読書ノート / 社会
 2015/3/4
 創価学会(新潮新書) 
編・著者 島田裕巳/著
出版社 新潮社
出版年月 2004/6/20
ページ数 191
税別定価 680円
 宗教学者による本格的な創価学会入門書です。
 研究者として知られる著者が、「公明党と創価学会は一心同体なのか」というテーマを分析した1冊です。
 目次は次のとおりです。戦前の創設期から戦後の爆発的拡大期を経て、現在に至る流れを年代順に解説しています。
序 章 日本を左右する宗教
第一章 なぜ創価学会は生まれたのか
第二章 政界進出と挫折
第三章 カリスマの実像と機能
第四章 巨大な村
終 章 創価学会の限界とその行方
 「第一章 なぜ創価学会は生まれたのか」では、戦前の創設期から戦後の拡大期までを取り上げています。
 この章では、創価学会(当初は創価教育学会)の初代会長・牧口常三郎と第二代会長・戸田城聖が登場します。 
 両者はともに教職者の経験があり、牧口が校長のとき、戸田を代用教員として採用しており、いわば師弟関係にあったと言えそうですが、肌合いはかなり異なっています。牧口は、地理学者を志して上京し、「人生地理学」などの著作もあり、柳田國男と付き合いもあった知識人です。
 一方、戸田は、20歳前後に代用教員をしていますが、すぐに辞めて、その後は、学習塾を開いて公開模擬試験を行い、受験参考書を出版しベストセラーになります。さらに、食品会社や証券業にも手を広げ、一時は月1万円の収入があったといいます。戸田は、教育者というよりも実業家だったといえるでしょう。
 現在の創価学会理論の骨格を作ったのは牧口で、それを実践し組織化したのが戸田です。
 両者の関係を年表にまとめると次のようになります。
1871  牧口常三郎(幼名長七)、新潟県に生まれる 
1889 牧口、北海道尋常師範学校に入学。卒業後、師範学校教諭となる 
1900  戸田城聖(本名甚一)、石川県に生まれる。2歳で北海道・厚田村に移住 
1901 牧口、上京
1913以降  牧口、東京市の尋常小学校校長を歴任 
1918  戸田、北海道で小学校の代用教員となる 
1920  戸田、上京。牧口が戸田を代用教員として採用。その後、戸田は生命保険の外交員となる 
1923  戸田、時習学館という学習塾を開く 
1928  牧口、日蓮正宗に入信。直後に戸田も入信 
1930  牧口、創価教育学会設立(戸田は常務理事)
戸田、推理式指導算術という受験参考書を出版しベストセラーとなる。その後、出版社や食品会社、金融業など手広く手掛ける 
1940/10 創価教育学会第2回総会。牧口、会長に就任。参加者300人。この頃から、学会は教育団体から宗教団体に衣替え
1942/11  創価教育学会第5回総会。参加者600人。会員数4000人と報告 
1943/7/6  牧口、戸田ら学会幹部、治安維持法、不敬罪容疑で逮捕、投獄 
1944/11/18 牧口会長、東京拘置所で死去
1945/7/3  戸田理事長、出獄 
1946/3  戸田、「創価教育学会」を「創価学会」と改称 
1951/5/3  戸田、2代会長に就任。会員1500人の前で、75万世帯折伏を宣言 
1952/4/28 狸祭り事件 
1954/3  池田大作、参謀室長に就任 
1955  30万世帯を達成 
1958/4/2  戸田城聖死去。この年、100万世帯を達成 
1960  150万世帯を超す 
1964  500万世帯を超す 
 牧口は、1916年ごろ、国柱会の田中智学の講演会に何度か足を運んだものの、会員にはならなかったそうです。田中の主張した「国立戒壇」は、むしろ牧口の弟子の戸田に受け継がれたようです。
 国柱会は、日蓮宗の元僧侶である田中智学が始めた国家主義の宗教団体で、石原莞爾や高山樗牛、宮沢賢治も会員だったそうです。国柱会は現在も宗教法人として残っています(宗教法人 国柱会)。智学は、「侵略的宗門というコンセプトを提示、一種の宗教的軍事主義と皇道ファシズムを説いていた。当時のカリスマ」だったそうです(378夜『化城の昭和史』寺内大吉|松岡正剛の千夜千冊)。 
 血盟団の井上日召は日蓮主義者で、北一輝も法華経を読誦していたということですが、昭和のテロと日蓮主義・法華信仰はどのような関係にあるのでしょうか。
 牧口が、日蓮正宗に入信したのは、1928年ごろです。本人はその動機については何も語っていませんが、柳田國男は貧苦と病苦が原因ではないかと述べています。牧口に続いて、戸田も入信しています。牧口は、日蓮正宗の教義を学ぶとともに独自の宗教思想として、「価値論」と「法罰論」を展開します。価値論は西欧哲学に独自の現実主義的な解釈を付け加えたもので、戦後、戸田が現世利益(げんせりやく)を強調したことにつながります。また、牧口は、少人数が集まり話し合う「座談会」を重視しており、それが今日の創価学会に受け継がれています。
 牧口は、教祖としての要素は希薄だったようで、その点について著者は次のように述べています(31〜32ページ)。 
 一般に、新しい宗教の原点となるのは、教祖の神憑りや宗教体験である。教祖は、霊的、神秘的な能力を発揮し、病気直しをすることで信者を増やしていく。創価学会と同じく、日蓮系、法華系の教団である立正佼成会の場合にも、創立者の一人である長沼妙佼の神憑りによる病気直しを核として出発した。立正佼成会の創立者がその信者であった霊友会の場合にも、創立者の一人、小谷喜美はエクスタシーの状態で死者の声を聞く霊能者であった。
 ところが、創価学会の場合、発足当初から、そうした面はほとんどみられない。牧口に神憑りの体験がないのはもちろん、明確な宗教体験もなかった。創価教育学会の活動内容にも、初期には病気直しなどの側面は見られなかった。
 牧口が創価教育学会設立したのは1930年ですが、当初は教育学の研究と教育者の育成を目的とした団体で、会員も数十人程度だったようです。ところが、1940年頃から宗教色を強めたことから会員が増え始め、1942年11月には会員数は4000人に及んでいると報告されています。
 しかし、1943年7月6日に、牧口、戸田ら幹部が逮捕、起訴されたことにより、創価教育学会は壊滅的打撃を受けます。そのいきさつを次のように説明しています(37〜39ページ)。つまり、日蓮信仰を貫き天皇崇拝を拒んだから弾圧されたのではなく、むしろ天皇崇拝を純粋に貫こうとして神宮大麻を拝むことを拒否したため、危険思想と看做されたと著者は考えています。
 ところが、戦時体制のもとで宗教団体への統制や規制が強化されるなか、創価教育学会もその対象となっていく。牧口は、国家の宗教統制政策として押し進められていた宗派の合同によって日蓮正宗が日蓮宗と合同することに反対した。また、伊勢神宮から配られる皇大神宮の神杜、「神宮大麻」を拝むことを拒否し、さらにはそれを焼却させた。
 日蓮正宗では、入信に際して、他宗教や他宗派の本尊や神札、神棚、祠、経典、護符などを取り払い、それを焼き払う「謗法払い(ほうぼうばらい)」が行われており、牧口はその教えに従って神宮大麻を焼却させたかのように見える。
 しかし牧ロは、戦前の体制のもとで、宗教にあらずとして一般の宗教とは区別された「敬神崇祖」の道を、日蓮仏法に背く謗法としてすべて否定したわけではない。第五回総会での全員座談会において、牧口は、靖国神社へ参拝する意義を説き、それがご利益を得るためのものではなく、感謝のこころをあらわすものである点を強調した。現在の創価学会は、首相の靖国神社参拝に反対の姿勢をとっているが、それは牧口以来一貫しているとは言えないのである。
 さらに牧口は、天照大神や代々の天皇に対して、「感謝し奉る」と言い、昭和天皇を現人神として認めた上で、「吾々国民は国法に従って天皇に帰一奉るのが、純忠だと信ずる」とさえ述べている。では、なぜ神宮大麻を拝むことを拒否するかと言えば、それは、天皇とともに天照大神を祀ることは二元的になり、天皇に帰一したことにならないからだというのである。
 牧口は、現人神としての天皇を崇拝するという当時の風潮を否定しておらず、むしろ純粋な天皇崇拝を確立するために、神宮大麻を焼却したのだった。彼は、その行為が皇室を冒涜するものになるとは考えなかった。ところが、日蓮正宗の宗門の側では、牧口らを本山に呼び、神宮大麻を受け入れることを勧め、創価教育学会員の大石寺への参詣を禁止したが、牧口はその勧告を受け入れなかった。
 当時においては、極端な天皇崇拝を強調する動きは危険思想として取り締まりの対象になった。一九三五年に二度目の取り締まりを受け、教団施設を破壊された大本教がその代表である。牧口の場合には、一九四一年に全面改正された治安維持法の第七条にある「国体ヲ否定シ又ハ神宮若ハ皇室ノ尊厳ヲ冒涜スベキ事項ヲ流布スル事ヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者」にあたるとして、一九四三年七月六日に逮捕、起訴された。
 創価大学文学部の伊藤貴雄教授によれば、戦時下の牧口の行動について、次の3通りの評価があるということです(牧ロ常三郎の戦時下抵抗(第1回)一天皇凡夫論と教育勅語批判を中心に一)。 
宗教学者の村上重良 牧口はあくまで国家の宗教政策に抵抗したまでであり、戦争政策に抵抗したのではない
農学者の村尾行一 軍国主義と天皇制と国家神道の三位一体である昭和軍国主義の基本的イデオロギーを根底的に批判した 
宗教学者の島薗進 牧口は若き日からの進歩的思想をもとにアジア・太平洋戦争を過ちと見なしてはいたが、日本全体の軍国主義化に対応するかのように日蓮正宗の排他主義的信仰を掲げたため、進歩的側面が背後へ沈んでいった 
 1943年に、牧口は治安維持法、不敬罪容疑で逮捕されますが、それぞれの条文は次のようになっています。現在では、それぞれ削除や廃止されています。
刑法73条[大逆罪] 天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又は皇太孫に対し危害を加へ又は加へんとしたる者は死刑に処す 
刑法74条1項[不敬罪] 天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又は皇太孫に対し不敬の行為ありたる者は3月以上5年以下の懲役に処す
同2項 神宮又は皇陵に対し不敬の行為ありたる者亦(また)同し 
 治安維持法は、旧字カタカナで読みずらいので(治安維持法改正法律・御署名原本・昭和十六年・法律第五四号)、新字ひらがなにし、句点を入れました。治安維持法は、社会主義の取り締まりを目的としていましたが、1941年に全7条を全65条に大幅に増やし、対象を「国体の変革(天皇制の変革)」から、道徳と宗教の領域にも拡大されることになりました。
治安維持法改正法第7条 国体を否定し、又は神宮若しくは皇室の尊厳を冒瀆すべき事項を流布することを目的として結社を組織したる者、又は結社の役員其の他指導者たる任務に従事したる者は無期又は4年以上の懲役に処し、情を知りて結社に加入したる者、又は結社の目的遂行の為にする行為をしたる者は1年以上の有期懲役に処す 
 牧口は、神宮大麻を焼却させたということですが、この神宮大麻とは、次のようなものです(お神札・お守り - 東京大神宮)。伊勢神宮が製造し、全国の神社を通じて販売しています。最近では、ネット通販でも買えるようです。

 神宮大麻は神棚の中央にまつるということです。なお、現在でも全国の3分の1の家には神棚があるそうです(世論調査:日本人の宗教団体への関与・認知・評価の20年)。2013年度の神宮大麻の頒布数は874万体で、約70億円が歳入として計上されたということです(神社本庁「コロナ禍の初詣」強行のウラ、金と権力の罰当たりな事実)。
 戦前の神宮大麻の頒布について、昭和戦中期の暦一一暦と大麻の頒布強制と頒暦数の急伸を参考に、以下にまとめてみました。
 戦前の神宮大麻の頒布数は、次のように推移しています。

 天皇制全体主義の色彩が強くなるころから急増し始め、開戦でピークを迎えます。頒布は政府が主導して行いました。政府は、「神社は宗教ではない」としたものの、憲法の政教分離に配慮して、当初は強制にならないよう慎重な姿勢でした。しかし、軍国主義の進展とともに、姿勢を強化し、「戦争の勝利のため、政教一致の国家体制は必須である」とし、頒布は事実上強制となります。
 浄土真宗やキリスト教、一部の新宗教は、「大麻奉斎の強制は信教の自由の侵害である」と抵抗します。しかし、1939年に宗教団体法が成立し、1941年の治安維持法改正では、神宮若しくは皇室の尊厳を冒瀆したという名目で、宗教団体の取り締まりが可能となります。
 このような動きの中で、ほとんどの宗派、教団は、神社参拝や大麻拝受、神棚設置を容認する方向に向かいます。しかし、創価教育学会のように結社・集団レベル、そして地域レベル、個人レベルで抵抗は続きます。それらもあらゆる手段を駆使して、しらみつぶしにつぶされてゆきます。 
 牧口は、1943年7月に逮捕されていますが、その月の特高月報には、逮捕理由が記載されています。基調報告一牧ロ常三郎は国家政策の何に抵抗したか一を参考に、その内容をまとめると次のようになります。
発言 弁明
天皇も凡夫だ  天皇陛下も凡夫であって、皇太子殿下の頃には学習院に通はれ、天皇学を修められて居るのである
『克ク忠二』を教育勅語から削除すべきだ  左様に仰せにならなくても日本国民は陛下に忠義を尽くすのが臣民道であると考へます
法華経、日蓮を誹諺すれば必ず罰が当る 現在の日支事変や大東亜戦争等にしても其の原因は矢張り謗法国である処から起きて居る 
伊勢神宮などを拝む要はない  天皇陛下を尊崇し奉れば天照皇太神も尊崇し奉る事になります 
神符や神札、あるいは神棚や仏壇を焼却撤去  
 逮捕理由として、4つの発言と神符等の焼却撤去行為が挙げられています。これらにより、皇大神宮に対する尊厳冒瀆と不敬容疑が濃厚となったとされています。
 凡夫とは仏教用語で普通の人間を指します。天皇は人間だというのは当たり前の常識であり、そう言ったから不敬になるというのはさすがに無理があります。また、教育勅語に注文を付けても天皇に対する不敬にはならないでしょう。「大東亜戦争の原因は謗法国であるから」というのは戦争批判になっても、不敬にはなりません。
 結局、「伊勢神宮などを拝む要はない」という発言や、神宮大麻の焼却という行為が、逮捕の根拠となったものと思われます。
 牧口は、1944年11月18日、巣鴨の東京拘置所で病死しています。牧口の死の意味について、著者は次のように述べています。
 一般の宗教団体においては、教祖の死が、その教団を飛躍的に発展させていく契機になることがある。典型的にはキリスト教の場合に見られることだが、とくに弾圧によって亡くなった教祖の場合には神格化が進められ、救済者としての役割が与えられていく。
 その点で、信仰に殉じて亡くなった牧ロの場合には、神格化され、その死が教団を発展させていく契機となる可能性があった。しかし、彼は宗教団体のりーダーではあっても、教祖と言える存在ではなかった。その死もきわめて人間的なもので、神秘的な出来事に彩られたものではなかった。したがって、牧口の死がそのまま創価教育学会を飛躍させるきっかけになったとは言い難い。
 なお、牧口は信仰を貫いたため、逮捕され獄中で病死したのであって、反戦平和主義者であったため、国家の弾圧により獄死したのではありません。創価学会の公式サイトでもそのような見解は見当たりません。しかし、「天皇も凡夫」「『克ク忠二』を削除すべき」「大東亜戦争の原因は謗法国であるから」などの発言からは、リベラルな思想傾向も伺えます。

 戦前、戸田は事業家として成功し、牧口の宗教活動を財政面から支え続けていましたが、牧口が治安維持法違反で起訴されたのに連座する形で逮捕されます。本書では、牧口については起訴されたとされていますが(公判が開かれたのかどうかは明確ではありません)、戸田については起訴されたかは明確にされていません。戸田は、「ちょうど、20年1月8日、忘れもしません、その日に初めて呼び出され、予審判事に会ったとたんに、『牧口は死んだよ』といわれました」と述べていますから(日蓮大聖人御書|池田大作著書|御書検索|スピーチ検索)、2人とも起訴されたものの、公判は開かれなかったようです。
 戸田は、東京拘置所で「獄中の悟達」と呼ばれる宗教体験をしたとされていますが、著者は懐疑的です。
 1945年7月に保釈された戸田は、1946年3月、「創価教育学会」を「創価学会」と改称し、理事長として再建に乗り出します。しかし、1951年3月に会長に就任するまでは、むしろ実業活動の方に重点を置いています。
 「獄中の悟達」を体験した戸田が、どうしてこのように5年間も回り道をしたのかその謎解きが、志茂田景樹の中篇小説「折伏鬼」(読書ノート/折伏鬼)のテーマのひとつとなっています。
 戸田が会長に就任したときの会員数はせいぜい5000人だそうですから、戦前とおなじ程度の規模にとどまっていました。しかし、戸田が自分が死ぬまでには75万世帯の折伏を達成すると宣言し、「折伏大行進」が始まり、組織は驚異的な速度で拡大し、戸田の亡くなる1958年には目標をはるかに上回る100万世帯を達成しています。その後も、組織は拡大を続け、1964年には500万世帯を突破しています。
 著者は、次のように述べて(61〜63ページ)、このような急成長の最大の要因として、高度経済成長による農村から年への人口流入をあげています。
 人口の農村部から都市部への移動が起こり、都市の人口が過密になればなるほど、都市での産業は勃興し、さらなる労働力が求められることとなった。農村部からは、次、三男だけではなく、広い耕地をもたない農家の長男も都市へと向かった。
 しかし、都市では、農村にいては得られない現金収入を得ることはできたものの、都市へ出てきたばかりの元農民たちには、学歴も技術もなく、官公庁や大企業、あるいは大規模な工場などに職を見づけることができなかった。官公庁や大企業の労働者になれば、総評や同盟などの労働組合に加入できたし、そもそも官公庁や大企業自体の保護を期待できた。ところが、未組織の労働者は、そうした恩恵にあずかることができず、不安定な地位のまま、いつ収入の道を断たれるかわからない状態にあった。まさに鈴木の指摘するように、転落の可能性があった。
 その際、都市に出てきたばかりの人間たちの受け皿となったのが創価学会だった。あるいは、立正佼成会や霊友会といった日蓮系、法華系の新宗教であった。数ある宗教のなかで、とくに日蓮系、法華系に人々が救いを求めたのは、そうした宗教においては、戸田の講演が示しているように、徹底した現世利益の実現が説かれたからだった。戸田は、大石寺に祀られた本尊を、「幸福製造器」と呼んだ。都市の下層に組み込まれた人間たちは、慣れない都市において、豊かな生活を実現したいと強く願っていた。創価学会をはじめとする日蓮系、法華系の教団は、その期待にこたえようとしたのである。
 創価学会は座談会という武器をもっていたし、立正佼成会や霊友会は「法座」という武器をもっていた。どちらも、会員たちが集まって、自分たちの目下の悩みを打ち明け、その解決策をアドバイスしてもらったり、励ましを受けたりするための場である。そうした場に集まった人間の間には、同じ境遇から来る親近感が生まれ、教団組織に一体感をもつことができた。
 こうして、創価学会は、他の日蓮系、法華系の新宗教教団とともに、高度経済成長の時代に急速に勢力を拡大し、巨大教団へと発展していった。高度経済成長によって、都市化が起こり、都市に農村部から出てきたばかりの人間たちが大量にあふれるという事態があったからこそ、短期間に急成長が可能であった。創価学会が、今でも農村部より都市部、とくにそのなかでも庶民の集まる下町で強いのはまさにそのせいである。戦後社会の大きな変化が、巨大教団を生み出したことになる。
 ただ、都市に出てきたばかりの人間たちの受け皿となったという点では、創価学会も立正佼成会も霊友会も変わらないのに、どうして創価学会だけがひとり勝ちしたのかという疑問は残ります。
 この点について著者は、創価学会と霊友会・立正佼成会の共通点と相違点を次のように整理することによって説明しています。
  創価学会  霊友会・立正佼成会 
共通点  日蓮正宗  日蓮・法華系 
座談会  法座 
相違点  開祖は知識人 
先祖供養の要素は希薄
創立者は神憑りする霊能力者

  総戒名を祀る先祖供養 
伝統的信仰を否定  伝統的信仰に融和的 
 徹底した現世利益の実現を目指し、ミニ集会を通じて信者の連帯を図るという点では、いずれも共通しており、それが都市に出てきたばかりの人間たちを引き付けたというのは前述のとおりです。
 一方、霊に対する信仰の点で、両者は異なっています。
 まず、霊友会・立正佼成会の創立者である長沼妙佼・小谷喜美は神憑りする霊能力者でした。そして、病や不幸をもたらす先祖の霊を祓うため先祖供養を重視します。それに対し、創価学会の開祖の牧口常三郎は霊能力者ではなく、先祖供養の要素も希薄でした。
 このことの意味するところを、著者は次のように述べています(65〜66ページ)。
 創価学会が、折伏大行進の号令のもと、急拡大を続けていた時代に、折伏のためのマニュアルとして配られた『折伏教典』では、「霊魂は存在しない」と断言されている。また、占いや易などについても、「これが今後の自分の人生を幸福にしていく指針だとするのは、大きな誤りであり、最大の危険である」として、その価値はまっこうから否定されている。
 創価学会に入会した者には、大石寺の板曼荼羅を書写したものが本尊として授与される。学会員たちは、その本尊を家庭で祀るために仏壇を購入した。その仏壇は、日蓮正宗に特有の形式をもつもので、「正宗用仏壇」と呼ばれる。一般の家庭では、仏壇に先祖の位牌を祀ることが一般的だが、学会員の仏壇にはなによりも日蓮の曼荼羅が本尊として祀られてきた。その点でも、創価学会には、先祖供養の要素は希薄なのである。
 そこには、創価学会の会員たちの出自がかかわっていた。彼らは農村部から都市部へ出て行く際に、実家にあった仏壇をたずさえてはこなかった。そのなかの大半は、祭祀権をもたない次、三男だったからである。彼らには祀るべき祖先がなかった。それは、彼らが、実家で実践されてきた伝統的な先祖供養から切り離されたことを意味する。そうであるからこそ、祖先の霊を中心とした霊信仰に関心をいだかなかったのである。
 すでに述べたように、創価学会に入会した人間には、戦前の創立当初から謗法払いが勧められた。謗法払いを行うには、他宗教や他宗派の信仰にかかわる神棚や仏壇などを焼却しなければならない。そうした方法を会員たちが受け入れたのも、彼らが伝統的な信仰から切り離されていたからである。そもそも多くの会員は、入会した時点で謗法払いの対象となる神棚や仏壇を祀ってはいなかった。
 創価学会は、祖先の霊を中心とした霊信仰を重視する他宗教や他宗派を否定し、謗法払いとして神棚や仏壇などの焼却が求められます。この点が組織拡大のネックとなりうるところですが、「伝統的な信仰から切り離されて」「謗法払いの対象となる神棚や仏壇を祀ってはいなかった」ことから、謗法払いという過激な手法がさほど抵抗なく受け入れられたということでしょうか。ただ、謗法払いという過激な手法が、布教の妨げにはならなかったというだけで、そのことは、「ひとり勝ち」の理由にはならないように思われます。
 著者は、さらに「ひとり勝ち」の理由として、次のように述べて(67〜68ページ)、創価学会は伝統的信仰の否定を徹底したのに対し、霊友会や立正佼成会伝統的信仰に融和的だったことを指摘しています。
 立正佼成会や霊友会の場合、総戒名に代表されるように、独自の先祖供養の形式を作り上げたものの、特定の出家集団との関係が確立されていないため、会員が亡くなったときには、会に独自な形式で葬儀を営むことができない。そのため、元々の家の宗派の形式に則って葬儀を上げることが多くなり、会への信仰を捨てて既成仏教への信仰に逆戻りするきっかけとなる危険性を秘めている。
 それに対して、創価学会員の場合には、亡くなっても日蓮正宗の僧侶に葬儀を営んでもらうことができ、生家の信仰へ逆戻りする必要はなかった。それは、信仰を継続させることにつながる。日蓮正宗との関係が切れた後にも、創価学会では、「同志葬」や「友人葬」と呼ばれる独自の葬儀形式の確立に力を入れてきたが、それには葬儀を契機に信仰を捨てさせないための防御策の意味合いがあった。
 要するに、立正佼成会や霊友会に比べた場合、創価学会の方が、独自の信仰を確立する上において、より積極的で、より徹底してきたと言えるであろう。伝統的な信仰や既存の信仰に対して、創価学会がそれを全面的に否定してきたのに対して、立正佼成会や霊友会では、むしろ融和的で、決してそれらを否定してはこなかった。
 しかし、創価学会が宗門と対立するようになるのは1970年代後半になってからで、高度成長期に組織が拡大しているときは宗門とは密接な関係にありました。確かに、日蓮は「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」(四箇の格言)と、他宗派を激しく攻撃していまたが、日蓮宗や日蓮正宗も「既存の信仰」であることに違いはないように思われます。つまり、創価学会は組織拡張期には、既存の信仰とは密接な関係にあったといえるのではないでしょうか。
 また、立正佼成会や霊友会の信者が、「元々の家の宗派の形式に則って葬儀を上げることが多くなり、会への信仰を捨てて既成仏教への信仰に逆戻りするきっかけとなる危険性を秘めている」との指摘についても、次のような指摘もあります(初公開! これが「幸福の科学」のお葬式=宝島2010/09)。
 独自の教義・世界観を持つ新宗教団体では、葬儀も独自色が強い。
 たとえば、法華系新宗教の立正佼成会や霊友会。僧侶を呼ばず、会員や参列者が読経する教団葬で故人を送る。もっとも現実には、日蓮宗の僧侶に導師を頼んだり、故人やその家族が、かつて属していた伝統宗派のルールで、葬儀をすることも多い。信者獲得の面では、伝統宗教の立場を脅かしてきた新宗教だが、こと葬儀については、ゆるやかな共存関係にあるようだ。
 ただし、信者だけで故人を送る「友人葬」中心の創価学会は例外。1991年、学会は日蓮正宗から破門され、以後、僧侶を抱えない在家信者のみの単独教団になった。
 立正佼成会や霊友会では、「僧侶を呼ばず、会員や参列者が読経する教団葬で故人を送る」ものの、「現実には、日蓮宗の僧侶に導師を頼んだり、故人やその家族が、かつて属していた伝統宗派のルールで、葬儀をすることも多い。信者獲得の面では、伝統宗教の立場を脅かしてきた新宗教だが、こと葬儀については、ゆるやかな共存関係にあるようだ」ということですから、葬儀が既成仏教への信仰に逆戻りするきっかけとなる危険性を秘めているかは、少し疑問です。

 高度成長期に地方から都会にやってきた人たちは、地縁社会のしがらみから解放されました。それは、自分の意思で宗教を選択する自由が与えられたことも意味します。そして、そのことは新宗教にとって、膨大な信者獲得の機会が与えられたことにもなります。ただ、それは創価学会のみならず、立正佼成会や霊友会も同じです。
 しかし、結局は創価学会のひとり勝ちという結果になりました。
 それは、第二代会長・戸田城聖の強烈な個性に負う所が大きいように思われます。著者は、戸田の講演を録音したレコードについて、次のように述べています(48〜50ページ)。宗教指導者としては、かなり俗っぽい生臭坊主的な雰囲気が伺えます。
 レコードは一九五〇年代に録音されたものが中心で、それは創価学会がその勢力を急速に拡大し、地方議会に議員を送るようになった時代にあたっていた。五十八年にわたる戸田の生涯においては、晩年の時期のものだということになる。
 レコードを聞いてみると、戸田の話しぶりは、まず田中角栄元首相の演説を彷彿とさせる。田中ほどだみ声ではないが、野太い声や、ざっくばらんな語り口は、田中と似ている。戸田は北海道育ちだが、生まれは石川県であった。同じ北陸の出身ということで、両者の語り口には似たところがあるのだろうか。
 一番驚かされるのは、戸田が明らかに酒を飲みながら講演を行っている点である。よく街の酔っ払いがくだを巻いて滔々と自説を披露することがあるが、戸田のはまさにそれだった。その様子が、そのままレコードに記録されているのである。
 しかも、ある講演のなかで、その時点で刊行間近だった彼の『人間革命』についてふれ、一所懸命書いたのでベストセラーにしてくれと会員たちに訴えるとともに、前半の部分はまったくのでたらめだとさえ言い放っている。
 …… 
 法悟空(池田大作の筆名)による『随筆 新・人間革命』の「恩師のレコード――獅子吼に弟子は勇気百倍!」には、レコードを出すまでの経緯が述べられている。たしかに、池田をはじめとする弟子たちには、戸田の肉声はひどく懐かしいものに思えたことだろう。しかし、酔っ払っての講演までレコード化したことは、非常に興味深い。少なくとも戸田の薫陶を受けた会員たちには、彼が酔っていようと、素面だろうと、何も気にならなかったようなのである。
 「第二章 政界進出と挫折」では、戸田の下での折伏大行進と政界進出、第三代会長・池田大作の下でのさらなる躍進、1969年の言論弾圧事件、1970年の池田の陳謝と政教分離への路線転換、1970年代後半の宗門との対立、1990年の宗門との全面対決と決別までを扱っています。
 その中で、折伏大行進の戦闘性を象徴する事件として1952年の「狸祭り事件」に触れた後、1954年の「出陣式」の様子を次のように紹介しています(72〜74ページ)。折伏大行進が始まったのは、軍国主義の時代からから10年も経っていなかったころであり、軍事教練や軍歌に抵抗はなく、むしろ軍隊的な集団行動に高揚し陶酔したのかもしれません。戦争という目的を失った軍国少年少女らに折伏という新たな目的を与えることにより強固な団結を生み出し、組織拡大に役立てようという巧みな戦略が感じられます。
 軍旗のある宗教 
 一九五四年十月には、全国から集まった青年部員一万三千名が大石寺に登山し、富士の裾野で大規模な「出陣式」を行った。その際、白い鉢巻きに登山杖をたずさえた青年部員たちは、「捨つる命は惜しまねど/旗もつ若人いずこにか/富士の高嶺を知らざるか/競うて来れ速やかに」という「同志の歌」をうたい、分列行進を行った。
 青年部員たちの前にあらわれた戸田は、「銀嶺号」と名づはられた白馬にまたがり、ゆったりとうなずいてみせた。上空では、加藤隼戦闘隊の元中隊長が操縦するセスナ機が旋回していた。四千名の女子部隊は、「駒ひきて 馬上ゆたかに/指揮とれる 師のかんばせを/仰ぎ見つつ 前駆を 前駆をなさん/黒髪を 風になびかせ」という「憂国の華」の歌で、馬上の戸田に応えた。
 戸田は、明らかに天皇の閲兵式を真似ている。そのため、「天皇のマネをしている」と揶揄され、「軍旗のある宗教」と叩かれた。実際、青年会員の組織は、「男子青年部隊」や「女子青年部隊」と名づけられ、そのなかには「参謀室」が置かれていた。参謀室の室長になったのが、池田大作であった。
 当時、戸田をはじめとして学会員たちは、「勝負でいこう」「仏法は勝負だ」といった言葉をくり返し使っていた。その根拠は、一二七七(建治三)年の日蓮の遺文、「四条金吾殿御返事」に求められた。そのなかでは、「夫(それ)仏法と申(もうす)は勝負をさきとし、王法と申は賞罰を本とせり」と述べられていた。ただし、この遺文には、日蓮の真筆は存在しない。
 会員たちのうたう歌にしても、「同志の歌」「同志の桜」「桜花」「日本男子」「女子部闘争歌」と題されているところからもわかるように、軍隊調のものが多かった。創価学会の会員は、中国の古典『三国志』や『水滸伝』を好むが、それも、自分たちを、そうした物語のなかの英雄になぞらえようとするからである。