読書ノート / 中近世史
 ようやく行長像が見えてきた
2014/12/16
 小西行長を見直す:記録集
編・著者  宇土市教育委員会/編
出版社  宇土市教育委員会
出版年月 2010/3/26
ページ数 202 
判型  A5
税別定価 1000円
 本書は、2009年に宇土市で開かれた、「シリーズ再検証・小西行長」という講演会と「小西行長を見直す」というシンポジウムの記録集です。一般書店では手に入りませんが、宇土市教育委員会に注文すれば郵送してくれるそうです(現在、在庫があるかどうかは確認していません)。
 小西行長は豊臣家臣で熊本県南部(宇土、八代、天草など)を領有したキリシタン大名ですが、関が原の戦いでは、石田三成の西軍に味方し徳川家康と戦って破れ、打ち首となっています。また、熊本県北部を領有した加藤清正と対立したため、戦前には忠臣清正に対する敵役と描かれるようになります。1980年、宇土城跡に建てられた行長の銅像(本書の表紙にもなっています)は、「銅像を打ち壊す」「公費の無駄遣い。許せない」といった怒りの声が寄せられたため、除幕式の翌日から2年近くトタン板で覆われていたそうです(「卑劣」イメージの見直し進む キリシタン大名小西行長)。なお、本書執筆の時点では、行長の肖像画は確認されていないそうです(銅像は誰をモデルにしたのでしょうか)。
 そんな行長像を見直そうというのが、宇土市のこの企画です。小西行長について書かれた本はほとんどなく、何となくぼんやりとしたイメージしかありませんでしたが、この本を読んで、ようやく行長像が見えてきた感じがします。 
 本書の内容は次のようになっています。前半がシンポジウム、後半が講演会の記録という構成です。
シンポジウム「小西行長を見直す」
基調講演 五野井隆史「キリシタン史からみた小西行長」
討論会「小西行長を見直す」
「シリーズ再検証・小西行長」講演会
第1回鳥津亮二「小西行長とは何者か−その生涯の実像に迫る−」
第2回鳥津亮二「小西行長と宇土・八代−行長はこの地で何をしたのか」
第3回吉村豊雄「小西行長と関ヶ原合戦・加藤清正の宇土城攻め」
第4回太田秀春「朝鮮の役と小西行長」
参考資料

 講演会第1回「小西行長とは何者か−その生涯の実像に迫る−」の講師は、八代市立博物館学芸員の鳥津亮二氏です。
 この講演では、行長の生涯が紹介されています。イエズス会の記録によると、行長は1558年、京都に生まれたそうです。後世に書かれた記録では、行長は商人の子であると書かれていますが、そのような確証は一切なく、父の立佐(りゅうさ)は堺出身ではあるけれど職業はよく分かっていないということです。イエズス会の記録によると、一族はすべてキリシタンだったそうです。
 絵本太閤記などの伝記などには、もっともらしい逸話が載っていますが、子どもの頃の行長についてはよく分からないそうです。1586年のイエズス会の報告書によると、行長は岡山の宇喜多家の旧臣であったということですから、当初は宇喜多家に仕えていたようです。1579年の信長の手紙に、小西(行長?)の手柄の話が出てくるので、信長に味方して戦ったと推測されます(このころ宇喜田氏は毛利を離れ織田方についています)。
 1581年末ごろから秀吉に仕え、出世して行きます。当時の書状から、行長は海上輸送を担当していたことが分かります。イエズス会の宣教師は行長を「海の司令官」と呼んでいます。1587年の宣教師追放令後も、キリシタンであること処罰されることはなく、出世を続けます。
 1588年に、熊本南部の宇土、八代、益城、天草に領地を与えられ大名となります。その後、1600年まで12年間支配を続けますが、朝鮮との交渉や出兵を担当したため、トータルの宇土滞在期間は1年半程度だったようです。
 文禄の役の後の講和交渉決裂の事情について、鳥津亮二氏は次のように述べています(81〜83ページ)。
 次に小西行長のエピソードの中でよく語られる場面。中国からの使いが大坂城の豊臣秀吉のところにやってきます。連れてきたのは当然行長です。秀吉はこれを中国が秀吉に和平を請う使者と思い込んでいました。そして、中国の使いが秀吉の面前にやってきまして、中国の皇帝からの文書を読み上げる。「汝を日本国王と為す」と。そうしたら、豊臣秀吉が激怒した。「そんなの前から俺は日本国王だ!話が違うではないか!」っていう感じですね。で、怒って「行長を呼べ、首を斬る!」というふうに言って、みんなで一生懸命秀吉をなだめると。この話は、エラい大学の先生が古く論文の中でも事実として描かれることがあります。
 しかし、実際はこんなことはありませんでした。実際この会見というのはつつがなく終わったのです。ポイントは朝鮮出兵の過程の中で豊臣秀吉も目的を変えていることです。もちろん最初は中国まで攻め入る気でいるわけですが、朝鮮で日本軍が苦戦している状況を知り、秀吉も「やっぱり中国をやっつけるなんていうのは、無理だ」ということに気づきます。ですからこの時の秀吉の目的はとにかく中国と和平を結ぶことでした。だから「日本国王に為す」というのは、実際にそれでよかったわけで、秀吉はここは全く問題にしませんでした。そして、事前にこういう形で和平交渉をしているということを、行長は事前にはっきりと秀吉に報告・連絡をしてます。行長はしっかりと秀吉の意向をふまえて中国との交渉をしていたのです。よく、いろんな人に「何でこのときに行長は秀吉に殺されなかったのですか?」と質問を受けるのですが、答えはシンプル。実際にこういうことがなかったからです。もちろん、最終的に交渉が決裂して秀吉がご機嫌を損ねるぐらいはあったようですが、行長は格下げされることもありませんでした。行長はしっかりと秀吉の命令どおりに働いていたからです。
 ただ、中国としてはあくまで朝鮮半島は自分の支配下です。ですから、中国としてはどうしても朝鮮半島から日本軍を追い出したい。一方で秀吉は、朝鮮半島の南半分は実力で手に入れたのだから、ここを譲るわけにはいかないし、配下の諸大名に顔も立たない。というわけで、この会見が終わったあとに大坂の堺で中国の使いが秀吉サイドに「朝鮮半島から日本軍を撤退させろ」と言うんですよね。それで初めて秀吉は怒るんです。そして結局収拾がつかなくなり、秀吉が「絶対に朝鮮半島南部を手に入れてやる」ということで、もう一度慶長の役という戦いが起きてしまいます。
 行長が秀吉を騙していて、それがばれたのであれば、無事ですむはずがありませんし、そもそもすぐにばれるような嘘をつくというのも解せません。ただ、秀吉としては、朝鮮南部の割譲は絶対譲れない条件でしょうが(そうでなければ無条件撤兵となってしまいます。秀吉の死によって実際そのようになったのですが……)、朝鮮はそのような条件を呑むはずはありません。では、明はどのようなつもりだったのでしょうか。行長は、朝鮮南部割譲を条件として、明と交渉していたはずですし、その線で講和がなるといういう見込みで、明の使者を連れてきたのではないでしょうか。とするならば、中国の使者が日本軍の撤退を要求したということは、交渉役の行長の責任問題にもなるのではないでしょうか。外交交渉の詳細な記録が残っているわけでもなさそうですから、真相はいつまで経っても藪の中という感じもします。

 講演会第2回「小西行長と宇土・八代−行長はこの地で何をしたのか」の講師も鳥津亮二氏で、宇土、八代、益城、天草の領主時代(1588〜1600年)を主に取り上げています。
 行長が寺社を弾圧したという話については、鳥津氏は否定的です。
 その理由として、1587年の宣教師追放令の影響もあって、秀吉の存命中は行長はキリスト教布教には熱心でなかったこと、当時の史料では行長が寺社の破壊を命じたという記録が一切出てこないことをあげています。当時、寺社が衰退する傾向があったが、それは太閤検地により経済的地盤が失われたのが原因であり、それは全国的な現象であったと指摘しています。
 秀吉が死んで慶長の役が終わり、行長が帰国した1599年ごろ、宇土、八代地方でキリシタンが爆発的に増えたという記録がイエズス会の日本年報に残っているそうです。その際、信者らが寺社を攻撃した可能性はあるものの、行長がそれを組織的に行ったという記録はないそうです。
 行長と、おたあジュリアの関係については、次のように述べています(104ページ)。 
 そして、もう一人。こちらは有名なおたあジュリアです。今、熊日で連載をしていますけれど、この人もまさしく行長との関係でキリスト教に入った人です。日本に来るまでの経緯はよくわかっていませんが、一五九六年段階では、もうすでに日本に来ています。そして、おそらく宇土で洗礼を受けます。で、よく「行長が養女にした」と言われていますが、養女ではありません。行長の妻に仕えるのです。そして、これも経緯はよくわかりませんが、一六〇〇年以降は徳川家康の側室に仕えています。そしてしばらくは駿府にいるんですけれど、おそらくはキリスト教のことがきっかけでしょうが。一六一二年に神津島(こうづしま)という島に流されてしまいます。一般的にジュリアは「神津島に行って、そこでお亡くなりになった」という話になっておりますけれども、実際は違います。実は神津島には三年くらいしかいませんでした。その後は日本本島に帰って来てまして、長崎に行ったり、大坂に行ったりしています。結局最後はどこでお亡くなりになったかというのはわかりません。けれども、彼女はその後の歴史の中で、悲運の女性として語り継がれることになるわけです。
 おたあジュリアについては、シンポジウムで五野井隆史・聖トマス大学教授も次のように語っています(53ページ)。
 そしてまた例えば行長が朝鮮から連れてきたおたあジュリアという女性がおります。それでなぜか彼が亡くなった後、家康の奥に入って世話係をするのです。地位のある貴族か何かに生まれたおたあジュリアですが、行長は奥さんに頼んで教育をしてもらってキリスト教徒にしていきます。そういう人間教育も行いました。おたあジュリアについては皆さんご存知かどうかわかりませんが、名前は聞いたことがあるかもしれません。幕府、徳川家康の下で衣装係というかそのような仕事をしておりました。それで常に家康の所にあって、伏見と駿府を行き来しております。たいへん熱心な信者でありたと。そのために彼女と御付のクララとルチアの三人が新島や神津島に流されます。そして定説では直後に亡くなったとありますが、実は家康が亡くなったあと赦されて、長崎で貧しい人のために一生懸命働くんです。そしてその後大坂でもやはり貧しいキリシタンたちのために働いて一六二三年くらいまで確認できます。
 おたあジュリアについては、行長の養女で、徳川家康に使えた後、神津島(伊豆諸島の一つ)に島流しとになり、そこで生涯を終えたということになっていますが(読書ノート/日韓共通歴史教材 朝鮮通信使:豊臣秀吉の朝鮮侵略から友好へ)、悲劇の主人公として多少脚色された一面があるのかも知れません。
 講演会第3回「小西行長と関ヶ原合戦・加藤清正の宇土城攻め」の講師は吉村豊雄・熊本大学教授(当時)で、大名としての行長を取り上げています。
 吉村氏は、行長の大名としての基本的性格を見る観点として、@中央官僚としての側面、A強い領国姿勢、B清正との共同統治、C定型化した行長像の4点を挙げています。
 @行長は、「取次」として秀吉の意思を四国・九州の大名に伝達する役目も担っていました。いわば外交官僚として各地を飛び回り、領国を長期にわたり不在にしていました。A行長は自分が長期留守にしても良い様に、入国段階に領国に対し強い軍事態勢を取りました。B秀吉は、肥後に行長と清正を配し共同統治させる意図がありました。C行長像は、キリシタン大名、商人出身、朝鮮侵略の講和派と定型化されています。ただ、行長の外交交渉には知られざる裏があるのではないかと、次のように述べています(123ページ)。
 郷土の大先達で、『近世日本国民史』という巨大歴史叙述をなした徳富蘇峰は、行長の外交交渉、秀吉に対する見えすいた偽装工作を次のように一喝しました。「平気でこれを取り扱うたのは、いかなる理由であろうか。彼らは徹頭徹尾、秀吉の手前をごまかしえるとしたるか。さりとは余りに、大胆不敵の横着者ではないか。」と。私は、市史では蘇峰翁に同調した見方を示しましたが、最近、疑問に感じています。蘇峰が論難するような小西行長の見え透いた外交と、もう一つは隠密裏に進めていた、いわば現実的な対朝鮮・対明外交があったのではないか。このように考えたほうがよいのではないかと思います。その際の判断材料が、先に紹介しました石田三成の行長に寄せる信頼です。いかに石田が行長をかっていたかというと、文禄四年、もう朝鮮問題がなかなか難しい局面になってまいります。年号は慶長にかわっていきますが、三成が期待をかける島津家の世子、島津忠恒に宛てて「此両人(小西行長・寺沢正成)、拙子(私は)別して等閑無く候」と申し送っています。石田三成ほどの男が「この二人とだけは分け隔てない、信頼できる間柄である」と言っているのは、小西行長、寺沢正成という人物をその能力を含めていかに買っていたかということです。怜俐な三成が、朝鮮でいかなる外交が行われていたか、行長の外交活動の実体について十分承知していたと考えるのが妥当です。
 行長は、徹頭徹尾、秀吉をごまかし、見えすいた偽装工作をしたと言われていますが、すぐにばれるような偽装工作を本当に行ったのだろうかと、かねてから疑問に思っていました。秀吉も、1592年秋までには、明侵略など到底不可能で、朝鮮支配さえおぼつかないということは十分認識していたのではないでしょうか。そして、何とか面子が立つ形での落としどころを行長に探らせていたとは考えられないでしょうか。つまり、対明交渉には本音と建前があって、交渉の経緯をわかりにくくしているように思われます。