読書ノート / 通史
 忠臣正成は悪霊となっていた 
2022/3/20 
 続 悪霊列伝 
編・著者 永井路子 /著
出版社 毎日新聞社
出版年月 1978/7/10
ページ数 214
定価 (電子版)438円

 著者は1925年生まれの歴史小説家です。本書は、悪霊列伝(毎日新聞社、1977/11/5)の続編です。悪霊列伝に登場する悪霊は次のとおりです。
吉備聖霊(吉備内親王?) ?〜729  忘れかけた系譜
不破内親王姉妹 8世紀? 呪われた皇女たち
崇道天皇 750〜785  怨念の神々
伴大納言  〜868  権謀と挫折
菅原道真 845〜903  執念の百年
左大臣顕光 944〜1021 不運と復讐
 続編である本書に登場する悪霊は次のとおりです。
 平将門と崇徳上皇と楠木正成は、悪霊になる側の人物ですが、源頼朝と徳川家斉は、悪霊に祟られる側の人物です。 
平将門 ?〜940 関東各地に鎮魂社、ただし悪霊としては登場していない→鎌倉幕府成立で将門伝説が花盛り→明治になって謀反人と規定→戦後は反権力の英雄 
崇徳上皇 1119〜1164 呪いの経文→1177年に諡号→怨念が恐怖を呼んだのは一時期のことでその後は影が薄くなる→1866年に白峰宮に霊を迎え入れる 
源頼朝 1147〜1199 義経と安徳天皇の怨霊によって殺されたとする伝説 
楠木正成 ?〜1136 七生報告=罪業深き悪念→悪霊となる 
徳川家斉 1773〜1841 霊感商法の被害者 

明治になって謀反人と規定
 著者によれば、平将門が敗死し獄門にかけられた後、関東各地に鎮魂の社が建てられたものの、悪霊として祟りを恐れた話は、ほとんど聞かれないということです。また、新皇を自称したことは中央の史料には全く出てこないということです。
 その後、東国武士団が旗揚げし、鎌倉幕府が成立し将門伝説が花盛りを迎えます。将門の乱が幕府成立の原因になったという見方もありますが、それには著者は否定的です。
 明治20年ごろから、小学校の教科書で、将門は帝を僭称した謀反人と規定されるようになります。しかし、大正年間に入って、突如教科書の中から姿を消します。これについては、「叛臣がいたことじたい、歴史の汚点だとされ、そのような人物がいることを教えることすら不適当だとして、頬かぶりすることになったのだ」と著者は指摘しています。
 戦後は将門を反権力の英雄として評価する動きが出てきました。著者は、将門の乱を単なる私闘の範囲を超えたものだとしていますが、幕府樹立に短絡させるのには反対しています。

呪いの経文はさほどの祟りはもたらさなかった
 讃岐院(崇徳上皇)は、保元の乱(1156年)で、後白河天皇側に敗れ讃岐に流された後、天下の滅亡を祈って、経文を血書したといわれています。讃岐院死去後の経過は次のようになります。
1164 讃岐院が死去 
1165 二条天皇が病死 
1176 六条院、建春門院死去、鹿ヶ谷の陰謀
1177 讃岐院に崇徳の諡号を贈る 
1183 源義仲が京都を占拠 
1184 法住寺合戦、春日河原に社殿
1866 白峰宮に霊を迎え入れる 
 このころの天皇家の系図は次のようになっています(ひとり灯(ともしび)のもとに文をひろげて)。

 讃岐院死去の翌年には二条天皇が病死していますが、呪いの経文との関連は問題になりませんでした。そもそも、経文の存在が知られていなかったのではないかと、著者は推測しています。
 1177年、讃岐院に崇徳の諡号が贈られます。讃岐院とは、讃岐で亡くなった上皇という意味ですが、これ以後は崇徳院と呼ばれることになります(名前でよむ天皇の歴史参照)。
 崇徳号が贈られたことについては、愚管抄は鹿ヶ谷の陰謀事件と結びつけて解釈していますが、著者は、六条院(退位した六条天皇)と建春門院(高倉天皇の母)の死も関係しているのではないかと見ています。
 さらに、1183年に源義仲の軍勢が怒涛の勢いで都に向かうころから崇徳への恐怖があらわになります。このころには、呪いの経文の存在が明らかになったようで、公家たちは震えあがります。
 1184年には、法住寺合戦で後白河法皇は義仲勢に捉えられてしまいます。その直後、鎌倉勢が義仲を敗死させたため、難を逃れた後白河は、崇徳の鎮魂のため、春日河原に社殿を造ります。それ以後、崇徳の悪霊はほとんど登場しなくなります。仇敵の後白河は無事に一生を終わっています。呪いの経文は、さほどの祟りはもたらさなかったようです。
 ところが、1866年になって、孝明天皇が崇徳のために白峰宮を建てることを思い立ちます。この着想について著者は、「その底に流れるのは、天皇の権威回復への願望である。天皇はいかなる時にも敗北者であってはならず、名誉は常に保たれねばならなかったのだ」と述べています。

都合よい読み替え・大きな読み落とし
 菅原道真、平将門、崇徳上皇は、日本三大怨霊と言われているそうです(THE GATE)。この三大怨霊と楠木正成に対する戦前の評価と、最近のドラマやアニメの描き方は、次のようになっています。
菅原道真 忠臣 呪術廻戦 
平将門 逆賊 帝都物語陰陽師
崇徳上皇   平清盛 
楠木正成 忠臣 太平記桜嵐記 
 菅原道真は戦前の修身の教科書で、至誠、忠誠の臣と評価されています(小学修身訓 : 高等科教員用. 巻3 - 国立国会図書館デジタルコレクション)。左遷を恨み清涼殿に雷を落としたはずの道真が忠臣にすり替えられています。なお、漫画呪術廻戦では呪術師となっているそうです。
 平将門は、前述のように、明治になって謀反人と規定され、その後、教科書から姿を消します。帝都物語と陰陽師では、恐ろしい悪霊として描かれています。
 崇徳は上皇なので、忠臣や逆賊とは無関係です。
 楠木正成を祀った湊川神社では、正成の最期を次のように紹介しています(義に殉じた楠公御一族)。
もはやこれまでと、正成公らは、湊川の北方(現在の湊川神社の御殉節地)まで落ち延び、弟正季卿と七生滅賊を互いに誓い合い、兄弟刺し違え、その偉大な生涯を閉じられたのでした。
「七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存候へ。」「罪業深き悪念なれ共我も加様に思ふ也。いざゝらば同く生を替て此本懐を達せん。」(太平記巻16) 
 このくだりは、戦前には「七生報国」として戦意高揚のスローガンとなっていました(戦意高揚紙芝居コレクションにみる戦時下用語)。
 著者は、このスローガンについて、「歴史を都合よく読み替え」「大きな読み落としをやっている」と指摘しています。
 「読み替え」とは、「七生滅賊」を正成の言葉のように説明していることを指しています。実は、この言葉は正成の問いかけに対する正季の回答なのです。
 正成が正季に、「人間はそもそも、最期のときに何を思うかによって、次の世に善くも悪くも生れ変るというが、お前は何を考えるか」と問うたのに対し、正季が「七生滅賊」と答えたのです。
 「大きな読み落とし」とは、「罪業深き悪念」のくだりを全く無視していることを指しています。
 正成自身は、「七度生れ変って朝敵を滅ぼそうなどという考えを、決していい考えとは思っていない」のです。
 太平記によれば、死後6年経った1342年、伊予の大森彦七のもとに、正成は身の丈八尺(2.4メートル)の鬼となって現れます。その後も、正成は手をかえ品をかえ、7度もしつこく彦七を襲い続けます。
 つまり、最期に恨みを残すと成仏できず、怨霊となってこの世をさまよい続けることになるのです。したがって、「七生滅賊」は「罪業深き悪念」なのです。
 なお、NHKの大河ドラマ「太平記」では、武田鉄也演じる楠木正成は「わしは鬼にはなれぬ、七度でも人間に生まれ、家の木庭に花を作り、外には戦いのなき世を眺めたい」と述べています。