読書ノート / 通史
 所在地不明の天皇陵は極めて多い
2019/9/19
 検証 天皇陵 
編・著者 外池(といけ)昇/著
出版社 山川出版社
出版年月 2016/7/25
ページ数 377
判型 A5
税別定価 2000円

 本書は、天皇陵(天皇の墓は陵と呼ばれています)専門の研究者による、初代神武天皇から第124代昭和天皇までの歴代天皇陵を網羅した図説集です。それぞれの天皇陵について、写真や図入りで、系譜、事績、所在地を紹介しています。図説が、全体の3分の2強で、残りの3分の1弱は論文集となっています。
 それぞれが独立した叙述となっているので、天皇陵の全体像が掴みにくくなっています。そこで、本書の記述を参考にして、天皇陵の変遷を整理し、いくつかのテーマを、次のようにまとめてみました。

天皇陵の変遷:平安以前は、ほとんどが所在地不明
【文久の修陵:幕府と朝廷の利害関係が一致】
神武天皇陵:架空の人物の墓が一人歩き
【応神・仁徳天皇陵:「諸陵寮」の記載と一致しているが】
【天武・持統天皇:廃墟同様の状態になっていた?】
【明治天皇陵:作られた伝統】


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天皇陵の変遷:平安以前は、ほとんどが所在地不明

 「歴代天皇・年号事典」(吉川弘文館)は、「神武天皇から昭和天皇まで、すべての天皇を網羅し、略歴、事跡、重要な歴史的事項を詳細に・平易に解説した読む事典」ですが、「各天皇の治世中に制定された年号や、埋葬された陵も収録」していて、著者も天皇陵を網羅的に概観するための「手掛かり」としています。 
 「歴代天皇・年号事典」の天皇陵の項目の担当者6人のうち5人は宮内庁書陵部に勤務経験のある研究者だそうです。その「歴代天皇・年号事典」の記述からしても、天皇陵には所在地が不明になったことのある場合は極めて多いことを著者は指摘し、さらに次のように述べています(25〜26ページ)。
 それぞれの天皇陵についてみれば、所在地が不明となった時期や理由、また、所在地の考証の時期や内容、あるいは考証の結果見出された所在地が、別の研究者による考証の結果所在地が変更されることの有無や、それらの考証の内容等についてはさまざまであろう。そのような視点からすれば、天皇陵がたどってきた足跡は実にさまざまであるということができる。
 しかし今日、初代神武天皇以来すべての歴代の天皇陵は宮内庁の管理の元に整然と、そしてあたかも歴然と存在している。しかしそれは、古代の天皇の陵であれば古代そのままの姿で、中世や近世の天皇の陵であれば中世や近世そのままの姿や場所で今日に伝えられているのではないのである。
 天皇陵の所在地に特に注目してこれまでみてきたのであるが、本文をご覧頂ければ明瞭なように、所在地が不明であった天皇陵はとても多いし、現在のそれと定められている場所に決定されるに際しての考証も、必ずしもそこが唯一の候補であった例ばかりではない。仲哀天皇陵の例でみたように、考証の結果他の場所に変更される場合も少なからずあったのである。であるから、今日宮内庁がどこそこは○○天皇陵であるとして管理しているからといって、その天皇陵が営まれてから全く所在地が不明になったことがないということでも、また、仮に一時期その天皇陵の所在地が不明となったことはあったとしても、その後、確実な考証が行われて、その天皇陵は他の場所では決してありえないという考証上の不動の裏付けがあるということでもないのである。
 今日、宮内庁がどこに○○天皇陵があるとしていることも、決して短くはない天皇陵がたどってきた年月のなかでのある一時期の姿として捉えられなければならないのである。そして今日見られるその姿にしても、近代・現代における天皇陵の姿を象徴具現したものなのであって、決して古から一貫して保たれ続けてきた姿ではない。このことがよくわかっていないと、天皇陵に関する事柄を正確に理解することは困難である。
 本書の説明を参考にして、所在地が不明になったことのある天皇陵がどれくらいあるのか調べてみました。
 結果は次のとおりです。■は「始めから所在地不明の場合」で、▲は「途中から所在地不明となった場合」を指します。■と▲の右の年号は、所在地が特定された時期を示します。
 =で結ばれた天皇(ex.開化=景行)は、陵の所在地が全く同じであることをしめしています。:に続く記述は、葬儀方式、陵墓形式を示しています。
 所在地不明とされていない場合も、平安時代以前の天皇陵については、そのほとんどの所在地に、考古学者や歴史学者から疑問が示されています。
1-神武
2-綏靖▲元禄
3-安寧■文久
4-懿徳▲文久
5-孝昭▲元禄
6-孝安▲文久
7-孝霊▲元禄
8-孝元■文久
9-開化=景行
10-崇神
11-垂仁=安康
12-景行=開化
13-成務=神功
14-仲哀▲文久
15-応神
16-仁徳
17-履中
18-反正
19-允恭
20-安康=垂仁
21-雄略
22-清寧
23-顯宗▲明治
24-仁賢▲文久
25-武烈:不明
26-継体:異説
27-安閑
28-宣化▲元禄
29-欽明■文久
30-敏達
31-用明
32-崇峻■明治
33-推古
34-舒明▲元禄
35-皇極(斉明)
36-孝徳
37-斉明▲文久
38-天智
39-弘文■明治
40-天武
41-持統
42-文武▲明治
43-元明▲文久
44-元正▲文久
45-聖武
46-孝謙(称徳)
47-淳仁▲明治 
48-称徳
49-光仁▲元禄
50-桓武▲明治
51-平城■元禄
52-嵯峨▲文久
53-淳和:散骨
54-仁明▲文久
55-文コ▲文久
56-清和:火葬
57-陽成▲文久
58-光孝▲明治
59-宇多:火葬
60-醍醐
61-朱雀
62-村上▲明治
63-冷泉▲明治
64-円融▲明治
65-花山▲文久
66-一条▲文久
67-三条▲明治
68-後一条▲明治
69-後朱雀▲文久
70-後冷泉▲文久
71-後三条▲文久
72-白河▲文久
73-堀河▲文久
74-鳥羽▲文久
75-崇徳
76-近衛:多宝塔
77-後白河:方形堂
78-二条▲明治
79-六条▲文久
80-高倉
81-安徳■明治
82-後鳥羽:十三重塔
83-土御門▲文久
84-順徳
85-仲恭■明治
86-後堀河▲文久
87-四条:泉涌寺九重塔
88-後嵯峨▲文久
89-後深草:方形堂
90-亀山:天龍寺内
91-後宇多:方形堂
92-伏見:深草法華堂
93-後伏見:深草法華堂
94-後二条 
95-花園▲文久
96-後醍醐
97-後村上
98-長慶■昭和
99-後亀山:五輪塔
北1-光厳
北2-光明▲明治
北3-崇光▲文久
北4-後光厳:深草法華堂
北5-後円融:深草法華堂
100-後小松:深草法華堂
101-称光:深草法華堂
102-後花園:宝篋印塔
103-後土御門:深草法華堂
104-後柏原:深草法華堂
105-後奈良:深草法華堂
106-正親町:深草法華堂
107-後陽成:深草法華堂
108-後水尾:泉涌寺九重塔
109-明正:泉涌寺九重塔
110-後光明:泉涌寺九重塔
111-後西:泉涌寺九重塔
112-霊元:泉涌寺九重塔
113-東山:泉涌寺九重塔
114-中御門:泉涌寺九重塔
115-桜町:泉涌寺九重塔
116-桃園:泉涌寺九重塔
117-後桜町:泉涌寺九重塔
118-後桃園:泉涌寺九重塔
119-光格:泉涌寺九重塔
120-仁孝:泉涌寺九重塔
121-孝明:泉涌寺山陵
122-明治:伏見桃山陵
123-大正:多摩陵
124-昭和:武蔵野陵
 本書には説明はありませんが、天皇陵の形態と埋葬方式は時代によって変遷しています。
 古墳時代の大王は、土葬で古墳に埋葬されていました。7世紀の飛鳥宮時代になると大規模な前方後円墳は作られなくなります。天武・持統天皇陵は小規模な円丘です。
 奈良時代には、平城京を作る際には古墳が壊される事例があったようで、「奈良時代の人々は自らの先祖とでもいうべき古墳時代の墳墓に対して、極めて冷淡な仕打ちをしていたことが伺え」るそうです(奈良文化財研究所 > なぶんけんブログ > 奈良時代における古墳)。元明天皇は、薄葬の詔により、「火葬し、他に改めることなく棘を刈り場を開いて喪所とし、その地には常葉の樹を植え、「刻字之碑」を立てるべきことを遺命」したそうです(国史大辞典)。宮内庁の説明では、奈良時代の多くの天皇陵は「山形」となっています。「山形」とは何かについての説明はありませんが、どうやら自然の丘のようです。
 平安時代になると、生前退位が常態化します。退位した天皇は上皇となりますが、「治天の君」として実権を保持できたのはごく少数で、多くの上皇は死去したときは「過去の人」となっていました。淳和天皇は、「山陵を営まず骨を砕いて山中に散ずべきことを遺命」(淳和天皇|国史大辞典)したということですから、そもそも墓がなかったことになります。清和天皇や宇多天皇も墓は作られなかったようです。その他、多くの天皇は火葬され遺骨は寺に埋葬されることが多く、寺が消失し埋葬地は不明となっていたようです。
 鎌倉・室町時代は、ほとんどの天皇は火葬され、遺骨が深草法華堂に納骨されています。
 江戸時代は、すべての天皇が泉涌寺の九重塔に埋葬されています。初めは火葬でしたが、後光明天皇からは、火葬に擬された荼毘の儀を経て九重塔の下に土葬されるようになりました。
 泉涌寺の九重塔は次の写真のようなものです(月輪陵・後月輪陵 | 日本秘境探訪)。泉涌寺は、大名の菩提寺のようなものだったのでしょうか。 

 鎌倉以降の天皇のほとんどは、納骨堂(深草法華堂)や泉涌寺にまとめて埋葬されているので、墓(天皇陵)の所在地は確定しています。しかし、平安以前については、ほとんどの天皇陵は所在地が不明となっていました。ところが、江戸時代になって、天皇陵の所在地を調査し、修復しようとする動きが出てきます。このような動きには、国学の勃興が関係していることが指摘されています(《公開講座記録》【「大和学」への招待】元禄の山陵調査と細井知名)。


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【文久の修陵:幕府と朝廷の利害関係が一致】

 天皇陵の調査と修陵は、江戸時代を通じて何度か行われたそうです( 京都大学大学院文学研究科21世紀COE/幕末の天皇陵改造―文久の修陵―(山田邦和))。主なものをまとめると次のようになります。
元禄10〜12年(1697〜1699) 元禄の修陵 元禄山陵図
享保3・4年(1718〜1719) 享保の修陵
文化3年〜5年 (1806〜1808) 文化の天皇陵調査
安政2年(1855) 安政の天皇陵調査 安政山陵図
文久2年〜慶応元年(1862〜1865) 文久の修陵 文久山陵図
 このうち最大のものは文久の修陵ですが、これは宇都宮藩が建白書を幕府に提出して行ったものです。これには、「文久2(1862)年,同藩士大橋訥庵らが坂下門外での安藤信正襲撃事件関係者として逮捕され,藩に害がおよぶのを避ける目的もあった」という意見もあります( 戸田忠至(とだ ただゆき)とは - コトバンク)。さらに、「元治1(1864)年水戸天狗党の筑波山挙兵の討伐に出兵が遅れたため,幕府の嫌疑を受け,慶応1(1865)年隠居謹慎。養子忠友が2万7850石を減封されて陸奥棚倉に移封を命じられたが,同年10月山陵修理の完成の功績により,忠恕は謹慎を免され,戸田家は7万7850石に復されて転封は中止になった」という説明もあります(戸田忠恕(とだ ただゆき)とは - コトバンク)。
 「桜田門外の変」(1860)で大老・井伊直弼が暗殺された後、幕府は公武合体路線に転じますが、その推進役の老中・安藤信正が「坂下門外の変」(1862)により負傷し老中を退きます。幕府は、一橋慶喜を将軍後見職に任じ、国政についての意見を諸大名に求めます。それを受けて、宇都宮藩は「山陵修築の建白書」を幕府に提出し、採用されます。山陵修築の内容は次のようなものです(地域社会のなかの陵墓 - 天理大学)。つまり、朝廷の権威により体制の立て直しを図りたい幕府と、幕府の財力と人力によって権威をさらに高めようとする朝廷の利害関係が一致したことにより、大規模な修陵計画が実現したことになります。
 これを受けて、宇都宮藩主戸田忠恕は、文久2年(1862)閏8月に「山陵修築の建白書」を幕府に提出しました(宇都宮は、陵墓を調査して『山陵志』を著した蒲生君平〔1768〜1813〕の出身地でもありました)。これは、「官武御一和」をはかり、幕府の「御武威」を高める具体策として、提示されたものであり、この献策は幕府によって認可されるところとなりました。また、朝廷の側でもこれを歓迎し交渉の結果、費用は幕府が負担し、指示は朝廷(「山陵御用掛」)が行うという形で、「山陵奉行」に任命された宇都宮藩の家老戸田忠至を中心に、修陵事業が実施されることになったのです。陵墓の調査や、それなりの手当ては、それ以前(元禄・享保・文化・安政期)にも実施されていましたが、「文久の修陵」は、事業の規模・方法・内容において、これらとは明らかに一線を画するものでした。
 天皇の権威を高めることが修陵の目的ですから、次のように、「神武陵」の築造が最大のイベントとなりました。当時は「陵墓周辺の村人らは、陵墓内に自由に立ち入り、通行するとともに、陵墓やその周りの地を、耕作地、雑木(燃料)や草(肥料)の採取地、用水源として利用していました」が、修陵後は、それぞれの陵墓は囲い込まれ、立ち入りが禁止されるようになったということです。
 修陵工事は、「神武陵」を皮切りに、文久3年(1863)5月から慶応元年(1865)9月にかけて、五畿内(大和・山城・摂津・河内・和泉)を対象に実施されました(一部、丹波・讃岐のケースも存在しました)。注目されるのは、「神武陵」の築造が最も重視されたことであり、そのために支出された金額は、「文久の修陵」に際して幕府から支給された7万3814両余のうち、1万3759両余にものぼっていました。神武天皇は、記紀に記された神話上の存在ですが、「万世一系」とされる天皇の、初代にふさわしい陵墓が「創出」されたと言うことができるでしょう。


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神武天皇陵:架空の人物の墓が一人歩き

 日本書紀や古事記によれば、神武天皇は、天孫降臨したニニギノミコトの曾孫で、日向から東征し、前660年大和畝傍橿原宮に都し、元旦に初代天皇として即位し、127歳(あるいは137歳)で没したと伝えらています(神武天皇(じんむてんのう)とは - コトバンク日本書紀巻第三古事記 中卷-1)。宮内庁のサイトでは、日本書紀の記述にしたがった系図を掲載しています。 
実在しなかった人物であっても、墓は存在する
 神武から数代の天皇は神話の世界の存在で、歴史的な事実としては実在しない人物です。そのような実在しない人物に墓はあるのという疑問があります。この点について、著者は次のように述べています(17〜18ページ)。
 確かに、たとえ実在しなかった人物であっても、現にその墓が祭祀の対象となっている以上、墓(天皇陵)は存在すると言わざるを得ないように思われます。
 ところが、『古事記』『日本書紀』にみえる我が国の成り立ちや、神々の世をめぐるできごと、または右にみた初代神武天皇、およびそれ以下数代の天皇についての記述は、いわゆる神話に属することであって、歴史的な事実とは異なるものである。そうであれば、初代神武天皇、およびそれ以下何代かの天皇までは、歴史的な事実というよりは神話のなかの天皇であり、歴史的な事実という点からすれば実在しなかった天皇である。
 ところが、『古事記』『日本書紀』はそれら実在しなかった天皇の陵についても記しているのである。そして、それら実在しなかった天皇の陵も実際には『古事記』『日本書紀』の記述に基づいて決定されており、今日なお宮内庁の管理下にある。つまり、歴史的事実として存在しなかった天皇の陵も、厳然として眼前に存在するのである。このことは今日における歴史学の成果に照らして実に大きな矛盾といわざるを得ないが、このことをも含めて天皇陵なのである。
 本書では、これら歴史上実在しなかった天皇の陵をも含めて取り上げる。そうでなければ、天皇陵のことは理解できない。
・「丸山」「神武田」「塚山」の3説
 陵の所在地については、古事記では「畝火山之北方(うねびやまのきたのかた)、白橿尾上(かしのおのえ)」、日本書紀では「畝傍山東北陵」となっています。
 これらの記載から、畝傍山中の「丸山(まるやま)」、山本村の「神武田(じぶでん)」、四条村の「塚山(つかやま)」の3説がありました。「聖蹟図志」には3箇所(赤線で囲みました)が示されています(本書35ページ)。この図は、東が上になっています。「聖蹟図志」は、安政元年(1854)の序のある陵墓図集です。説明文を見ると、作者は「塚山」を第1候補と考えていたようです。

 文久の修陵では、文久3年(1863)2月の孝明天皇の「御沙汰(ごさた)」により、「神武田」説が採用されました。そもそも、神武天皇は架空の人物なので墓(陵)があるはずはありません。しかし、修復をするためには、所在地を特定しなければなりません。そこで、天皇の「鶴の一声」で決めざるをえなかったのかもしれません。
 著者は普請工事の様子を次のように述べています(34〜36ページ)。
 文久三年五月からは奈良奉行(ならぶぎょう)の監督のもと、山陵奉行戸田忠至(とだただゆき)率いる宇都宮戸田藩による大規模な普請がなされた。神武田の大小ふたつの小丘が壮重な神武天皇陵に造り替えられたのである。近くの桜川から引水され周濠も設えられた。十二月には勅使(ちょくし)を迎えて竣成(しゅんせい)が奉告された。『文久山陵図』(鶴澤探眞=つるさわたんしん、画)による「荒蕪(こうぶ)」図と「成功(せいこう)」図からはこの普請の前後の様子をよく窺うことができる。明治二十三年(一八九〇)四月には、神武天皇陵の隣地に神武天皇・同皇后媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)を祭神とする橿原神宮(かしはらじんぐう)が鎮座し、昭和十五年(一九四〇)の紀元二六〇〇年に至るまで神武天皇陵は拡張・整備が続けられた。また、神武天皇陵の拡大に伴ない被差別部落洞(ほら)村が強制移転された。
 『文久山陵図』の「荒蕪」図と「成功」図は次のようなものです(本書33ページ)。神武天皇陵といっても、何の変哲もないちっぽけな丘があるだけです。 丘そのものは修復のしようがないので、周濠をめぐらしてそれらしい体裁を整えています。

 現在では、下の地図が示すように、神武天皇陵の内外にびっしりと樹木が生い茂り、様子は一変しています。畝傍山の南東麓には、明治23年(1890)橿原神宮が創建されました。「約50万平方メートルもの広大な神域に建てられた檜皮葺き(ひわだぶき=檜の樹皮を屋根に使ったもの)で素木(しらき)造りの本殿と神楽殿が、玉砂利の参道と背景となる深い森の緑に調和して、なんともいえない爽やかさと、厳かな雰囲気を生み出しています」「本殿は京都御所の賢所(かしこどころ)を移築したものです」(かしはら探訪ナビ)。架空の人物の墓(といっても、何の変哲もないちっぽけな丘)が一人歩きし、皇国日本を象徴する一大モニュメントに発展したのです。今風に表現するならば、神武天皇陵と橿原神宮エリアは、明治になって作られた古代史テーマパークだと言えるでしょう。

橿原神宮周辺に縄文時代晩期の遺跡 
 1938年に全国からの奉仕隊によって、「皇紀2600年(西暦1940年)祭」に向けて橿原神宮周辺整備が進められました。この事業にともなって発掘調査を行ったところ、縄文時代晩期の遺跡(橿原遺跡)が見つかりました。遺跡が存在する一帯は現在、県立橿原公苑という総合運動施設となっています。上の地図の右下部分の陸上競技場や野球場のある辺りです。「本遺跡からは地域の中核的性格をもった集落であることを裏付けるかのように、非在地性の出土品が目立って多く出土し」「本遺跡は西日本に位置しながら東日本との文化の交流の基点としての重要な役割を果たした遺跡ということができる」ということです( 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館/橿原遺跡)。この遺跡調査が橿原考古学研究所設立のきっかけとなっています(橿原考古学研究所)。
 「文久三年(1863)に、その北側の畝傍北山麓でおこなわれた神武陵築造の際に後半期の土器がほぼ完形に近い形で発見されています」(橿原市/橿原市の縄文時代 詳細)ということです。
 橿原遺跡の存在を神武天皇実在説に関連付ける考古・古代史学者もいます(「神武天皇は2000年前に実在」奈良・橿原神宮で皇学館大・岡田名誉教授が講演)。


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【応神・仁徳天皇陵:「諸陵寮」の記載と一致しているが】
 
 しかし、古代の天皇陵(古墳)が誰の墓なのか、どのようにして決めているのでしょうか。古墳には墓碑はないので、副葬品の銘文などを手がかりにする他ないのですが、宮内庁は天皇陵の発掘を認めていません。では、どのようにして決めているのでしょうか。
 この点について、著者は次のように述べています(253〜255ページ)。この記述を見る限りでは、応神天皇陵および仁徳天皇陵とされている古墳の所在地は、『延喜式』「諸陵寮」の記載と一致しています。しかし、日本書紀や古事記には大雑把な所在地しか示されていません。
そして、「諸陵寮」は、日本書紀や古事記よりも250年ほど後の文献です。「諸陵寮」の作者は、どのようにして詳細な所在地や規模を確定できたのでしょうか。
 しかし、ある古墳に「応神天皇」や「仁徳天皇」が葬られているとされる場合、全く根拠がないとも思えない。ただしその場合根拠となる文献史料とは、古墳時代のものではなくはるか後世に成立した文献史料である。具体的には、和銅(わどう)五年(七一二)の『古事記』、養老(ようろう)四年(七二〇)の『日本書紀』、康保(こうほう)四年(九六七)の『延喜式(えんぎしき)』「諸陵寮(しょりょうりょう)」である。それならば、『古事記』や『日本書紀』、または『延喜式』「諸陵寮」に記された天皇陵についての記述と、現実に存する古墳とを照らし合わせれば、どの古墳が「○○天皇の陵」であるということがはっきりとわかるのであろうか。
 まず、応神天皇陵についてみる。
 『古事記』には、「御陵は川内(かふち)の恵賀(えが)の裳伏(もふし)の岡(おか)に在り」とあり、『延喜式』「諸陵寮」は「恵賀裳伏崗陵軽嶋明宮(えがのもふしのおかのみささぎかるしまのあきらのみや)御宇応神天皇。河内(かわち)国志紀(しき)郡に在り。兆域(ちょういき)東西五町。南北五町。陵戸(りょうこ)二。守戸(しゅこ)二」とある。『日本書紀』にはどのように記されているかというと、なぜか何も書かれていない。
 この記述を根拠として、どの古墳が応神天皇陵かを考えてみる。
 まず、場所について考えてみると、「川内」(『古事記』)、「河内国志紀郡」(『延喜式』「諸陵寮」)とあるのが手掛かりとなる。つまり、『古事記』編纂の頃に「川内」、『延喜式』編纂の頃に「河内国志紀郡」とされた地域に、「東西五町。南北五町」という規模の古墳を探せばよいことになる。
 「川内」「河内国志紀郡」は、今日の大阪府東南部にあたり、そこには古市(ふるいち)古墳群がある。そして、「東西五町。南北五町」といえば、「河内国」にある天皇陵のなかでも最大であるから、古市古墳群で最大の古墳が該当する。すると、誉田御廟山古墳(大阪府羽曳野(はびきの)市誉田)が応神天皇陵ということになる。
 この結論は、現在、宮内庁が応神天皇陵として管理している古墳と同じである。
 次に、仁徳天皇陵についてはどうだろうか。
 『古事記』は「毛受之耳原(もずのみみはら)」としている。『日本書紀』は「百舌鳥野陵(もずののみささぎ)」として、仁徳天皇が生前、河内の石津原(いしづはら)に行き自らの陵地を作り始めたという説話を併せて記載している。そして、『延喜式』「諸陵寮」には「百舌鳥耳原中陵難波高津宮(もずのみみはらのなかのみささぎなにわのたかつのみや)御宇仁徳天皇。和泉(いずみ)国大鳥(おおとり)郡に在り。兆域東西八町。南北八町。陵戸五」とある。
 これを具体的に考えてみる。この場合、『古事記』『日本書紀』にみえる「毛受之耳原」「百舌鳥野陵」の記述もさることながら、『延喜式』「諸陵寮」の「百舌鳥耳原中陵」、また「和泉国大鳥郡」「兆域東西八町。南北八町」という記述が有効な手掛かりとなる。「和泉国大鳥郡」とされるのは今日の大阪府南部にあたるので、その地域にある百舌鳥古墳群から「東西八町。南北八町」に相応する古墳を探せばよい。
 この「東西八町。南北八町」は、「和泉国大鳥郡」のみならず『延喜式』「諸陵寮」の示す天皇陵の規模のうちで最大である。それに加えて「百舌鳥耳原中陵」に注目すれば、何基か並んだ古墳の中央部に位置する古墳ということになる。以上を考え合わせると大山古墳(大阪府堺市堺区大仙町)ということになる。これも、今日宮内庁によって「仁徳天皇陵」とされているとおりである。
・「少なくとも学問的な正確さを欠く可能性」
 著者も次のように述べて(256〜258ページ)、「諸陵寮」の編纂者は、何を根拠として応神天皇陵や仁徳天皇陵について記述したのかについて疑問を示しています。『宋書』「倭国伝」は、倭王「珍」と「済」との血縁に関してなにも記していないことに言及していますが、そこから、「仁徳の実在性は極めて疑わしい」(読書ノート/名前でよむ天皇の歴史 )という推論までには踏み込んでいません。
 また、応神天皇陵や仁徳天皇陵と呼ぶことについても、「少なくとも学問的な正確さを欠く可能性が含まれる」と述べるに留まっています。このあたりは、考古学者や古代史学者とは、微妙に立ち位置が異なっているようです。
 このように、古墳に葬られた人の名を刻する墓誌がなくとも、後世の文献史料を根拠にして、どの古墳がどの天皇の陵なのかを、正しく確定できるのではないかと考えられることになる。
 しかし、一般に「応神天皇」や「仁徳天皇」いう名称は、『古事記』『日本書紀』、または『延喜式』「諸陵寮」に記された天皇の謐号(亡くなってから贈られる名)であって、古墳そのものから得られた情報ではなく、古墳が造営された時代の資料などから得られたものでもないのである。
 古墳時代のピークは五世紀とされるので、『古事記』『日本書紀』の成立した八世紀や『延喜式』の成立した十世紀と比較して考えれば、この間に流れた年月は何百年という単位となる。はたして『古事記』や『日本書紀』、そして『延喜式』の編纂者は、何を根拠として応神天皇陵や仁徳天皇陵について記述したのであろうか。さらにいえば、何のために『古事記』『日本書紀』『延喜式』には、応神天皇陵・仁徳天皇陵について記されているのであろうか。
 この疑問について解明できなければ、これらの文献史料に拠って応神天皇陵や仁徳天皇陵がどの古墳に相当するのかが、学問の上で解明されたということにはならないのである。
 それに加えて、ことに応神天皇や仁徳天皇については大きな問題がある。この頃の歴史については、中国の歴史書にも記述されているのである。その歴史書とは『宋書』「倭国伝」である。『宋書』と『古事記』『日本書紀』『延喜式』の記載内容を比較すると、そもそも、その呼称からして異なるのである。

 『宋書』「倭国伝」では「天皇」とはせず、「王」と記述されている。また系譜も違う。「倭の五王の系譜」「天皇の系譜」のとおりである。代数も七代と五代である。さらに、『宋書』「倭国伝」は、倭王「珍」と「済」との血縁に関してなにも記していない。『古事記』『日本書紀』では、それぞれの天皇が血縁で結ばれていてそのことに例外はない。著しい相違と言わざるを得ない。これらの矛盾や相違点をひとつひとつ解きほぐしていかなければ、どの古墳がどの天皇陵かなどとは決して軽々に言えるものではない。
 それでは『宋書』はいつ成立したのか。西暦四八八年である。まさに、古墳時代最中の同時代になった文献史料である。歴史的に物事を考える際に、できるだけ近い時期に著された文献史料に信を置くことについては、およそ異論のないところであろう。
 こうしてみると、先にみた誉田御廟山古墳や大山古墳が、応神天皇陵と仁徳天皇陵に相応するという考察、および宮内庁の治定は、再度考え直してみる必要があるのではなかろうか。
 古墳には誰が葬られているのか。謎は尽きないが、ある古墳のことを応神天皇陵や仁徳天皇陵と呼ぶことは、少なくとも学問的な正確さを欠く可能性が含まれるものである。
日本書紀の記述分量にしたがって割り振った?
  文化庁の資料によれば、世界文化遺産に登録された「百舌鳥(もず)・古市古墳群」の古市エリアの古墳群は次のように構成されています。

 百舌鳥エリアの古墳群は次のように構成されています。

 両エリアの位置関係は次のようになっています。
 
 「応神天皇陵」や「仁徳天皇陵」の所在地を特定するにしても、日本書紀や古事記にある「川内の恵賀の裳伏の岡」「毛受之耳原」「河内の石津原」では漠然としすぎています。たとえ、おおまかな場所を推測できたとしても、複数の古墳が群になっています。
 そこで、仁徳、応神、履中、仲哀、反正の順になっている、日本書紀の記述分量にしたがって、古墳の大きさ順に各天皇陵を割り振ったというところではないでしょうか。そうすると、『延喜式』「諸陵寮」の兆域は、その結果を記述したに過ぎないことになります。また、仁徳、履中、反正陵について、考古学的な築造年代順と皇統譜の順の食い違いが生じうることになります(読書ノート/こんなに変わった歴史教科書)。


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【天武・持統天皇:廃墟同様の状態になっていた?】

 天武・持統天皇の陵とされる野口王墓古墳は、その被葬者が確かな数少ない天皇陵とされています(121ページ)。
 6世紀末から7世紀末にかけての約100年間、次の表のように政治の中心は、概ね飛鳥地方にありました(飛鳥宮跡解説書飛鳥宮〜国のはじまり〜《明日香村》)。 

 飛鳥宮は次のイラストのようなものであったと創造されています(飛鳥の歴史 | 国営飛鳥歴史公園)。イラストの飛鳥板蓋宮の場所には、飛鳥岡本宮、飛鳥板蓋宮、後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮の遺跡が3層になっています。つまり、古い宮を撤去した後に新しい宮が建てられているのです(飛鳥宮跡解説書)。

 飛鳥浄御原宮を拠点に律令国家への礎を築いたのは、天武天皇とその死後跡を継いだ持統天皇です。天武天皇の皇后であった持統天皇の遺骨は、天武天皇陵に合葬されました。持統天皇は史上初めて火葬された天皇とされています。したがって、天武天皇の遺骸は石棺に納められ、持統天皇の遺骨は、石室内の骨壷に納められたと推測されます。
・野口王墓古墳説と丸山古墳説が拮抗
 天武・持統天皇陵は、野口王墓古墳(赤線で囲んだ古墳)と治定されています。
 
 しかし、天武・持統天皇陵については、丸山古墳(見瀬丸山古墳、青線で囲んだ古墳)説も有力で、野口王墓古墳説と拮抗していました。
 「聖蹟図志」(1854年の序のある陵墓図集)では、左下の丸山古墳(青線で囲んだ部分)も、野口王墓古墳(赤線で囲んだ部分)も、天武・持統天皇合葬陵と記されています。丸山古墳には2つの石棺があると記述されています(紫線で囲んだ部分)。「高取城築城のため、陵墓の巨石や益田池の碑右が持ち去られたと思われる」との内容の記述(緑線で囲んだ部分)もあります(122ページ)。

 「安政山陵図」(1855年の奥書のある山陵図集)では、丸山古墳が天武・持統天皇陵とされ、野口王墓古墳は文武天皇陵とされています(121ページ)。

 文久の修陵では、丸山古墳が天武・持統天皇陵として、野口王墓古墳は文武天皇陵として、いずれも仮修補されました。持統天皇は火葬されているので、合葬陵には石棺は1つしかないはずです。丸山古墳には2つの石棺があるので、合葬陵とするのは不自然です。文久の修陵で考証面を担当した谷森善臣(たにもりよしおみ)はそのことを主張したものの、採用されなかったということです。
・「御骨」が路頭に棄てられていた
 天武・持統天皇陵の所在地についての混乱は明治まで続きますが、1881(明治14)年の改定で、野口王墓古墳とすることで決着が着きます。1880(明治13)年に、「阿不幾乃山陵記(あおきのさんりょうき)」が見つかったことが、改定に大きな影響を及ぼしました。その経緯を著者は次のように説明しています(286〜287ページ)。
 その新発見の文献史料とは『阿不幾乃山陵記(あおきのさんりょうき)』である。『阿不幾乃山陵記』は、嘉禎(かてい)元年(一二三五)三月に野口王墓古墳が盗掘された際に記された同古墳石室内の実検の記録である。その記述は精緻を尽くすものであり、天皇陵の内部の観察が叶わない今日において、歴史学・考古学の上での貴重な知見を学界に提供する史料である。その『阿不幾乃山陵記』が、明治十三年六月十三日に栂尾(とがのお)の高山寺(京都市右京区梅ヶ畑栂尾町)において、古文書・古典籍の蒐集家である田中教忠(たなかのりただ)によって発見されたのである。
 この野口王墓古墳の盗掘については、藤原定家(ていか)の日記『明月記(めいげつき)』の嘉禎元年四月二日条・六月六日条等にも記されており、当時、この事件はよく知られるところであったことがわかる。『明月記』には、盗人によって持統天皇の遺骨を納めた「銀筥」が持ち去られて、「御骨」が路頭に棄てられていたことなどが記されている。
 それにしても、『阿不幾乃山陵記』の発見は衝撃的であった。これを根拠として宮内省官吏の大沢清臣(おおさわすがおみ)と大橋長息は早くも同年十二月に「天武天皇持統天皇檜隈大内陵所在考」を著し、宮内省による天武・持統天皇陵改定の直接の契機となった。
 嘉禎元年の盗掘によって持統天皇の遺骨が納められた「銀筥」が持ち去られたとすれば、天武・持統天皇陵の石室内には、天武天皇の遺骸を納めた石棺一基のみが存するはずである。『阿不幾乃山陵記』の描く野口王墓古墳の石室内の様子は確かにその通りのものであった。このことは、今日の考古学者のほとんどが野口王墓古墳を天武・持統天皇陵とすることに異を唱えることがないことの大きな根拠のひとつであることは確かである。
 しかし、『阿不幾乃山陵記』に記された天武・持統天皇陵の石室内の詳しい様子そのものが、天武・持統天皇陵改定の根拠となったのではなかった。
 それでは、何を根拠として天武・持統天皇陵の改定が行われたのかというと、次の通りの事柄によるのである。
 当時すでに知られていた史料であるが、正治二年(一二〇〇)の『諸陵雑事註文』には「大和国青木御陵天武天皇御陵」とあり、鏡恵比丘の『西大寺塔三宝田畠目録』には「高市郡三十一条二坪内御廟東辺字青木」と記述されていた。そして、このたび発見された『阿不幾乃山陵記』には「阿不幾山陵里号野口」と記されていたことが確認されたのである。つまり、「阿不幾」が「青木」と同じ読みであり、その地に天武・持統天皇陵があるということはすでにわかっていたので、「阿不幾山陵」が「里号野口」ということであれば、野口村にある野口王墓古墳こそが紛れもない天武・持統天皇陵であると証明されたのである。このことを根拠として天武・持統天皇陵を見瀬丸山古墳から野口王墓古墳へ改定するよう上申されたのである。
 天武天皇の年齢研究−天武・持統天皇陵に「阿不幾乃山陵記」の詳細な解説があります。本書では、明月記の嘉禎元年4月2日条に野口王墓古墳の盗掘についての記載があるとしていますが、これは4月22日の間違いです(明月記. 第3 - 国立国会図書館デジタルコレクション)。
 名月記には、「天武天皇大内山稜が盗掘された」という意味の記載があるので、鎌倉時代の初期には、天武・持統天皇陵の場所は分かっていたことになります。持統天皇の遺骨は路頭に棄てられていたということには驚かされます。「実躬卿記」によると、1293年に再び盗掘があり、天武天皇の頭骨まで持ち出されたということです(天武天皇の年齢研究−天武・持統天皇陵)。
 「安政山陵図」に描かれた野口王墓古墳の図では、入り口がむき出しになっているように見えます。南北朝・戦国の動乱の中で、統治能力を失った朝廷では管理できなくなり、多くの古墳は廃墟同様の状態になっていたということでしょうか。  


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【明治天皇陵:作られた伝統】

 明治天皇は、1912年(明治45)7月29日に死去しました。天皇陵は京都市伏見区桃山町、伏見城の本丸跡のやや南にあります。陵形は上円下方の独特の形状をしています。大正天皇陵と昭和天皇陵は、いずれも東京都八王子市長房町にあり、陵形は上円下方です。
 江戸時代の歴代天皇は、火葬に擬された荼毘の儀を経て泉涌寺の九重塔の下に土葬されるのが慣わしとなっていました。ただし、最後の孝明天皇は、泉涌寺の円丘に荼毘の儀を経ることなく土葬されています。これは、文久の修陵を主導した山陵奉行戸田忠至の建言が用いられたものだそうです(241ページ)。
 本書によると、明治天皇が亡くなったとき、葬儀や墓のことは決まっていなかったそうです。皇室陵墓令の案文を見せて、明治天皇の裁可を仰いだところ、「朕に適用される式令だの」と言って突き返されたというエピソードが伝えられているそうです(290ページ)。
 明治天皇の墓をどこに築くかについては、東京もしくはその近郊を推す声があったようですが、明治天皇紀によれば、昭憲(しょうけん)皇太后(明治天皇の后)が、明治天皇の遺志にしたがって陵を桃山に営むことを命じたということです。
・天皇陵は、皇室用財産
 大正天皇陵は、皇室陵墓令にしたがって造営されました。本書では、皇室陵墓令は1921年(大正10)10月に公布されたとなっていますが、ウィキペディア では、1926年(大正15)に公布となっています。
 皇室陵墓令は、1947年(昭和22)5月3日に失効しました。現行憲法下では、陵墓は皇室用財産(国有財産法第3条第2項第3号)として皇室の用に供せられています(皇室用財産 - 宮内庁)。つまり、昭和天皇陵は、皇室用財産として、造営、管理されています。
・天智天皇陵を範にとった独特の陵形
 陵形については、天智天皇陵を範にとったということです。ただし、天智天皇陵は上円部分は八角形なので、上部が円形の明治天皇陵は、それとは異なる独特の陵形ということになります。
 「(参照)伏見桃山陵陵制説明書」によれば、陵形のモデルとしては、神武天皇陵、応神・仁徳天皇陵、孝明天皇陵も挙がったそうです(297〜298ページ)。それぞれの利点と欠点は次のとおりです。
  利点 欠点
神武天皇陵 明治天皇は、延喜(えんぎ)以後一千年来の外戚政治及武家政体を廃止せられ、王政を復古し始て欧米の制度を採用して、立憲の政体を立てられたり、而して復古の御主意は、直に神武創業に基くと宣らせ給へれは、御陵の如きも、亦(また)畝傍陵に則るへき なれとも、畝傍陵は早く滅ひて其(そ)の形を存せす
応神・仁徳天皇陵  当時三韓を併合したる後にて、国威海外に輝きたる時なれは、其の御陵、実に雄大壮宏を極め、其の大蓋(けだ)し世界に冠たり、今日韓、台、樺、島、を合併したる御世に参照しては、真に好範たれとも  然(しか)れとも斯(かか)る雄大の御陵を営みては、明治天皇の御倹徳に背くの恐あるのみならす、既に伏見に御埋棺を了(おわ)りたれは、地勢上許ささる所あり
孝明天皇陵 中世以後久しく行はれたる仏家の御式を廃して 未(いま)だ充分の研究施設を為(な)す能(あた)はす、僅に泉涌寺の山上に円陵を築きたるものなれは、其の制、一種特様にして、永世の模範と為すに足らす 
天智天皇陵 大化の改新を断行し、即位して都を東に遷し、近江の律令を発布して、百政を整備し、太祖神武天皇以来の政体を一変して、国家を文明の域に進め給へり、故に我国中興の祖として、十陵八墓の制あるや、山科陵は百世之を除かす、恰(あたか)も今日の畝傍陵の如し
 以上を要約すると、次のようになります。
 王政復古によって平安時代以来の伝統を全否定するのだから、陵形も神武時代に帰るのが理想だが、残念ながら神武陵は現存していない。そこで、三韓を併合し世界に冠たる時代であった応神・仁徳の天皇陵が次の候補となるが、明治天皇陵は桃山に造営することが決まってしまったので、前方後円墳を作れるほど広い平地が取れない。直近の孝明天皇陵は、仏家の御式を廃したという功績はあるが、幕末の混乱期の俄仕立てなので永世の模範とはならない。大化の改新=明治維新、大津遷都=東京遷都、律令発布=憲法制定など、明治天皇は天智天皇と比肩できる業績を残したので、明治天皇陵も天智天皇陵を範とすべきである。
・内実を後月輪東山陵に則り、外形を山科陵に則り
 「(参照)伏見桃山陵陵制説明書」によれば、明治天皇陵は、孝明天皇陵と同じ工法によって、造営されたということです(300〜302ページ)。
……孝明天皇の崩御あらせらるるや、当時山陵奉行戸田大和守忠至(とだやまとのかみただゆき)、神武天皇以下歴代の山陵を修理せし折柄なれは、古制に復して、山陵を起さむとしたるに泉涌寺之を牽制して、目的を達する能(あた)はす、漸く寺内の山上に御埋棺し、山を削りて三段の円陵を築き成して、後月輪東山陵と称せられたり、此の陵は、上段直径十四間半、中段直径二十間、下段直径二十五間ありて高凡四間あり、さて後月輪東山陵は、斯(かか)る事情より出来たる山陵なれは、一種特様にはあれと、其の実は天然の山を削りて、御陵を立てたれは、堅牢無比にして、却(かえつ)て一の善法たりしを失はす、英照皇太后の後月輪東北陵は、之に遵(したが)へり、伏見桃山陵は、之に拠りて、伏見山上に御埋棺したれは、後月輪車山陵の例に従ひ、天然の山地を削りて前面を山科陵の型に造り成すなり、是れ内実を後月輪東山陵に則りて、堅固を万世に期し、外形を山科陵に則りて、古制を千載に伝へむとする所以なり
 文久山陵図によると、孝明天皇陵は次のような形になっています(243ページ)。山腹を削って造営した様子が伺えます。「山陵を起さむとしたるに泉涌寺之を牽制して、目的を達する能はす」ということですから、境内に盛り土をして陵墓を作ろうとしたが寺の反対で実現しなかったということでしょうか。
 
 昭和天皇陵も、明治天皇陵や孝明天皇陵と同じ工法によって造営されたようです(天皇の葬儀と陵の造営でかかった費用は100億円 〈週刊朝日〉)。 

・明治天皇陵は、天智天皇陵に劣らない大きさ
 21世紀の現代に古墳(平成天皇陵)を造営する計画 : 社会科学者の随想"を参考に、大仙陵古墳と明治以降の天皇陵の面積を比較してみました。どこまでの範囲を総面積に含めるかという問題はありますが、大仙陵古墳は超巨大であるとはいえます。
大仙陵古墳 103,410平方メートル
明治天皇陵 9,137平方メートル
皇后陵 5,631平方メートル
大正天皇陵 2,500平方メートル
皇后陵 1,800平方メートル
昭和天皇陵 2,500平方メートル
皇后陵 1,800平方メートル
平成天皇陵予定 計 3,500平方メートル
皇后陵予定
 同じ縮尺のグーグルマップで、天皇陵や古墳の大きさを比較してみました。
 大仙陵古墳はやはり巨大です。

 大仙陵古墳に比べれば、天智天皇陵は、相当にコンパクトです。

 明治天皇陵は、天智天皇陵に劣らない大きさです。

 大正天皇陵や昭和天皇陵は、明治天皇陵より、ひと回り小振りです。大正天皇陵の西隣に平成天皇陵が建設中のようです。
  
・火葬・退位は伝統への復帰
 幕末の尊王主義を背景とした文久の修陵は、修複に留まらず、新たな天皇陵を創作するものでもありました。たとえば、淳和天皇は、遺詔にしたがって、840年に火葬・散骨されたため、墓はありません。にもかかわらず、大原野西嶺上陵(おおはらののにしのみねのえのみささぎ)として修補されています。文久の修陵の最大のイベントは「神武陵」の築造でした。文久の修陵の集大成ともいえるのが明治天皇陵の造営です。明治天皇陵は、天智天皇陵をモデルとしたとは言うものの似て非なるもので、新たな伝統の創出といえます。
 そもそも、「天皇家代々の墓」というものができるのは、鎌倉・室町以降、深草法華堂や泉涌寺九重塔に埋葬されるようになってからです。
 平安時代に天皇の生前退位が常態化したため、天皇の死と譲位が分離し、葬儀が簡略化する一方で、仏教の影響で火葬が主流となり、墓地が寺院に作られるようになります。つまり、火葬と仏教儀式による葬儀・埋葬が1000年来の伝統であったわけです。江戸時代は土葬されていますが、火葬に擬された荼毘の儀を経ています。
 最近になって、天皇家の働きかけにより、天皇の葬儀・埋葬に新たな変化が生じてます。上皇は火葬されることになり、天皇陵も縮小されます(400年ぶり「火葬」両陛下の思いとは…|日テレNEWS24)。大嘗祭を簡略すべきという意見もあります(大嘗祭 公費に異議 秋篠宮さま「宗教色強い」)。ビデオメッセージを通じて直接国民に訴えかけることにより、生前退位も実現しました(週刊新潮が天皇の「お気持ち」表明を“暴走”“憲法違反”と徹底攻撃!「NHKの情報源は天皇」とも|LITERA/リテラ)。これら一連の動きは、明治国家によって作られた新たな伝統を否定し、従来の伝統への復帰をめざすものであるともいえます。