ウィキペディア)。

 河洛(福佬人)は福建省出身の漢人、客家は広東省出身の漢人で、BCの時代に中国大陸から移住して来ました。合わせて本省人と呼ばれています。
 外本省人は、Eの中華民国統治とともに、台湾に渡って来た国民政府の支配層です。
 原住民(先住民)は、先史時代から台湾全土に在住していた諸部族です。台湾西部の平埔族は、Cの時代に漢人に土地を奪われ、漢人社会に融合して事実上姿を消しています。一方、台湾西部の高山族(平地に住む部族もある)は、現在も少数民族として残っています。
 各時代別の漢人開墾地は次の地図(65ページ)のようになっています。

 オランダ統治時代には、開墾地は台南周辺にとどまっています。
 鄭氏政権時代には、少し拡大しますが、それでも台湾の大部分は先住民居住地域です。しかし、開墾地では人口が密集しているため、漢人と先住民の人口比率は拮抗しています。
 清朝統治時代には、清朝は先住民を保護するため漢人の開墾地を規制しますが、それでも開墾地は広がり続け、末期には平野部はほとんど開墾されつくしてしまいます。下の地図(帝国書院「大きな文字の地図帳」18ページ)を見ると、開墾地と平野部がほぼ一致しているのが分かります。なお、台中の東方にある「仁愛郷」で霧社事件が起きました。

 現代の中国の稲作状況(帝国書院「新詳資料 地理の研究」74ページ)を見ると、揚子江流域と広東周辺が中心ですが、台湾西岸もそこそこの生産があることが分かります。それに比べ福建省では稲作はさほど盛んではありません。そのような事情から、清朝統治時代に、台湾への移住が加速されたものと思われます。
 なお、現代の台湾のコメ生産量は年間約150万トン(な〜るほど・ザ・台湾 経済ウォッチング)、日本のコメ生産量は年間約850万トン(お米の都道府県別収穫量)です。台湾の面積は日本の10分の1、人口は6分の1ですから、単位面積当たりのコメ生産量は台湾の方が多く、稲作に適していることが分かります。
 
 日清戦争(1894〜1895)の結果、下関条約(1895.4.17)で台湾は日本に割譲されます。しかし、台湾の官民はこぞって反対し、5月23日に台湾民主国の成立宣言し、台湾巡撫唐景ッ(とうけいすう)を総統に推挙します。5月29日には、近衛師団が上陸し、各地で激しい戦闘が始まり、10月20日の台南開城まで、全島占領まで5ヶ月近く要することになります。次の地図(98ページ)が示すように、戦闘が行われたのは、もっぱら漢人居住区です。 
 
 台湾人民の武装抵抗について、著者は次のように(99〜100ページ)述べています。
 武力によって台湾を領有しようとした日本は、至るところで台湾人民め頑強な抵抗に出会った。過去の戒厳令下の時代、日本植民地時代の歴史は早期の武装抗日運動のみに偏重していたが、近年来の台湾史研究の重厚な発展によって、さまざまな主題を人々がすべて研究するようになり、官製「抗日史観」はもはや流行ではなくなった。現在では私たちも知っているように、領台〔台湾占領〕当初、進んで日本に協力した人もあれば、さらに「日本の明治の君を御主人とします」という旗を掲げて出迎えた人たちもいた。台湾人が一致団結して日本軍に対抗したわけではないことは、明らかである。しかしながら、台湾内部の民族集団(エスニックグループ、族群)や宗教の「分類」がどうであれ、あるいは何人かの士紳・商人階級が日本軍に協力したとはいえ、台湾の各地に、民衆が奮起して日本軍に抵抗したのは事実である。多くの死傷者を出し、流された血は川をなした、このことを否定し、消し去ることは決してできない。また今日の私たちが、これに続く日本の植民地統治をどのように評価するとしても、先人たちがこぞって立ち上がり外敵侵入に抵抗した事実をなおざりにすることはできない。
 外敵に抵抗することは民族精神の根源となるものである。台湾割譲のニュースを伝え聞いた時、台湾民衆は自分たちの郷土を守るという素朴な思いから、古臭い武器を片手に近代的な軍隊に立ち向かった。仮に「その愚かさは救いがたかった」としても、一つの民族が追い求める独立自主の精神がそこにはあったのだ。言い換えれば、開城して敵を迎え入れた人は、もしそれによって社会から認められ、さらには羨望されることがあったとしても、そのような民族は未来の危機を前にした時、きっと戦わずして降伏してしまいかねないのである。 
 すなわち、「台湾人が一致団結して日本軍に対抗したわけではない」ことは認めつつ、「多くの死傷者を出し、流された血は川をなした、このことを否定し、消し去ることは決してできない」「台湾割譲のニュースを伝え聞いた時、台湾民衆は自分たちの郷土を守るという素朴な思いから、古臭い武器を片手に近代的な軍隊に立ち向かった」「一つの民族が追い求める独立自主の精神がそこにはあったのだ」と、祖国への熱い思いを語っています。
 二大抗日事件、すなわち、噍吧哖(タバニー)事件(西来庵事件)と霧社事件は、かなり詳細に紹介されています。
 日本軍による、全島平定後も抗日武装蜂起が頻発していましたが、1902年ごろからは、局部的「陰謀事件」が主となります。
 噍吧哖事件は、台南を中心に、抗日義勇軍経験者3人(余清芳、羅俊、江定)が合同して起こした「陰謀事件」です。3人は、1915年秋に抗日武装蜂起を予定していましたが、5、6月ごろには計画は発覚し、6月29日に、羅俊が捕まります。余清芳は、7、8月に役所や派出所を襲撃します。日本側は、報復として噍吧哖の壮丁数千人を惨殺したといわれています(噍吧哖虐殺事件)。8月22日に、余清芳が捕まり、江定も翌年4月末に自首して事件は終わります。この事件の被告は1957名に達し、866名に死刑が宣告されますが、日本国内に厳しい批判が起こり、台湾総督は大赦の名目で減刑します。しかし、それでも100名以上が死刑に処せられました。
 この事件について、著者は次のように(110ページ)論評しています。
今日この事件を改めて顧みた時、余清芳らが用いた「皇帝」の概念、呪法・宝剣などの迷信、さらには「武器は不要」という考え方などはとても称揚するわけにはいかず、まこと不思議な感じで、悔しくとも溜息をつくしかない。とはいえ、このような愚昧と迷信の基底に、われわれに深く考えさせることは何もないのだろうか? 余・羅・江らの反乱の社会的・経済的原因は、研究が進んでおらず分かっていない。羅俊は日本政府の過酷な収税と行政を批判することで支持者を集めたが、これらの批判は現実とは著しくかけ離れていたのであり、これらの呼びかけによって本当に仲間を集められたのかは大いに疑問である。また、余・羅・江らは、かつて割譲後の抗日闘争に参加しており、3人の反乱もあるいは郷土防衛戦の名残なのかもしれないが、本当のところはよく分かっていない。裁判の尋問の際に、羅俊は最後に言った。「すべては話したとおりである。今回の大事が失敗に終わったことは認めよう。しかし再び生まれ変わって必ずこの目的を達成することを誓う!」その言や豪壮、まこと革命指導者の名に恥じぬものと言える。
 霧社事件は、1930年10月に、台中州能高郡霧社(現在の南投県仁愛郷、南投県の旅参照)で起こった先住民セデック(タイヤルの一族)による抗日武装蜂起事件です。
 10月27日、セデックらは派出所や霧社公学校を襲い、女性子供含めて日本人139名を殺害します。日本軍・警察の討伐は、10月28日に始まり、12月26日にようやく終了します。決起した霧社群6社で、戦死・自殺など644名の死者が出ました。翌年4月には、日本に協力したセデックのタウサー社が、当局の黙認にもと、事件の生存者を襲い、214名を殺害しています。
 事件の原因について、著者は、@労務強制、A山地先住民と日本人の婚姻問題、Bマヘボ社頭目モーナ・ルダオの不満、を挙げています。
 @事件発生当時、先住民は建設や補修に狩り出され酷使され、賃金も正当といえなかったことから、不満が募っていたという事情がありました。
 A日本は、統治に役立つことから、日本人警察官と先住民の有力者の娘との結婚を奨励していましたが、日本人警察官には内地に妻子がいて、最終的には先住民の娘が捨てられました。
 Bモーナ・ルダオと官憲はもともと対抗関係にあり、謀反を企てたこともありました。また、モーナ・ルダオの妹が日本人警察官に嫁いで捨てられるという事件もありました。そんな中でモーナ・ルダオの長男が巡査と暴力事件を起こし、そのことで懲罰が下り、頭目としての威信が傷つくことを恐れ、決起に至ったという側面もあるようです。
 この事件は、台湾で「セデック・バレ」というタイトルで映画化され、日本でも2013年4月20日から全国で公開されました。4時間36分に及ぶ超大作で、安藤政信、木村祐一、ビビアン・スー、田中千絵も出演しています。
 日本の植民地統治については、近代化という側面については、次のように(124〜127ページ)一定の評価をしています。「日本の行った近代化とは、西洋化であって日本化ではなかった」と留保はつけるものの、近代式の統治や建設など日本の統治が台湾の近代的基盤を作ったことは認めています。
 日本はアジアの国として初めての、かつ唯一の、アジアにおける植民宗主国であった。ここではその特異な現象を詳しく解き明かすことはできないが、簡単に言って、明治維新以降、日本は、伝統的封建社会から近代国家への脱皮に成功し、世界列強に名を連ね、中国を打ち破り、前後して台湾と朝鮮をその手に収めて植民地とした。また植民地支配に普通に見られる経済的収奪のほかに、日本は台湾を日本の植民地統治の「ショーウインドウ」に仕立て上げたのである。
 まずは日本の台湾統治の近代化の側面について語ってみよう。もし私たちが日本の明治維新と台湾領有後に施行された各種新制度を比べるならば,その非常に多くが重なっていることに気づくはずである。人民の政治権利と議会組織以外、日本は台湾において「小型の明治維新」を遂行したと言うことができる。ここに欠けていたものこそ、まさしく1920、30年代に、台湾の新興知識人が発起した「台湾議会設置請願運動」が獲得しようと努めたものであった。日本が台湾で推し進めた近代化は非常に範囲が広いが、ここでは一般によく知られる経済建設はさておき、焦点を習俗改革・抽育・司法や建築などに絞り、これら幾つかの側面を通じて、日本統治か台湾にもたらした近代化の内容と意義を語ってみよう。
 日本は近代化の発祥地ではなく、全世界の近代化の源流は唯一つ、すなわち西欧と北米のみである。このため日本の明治維新は、その大部分が西洋化運動であり、当時の日本人はこれを「文明開化」と呼んだ。日本が台湾で推し進めた近代式の統治や建設などには、もとより日本文化の特色を帯びてはいるものの、基本的には一種の二次的な「西洋化」であった(統冶の最後の8年の「皇民化運動」はまた別の文脈の産物である)。台湾において、近代化というのは、日本化ではなく、「文明化」であった。
 また、小学校教育についても、次のように(130ページ)高い評価を与えています。
 日本が施した近代式教育の影響は台湾人にとって非常に大きかった。台湾が日本に割譲される前、科挙合格を目的とした私塾や学校施設もあったが、新式の教育体系は立てられていなかった。そして伝統社会では、教育を受けるのは、少数の人びとの特権であった。すべての人が教育を受けねばならぬというのは、近代社会の観念である。日本は台湾領有後直ち積極的に小学校教育を推進した。初めは余り順調に進まなかったが、1944年には台湾の学齢児童の就学率が71.1%となり、これはアジアでは日本に次ぐ数字であり、世界でもかなり上位に位置するものであった。教育の普及と近代化は密接に関連しており、伝統社会から近代社会への転換には必ず通らなければならない道である。台湾の近代小学校教育では新しい知識な授け、理知的思考の情報を伝え、啓蒙色を濃厚に帯びていた。これらが台湾社会に与えた衝撃については、さらに深く測るに値するものである。
 しかし、その一方で露骨な差別がみられたことも次のように(138〜139ページ)指摘しています。
 差別待遇と民族隔離政策もまた、往々にして植民統治のもっとも忌むへき特質である。その点では日本統治下における台湾も例外ではなく、一般によく知られる差別待遇は、同一労働に対する報酬の差等であり、政府から俸給を支給される在台日本人は、だいたい台湾人の5、6割増しの加俸を受けており、たとえば、同じように学校で教鞭を執っていたとしても、給与の差は2倍にも及んでいた。民族隔離の問題では、早期の政策では、内=日本人と台湾人は通婚が禁止され、小学校段階の教育でも二重のコースが設定されており、日本人は「小学校」へ通うが、台湾人は「公学校」へ行くことが明確な原則となっていた。1920年代の初期には、日台間の通婚が奨励され、小学校段階でも共学制度に改められたが、非公式な民族隔離政策は引ぎ続き存在していた。台湾人児童が「小学校」に入学しようとしてもそれは容易ではなく、また人数制限があった。植民政府は台湾児童が小学校で学ぶことを奨励し、全児童の入学を最終目標としていたが、中等学校以上の教育課程においては厳しい制限があり、決して奨励せず、露骨な差別がみられた。
 つまり、日本の植民地支配は、功罪相半ばするという立場(近代化という面では功の方が多い?)のようです。
 1936年末に始まった皇民化運動の主要な項目は、@国語運動、A改姓名、B志願兵制度、C宗教・社会風俗改革の4点であると説明しています。
 @国語とは日本語のことであり、究極の目標はあらゆる台湾人が日本語を話せるようにすることであり、統計によれば、1940年に日本語を解する者は51%に達したといいます。
 A改姓名は、姓名を日本式に変更するものですが、許可制であり、朝鮮で行われたような強制(詳しくは読書ノート/創氏改名)ではなかったということです。それでも、さまざまの勧誘や圧力などで、改名する人は徐々に増えたそうです。
 B当初は兵役義務はなく、台湾人は軍夫・軍属として出征していましたが、1942年から志願兵制度が始まり、台湾人も兵隊として参戦できるようになります。当時の状況を著者は次のように(190ページ)紹介しています。
当時台湾社会でも、志願兵制度実施に感激し、慶祝する行事などが数多く行われた。さまざまな条件の絡まりのなか、台湾青年たちが自ら志願兵に出願するブームが起こり、なかには「血書志願」の現象も流行になった。これらの社会現象を理解するのは容易ではないが、もしこれら台湾青年がすべで強制されて行ったものだと見なすとしたら、非常に粗い見方であると言わざるを得ない。
 1945年からは、全面的な徴兵制が布かれ、台湾人20万人余(軍人8万人、軍属12万人)が動員され、3万人が死亡したということです。
 C宗教改革の最終目的は、台湾人を日本の国家神道に改宗させることですが、著者はその実情を次のように(186ページ)紹介しています。
 宗教改革の最終目標は、日本の国家神道を台湾固有の信仰宗教に取って代えることにあった。そのやり方は、二つの方式を併用していた。一方で日本神道を提唱し、同時に片方では台湾の民間宗教を抑圧するというものである。皇民化時代には台湾の神社数が急増し、台湾の神社の半分以上がこの時期に建設されている。日常生活でも、日本統治当局は台湾人家庭で「神宮大麻(たいま)」を祀(まつ)るのを強制した。「神宮大麻」とは、伊勢神宮の御祭神、天照大神(あまてらすおおみかみ)の神札(おふだ)のことである。非常に多くの台湾人家庭に大麻が配られたが、真面目にそれを祀り拝んだ家庭はきわめて少なかった。その他、公的機関も台湾人を動員して神社を参拝させた。日本統治当局による民間宗教のもっとも苛烈な抑圧政策は「寺廟整理」である。それは地方寺廟の整理や合併を通して、民間宗教を消滅させようとしたものであった。この政策は強烈な反撥に出会って中止されたが、この「寺廟整理」のために台湾の寺廟や斎堂の数は大幅に減少した。宗教改革は表面的には勢いがあったが、神道信仰は「船過ぎて水に痕なし」、台湾にまったく影響を残していない。
 結局、皇民化運動は、力で外面的には従わせることはできても、心の中まで変えることはできなかったようです。
 1945年8月15日、日本が降伏し、10月17日には、国民政府軍が基隆に到着します。そのときの状況を著者は次のように(204ページ)紹介しています。
台湾接収の任務を受けた第70軍の先頭部隊である第75師団が、10月17日、基隆に到着した。祖国の軍隊が台湾に上陸してくることを聞きつけ、台湾人は非常に興奮した。台北人は言うに及ばず、はるばる台中・台南や高雄などから基隆港に駆けつけて来て国軍を出迎えた人も少なくなく、波止場にはびっしりと人びとが詰めかけ、祖国の軍隊の勇姿を固唾(かたず)を飲んで待ちかまえた。しかし、国軍の姿は、彼らのよく知る日本の軍隊のそれとはまったく異なっていた。隊列もばらばらで、見るからにみすぼらしく、全員が背中に雨傘を背負い、鍋や食器、寝具を担いでいる者もいた。また彼らのゲートルは、くるぶしのあたりで、ひどく膨れ上がっていた。国軍兵士の、これまで見たこともないありさまを目の当たりにして、若者たちは失望を隠すことができなかった。
 そして、国軍への期待が幻滅に変わり始める様子を次のように(206ページ)説明しています。
 国軍についての神話が信じられたのは、ごく一時期のことにすぎなかった。「祖国の懐(ふところ)」へ帰ることに対して、台湾人が最初に抱いた熱情と想像は、さして時日を経ぬうちに、その現実に触れることによって、あっという間に冷め、幻滅に変わりはじめたのである。役所では汚職や腐敗がはびこり、軍隊には紀律がなく、勝手放題に何でも取り立て民間を煩わすばかりだったし、さらに、経済の破綻、不合理な貨幣制度、物価の高騰などによって、台湾人の不満はつのるばかりであった。
 国民党政府による台湾接収後、行政長官公署による統治が行われたが、その実態を次のように(211〜212ページ)説明しています。
日本統治下の地方自治および選挙制度は引き継がれなかっただけではなく、これを基礎に改善することなど論外であった。台湾にやってきた官員の中には、当然のことながら清廉で阿(おもね)らぬ者もいたが、倫理において欠ける者が大部分を占め、彼らの汚職腐敗の状況は中国大陸ではあるいはごく見慣れたものであったかもしれないが、〔日本時代の〕およそ清廉潔白な行政を見慣れた台湾人から見ると、まるで常軌を逸しているように映ったのである。これら汚職や腐敗は個人に限らず、しばしば官員と商人の癒着にまで及び、彼らの目標は、台湾の物資を余さず奪い取り、大陸に横流しして、暴利を貧(むさぼ)り取ることにあったのである。かくして、「接収」は「劫(ごう)収」(強奪)に変わっていった。
 精神面において、台湾人、とりわけ知識人にとってもっとも受け入れがたかったのは、新しい統治集団が口を開くたびに、台湾人を「奴隷化教育」を受けた者として否定することであった。彼らは、台湾人を日本の教育によって奴隷根性を植えつけられた集団と見なし、さらに台湾人の持つ能力や受けた訓練を軽視し、彼らを新社会の建設の枠外へと追いやったのである。
 このような統治に対する台湾人の不満が爆発したのが、1947年に起こった二・二八事件です。
 事の発端は、2月27日、台北で闇煙草の取締りをめぐるトラブルから取締官が威嚇射撃し、その弾が通行人に命中したことにあります(通行人は翌日死亡)。翌28日、台北で民衆の抗議の民衆デモが行政長官公署に向かうと、警備の兵士が一斉射撃し多数の死傷者が出ます。これに対し、民衆が台湾放送局を占拠し、全省に決起を呼びかけ、全島的な政治抗争へと発展します。3月8日に、大陸政府の派遣軍が上陸、犠牲者1万8000人に上ると言われる二・二八大虐殺が始まります。その様子を次のように(218〜219ページ)述べています。
国民党軍の鎮圧は報復的なものであり、裁判の手続きを踏むことなく、みだりに捕え、殺害するものであった。たとえば、「綏靖」のピーク時には、毎日のようにトラックが処刑者を基隆の要塞司令部へと連行し、縛ったまま死体を海へと流して、万事解決としたのである。その死体は、水を吸って膨れ上がり、海岸へと流れ着き、あたかも言い表せぬ恐怖を故郷の人びとに訴えかけるかのような表情をしていたという。今に至ってもなおわれわれは、この血なまぐさい鎮圧時期に、いったいどれくらいの台湾人が殺されたのか、知るすべを持たない。その数は数千から10万人以上とさまざまだが、研究者たちの間では、おそらく1万8000人ほどの犠牲者がいると推測するのが一般的である。たとえ人びとの印象の中の死者の数が誇張に過ぎることがあったとしても、それは理解できぬわけではない。
 以上のように、日本の植民地統治に続いて、国民党政府による弾圧が台湾民衆を苦しめることになります。つまり、日本の植民地支配だけが悪かったのではないという複雑な心情が台湾人の心の奥底にあるようにも思われます。

 その後、1949年5月19日、台湾に戒厳令が敷かれ、1987年の解除まで38年、「20世紀の世界でもっとも長い戒厳令」が続くこととなります。
 1949年12月7日には、共産党に敗れた中華民国政府が台湾へ撤退します。
 国民党の、特務=情報・治安組織は、1987年の解除まで、いわゆる白色テロを行い、14万人が拷問を受け、3000〜4000人が処刑されたといわれています。 
 20世紀の台湾は、日本の植民地統治と、それに続く白色テロにより、100年近い恐怖と弾圧の時代を経験したことになります。