読書ノート / 中近世史
 南北朝通史の定番的基本書 
2017/1/6 
  日本の歴史9 南北朝の動乱
編・著者  佐藤進一/著
出版社  旧中央公論社(中公文庫で再録
出版年月 1965/10/5
ページ数 479 
判型  四六版
税別定価 450円(文庫本は1238円
 
 本書は、中央公論「日本の歴史」シリーズの1冊で、出版から半世紀経っていますが、今でも南北朝通史の定番的基本書としての地位は変わらないと思われます。この中央公論「日本の歴史」シリーズは、「中公バックス版(1971年)」「中公文庫版(1974年)」でも出版されており、中央公論新社となってからも「中公文庫版(2005年)」で出版されていますから、なお一定の需要があるようです。
 他の出版社からも、「日本の歴史」シリーズが出版されていますが、入手しやすいものとして次のようなものがあります。
  日本の歴史 11 太平記の時代 (講談社学術文庫) 2009/6/10 
  日本の歴史 7 走る悪党、蜂起する土民 小学館 2008/6/26 
  日本の歴史 11 太平記の時代 講談社  2001/9/6 
  日本の歴史 8 南北朝の動乱 集英社  1992/1

 著者は「はじめに」(2〜9ページ)で、田中義成(1860〜1919、コトバンク>田中義成とは)に代表される実証的南北朝史研究が、平泉澄(1895〜198
4、コトバンク>平泉澄とは)の名分論的皇国史観(読書ノート/物語日本史(中)(講談社学術文庫))によって排撃された戦前の経緯をまとめ、「田中以前にかえれ」と訴えています。
 「はじめに」の大部分は、文庫本の「なか見!検索」で読むことができます。その内容を時系列でまとめると、次のようになります。
1910  幸徳事件(大逆事件)。一部の南朝正統論者が「教科書が大義名分を明らかにしないからこのような事件が起こった」と極論するに至る。 
1911.1.19 読売新聞が「国定教科書は南北両朝を並立させて正邪・順逆を誤らしめている」と非難。 
1911.2.16 藤沢元造代議士が国会で支離滅裂の演説をして議員を辞職。藤沢は教科書問題で質問する予定だったが、桂太郎内閣の働きかけで質問を撤回していた。
  藤沢の辞職をきっかけに南北朝正閏論争がわきおこり、政府は上奏して、明治天皇の勅裁によって南朝を正統と定め、北朝の天皇を歴代表に記載しないこととした。教科書の「南北朝」の章名は「吉野の朝廷」と改められた。 
ただし、これは歴史教育の問題なので、学問研究では南北両朝並立でも問題とはならなかった
1917 東大助教授・辻善之助が「足利尊氏の信仰」という論文で、尊氏を日本史上の大人物の1人に数え、尊氏の政治行動に弁解の余地があることを指摘 
1922 東大文学部の田中義成の講義録が「南北朝時代史」として刊行される 
1931  満州事変 
1932  5.15事件 
1934  建武中興600年記念事業 
2.7 貴族院の男爵菊池武夫議員が、議会で商工大臣中島久万吉を攻撃し辞任に追い込む。中島は、1月発刊の雑誌「現代」に載せた「足利尊氏」で、尊氏を弁護していた。 
3  満州国に帝政が実施 
4  司法省に思想検事設置 
7  出版法改正、皇室の尊厳冒涜の取り締まり強化 
1935  菊池武夫が、貴族院で美濃部達吉を攻撃し、天皇機関説問題の口火を切る 
 日本の華族一覧 - Wikipediaによれば、菊池武夫の父・菊池武臣が1884年に「先祖菊池氏の南朝への忠節と維新の功により」男爵に叙せられています。男爵の叙爵の基準は、「・公家の庶流(分家)・一新後に華族に列せられた者・国家に勲功ある者」だそうです(華族の叙爵基準)。菊池氏は、戦国時代に没落し、末裔は日向の米良地方の山中に逃れ、米良姓を名乗っていたそうです(武家家伝_米良氏)。
 「南朝への忠節」により特権身分が与えられるというのは、明治政府の尊皇イデオロギーの現れといえそうです。南北朝正閏論争もその流れにあるといえます。ただし、歴史学では実証的南北朝史研究が主流でしたし、天皇の神格性を薄めようとする天皇機関説が憲法学の通説でした。アカデミズムの世界では、合理的な思考は維持されていたといえます。
 しかし、その後、満州事変や5.15事件など、対外侵略や軍国主義の動きが加速し、それと歩調を合わせて、国民を総動員する忠君愛国のイデオロギーが強調されるようになります。建武中興600年記念事業はまさに、そのようなキャンペーンのひとつであり、中島久万吉はそのターゲットにされたといえます。この事件と天皇機関説問題の口火を切った菊池武夫は、先祖に劣らぬ「昭和の忠君愛国の士」というわけです。
 福岡市の護国神社近くの住宅地に菊池霊社があります。この霊社の謂(いわ)れは、「元弘3年(1333)3月13日、天皇方の菊池武時は、倒幕のため鎮西探題()を攻撃しましたが、味方の裏切りに遭い百余騎すべて討死しました。この戦いで、菊池方の多くが犬射馬場(現在のJR博多駅あたり)で晒し首になりましたが、武時の首は馬場頭(現在の六本松)に葬られ、その場所が首塚、菊池霊社となりました」(福岡市 菊池霊社)ということです。
  Google マップ 菊池霊社を見ると菊池児童広場の一角にあるのが分かります。福岡まで行かなくても、ストリートビューで現地の様子が体験できます。便利な世の中になりました。 

 Google マップには、写真も載っています。

 「ここはもともと老杉があってそれ何かの墓印だとしか言われてなかったものが、火災で杉が焼けたのをきっかけに占いを行ったら、武時の祟りとでたので武時の墓だと考えるようになったにすぎないらしい」(菊池一族おっかけサイト 菊池玲瓏菊池霊社(菊池武時首塚))という話もあります。
 森茂暁「戦争の日本史8 南北朝の動乱」の「菊池武時の復権」(234〜238ページ)を参考に、菊池霊社の成り立ちを年表にまとめると次のようになります。  
江戸時代  「筑前国続風土記」(1703)には武時関係の記事はないが、「筑前国続風土記附録」(1799)には「馬場頭」の墓石が菊池武時の墓印として尊崇されていたと記載されている。ようするに、墓印のみが残る何の変哲もない場所であった。 
1883  菊池武時・名和長年・脇屋義助に従三位が贈られる 
1902  菊池武時に従一位が贈られる 
1904  日露戦争 
1910  鳥飼村の住民が「贈位之碑」を建てる 
1932  満州国建国、5.15事件 
武時没後600年、菊池霊社が現在のような形となる
 元弘の乱で敗死した地方の一武将に過ぎなかった菊池武時が、明治維新の尊皇イデオロギーの高まりとともに、突如注目を浴びるようになり、死後600年近くたって、従三位、従一位と異例の昇進を遂げ、「忠君愛国の士」として祭り上げられたことになります。

 「本書が、南北朝通史の定番的基本書といえる」と思うのは、政治の流れが丁寧に記述されていて、社会経済体制の説明が充実しているからです。
 建武の新政は、後醍醐による革命的とも言える大胆な政治改革の試みですが、その挫折の過程を本書は生き生きと描いています。

 後醍醐は、醍醐・村上天皇の時代を模範に、幕府、院政、摂政関白を否定し天皇独裁を目指したとされていますが、 中国の宋朝の君主独裁制を手本にしたのではないかと著者は見ています(98〜99ページ)。
 そして、そのような理想の実践が2年の短命に終わった理由を、著者は次のように分析しています(101ページ)。

 まず宋朝が官僚制をつくり上げた背景には、唐末五代の争乱で貴族層が亡び去ったという事実があるのにたいして、日本のばあい、貴族はなお健在であった。他面、宋朝では早くから地主層に学問が普及して、知識人化した地主層が科挙に応じて官吏となったのにたいして、日本では既成の貴族以外に官僚となりうる階層なり集団なりがまったく欠除していた。要約すれば官僚制をつくりうる基本条件が新政にはなかったのである。
 つぎに宋朝では、すでに武人は地主と分離して政府の給与でまかなわれる軍隊に組織されたが、日本の武士は地主であり領主であって、中央集権にたいして巨大な抵抗力をもっていた。
 そのほか、准貴族的勢力である社寺勢力の存在も考慮しなければならないが、要するに中国と全然ちがう社会構成を正確に認識し、諸勢力の評価をなしえなかったところに新政瓦解の原因がある、とわたくしは考える。


  後醍醐は「朕が新儀は未来の先例たるべし」と語ったとされていますが、その真意について、著者は次のように解説しています(71〜72)。

 後醍醐は新政に当たって、「朕の新儀は未来の先例たるべし」と言って、庶政一新を断行したと伝えられる。中世の人々の処世観では、伝統と先例に従うことが善であり、新しいことはすべ。て悪であった。だから、「新儀」ということばは、「新儀の非法」「新儀の商人」などと用いられて、伝統・先例を破るふとどきな行為を意味した。そうしてみると、後醍醐の主張は、「新儀」一般ではなくて、「朕の新儀」のみが先例となりうるのだ、と解される。つまり「新儀」の正統性の独占である。新政にたいするかれの姿勢と熱意と自信のほどをうかがうことができよう。
 だが問題は、かれのこういう主張がどこまで受け入れられたかという点である。……
 しょせん、「新儀」を打ちだした後醍醐の施政の態度と、それを受け入れる貴族一般の態度との間には、かなりの開きがあったと見なければならない。とくに、戦前の歴史教育において、後醍醐の理想の実践者のごとくあつかわれた北畠親房の後醍醐批判はみのがすことができない。


 建武の新政で後醍醐の信頼もっとも厚く、わが世の春を謳歌したのは、次の4人で三木一草(さんぼくいっそう)=結城(ゆう)楠木(くすの)伯耆(ほう)千種(ちくさ)と呼ばれたということです(79ページ)。
千種忠顕
(ちくさただあき) 
学問を家業とする中級貴族の出身だが、武芸好きの無頼の青年。1336年6月5日、雲母坂で戦死 
楠木正成
(くすのきまさしげ)
河内の南西部、現在の千早赤阪村の辺りに本拠を置く豪族。赤阪は辰砂(水銀の原鉱で朱の原料)の産地で、楠木氏は、その採掘権を握っていたとの説もある。楠木氏は商業活動と関係があったと著者は見ています。1336年5月25日、摂津湊川で敗死 
名和長年
(なわながとし) 
商業活動に基礎をおいた武士らしいが素性ははっきりしない。伯耆守に任ぜられる。当時55歳前後と推定されている。1336年6月30日、京都で戦死 
結城親光
(ゆうきちかみつ) 
奥州白河の結城宗広の次男。白河の結城家は、関東の名家としてきこえた下総の結城氏の庶流。 
 この三木一草について、著者は次のように述べています(80ページ)

北畠親房の後醍醐批判はみのがすことができない。


 六波羅探題滅亡後、京都に政治の空白が生じ、混乱の中で情勢は次のように変転します。足利尊氏と護良親王の軍勢が京都に攻め上り六波羅探題を滅亡させますが、その直後から尊氏と護良の勢力争いが始まります。旧探題下の御家人や、地方から上洛する武士を麾下に収めた尊氏が護良を圧倒し、護良軍は信貴山にこもり足利軍と対峙し京都に緊張が高まります。そのような状況の中、後醍醐天皇が帰京し、まず、尊氏を鎮守府将軍に任じ、次いで、護良親王を征夷大将軍に任じ、慰撫し帰京させ、軍事衝突を回避します。
 その一方で、旧領回復令朝敵所領没収令を発布、記録所・恩賞方 を設置し、天皇独裁に着手します。
 旧領回復令は、元弘元年(1331)以来、護良親王に従って蜂起し所領を奪われた畿南の武士を救済するための法令ですが、はるか昔に失った旧領にまで拡大解釈され訴えが殺到します。それを綸旨万能、つまり「後醍醐の直接裁決」で処理しようとしたため、処理能力を超え大混乱となります。
 朝敵所領没収令では、恩賞の財源を大量に確保するため、朝敵の範囲を広く規定したが、基準を明確にしなければ、朝敵の範囲は解釈しだいで限りなく拡大できることになってしまいます。尊氏は旧探題下の職員・御家人を吸収し、地方から上洛する武士を麾下に収めましたが、朝敵所領没収令発布後も、地方の武士が続々入京し、尊氏陣営は膨大は兵力となります。その全部を朝敵として敵に回すと、新政は崩壊してしまいます。
 記録所・恩賞方るは、新政で設けられた機関ですが、その権限がどのようなものであったか、詳しいことは分からないそうです。ただ、審理・調査機関であり、決定は天皇が行い、また、「尊氏なし」いわれたように、足利勢は除外されたようです。
 しかし、旧領回復令で大混乱を引き起こし、足利陣営は膨大は兵力となったため、勢
1333.5.9  六波羅探題滅亡
足利尊氏が六波羅に陣を構え、旧探題下の職員・御家人を吸収し、地方から上洛する武士を麾下に収め、護良親王の軍勢を圧倒する。護良軍は信貴山にこもり足利軍と対峙する。
1333.6.5  後醍醐天皇が帰京、足利尊氏に内昇殿を許し鎮守府将軍に任じる
1333.6.15 旧領回復令を発布。続いて、朝敵所領没収令を発布⇒大混乱を引き起こす。法の不備=「拡大解釈、曖昧な定義」に加え、綸旨万能=「後醍醐の直接裁決」の処理能力を超えた訴えが殺到 
  記録所・恩賞方(審理・調査機関で決定は天皇が行う)の設置⇒尊氏勢力を除外「尊氏なし」 
1333.6.23 後醍醐天皇が護良親王を征夷大将軍に任じ、慰撫し帰京させる
1333.7  地方の武士が続々入京し尊氏陣に赴く
1333.7.23 諸国平均安堵法を発布。旧領回復令と朝敵所領没収令を大幅に修正
  雑訴決断所の設置。所領に関する裁決権を持つ民事法廷⇒後醍醐の直接裁決の範囲を狭める大幅修正。実務者は下級貴族と旧幕府官僚。足利尊氏の有力家人も送り込まれる。 
後醍醐天皇    三木一草
新田義貞
足利尊氏 鎮守府将軍  旧探題の職員、旧鎌倉幕府の御家人 
護良親王  征夷大将軍  畿南(大和・紀伊・河内・和泉)の反幕兵士