読書ノート / 近現代史
  郷土愛から語る幕末史  
 
 偽りの幕末動乱 薩長謀略革命の真実
編・著者  星亮一/著
出版社 

大和書房

出版年月  2009/5/15
ページ数  237
税別定価  619円

 著者は、仙台市生まれで、福島民報社記者、福島中央テレビ報道制作局長の経験のある歴史作家です。オフィシャルページで、経歴や刊行物を紹介しています。
 それによると、幕末を扱ったノンフィクション作品が多いようです。現在、郡山市在住で、幕末の敗者会津藩への思い入れが強く、勝者である薩摩・長州への強烈な反発が作品を特徴付けています。

 薩摩・長州を中心とする明治維新に否定的であるという意味では、原田伊織氏や鈴木荘一氏らと共通するものがありますが(官賊に恭順せず 新撰組土方歳三という生き方)、著者にとっては郷土愛が大きなテーマとなっていて、尊王主義や反「自虐史観」といった保守的色彩はあまり感じられません。
 著者は、研究者ではないので、大河ドラマや歴史小説の内容を、検証することなく、そのまま歴史事実として扱う傾向があります。そして、薩長を敵、会津や孝明天皇を味方、徳川慶喜を軟弱な裏切り者と色分けして、歴史事実の評価に好悪の感情を持ち込んでいるのが特徴です。
 タイトルに「偽りの幕末動乱 薩長謀略革命の真実」とありますが、「あとがき」の次のような記述(230〜231ページ)によると、「偽り」「謀略」とは、水戸、長州がテロリスト集団で、薩摩もその同調者で、孝明天皇はテロの犠牲になったということのようです。
 井伊大老を暗殺した集団は、紛れもなくテロリストだった。御三家水戸(茨城)脱藩の暗殺者集団だった。皆、それなりの武士たちだった。長州(山口)の高杉晋作はテロリストとはいえないが、思想的にはテロリズムを信奉していたし、久坂玄瑞は命を捨てて討幕に走った。薩摩(鹿児島)の西郷隆盛や大久保利通も、物事を達成するためにはテロもやむを得ないということだった。
 孝明天皇の死は、さまざまの説があって、真相は闇の中だが、仮に毒殺が事実とすれば、これは薬物テロだった。 


 文久2年(1862)5月、公武合体派の島津久光が藩兵1000を率いて、勅使を護衛して江戸にむかい圧力をかけたこともあって、安政の大獄で処分された旧一橋派が復権し、幕府は徳川慶喜を将軍後見職に、松平慶永を政治総裁職に任命します。しかし、文久2年夏から文久3年秋にかけて、京では長州、土佐の志士による尊王攘夷の嵐が吹き荒れ、天誅という名の暗殺が横行します。
 それと呼応して、三条実美らが朝廷会議を指導し、幕府に攘夷を迫ります。文久3年(1863)3月、将軍徳川家茂が入京し、徳川慶喜、松平容保、さらに、松平慶永、伊達宗城、山内豊信、島津久光ら有志大名も京に集まります。攘夷を迫られた幕府は、期限を5月10日と回答します(条約は破棄するものの外国船を攻撃するとまでは約束していないようです。また、実際には何も行っていないようです)。その5月10日、長州藩は関門海峡を通航する外国船を砲撃します。徳川慶喜や有志大名はそれぞれ帰国し、おくれて6月9日、将軍徳川家茂も京を去り江戸に向かいます。
 8月13日、朝廷は大和行幸の計画を発表します。天皇が攘夷祈願のため大和に行幸し、親征の軍議を開くというものです(どこに親征し、その軍隊はどこから集めるのでしょうか)。尊王攘夷運動の急進は極限に至ります。
 しかし、その直後の8月18日、政変が起こります。午前1時ごろ、会津、薩摩藩兵が御所を封鎖し、反攘夷派のみ廷臣で朝廷会議を開き、三条実美ら攘夷派の廷臣を禁足に処し、長州藩の御所警衛を罷免します。この政変の後、有志大名らが上洛してきます(政変には公武合体派の有志大名らの了解があったということでしょうか)。
 この間の経緯について、本書では次のように述べています(159〜160ページ)。
 結局、慶喜は追いつめられ、攘夷開始の日にちを文久三年五月一〇日と回答してしまった。幕府は自ら政権担当の能力がないことを世間に晒してしまった。国際的にも恥の上塗りだった。幕府の信用はがた落ちだった。
 江戸と京都でやることも違っていた。生麦事件について、イギリスは幕府に対して一〇万ポンドの賠償金を求めていた。慶喜や在京の老中たちは薩摩が支払うべきだとして、その旨を朝廷にも報告していたが、江戸の重臣たちはさっさと支払ってしまった。やることがバラバラだった。
 将車家茂は京都で軟禁状態である。在京の慶喜や板倉らは何をやっているのかと、老中の小笠原長行が五隻の船に歩兵、騎兵約一六〇〇人を乗せて大坂に上陸、家茂を奪還せんと上洛しようとしたが、在京の老中がこれを阻止してしまった。
 これも無策だった。せっかく上洛せんとした軍隊である。京都に常駐させるべきだった。小笠原は将車家茂を乗せて帰ったが、せっかくのチャンスを幕府は自らの弱腰で失ってしまった。
 松平容保もこのとき反対している。その後の展開から見れば、これは失敗だった。小笠原軍を京都に張りつけておけば、あらゆる交渉がスムーズに進んだはずだった。攘夷実行の日、長州藩は行動を起こし、天下を震撼させた。長州の狂気は、だれも止めようがなかった。一体、孝明天皇は本気で攘夷を実行せんとしていたのだろうか。攘夷祈願はおこなったが本心は違っていた。側近の青蓮院宮に、
 「幕府は攘夷を実行しない。ゆえに朕の親征をあおぐが、徳川を討伐すると、和宮を討たなければならない。そうすれば、肉親として忍びないところである。深く攘夷の時機を考えてみると、慶喜や容保が奏上のごとく、まだ武器が備えざるに開戦するには時期尚早である」
 とのべていたといわれる。孝明天皇はすぐれたバランス感覚の持ち主だった。会津藩は孝明天皇に確かなものを感じた。
 「将車家茂は京都で軟禁状態」であったかどうかはともかく、「小笠原は将車家茂を乗せて帰った」のだから、行動の自由を抑制されていたのではなさそうです。また、孝明天皇は、「(攘夷派が?)朕の親征をあおぐが、徳川を討伐すると、和宮を討たなければならない」と述べたとするならば、天皇が軍隊を率いて武力倒幕ができると本気で考えていたことになります。とするならば、「すぐれたバランス感覚の持ち主」とは程遠いものを感じます。
 孝明天皇の毒殺説について本書では、次のように述べています(195〜196ページ)。
 昨今、発刊された竹田恒泰『旧皇族が語る天皇の日本史』(PHP新書)は、
 「現代医学の知識を動員して考察すると、痘療は空気感染であるが、この時期に天皇の周辺で痘瘡感染者がいないため、痘瘡自体が生物テロであった可能性が指摘される。また、感染症の常識からしていったん回復に向かったのに急変して死に至ることはありえない。さらに天皇の最期が急性砒素中毒症状と酷似することもあり、天皇が天然痘に罹ったことに乗じて、二四日の晩に誰かが砒素を盛った可能性がある」
 と疑念を示した。
 ……孝明天皇の死にまつわる疑惑は、限りなくクロに近いものである。なぜなら孝明天皇は討幕に反対だった。天皇が存命である限り、薩長の討幕はありえなかったからである。勤王の浪士たちは天皇を玉と呼んでいた。古い玉を切り捨て、新しい玉を立てる。浪士たちの論理からすれば、孝明天皇を消すことは十分に考えられることだった。
 歴史や医学については素人の竹田恒泰氏の意見を、天皇毒殺説の補強に使うのはいかがなものかと思われます。それにしても、保守派の人たちは、
天然痘→生物テロという発想が好きなようです(「天然痘感染者がいたら無限に広がる」 北朝鮮船漂着で自民・青山繁晴氏が指摘 政府にも危機感)。
 この時点で、天皇毒殺を発想しえたかは疑問ですが(幕末維新史の定説を斬る)、それはともかく、浪士たちがどうやって天皇を毒殺できるのでしょうか。
 慶応3年(1867)12月9日の小御所会議について本書では、次のように述べています(214ページ)。
 松平慶永が徳川家の功績をのべると、岩倉は「家康の功績は認めるが、その子孫の専権は認めない」と切り捨て、大久保がこれに賛成した。たまりかねて後藤象二郎が「将軍を呼ぶべきだ」と発言した。会議は紛糾した。
 休憩時間に西郷が、「短刀一本あれば片づくことだ」と薩摩の家老岩下方平にいった。容堂の発言を封ずる、場合によっては容堂を殺すという意味だった。これが伝わると再開された会議に緊張がただよい、容堂も青ざめ、何の抵抗もなく慶喜の辞官、徳川の納地が決まってしまった。御所の周囲は薩摩兵に囲まれている。一気にクーデターが成った瞬間だった。             
 慶喜追討の密勅が薩摩、長州の国許に送られた。薩摩の国許は幕府との戦争には反対だった。しかし密勅を見て、天皇の命令であれば戦争はやむを得ぬと一決した。偽勅がすべてを決めた。
 「短刀一本あれば片づく」といういくだりは、いかにもテレビドラマで出てきそうな話ですが、西郷隆盛が、「短刀で刺し殺すぞ」と山内容堂を脅すということが果たして本当にあったのでしょうか。具体的な根拠はあるのでしょうか。この点について、小御所会議 - Wikipediaは次のように述べています。「短刀で刺す」のは岩倉具視で、「それぐらいの覚悟で会議に臨め」とはっぱをかけたかもしれない、というのであれば有り得なくもない気もします。  
なおこの休憩中に岩下方平が屋外で警備兵を指揮中の西郷隆盛を呼び出し、西郷が岩倉に対して「短刀一本あれば片が付く」と、暗に岩倉に反対派と差し違える覚悟を迫り、それを承知した岩倉が短刀を忍ばせて会議に戻ったといわれる。この話の出典は会議の出席者である浅野長勲が半世紀後に口述した『浅野長勲自叙伝』(昭和12年(1937年))などに見られるのみで『徳川慶喜公伝』『丁卯日記』『岩倉公実記』『明治天皇紀』などの他の史料には見えない。井上清なども著書『明治維新』(新政の演出 岩倉具視)の中で触れているが特に出典は記されていない。
 なお、密勅が作られたのは10月13・14日で、下旬にはそれぞれの藩主に呈されていますから、小御所会議の1か月以上も前です。 
 2018/1/19