本書は、中央公論「日本の歴史」シリーズの1冊で、出版から半世紀経っていますが、今でも南北朝通史の定番的基本書としての地位は変わらないと思われます。この中央公論「日本の歴史」シリーズは、「中公バックス版(1971年)」「中公文庫版(1974年)」でも出版されており、中央公論新社となってからも「中公文庫版(2005年)」で出版されていますから、なお一定の需要があるようです。 他の出版社からも、「日本の歴史」シリーズが出版されていますが、入手しやすいものとして次のようなものがあります。 日本の歴史 11 太平記の時代 (講談社学術文庫) 2009/6/10 日本の歴史 7 走る悪党、蜂起する土民 小学館 2008/6/26 日本の歴史 11 太平記の時代 講談社 2001/9/6 日本の歴史 8 南北朝の動乱 集英社 1992/1 著者は「はじめに」(2〜9ページ)で、田中義成(1860〜1919、コトバンク>田中義成とは)に代表される実証的南北朝史研究が、平泉澄(1895〜198 4、コトバンク>平泉澄とは)の名分論的皇国史観(読書ノート/物語日本史(中)(講談社学術文庫))によって排撃された戦前の経緯をまとめ、「田中以前にかえれ」と訴えています。 「はじめに」の大部分は、文庫本の「なか見!検索」で読むことができます。その内容を時系列でまとめると、次のようになります。
「南朝への忠節」により特権身分が与えられるというのは、明治政府の尊皇イデオロギーの現れといえそうです。南北朝正閏論争もその流れにあるといえます。ただし、歴史学では実証的南北朝史研究が主流でしたし、天皇の神格性を薄めようとする天皇機関説が憲法学の通説でした。アカデミズムの世界では、合理的な思考は維持されていたといえます。 しかし、その後、満州事変や5.15事件など、対外侵略や軍国主義の動きが加速し、それと歩調を合わせて、国民を総動員する忠君愛国のイデオロギーが強調されるようになります。建武中興600年記念事業はまさに、そのようなキャンペーンのひとつであり、中島久万吉はそのターゲットにされたといえます。この事件と天皇機関説問題の口火を切った菊池武夫は、先祖に劣らぬ「昭和の忠君愛国の士」というわけです。 福岡市の護国神社近くの住宅地に菊池霊社があります。この霊社の謂(いわ)れは、「元弘3年(1333)3月13日、天皇方の菊池武時は、倒幕のため鎮西探題(※)を攻撃しましたが、味方の裏切りに遭い百余騎すべて討死しました。この戦いで、菊池方の多くが犬射馬場(現在のJR博多駅あたり)で晒し首になりましたが、武時の首は馬場頭(現在の六本松)に葬られ、その場所が首塚、菊池霊社となりました」(福岡市 菊池霊社)ということです。 Google マップ 菊池霊社を見ると菊池児童広場の一角にあるのが分かります。福岡まで行かなくても、ストリートビューで現地の様子が体験できます。便利な世の中になりました。 Google マップには、写真も載っています。 「ここはもともと老杉があってそれ何かの墓印だとしか言われてなかったものが、火災で杉が焼けたのをきっかけに占いを行ったら、武時の祟りとでたので武時の墓だと考えるようになったにすぎないらしい」(菊池一族おっかけサイト 菊池玲瓏>菊池霊社(菊池武時首塚))という話もあります。 森茂暁「戦争の日本史8 南北朝の動乱」の「菊池武時の復権」(234〜238ページ)を参考に、菊池霊社の成り立ちを年表にまとめると次のようになります。
「本書が、南北朝通史の定番的基本書といえる」と思うのは、政治の流れが丁寧に記述されていて、社会経済体制の説明が充実しているからです。 建武の新政は、後醍醐による革命的とも言える大胆な政治改革の試みですが、その挫折の過程を本書は生き生きと描いています。 後醍醐は、醍醐・村上天皇の時代を模範に、幕府、院政、摂政関白を否定し天皇独裁を目指したとされていますが、 中国の宋朝の君主独裁制を手本にしたのではないかと著者は見ています(98〜99ページ)。 そして、そのような理想の実践が2年の短命に終わった理由を、著者は次のように分析しています(101ページ)。
後醍醐は「朕が新儀は未来の先例たるべし」と語ったとされていますが、その真意について、著者は次のように解説しています(71〜72)。
建武の新政で後醍醐の信頼もっとも厚く、わが世の春を謳歌したのは、次の4人で三木一草(さんぼくいっそう)=結城(ゆうき)楠木(くすのき)伯耆(ほうき)千種(ちくさ)と呼ばれたということです(79ページ)。
六波羅探題滅亡後、京都に政治の空白が生じ、混乱の中で情勢は次のように変転します。足利尊氏と護良親王の軍勢が京都に攻め上り六波羅探題を滅亡させますが、その直後から尊氏と護良の勢力争いが始まります。旧探題下の御家人や、地方から上洛する武士を麾下に収めた尊氏が護良を圧倒し、護良軍は信貴山にこもり足利軍と対峙し京都に緊張が高まります。そのような状況の中、後醍醐天皇が帰京し、まず、尊氏を鎮守府将軍に任じ、次いで、護良親王を征夷大将軍に任じ、慰撫し帰京させ、軍事衝突を回避します。 その一方で、旧領回復令、朝敵所領没収令を発布、記録所・恩賞方 を設置し、天皇独裁に着手します。 旧領回復令は、元弘元年(1331)以来、護良親王に従って蜂起し所領を奪われた畿南の武士を救済するための法令ですが、はるか昔に失った旧領にまで拡大解釈され訴えが殺到します。それを綸旨万能、つまり「後醍醐の直接裁決」で処理しようとしたため、処理能力を超え大混乱となります。 朝敵所領没収令では、恩賞の財源を大量に確保するため、朝敵の範囲を広く規定したが、基準を明確にしなければ、朝敵の範囲は解釈しだいで限りなく拡大できることになってしまいます。尊氏は旧探題下の職員・御家人を吸収し、地方から上洛する武士を麾下に収めましたが、朝敵所領没収令発布後も、地方の武士が続々入京し、尊氏陣営は膨大は兵力となります。その全部を朝敵として敵に回すと、新政は崩壊してしまいます。 記録所・恩賞方るは、新政で設けられた機関ですが、その権限がどのようなものであったか、詳しいことは分からないそうです。ただ、審理・調査機関であり、決定は天皇が行い、また、「尊氏なし」いわれたように、足利勢は除外されたようです。 しかし、旧領回復令で大混乱を引き起こし、足利陣営は膨大は兵力となったため、勢
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